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なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 13:39:47.58 ID:cXeGXjxM0
過去スレ
第二次長州征伐を語る
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1003537751/

第二次長州征伐参加兵力:幕府軍

総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承

芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
   (本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)

石州口(浜田藩、福山藩 約7千)

大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
   (上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)

小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)

補足:
 ・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
 ・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)  
 ・旭日丸  (木造帆走船  500トン  幕府所有)
 ・翔鶴丸  (木造外輪汽船 350トン  幕府所有)
 ・八雲丸  (汽船     トン数不明  松江藩所有)
 ・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。

とりあえずこんなところでしょうか?

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 13:40:18.04 ID:cXeGXjxM0
長州が逆襲して侵略した領土
1 小倉藩
2 浜田藩
3 大森代官所領

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 13:41:46.37 ID:cXeGXjxM0
関が原   負け
四国艦隊戦 負け
禁門の変 負け

小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち


負け越し〜

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 23:29:24.83 ID:E/eDqDtV0
>>2
むしろ”なんで圧倒的な兵力を持つ幕府軍が守らなかったのか(注;守れなかったのではない!w)”だろw


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 23:54:36.41 ID:EecoUTOm0
明らかに勝ち戦だよなこれ。
倍の兵、大義名分(朝敵討伐)、地の利(包囲殲滅)
なぜ負けた・・・

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 01:16:36.35 ID:0PRALTRU0
>>5
倍どころか10倍以上だもんなあ
現場の士気が低かろうが、普通は勝つと思うよなあ慶喜らも

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 21:51:14.19 ID:YwlYiD140
やっぱり武器の差かね

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 23:37:07.69 ID:aTmykTcR0
第一次長州征伐で実戦するまえに長州藩が恭順する姿勢を見せて完全に幕府がわが優勢なのだと
そうタカをくくってしまってたんだろうなあ。
そのうえ、長州征伐がすんだら、幕府にとって邪魔な藩を順次平伏させるつもりだという
レオン・ロッシュの計画が越前あたりから噂としてもれだしていたという話もある。
幕府陸軍を先鋒にして、徹底的に殲滅作戦をとっていれば、武器の差で緒戦敗退になっても
長期にわたって包囲し続ければ、再び長州は降伏をせまられていたかもしれないけども、
内戦の長期化はこころある人々にとって、清国の太平天国の乱の末期みたいに、外国の
介入を招く恐れもあって、そうなると、各藩はどうしたって幕府には協力できなくなる。
それやこれやで、結局はどうしたって幕府の完全勝利の道は絶たれていたとも
考えられる。長州は、藩内が焦土になっても戦うつもりでいたといわれているので、
そうしたあたりも考えあわせると、実戦でいくら勝っても、薩摩藩あたりが途中で介入
していた可能性もあるから、幕府の完全勝利の目はなかったかも・・・
ロッシュの助言が、結局は幕府にアダになったんじゃないかなあ。


9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 23:43:04.25 ID:ll8uxf5x0
結論から言うと…

幕府は資金難で苦しんでいた為、幕府歩兵といった直卒部隊を出したくなかった。
そこで「関ヶ原合戦」の故事に習い、まず外様に戦わせようと考えた。
長州藩を屈服させつつも、外様大名の力も削ぐという一石二鳥の策だった。
ところが、動員された大名達もそれが解っていたので戦う気がまるで無し。
総督になった紀州徳川家もやる気無し。
戦う気のない大名だらけの幕府軍に対し、朝敵のレッテルで外交解決が不能となり、
戦う以外の道が無い長州藩。

勝負見えてるよw


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 14:12:00.53 ID:EX4nFFQW0
幕府がフランスに助けを求めたのがそもそもの間違いの始まりだった。
不良品をぼったくられ

武器・弾薬でイギリスから密輸した薩長にまったく歯が立たなかった。
25m先の標的物にすら当たるか当たらないか分からない銃で戦うのはほぼ無謀に等しい。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 14:40:04.63 ID:s/bSYaik0
旧幕府軍は宇都宮城の戦いでは
江戸時代の装備そのままで勤皇側に付いた宇都宮藩を一旦占領している。
(鳥取や土佐、佐賀藩兵が来て、新政府が盛り返して旧幕府軍は追われたが。)

ゆえに、旧幕府軍の装備に欠陥があったとは思えない。
あと、薩摩は正規輸入も行っているし藩内で重火器の生産も行っている。

君の話にソースが見えない。

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 15:01:37.06 ID:EX4nFFQW0
ミニエー銃・エンフィールド銃(薩長) vs 刀や槍や甲冑(幕府軍)

しかも第二次長州征伐は薩長同盟の直後だった。
敗戦後にやっとこさ徳川慶喜がフランスに支援してもらって軍事改革を行う。

銃器の射程の違いで、長州軍から遠距離から射撃されて幕府軍は近づくことさえ出来なかったんだよ。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 15:44:03.84 ID:Jp8xayb7O
徳川家単独で勝てないようならもう何やっても幕府は詰みだろ
外様の力を使って長州を潰したところで幕府の西国への影響力は喪失する

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 09:08:05.22 ID:NlchFCB10
>>9
紀州藩については山陰側の部隊は旧装備・低士気でかなりアレだが、
広島口の部隊の方は装備優良で幕軍の中でも精鋭の部類だろう。
井伊榊原が壊走した後は幕府歩兵と紀州で長州の侵攻を食い止めたんだし、
攻勢も一部で成功させてる。

数の差で押し切れなかったのは、やっぱ道が狭いとかだろうか。

15 : 【東電 83.7 %】 :2011/04/23(土) 22:35:08.84 ID:gEkJtybI0
そういえば幕末の紀州藩って影が薄いよな。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 06:26:25.80 ID:S6eVg3pW0
>>9
それは関係ないでしょ。
芸州口は彦根高田を先鋒に出してるし、
当初は長州を囲む西南諸藩の参加を予定していただけの話

長州戦争当時は幕府と京の一会桑との関係が改善したとは言え、
彼らだけで長州の処分を決めたことには強い反発があった。

>>15
紀州藩は派手に活躍してないだけで、武装や藩政改革に関しては凄い。
鳥羽伏見でも紀州藩の動向を疑う声が大坂撤退を決定づけた一因になっている

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 06:30:00.57 ID:S6eVg3pW0
>>8
幕府が高をくくったと言うより、
長州藩処分の最終決着に向けた交渉が初っ端から躓いた結果進軍を余儀なくされた
長州藩の幕府に対する不信感が予想以上に強かった

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/25(月) 11:23:53.92 ID:pySTpeT40
まぁ最終決着というか、追加要求というか
全権委任だった筈の慶勝面目丸潰れ

19 : 【東電 79.1 %】 :2011/04/29(金) 09:49:23.83 ID:0dUpPhqT0
大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125  
短ミニエー 60 1,440 24 15.000  
ミニエー弾         50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250  
大型拳銃     33 20.625  
小型拳銃     25 15.625  


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 17:19:25.73 ID:EvXXIXkN0
徳川vs毛利
信長の野望でよく選ぶ戦国武将だ

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 18:27:49.48 ID:Sko9v0HA0
>>3の訂正

関が原の戦い 味方の内通によりあり得ない負け
馬関攘夷決行 勝ち
馬関攘夷戦争 長州藩は引き分け・江戸幕府の不戦敗
禁門の変 先遣隊だけ負け

小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち

鳥羽伏見の戦い 勝ち
中越戦争 勝ち
会津戦争 勝ち
箱館戦争 勝ち

日清戦争 勝ち
日露戦争 勝ち

長州軍、薩長同盟締結から薩長政府まで(1866年から山縣有朋の死の1922年まで)
負け知らず、全戦全勝のまま歴史から消える。薩摩軍も西南戦争を除いて全く同様。


スゲェーーーーッ!!!!!

22 : 【東電 86.7 %】 :2011/05/06(金) 21:42:32.36 ID:7tBhW1MJ0
島津は強すぎる。
島津と伊達、上杉、どこでこんなに差がついたのか。慢心、、、

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 23:47:40.33 ID:ysn8iscL0
島津が強いってのは、北朝鮮が強いのと同じこと

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 21:39:29.49 ID:HIZbJ7N60
薩摩は、日々ひえもんとりで鍛錬に励んでいたりと、
戦争することその一点のみに持てる国力の全てを割り当てて
幕末まで機会を伺い続けてきた藩だからな。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 23:02:40.90 ID:eptkCr1n0
長州:散兵戦術
幕府:密集突撃戦術

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 08:11:22.53 ID:I8Fo7RVb0
>>23
北朝鮮って強いか?

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 09:53:08.12 ID:iTtxkIHC0
北朝鮮の場合、掛け声と狂信では地球上でも特筆すべきものがあるから、
幕末の会津藩や、現在の福島県西部地域にいる歴史狂信者あたりには匹敵するかもしれない。

もっとも、狂信は迷妄に直結する。
幕末の自殺藩会津は言うに及ばず、
会津武士道が流布した戦前の社会は対米戦争へと突き進んだし、
会津武士道が復権した平成の日本社会は、清貧の名の下に経済から自殺行為を重ね現在に至る。

要するに、会津武士道とは自殺の美学なのさ。
彼ら会津人の信じるものを日本が信じたときに、日本は崩壊する。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 21:28:44.72 ID:o8VQxMxq0
我々は、この鹿児島蛮族が何故このようなスレを立てたのか?という
疑問を解決するため、1の故郷である鹿児島のとある寒村に向かった。

持参したドコモの携帯をみる、そこには「圏外」の2文字・・
さらに、もう一台持参したauの携帯も「圏外」の2文字・・・
「ここは、本当に日本なんだろうか?…」 「もしかしてここは北朝鮮なのか?」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に「こんなことを言ったら殺されるぞ」と咎められた。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 21:29:33.45 ID:o8VQxMxq0
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫や漁夫たち、
それら農夫や漁夫を監視している小役人やオイコラ警官、海上保安官たちの傲岸不遜な姿・・・・。
(注:警官や海上保安官等「公安系公務員」は、鹿児島人が異常に多いらしい)

それらとは対照的に立派な「鹿児島の偉人」西郷隆盛の銅像・・・
「まるで北朝鮮の金日成の銅像みたいじゃないか・・・・・藁」と小声で言ったところ
前出の小役人、それにオイコラ警官が私たちのもとに脱兎の勢いですっ飛んできて
「そこのヨソモン!西郷南洲翁をバカにする奴は俺が死刑にしてやる!!」と大声で
私たちに食ってかかるではないか(注:このときは鹿児島語訛りの標準語で罵倒された)

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 21:30:19.64 ID:o8VQxMxq0
どうやらこの地では、西郷隆盛をバカにすると、役人や警察官が自己の判断で死刑に
していいらしい。なんという野蛮な土地だ、鹿児島は・・・・。

そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
そして、意味不明の「鹿児島語」と呼ばれる暗号のような言語でなにやらひそひそと
語り合っている・・・。多分、我々のことを鹿児島語で嘲り笑っているに違いない。

IT革命だの、ヤフーBBだの、ブロードバンドだの、聖域なき構造改革だので浮かれていた我々は
改めて鹿児島という「閉じられた人権抑圧戦闘国家」の現状を噛み締めていた。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 21:30:59.18 ID:o8VQxMxq0
ボロ屑のような家(この家も西郷隆盛の肖像画が鎮座していた)に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり事態の全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子がクソスレ立てて申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。
(↑注:鹿児島語を解せないので、鹿児島語←→日本語の通訳官を介しての会話)

我々はこの時初めて「鹿児島犬人すべてをジェノサイドしてやりたい」と思った。
誰が悪い訳ではない、鹿児島の全てが「日本の害悪=日本のエボラウィルス」なのだ。
我々は1の母親から貰った鹿児島特産(藁 のかるかんと辛島美登里のCD
小西真奈美の写真集?、山田孝之のブロマイドを手に憤りの余り「鹿児島逝ってよし!」
と叫びながら東京へと帰路についた。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 09:02:03.72 ID:YDotlhJZO
こんなの幕府が勝手に弱ったからに決まってるだろ

雄藩大名や有能な官吏を謹慎・追放させまくった井伊のチャカポンさえいなけりゃ
佐賀に見放されることもなかった

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 21:36:47.46 ID:E1QAn+n+0
佐賀藩が後ろから薩長を突けば明治維新は起こらなかった。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/12(木) 22:22:22.47 ID:Ga4L1saX0
島津斉彬と仲良かった開明家の鍋島さんがそんなことするわけないじゃん


35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 08:49:54.35 ID:4q4+71QY0
大島口は宇和島藩、小倉口は佐賀藩、萩が薩摩藩、有力諸藩がことごとく不参加
しかも幕府海軍はこの段階ではまだ整備されていない
その上に京阪神は一揆の嵐
もう対長州戦は終わったと思ってたので、財政に困窮していた諸藩は猛反発(幕臣ですら)
親幕的な肥後藩ですら小倉藩を見捨てて勝手に撤兵する始末
芸州口は幕府歩兵や紀州藩が参加してから長州藩は苦戦したが自然休戦

長州が強かったから勝った戦争ではないのは確か。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 19:36:15.72 ID:78HC6FVM0
兵力差を見るとやっぱそれなりに強かったと思うわ

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 09:28:44.54 ID:W677v8pU0
日本史では政権交代の時期になると、
いかに大軍を投入しても少数の反乱軍に敗北する

・倶利伽羅峠の戦い
・千早城の戦い
・近江六角征伐
・第二次長州征伐

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 12:22:06.81 ID:OjdTUYEO0
>>35
もう少し、補足説明してあげよう。

芸州口は、芸州藩が「幕府方に大義名分が無い」と猛反発し、芸州領内での戦争に難色を示していた。
その為、幕府軍は長州領内に攻め込んで戦おうとしたが、緒戦に台敗北した為、結果的に主戦場が芸州領内になってしまう。
長州藩は、芸州領内の幕府軍と戦い勝利を収めたり、幕府歩兵に阻まれて負けたりしていた。
戦いに消極的になり、戦おうとしない幕府軍に対し、積極的に戦いを挑んだ長州軍を恨む芸州藩士が増え、対長州参戦が芸州藩論になりかけたりしている。
こうした情勢を見た井上馨が、自発的に長州全軍を芸州口から撤退させた為、結果的に休戦になった。

勝海舟と長州藩の間で停戦が成立したが、あくまでも停戦であって戦争が終わった訳ではなかった。
慶喜は勅命をもって、長州藩に終戦を突き付けたが文面が「相変わらず罪は長州にあり」であった為に、長州藩側が終戦を拒否。
それでも長州側に攻め掛かるほどの力は無く、戦争は一時的な停戦のまま日が過ぎ去っていった。
長州藩は、朝敵を指定を解除する方法として、長州に罪有りとする徳川幕府を打倒する以外に無いという結論となる。
そして大政奉還、王政復古を向かえてようやく罪が許されたのであるが、”許された”という表現から、
”一時朝敵であったが、その罪は許された”という形であり、罪はあるか無いかという点においては、幕府側の主張が通っている。
これは多分に”薩長同盟の相手、薩摩藩は長州に罪が有った形でないと、第一次に長州征伐に大賛成して攻め込んだ薩摩藩の立場が無い”という事を考慮した上での妥協だった。
結局の所、朝廷の汚名は解除されたが罪はついて回った為、この罪を作り出した徳川家を徹底的に攻撃するという感情のはけ口を求め、東征軍戊辰戦争を戦う事になる。
ちなみに、幕府はこの件に関してはあくまでも逃げ腰で議論を行わず、玉虫色を狙っていたがそのまま江戸無血開城を向かえ、徳川家幕府としての結論はうやむやになっている。


39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 20:59:41.21 ID:LiNX3FcwO
大村の軍略

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 21:16:51.95 ID:OjdTUYEO0
>>39
大村は長州の軍政を近代化する時に活躍した。
戦争がはじまると、彼は石州口指揮官となり、石州口の幕府軍の侵攻を頓挫させた。
それだけだね。小倉口や芸州口の戦いには何の影響も与えていない。
大島口に至っては、大村方針だと最初から放棄して見捨てる予定だった(理由:海軍持っている幕府に勝てないから)。
でも、フタを開けてみれば一端は幕府に取られたものの、逆上陸作戦で幕府軍を駆逐し大島を奪還してしまっているw
大村の軍略が素晴らしいというよりは、むしろ幕府軍が異常に弱い。
弱いというよりは、戦う気がまるで無い烏合の衆というのが率直な感想。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:19:11.62 ID:OqLDPPyFO
>>40
大村の役割は軍備の近代化だけではなく全体の見通しつまり戦略を立てることではなかったのかな
全体の見通しを立てることができたのが大村だと思うのだが
大島の処置もその意味では正しいだろう
この手腕がその後、江戸開城後に手詰まりに陥っていた新政府を救い戊辰戦争で新政府勝利に導くことになる

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 00:26:42.40 ID:RMziEtUz0
>>41
戦いが始まる前は、大戦略的な計画は大村がやったんだろうと思う。
ところが、いざ戦いが始まってみると……

幕府軍を構成すると思われた藩の多くが勝手に中立になったりw
幕府軍の中核と思われた芸州藩が長州にやたらと同情的だったりw
征長総督の紀州徳川軍がメチャメチャ消極的で進軍して来なかったりw
最強と恐れられた幕府海軍が全然出撃してこなかったりw

で、大村の計算し尽くした戦略が効果を発揮する以前に幕府軍の方がボロボロw

しかも、味方である長州軍が戦争したがりで、意味のない攻撃をしたりしているので、大村の戦略を生かしているとは思えんw。
基本戦略はあったんだろうけれど、途中で芸州を味方にしようという政治政略の方が優先されて、戦争中なのに芸州領から全面撤退とか臨時にやっている。
近代戦の常識を照らすと「考えられん!」非常識な戦いをやっとるのよ長州軍w。
臨機応変で上手いことやったといえば聞こえはいいけどなw。
戦争のやり方としては下手としかいいようがない。それなのに圧勝したのは、それ以上に幕府軍が弱い…というか戦う気まったく無しだったと言うべきか。


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 01:19:07.55 ID:rl4f4ZfI0
臨機応変な対応は現場ではむしろ当たり前でないか?
別に大元の方針に反することまでやっているわけではない。
そもそも征長反対の藩を増やす工作は木戸が一貫してやってきたことだと思うが。
対芸州だってその結果。そういうことも含めて戦略(&政略)なんだから。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 10:14:51.45 ID:APRoT4YSO
「タクチーキのみを知ってストラトギーを知らざる者は、ついに国家を過つ」
の言葉通り、各方面の戦略(つーか戦術)は政略の一部にすぎない。
戦いを避けられるならそれに越したことはない、政略を優先するのは当たり前だよね。
まあ当たり前と口で言うのは簡単だが、実際に出来たのは木戸(政府)の政略に忠実に従う大村・高杉(軍)、
という関係がしっかりしてたからだろうけど。

どうもこの時の慶喜は小手先ばかり気にして全体が見えてない印象
鳥羽伏見後の決断は上記の言葉を十分理解しているようで流石だなあとは思うが

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 12:04:39.26 ID:Ww3OcWZHO
紀州は負けてくるなか奮戦していましたよ

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 15:14:49.03 ID:SYJopCxj0
芸州口の幕府歩兵隊と紀州藩兵は主力に相応しい働きだったな。
兵力で圧倒的に勝ってる割には一進一退だったけど。

>>42
政略より戦略を優先したら、昭和の大日本帝国になりましたとさ。
近代戦の常識て。
あと、大村が石州口で大勝したあと、余剰兵力を他の方面に振り分けたって
のぐっちが書いてた。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 18:14:59.42 ID:j4aXMi4p0
そうだよな〜。
対芸州で井上が自身の判断で兵を退いたなら、
それは井上が木戸の方針、っていうか長州にとって必要なことが
よくわかっていて正しく判断できたってことにすぎないじゃないか。
戦って勝つことが最終目的じゃない。
何より長州の朝敵解除と藩侯父子の名誉回復、幕府の力を弱め新しい国体を目ざすこと、
そのためには自己の正当性を示し、味方となる藩をふやすことは必須だし、
この戦争ですべてが終わるわけじゃないから力の温存だって重要だ。
それをやらずにひたすら戦って勝つことが近代戦だというのなら、
近代戦ってのはまさに「政略なき戦争」に過ぎないってことになる。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 20:59:29.51 ID:wMidtJBj0
紀州は彦根や越後高田ボコボコにされるなかで、よく奮戦していましたよ。
小倉か石見への援軍に、回っていたらどうなっていたでしょうか。
プロシアから顧問団を招いて、訓練していたようですね。

海軍も榎本武揚が指揮していたら、その力を発揮していたでしょう。


49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 17:27:43.03 ID:1oKUKBRI0
政治家としての榎本は兎も角、軍人としての榎本にそんな凄いって所は感じないが、
少なくとも史実のような醜態は晒さなかっただろうな。
海峡襲撃は長州藩が砲台再建してたからどうなるか分からんが、
少なくとも赤坂沖まで貧弱な長州海軍の進出を許すようなことはしなかっただろう。

ただ、ネックは小倉口の指揮官が小笠原ってとこだw

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 21:09:28.45 ID:JNfTGvjT0
>>46
中公で一躍有名になった野口だが、彼は「幕府歩兵隊や洋式縦隊を異常な熱意で贔屓する」悪癖がある。
史料の解釈も恣意的で、平等な判断とは言えない。
そもそも、野口は昭和の軍隊と政治、明治の軍隊と政治の区別出来ない人でしょw。
解るのは幕末だけでw

51 :48:2011/05/26(木) 22:32:56.45 ID:cRoxxvtvO
>49
小笠原長行のことですか?
開陽や回天がありますので、射撃をして援護できましたよね。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 23:03:10.61 ID:jvT7fZF50
幕府の洋式歩兵隊って装備は最新かもしれないけど、練度はどうだったの?
兵士って一種の洗脳までいかないと突撃とかできないよね?
長州軍が凄いと思うのは、奇兵隊とか短期間のうちに突撃できるレベルに仕上げてきてるでしょ。
山県とか山田が凄かったのかもしれないが。

53 :48:2011/05/26(木) 23:06:34.02 ID:cRoxxvtvO
やる気がなかったのでしょ

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 23:23:17.39 ID:7pyRCu0I0
長州は、武器を買い、兵士を訓練し、士官を育て、
農民らを含め全長州に大義名分のビラを撒いて戦いの理念を叩き込み
藩外にも大義名分ビラを撒いて民衆世論を味方につけ
薩摩と組んで長州征伐の不条理不合理を他藩に宣伝し征長消極派を増やして
そのうえで幕府の進攻を待ち構えた
普通に考えれば不利だからこそ、それだけの下準備をして戦いに臨んでいる
幕府がぼろぼろだったというけれど、戦う前に張りぼてに開いた穴を広げたのは長州の政略だよ

55 :48:2011/05/26(木) 23:30:57.23 ID:cRoxxvtvO
攻めてこなかったら、どうなっていたでしょうか。

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 23:33:58.24 ID:bRNaBsEU0
やはり高杉が名将過ぎた
海軍じゃ幕府が圧倒的有利だったのに
世界史初の海での夜襲奇襲食らってピヨった

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 00:06:14.43 ID:A+i9Khn80
大村は軍制や自軍の兵力、火力、兵站を数量で計算しつくし作戦を立てるのは得意だが
四境戦争では数的計算上大島を見捨てると決めてたし、鳥羽伏見でも敗戦を計算してた
一方天才戦略機略家の高杉は大島が占領されたという報が届くと、三田尻から藩の小軍艦に乗船し大島沖に眠る幕府艦隊に夜襲をかけた
この奇襲が高杉の思惑通りに成功し、一夜にして大島を奪還

実際に大村の考え通り大島を見捨ててたらこの方面はどうなってたか分からない
見捨てた波及効果もどう影響出るか分からない
高杉が天才と呼ばれるのはその辺だろう

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 00:26:39.51 ID:yqz30Wf+0
高杉が独断で大島奪回したのは創作だろ
実際には幕府が民衆に想定外の手出しをしてあまりの状況だったから藩の方針として奪回

59 :48:2011/05/27(金) 08:31:15.39 ID:qgk8Zl9IO
高杉晋作は天才ですが、維新を迎えられなかったのが、残念でした。

奇兵隊はとともに、最後を迎えたのでしょうか?

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 11:28:18.40 ID:g64L/5TX0
>>51
軍艦が積んでる砲の威力は相当なもんだが、沿岸を進んでくれないとどうにもならないのが
当時の砲の限界なのよね。
陸戦隊上げて襲撃って手もないではないが。

>>50
幕末が分かるかどうかが肝要じゃね?
まぁあの人の慶喜叩きはどうかと思うがw

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 17:59:02.25 ID:SA3E+eRF0
大島を実際に奪還したのは世良な

62 :48:2011/05/28(土) 20:20:56.63 ID:m8aN7dqIO
>60
接近すればそれだけ、攻撃をくらいやすいですね。
陸戦隊ですが幕府海軍に、あったのでしょうか。

既出ならすみませんが、薩摩は介入してきましたかね。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 15:25:07.41 ID:qiTimfKr0
>>60
>幕末が分かるかどうかが肝要じゃね?
まぁ、幕末が解らなかったら本書くなという話しだからねぇw幕末ぐらいは詳しくないとw
野口は武器性能と洋式戦術やそういったものに詳しいが、幕末期日本の軍事思想(西洋軍事思想ではなくw)に弱いよ。
むしろ西洋軍事思想で戦った大村や大鳥が特別だったのであって、蘭学者出身じゃない武士指揮官たちの評価が彼の中ではグダグダになる。
ましてや政治思想となると言わずもがな…
戦略無きところに戦術はなく、政治無きところに戦略はない。戦術論だけでは……。

>陸戦隊ですが幕府海軍に、あったのでしょうか。

>>60じゃありませんが、お答えします。
幕府軍に海軍附屬の陸戦部隊はありません。しかし、海軍の船で移動して戦った部隊…たとえば幕府歩兵隊はあります。
大島口の幕府歩兵がまさに陸戦隊的な戦い方をしていますね。

>薩摩は介入してきましたかね。

薩摩藩兵による戦争の介入はありませんでした。
しかし、薩摩藩兵は京都大阪に退去集結しており、その上で”幕府の対長州出兵要求を拒絶”しています。
長州には行かないが、京大阪に大兵力を集めるという謎の動きに対し、会津守護職会津藩は厳戒態勢に入り、
禁裏守衛総督であった一橋慶喜は、京都近隣諸藩に”長州征伐とは別”に、出陣要請を出して京都へ兵力の集中を計っています。
その一方で、大久保利通は「幕府の招集征伐は不当」と朝廷工作中。


64 :63:2011/05/29(日) 15:28:01.83 ID:qiTimfKr0
誤字修正

薩摩藩兵は京都大阪に退去集結しており→薩摩藩兵は京都大阪に大挙集結しており

大久保利通は「幕府の招集征伐は不当」と→大久保利通は「幕府の長州征伐は不当」と

65 :48:2011/05/29(日) 16:24:11.36 ID:qzEdHh5P0
有難うございます。

もし長州が負けそうになったら薩摩は援軍を、派遣してきたと
思いますか。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 18:09:04.73 ID:iIHgQeFS0
幕府軍が勝てなかったのは
勝海舟がボンクラだったからだろw

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 18:52:02.02 ID:qiTimfKr0
>>66
意味が解らない
佐幕ファンは勝嫌いというが、その戯れ言?

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 19:09:00.77 ID:qiTimfKr0
>>65
>もし長州が負けそうになったら薩摩は援軍を、派遣してきたと思いますか。

 薩摩藩兵の京大阪集中配備は、薩長同盟の盟約に沿ったもの。その盟約には長州領内に薩摩藩兵の派遣という条文が無いので、援軍派遣はしなかっただろうと思われる。
ただし、京大阪に集結している薩摩藩兵が近畿地区で戦争を起こす可能性は有る。この場合、長州領内の戦いと京都を巡る近畿地区の二方面の戦争が起こる事になると思われるが、
薩摩藩が短絡的に武力に訴えて戦争を起こすとは思えない。
したがって、この場合は会津藩と薩会同盟を組み8.18政変クーデター方式が用いられると思われる。
つまり、幕府が長州領内の戦いに夢中になっているスキに公家を工作し、幕府の征長は不当もしくは戦争は良くないという詔を出させる(大久保利通が動くことになる)。
詔が下れば、直ちに薩摩藩兵が御所に入り、一橋会津桑名両藩を御所から追い落とす。
こうなれば、後は天皇から長州征伐中止の勅を降して幕府に命令し、長州征伐そのものを強制終了させる事が可能となる。

なお、これは私の根拠無き単なる妄想であり、
IF論に過ぎないのでスルーしてもらって良いよw。


69 :48:2011/05/29(日) 19:28:15.07 ID:qzEdHh5P0
ifは言い出したらキリがありませんから。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 19:31:10.35 ID:iIHgQeFS0
>>67
勝は幕府軍の参謀総長のようなもんだろ。
だから幕府軍敗北は勝の責任だよ。
勝以外に他に誰か幕府の責任者がいるかい?

71 :48:2011/05/29(日) 19:34:50.72 ID:qzEdHh5P0
勝は幕臣だが薩長よりでしたからね。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 19:39:27.45 ID:iIHgQeFS0
>>71
そういった話しは信憑性がないが
国軍の参謀長が敵よりなんてバカな話しが事実なら
その方が大問題で、戦後の勝賛美話しは非常に胡散臭い。

73 :48:2011/05/29(日) 19:40:36.73 ID:qzEdHh5P0
>72
そうですね。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 20:36:33.59 ID:+PkA4GfWO
この時期は勝は海軍操練所の件で干されて家茂の側にいるんじゃなかったか?
もし小倉口の指揮官だったら小笠原のような醜態は見せなかったかもね。

で、実際はやっと停戦交渉の役目貰って締結したものの慶喜「やっぱナシで」で面目丸つぶれ

75 :48:2011/05/29(日) 20:45:25.97 ID:qzEdHh5P0
>74
海軍の指揮を取らせても余り期待できない。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 21:21:50.75 ID:zv/NOAnt0
アメリカ行った時も船内でゲロ吐いてばかりだしな
そもそも当時海戦での夜襲は戦術的にありえないタブーとされてたから
小笠原に特別な落ち度あったわけでもない

77 :48:2011/05/29(日) 22:14:23.47 ID:qzEdHh5P0
>76
それもありますが長州に同情的なので、
当てになりませんよ。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 22:55:05.82 ID:jcn1r9pM0
どっちにしろこの敗戦は勝には責任ないってことでおっけーなんでは。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 23:05:24.52 ID:QH4it69X0
>>76
海戦での夜襲って小倉じゃなくて大島だよな。
大島にも小笠原いたの?本当良いとこなしだなwww

どっちにしろ、停戦ギリギリまで全く参加させてもらってない勝に責任が生じる訳がない

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 23:11:04.68 ID:u0o09cwqO
夜襲は大島ですよ。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 23:54:35.60 ID:qiTimfKr0
勝は海軍指揮官というより軍政家もしくは教育者向きだからなーw
むしろ長州征伐に大反対する意見書を出してたんじゃなかったっけ?。
勝が参謀総長なら長州征伐自体が行われないw。

俺も勝に責任無しに同意だ


82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 00:02:46.43 ID:DU0HFfje0
勝つが薩長寄りという表現はどうかなぁ??
勝は、諸外国の四カ国連合艦隊による下関攻撃とそれに続く第二次長州征伐。
こうした幕府の動きに諸外国が乗って軍事介入される事を極度に恐れていただけだと思うが。
中国を喰った外国の常套手段だからね。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 00:05:02.76 ID:PaBhimIQO
そうですね。

さしずめ海軍兵学校校長ですか。

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 00:07:57.48 ID:PaBhimIQO
幕府にしでみれば、裏切り者と見なされていたでしょう。

慶喜の首を請求してきたら、それに応じたでしょうか?

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 00:27:45.06 ID:KKVTmVmz0
応じないでしょう。
そんな大問題を受諾してしまったら、勝では事態を収拾できなくなる。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 00:34:27.32 ID:PaBhimIQO
そうなれば江戸は・・・・・・。

87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 08:48:27.18 ID:xGT/OV/X0
勝が兵学校校長というのはどうだろう。

実際の艦の運用に関してはからきし下手(そのわりに偉そうに振る舞って反感買うのは上手)という
評価が幕府海軍の中では定着していたと言って良いから、教官陣は良いのは集まらないだろうし。

陸軍に関してはなおのこと何の知識も技術も持ってないし。

88 :48:2011/05/30(月) 08:58:46.39 ID:PaBhimIQO
司令長官は榎本ですね

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 09:20:08.45 ID:YuI3DJ4P0
>>65
薩長密約に、長州が負ける態勢になっても数年は粘るから
その間に政治工作よろってかいてある。
出兵したら政治工作の面で動きにくくなるから、直接長州に援兵ってのはないだろう。

>>76
大島口は兎も角、小倉口の指揮に関しては小笠原の責任重大だと思うぞw

90 :48:2011/05/30(月) 09:22:53.12 ID:PaBhimIQO
薩摩にしても長州が疲弊したほうが、好都合ですからね。

小倉口は肥後に援軍を、派遣していたら。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 12:27:53.39 ID:ajgy4/RvO
小倉口に勝が参戦してたら、龍馬ら弟子たちにコテンパンにされる師匠、
という図が見れたやもしれん

92 :48:2011/05/30(月) 12:52:18.99 ID:PaBhimIQO
>91
内通して被害を、拡大させたかもね。
小笠原を討ち取らせていたかも、しれないですよ。

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 15:47:48.21 ID:xGT/OV/X0
>91

下手くそな操艦で現場を混乱させたり、部下にオミットされて何にも出来なかったりするんじゃないかな。

勝を幕府海軍のトップに据えようという動きが出たときに、「あんなヤツの下につけるか」ってんで
矢田堀や小野、肥田らが一斉に辞表を出してまでその動きを阻止しようとしたのは有名。

勝が名を挙げた「咸臨丸」乗船組や、彼のことをよく知る長崎海軍伝習所での同期生達がその中心だったんで、
さすがに現場の判断を尊重せざるを得なかった。

94 :48:2011/05/30(月) 17:36:12.86 ID:PaBhimIQO
誰が適しているのでしたかね。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:00:35.87 ID:KN57YYce0
第二次征長戦争に関しては、多大な批判を覚悟してでも幕府陸軍と会津・桑名藩兵を
前線に持って行くのが一番だったと思う。

何のかんの言っても、あくまで征長戦自体が陸戦主体なので海軍をどう運用するかは
副次的な問題だった。

征長を熱心に主唱した一会桑が主体となって軍を構成し、「徳川と毛利の私戦」という批判を甘受して、
鳥羽伏見の前倒しの戦争を行っておくべきだった。

そうすれば、例え負けたとしてもあの時点では「賊軍」の汚名を着ることはあり得なかったし、
近代兵器の前では刀槍主体の軍勢なんて何の役にも立たないと言うことを身に染みて理解できた。

負けた出先軍(彦根・紀州ら)を批判するばかりで血を流していなかったから、会津は鳥羽伏見まで
近代兵器の威力を理解し切れていなかったし、実際に血を流した出先からの強烈な反感をかうことになったし、
それが土壇場での裏切りや薩長方への肩入れに繋がったことを考えれば、あの時点で「負ける」という
リスクを取る決断を積極的に取らなかったのが、一会桑政権が求心力を失った大きな原因の一つだったと思う。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:05:15.27 ID:9vy4Z5u50
幕府陸軍は未だしも、会津や桑名は邪魔なだけです。


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:15:55.41 ID:KN57YYce0
だから、あそこで叩かれておけば「能書きを言うだけの門閥重臣の排除」に近い結果を
生んでいただろうって事です。
刀槍部隊が主の会津桑名が、その無力をさらして馬脚を現し、幕軍中枢から排除されれば、
その分だけ幕府陸軍の強化と諸制度改革の推進に繋がる。

その上で一時休戦を行って、近代的な陸海軍を整備してから再戦に持ち込むというのが
長州征伐を完遂する一番現実的な方法だと思うよ。
もちろん、思いっきり後世から見た後知恵だというのは承知しているけどね。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:21:55.52 ID:9vy4Z5u50
>97
休戦するのは、大阪の陣ににていますね。

高杉晋作は無くなっていますし、
榎本武揚も帰国していたら海軍力を発揮できますね。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 10:45:28.99 ID:A+TEYuLMO
桑名や会津でも立見尚文は、すごいですよ。

他は・・・・・・。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:15:20.87 ID:GxekY3WN0
桑名や会津って言うか、桑名やんそれ!

>>95
幕府歩兵隊は、大島口と芸州口で交戦してなかったっけ。
小倉口のは持ち腐れたようだが。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:17:46.06 ID:KN57YYce0
立見が活躍するようになったのは、鳥羽伏見での敗戦後に銃器中心の近代歩兵部隊に主軸が移ってからの話でしょ。

刀槍部隊が主力・主流だった時期の桑名や会津で頭角を現すことは難しかったのではないかと。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 11:30:58.79 ID:KN57YYce0
>100
戦ったけど、訓練不足と士気不足で戦線崩壊したんで、彦根その他の旧式装備の軍勢と一緒に撤退してお終いだった。
でも、この戦いを通じて銃砲の持つ力を認識した慶喜らの意識が変わって、それが慶応の軍制改革に繋がった。

やっぱり、戦いの中で血を流して得た教訓はしっかりと身につく。
「ちゃんと失敗をしない」ってのは、短期的には利益のように見えても、長期的にはマイナスを生む場合の方が多い。

生麦事件の処理で、英国との戦争を回避した幕府と、あくまで突っぱねて戦った薩摩。

置かれていた立場や状況が違うから単純な比較は出来ないけど、示唆するものは大きいと思う。


103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 20:17:04.88 ID:9vy4Z5u50
>102
争いを回避するのも重要なことだと、思いますよ。

104 :メーソン?いいえ、治郎丸です。:2011/06/04(土) 00:45:49.71 ID:Qcd8rVOm0
                  /\
                / ⌒ \
              / (山口県) \
            /            \
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            ___________
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105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 16:12:11.58 ID:dcD8PpVR0
>>103
イケイケドンドンばかりでは勝てないのは幕末の幕府が証明しているが
争いの回避ばかりでは他人の強要に逆らうことが出来ないってのも加賀藩が証明してる

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 14:54:30.86 ID:FxWy1kPU0
徳川慶喜=ヘタレ

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 23:50:47.86 ID:htM6X9g70
だがまぁ慶喜がイケイケドンドンだったとしても、あそこから勝つのは無理じゃね?

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 00:12:38.46 ID:t2pKNst10
個人的には、鳥羽・伏見の戦いをやらずに大阪に留まれば、
時間が経過するごとに徳川慶喜優位が固まっていたのではないかと思う。

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 16:07:35.96 ID:x5g/zBzy0
>108
何年か前のNHKの「その時歴史が動いた」で松平春嶽を取り上げたときに、
大政奉還後に大阪城に引き揚げた慶喜が黙ってじっとしていることで政治的な得点を上げて、
京都で周旋をしていた春嶽や慶勝らの活動によって、薩長よりの空気から徳川よりの空気に
諸大名の間の雰囲気を持っていくことで王政復古後の新政体での重要な位置に慶喜が就くという
「名を捨てて実を取る」戦略が実を結ぶ直前だったと紹介してた。

それまで慶喜の言動に支離滅裂なモノを感じていてなんとなく腑に落ちていなかったんだけど、
この視点からこの時期の慶喜の行動を見ることで、いろんな疑問がけっこう氷解した。

家近良樹氏の『幕末維新の個性1 徳川慶喜』はこの辺の力学を詳しく解きほぐしていて
一読者として面白く読めた。
慶喜の大阪城逃亡を「先の見通しのきく政治指導者による、見事な投了の一手」と
評していたのは痛快ですらあった。

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 00:54:08.77 ID:VeuXy+Aw0
辞官→前将軍を名乗れる上、将軍としての格式も維持されるに変更
納地→徳川家のみの納地が、前大名が石高に応じて全員差し出すに変更(結果、失政による領地削減では無くなり、徳川家の名誉は損なわない)

その上、明治新政府参与(薩長と同格同権限)の役を与える事を岩倉具視が承認。
これらは土佐藩や福井、尾張藩の成果。

慶喜が戦争してまで抵抗する理由は何も無い。

旧幕府軍が暴発しなければ、薩長と同じ権限を持つ参与として徳川家が新政府入りを果たす。
その結果、徳川家支持藩である土佐山内家(徳川に大恩有り)・尾張徳川家(徳川御三家)・福井松平家(徳川親藩)で、精力的には薩長二藩圧倒。
石高に置いても、徳川家単独で圧倒的な石高を誇る。武力も何も失わずに温存されるので、徳川陸海軍が最強のまま維持される。

慶喜どうみても勝ってますよw薩長に。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 01:20:47.79 ID:BykEZ2zE0
慶喜たん自体が敵を知り己を知りてで、我が幕府側に西郷・大久保の如き人物がいるかと聞き
居ないだから勝てないと言ってますやん

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 01:50:37.81 ID:NkcqlgPe0
それは、
大多喜正質や川勝広運、
瀧川具知や竹中重固、
松平容保や松平定敬あたりが

大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。

軍は整備しておいても、実際に働くかどうかはやってみないとわからないので
鳥羽・伏見の戦いなんて起こさずに、威圧で収めておくべきだったと思うのですよ。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 06:40:56.12 ID:NDqWn18/0
>>112
>大口を叩いて京都へ向かって進軍し、
>薩長よりずっと大軍で装備も良かったのに、コテンパンに負けて帰ってきたので、
>指揮が悪いんじゃいくら事前準備をしても勝てないよ、と慶喜が匙を投げた場面です。

 違う。瀧川が江戸から兵を連れて大坂に到着し、江戸薩摩藩邸焼き討ちを伝えて開戦を慶喜に迫った時でしょ。
コテンパンに負けた後ではない。戦いが始まる前のワンシーンだ。慶喜は戦う前から、家臣の暴走にサジを投げたというのが正解で、負けた後にサジを投げたのではない。

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 13:11:11.01 ID:Q7AylzPHO
>>37
脱原発派VS原子力村
の戦いも入れて下さい!w

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 13:20:48.28 ID:NkcqlgPe0
この言葉、鳥羽・伏見から大阪城へ松平容保や松平定敬が敗走してきて、
大阪城の軍備を使って反転攻勢に出るよう要求した主戦派要人に、徳川慶喜が言った言葉のはずですが。

松平容保関連の伝記は、松平容保がこの際叱責を受けた事を隠すので、この時点の経緯が曖昧にされています。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 15:07:19.74 ID:uAgEU1B40
長州征伐軍・・・ベンチがアホやから戦争がでけへん。


117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 23:07:55.51 ID:llpCCAeVO
>>114
福島の事故=桜田門外の変

九電メール=第2次長州征伐

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 05:42:52.77 ID:zCGjKpefO
長州征伐に関しましては、政府といたしましては、枝野です。

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 14:51:56.63 ID:hNqyhmg+0
新選組が会津軍に参加して、士気を盛り上げていれば、幕軍は長州如きに負けることはなかったんじゃ!
幕軍大佐松平容保公が英断を下していれば、幕軍は長州を壊滅させ、その勢いに乗って薩摩を倒せたのに…
残念でならぬ!

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 19:43:27.08 ID:OzD6JF3T0
新選組と奇兵隊の戦闘とかやって欲しかったなぁ

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 08:45:27.33 ID:51zo1R9K0
ですよねー

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 16:31:05.27 ID:eh/6QVW20
>>119
会津軍攻めたのは長州じゃないぜ

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 17:12:09.81 ID:+BQlpF8V0
主力は伊地知の薩摩隊と板垣の土佐隊だよなぁ。

>>119
会津と新撰組は、鳥羽伏見で轡を並べて戦ってるよ。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 21:35:26.96 ID:51zo1R9K0
新選組ファンとしては、長州征伐の時に参加して士気を盛り上げてくれていれば…と考えたいが、
鳥羽伏見の惨状を見るにつけてはそんなこと思えないな…
しかし、長州征伐の時も鳥羽伏見の時も幕軍は数では上だったのに…
薩摩がいないだけでこんなにも違うのか?

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 17:47:04.08 ID:fZuIZi/LO
>>116
小笠原長行らが熊本軍の援軍を、無視しましたね。
>>119
石見口に会津が参加しても新式銃の餌食に、なっただけでしょう。
ですが新撰組と同じく士気が旺盛なのがいたらと、思いました。

>>122 123
両者が陸軍に行かなかったのは、どうしてでしょうか。

>>124
武器の性能が違いますからね。

長州を取り潰せても、薩摩はかなりの犠牲を覚悟しなければ、ならないでしょう。

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 07:28:15.24 ID:Wp696M1w0
>>21
幕末から日露までの薩長は、まさに神がかり。


これを素直に認められない不誠実な輩は低脳国賊。



それだけは素直に認めよう。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 07:52:12.89 ID:iibEh19S0
>>119
>>124
禁門の時点で会津は洋式になる前の長州に押されまくって突破されたわけだし、
その後長州並に軍制改革しない限り、士気が高かろうが勝てるわけもない。

128 :125:2011/07/26(火) 08:43:08.78 ID:CA99BcnAO
>>126
薩長だけではなかったですが、すごかったですよ

>>127
したくても財源がありません

129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 16:13:44.44 ID:qAkRQc1B0
>>125
板垣は土佐閥の重鎮として、伊地知は片目片脚が不自由で
病弱だったから政治の道を選んだんじゃない?
幕末までの武士は軍指揮官と政治家兼任してたようなもんだし。

130 :125:2011/07/26(火) 17:50:23.79 ID:CA99BcnAO
板垣は軍人しかだめだと、中江兆民が述べていましたよ。

伊地知はそれらを考慮しても、通用したと思いますね。

両者が陸軍にいけば、我が国の軍事史におおいなる影響をあたえたでしょう

武士は両者を兼任していましたね

131 :125:2011/07/26(火) 17:59:51.60 ID:CA99BcnAO
長州の味方を広島が、したのでしょうか。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 00:12:14.03 ID:HgtAe7Z80
英国相手に一諸侯で互角の戦い出来る薩摩や、4カ国連合艦隊と戦える長州相手では幕軍なんて物の数でもなかったろうな


133 :125:2011/07/27(水) 09:10:31.66 ID:tZAlH8XpO
>>132
そうだった

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 11:36:58.22 ID:YrPTX3pi0
>>132
薩長は互角に渡り合ったといえるのだろうか?
砲台を占拠されたり甚大な被害が出たりしたわけだろ?
それで互角と言っちゃあ欧米が黙っちゃいない

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 15:37:15.01 ID:iEXCwMwq0
まぁ禁門の変と同時進行だったのもあるが、死傷者は連合軍側のが多かったとはいえ
砲台占拠されてそれを奪還することも出来なかったんだから、互角とは言えんかなぁ。
役に立った部隊は久坂玄瑞の光明寺党ぐらいのもんだっけ。後の奇兵隊の母体。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 18:54:22.92 ID:YrPTX3pi0
うむ。薩長は外国軍と戦い自らの無力さを思い知って攘夷を諦め開国、倒幕に転じたと学んだぞ。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 21:05:31.85 ID:G3h7+1nJ0
でも負けたのだ、と書く人の言及する被害は長州のみ。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 08:11:37.78 ID:/VRx+7or0
幕府側は武士だけの軍勢だったのに対して長州側は武士以外も参加していた。
それは不正規の志願兵が増えるということだけでなく
例えば地元漁師を利用して情報収集に活用できるなどの利点もあった。
戦略の幅が広がればそれだけ有利になるのは当然。
実際に関門海峡渡航準備が察知されて渡航直前に攻撃くらっているしな。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 09:22:41.42 ID:+fj4aCbG0
>>137
薩英戦争は微妙かなぁ。
賠償金の獲得だけが目標だったらイギリスの勝利とも言えるが、
生麦の犯人引渡しという点では妥協してるし。
講和条件から見ると、イギリスが多少優位な痛み分けってとこじゃね。
この薩英戦争を教訓に、馬関戦争では砲台のアウトレンジからの砲撃を厳守するようになるから
2回目があったらどうなってたか分からんが。
まぁそれが分かってたから、薩摩もあの講和条件で妥協したんじゃね?

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 21:14:27.05 ID:N848rbV80
>>138 革命軍と体制維持軍とでは志気が違うしな。


141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 01:02:47.65 ID:W1UKRS9T0
>>138
民衆の活用は長州藩だけの専売特許ではない。
会津藩だって武士以外の民衆を徴発して戦力にした。もっとも練度が低いので多くは期待できず
畳を持たせて前衛に立たせることで弾除けとして利用を試みた程度だが。
結果は銃弾が貫通してしまい戦力どころか壁としてすら役に立たなかった。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 03:12:10.80 ID:JpbwDUX70
長州の民衆兵の場合はほぼ自発的参加だろ。訓練もしてる。
民衆を挑発して使うのとはぜんぜん士気も錬度も違いすぎる。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 08:37:08.87 ID:m9MHuULA0
>135
向こうは展開戦力に限りある
当時の艦隊じゃ補給もままならないだろ
一方長州は攘夷で次々諸隊国民軍が生まれ連戦で強くなり限りなし
長期戦になればどっち道長州が勝つ
ゲリラ戦に持ち込まれたら対応できないだろう

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 09:43:21.81 ID:04rur+MF0
>>143
そうとも限らんわい!

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 18:15:41.29 ID:DIFe06060
会津戦争と長州征伐を比べるなら
長州は挙藩一致で幕府に当たれたけど、会津は民衆が新政府についてしまってる。
長州も天保改革までは南部並の一揆多発藩だったのに。

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 18:22:02.99 ID:04rur+MF0
そうだったのか、そういう違いもあったんだな。
ああ会津、残念無念也

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 23:21:27.54 ID:F+kcPtC10
長州は攘夷戦で奇兵隊など生まれ、既に国民国家になりつつあったから
四境戦争の頃には藩内革命経てるし
幕府との戦いの前に長州兵の士気の高さを見た坂本龍馬は感動し長州兵は天下最強であると薩摩に書いてる
板垣は会津攻めは本来負けてもおかしくなかったが、会津市民が駄賃など貰い積極的に新政府に協力したとしてる
これではだめだと
後の藩政改革や自由民権運動する経験になってる

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 00:28:15.47 ID:SI7O53HT0
えっ・・・?会津戦争は会津軍が勝てる要素があったの?
もし勝ってたら歴史はどうなってたんだろ

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 01:22:42.27 ID:2pC1lZuf0
北海道の一部が日本じゃなくなってたんじゃね?

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 12:59:02.14 ID:OYGxc9Hx0
>>143
まぁゲリラ戦に持ち込んで粘り強く戦えば勝てた可能性もあるが、
実際には禁門の変、第一次長州征伐でそれ所じゃ無かった訳で。

>>148
速攻掛けて会津城下まで突出したのは、伊地知と板垣の三千〜五千弱?程度の軍だったから。

会津は天下屈指の雄藩だから、士族と民衆が一致団結して抵抗すればこんな少数の軍は
簡単に退けられただろうし、またそうして冬が来たら兵の士気も阻喪するかもしれず、そうなったら
死ぬしかないと覚悟を決めてた。
そんな決意でいざ城下まで進出したら、意外にも篭城してたのは士族だけで、一般の人民は
我関せずという状態だった。
みたいなことを、会津戊辰戦争の序文で板垣が書いてる。

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 14:10:36.64 ID:ZAnftGAX0
>>141
人間の盾は人心を失う要因になったかも

>>150
京都関係の出費のために領内の税が重くなったことが
会津藩領民と支配層との軋轢を生じてしまったとおもう。
京都守護職は貧乏神

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 16:07:10.46 ID:SI7O53HT0
>>150
じゃ会津戦争に会津が勝利してたら・・・というIFを考えるのも面白そうですね。
まず、板垣退助が民権運動を起こすことはなかった。
となると、果たして日本はどうなっていたんだろうか。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 20:10:31.60 ID:pcfezsJKO
>>151
身分差別がきつい所だから余計に乖離しやすいだろうね
外交、内政、軍事が全部ダメダメだったのな…
徳川が大事すぎて会津を顧みることが出来なかった
人としては素晴らしくとも為政者としては最悪

>>152
板垣おらんでも自由民権運動は起きてるだろう

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 21:27:51.07 ID:SI7O53HT0
でももし会津軍が会津戦争で土佐軍を敗走させてても大勢に影響はないとみる?

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 21:32:27.24 ID:xUR0tHSH0
土佐の評判が落ちるだけで大勢に影響はでないな

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 22:54:31.63 ID:SI7O53HT0
なんだそうなのかガッカリ
俺的にはそのまま奧羽越列藩同盟が盛り返して官賊軍を打ち破って東京まで進出、
明治天皇を奪還して新たな政府を作る、ってところまで思い浮かべたよ。
まあリアリティはないが。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 01:50:19.38 ID:BFF6v6PgO
>>37
原子力村は滅亡確定だねw

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 03:08:50.18 ID:0iIe9jt+O
人心も金もないんだからできるわけ無いだろ(笑)
薩長恨んでアホなオナニーする暇合ったら勉強しろ夏厨

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 10:47:33.21 ID:oF/RrDoz0
>>156
それを考えるなら、まず白河城攻防戦で同盟軍が勝利するのが
最低条件だろうな。
あそこを抜かれたら、中通-会津への峠の守備で攻勢所じゃなくなる。
あと、北越戦線も長岡城での大崩壊が起きた後だときつい。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 09:18:35.32 ID:jTNPZfHI0
一個大隊1000人の自衛隊と、
地方公務員事務方で構成された一個師団がタイマンしてどちらが勝つか。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 21:19:06.31 ID:PBtHHbp60
>>160
前者でしょ。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 00:31:44.42 ID:+ImSFw6G0
>>1 長州鉄砲部隊と幕府抜刀部隊の戦力差だろう。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 21:26:52.66 ID:bdyyR8qx0
>>1
直参が戦場行きたく無さに子供に跡目継がせたりして隠居するとか、無駄飯ぐらいの有害無益集団だったから

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 00:55:07.16 ID:B3T6/izQ0
もともと幕府の旗本って行政職の侍だったり、血筋だけはいいボンクラだったり、
外様の小領主だったりで、武勇伝とか一切無い家がほとんど。
精鋭集団でもなければ、戦う軍団でもない。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 01:11:24.13 ID:9xy0yH9s0
>>1
長州に大村がいたから


166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 17:07:38.92 ID:4mpyHpj90
戦前、司馬遼太郎公認の腰抜け軍隊だったのが大阪人






167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 18:40:39.39 ID:LdtWvIHv0
江戸体制の文は三河の百姓でもできたが。
武は作らないとできないということだろね。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/16(火) 17:09:15.89 ID:H+wJyy2W0
士気も装備も低い軍隊じゃ勝てないからなあ。
斜陽の政府が、小規模な反乱にも勝てずに滅んでいくのは、日本ではよくあること。
そして一度そうなったら、もう立て直せないのもよくある事。

人間ってのは空気に流されるからね。後は雪崩をうって崩壊する。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/16(火) 20:29:56.91 ID:EQeF64N+0
ここでは長州藩内部での会所の圧政により頻繁に起きた一揆はガン無視されるのがデフォ。四国艦隊が下関を砲撃しているときに長州は存亡の危機に立っていた・・・のは無視して下さい。でないと事実、事実、事実を積み上げて萌えを潰しま
す。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/16(火) 23:05:57.71 ID:Rjdzoz880
まぁ落ち着け。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 06:34:58.61 ID:972xWXYX0
>>169
その多発していた一揆を収める為に、色々やった結果が後の長州藩なんだけどな。
だから長州征伐の頃は一揆は殆ど起こっていない。確か新たに占領した支配地域あわせて、
数例しかないそうだ。
幕府はその頃物価高騰に苦しむ民が、打ちこわしで暴れまわり、農村でも一揆が多発。

四カ国艦隊の時もそう。かなりの苦境で戦い続けた結果、
何をすれば勝てるのかを学び、実践した事で未来が開けた。


172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 11:56:28.36 ID:36Vhrkoz0
天保年間は確かに一揆が頻発してた。大一揆もあったし。
天保年間の後から明治に入るまでは、村落を越えて広がる大規模な一揆は無かったと思うが。
第二次長州征伐のときの、長防士民合議書の発想も面白い。

それに長州存亡の危機は、四カ国連合艦隊よりも、幕府による第一次長州征伐の方が
深刻だったろう。
あそこで降伏を認められなければ、ゲリラ戦とかでどれだけ粘るにせよ、最終的に長州は負けてた。
まぁ、ただでさえ財政が窮乏してた諸藩としては戦役が長引くとか悪夢だから、
慶勝の寛典論にも余り異議がなかったのだろうがw
この時点では、幕府の強硬論と諸藩の寛典論のどちらも正しいと思うけどね。

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 13:27:40.00 ID:fBBfLtos0
そもそも長州が恭順した後に高杉みたいに藩をひっくり返す狂人がでてくるとは
誰も想像できないよな

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 17:04:13.33 ID:PiKq1eGf0
結局寄せ集めだから勝てるわけがない

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 19:02:24.58 ID:vZFuc5zg0
高杉の政権掌握の過程を見ると成功した2・26事件って感じ。


176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/19(金) 21:44:52.72 ID:HqwpEAZx0
高杉は農村や都市の中小ブルジョワ層に圧倒的な人気があった。中小ブルジョワは農村や都市で賃金労働者や農奴を搾取している。これのどこが成功した二・二六なのか。一声で 言えば細川護煕だろう

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/20(土) 18:45:30.41 ID:+Ta4xliA0
急進的国家改造を掲げ、クーデターで政権掌握を目指したなら共通してるでしょ。
ともかく、小金持ち層なら現状維持が普通じゃないのかな?
よく高杉を支持したね。
よほどの閉塞感を長州の保守派、幕藩体制に感じたか、具体的な利害対立があったの?

178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 23:36:52.65 ID:tqLJ5KBO0
なんてって長州では百姓でさえ刀を持てばサムライになれたんでしょ。

179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 02:21:14.65 ID:ResNHH4D0
長州の百姓は銃や刀を手にしたが、長州以外の百姓は刀を持とうとしなかった。
学がある百姓は少数で、多くの学のない百姓は日本の未来とか武士がなぜ戦っているのかなんて理解出来ない。
百姓は物価高騰するか飢饉になって自分が困った時だけ蜂起する存在。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 06:27:57.16 ID:gaq/i1KB0
大体高杉自体が上級武士
高杉について破産した商人の白石とか国学が元
百姓が無教養ってのも無いだろう
初代総理の伊藤自体百姓の中でも下位出身
長州と違い会津が地元の庶民を味方を付けれなかったのは統治が駄目だったからに過ぎないだろう

181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 21:04:06.66 ID:DV0hMjakO
>>179
学があるとか無いとかじゃなくてさ、百姓にとって
搾取・凌辱を繰り返してきたお侍のために好き好んで血を流す道理はないでしょ。
長州が特別だっただけで。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 08:42:10.63 ID:FtPrdrQ50
改易で領主が変わっても自分たちには関係ないしな。国替えが頻繁にある国なんか領主意識も低いだろうし。

183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 22:16:03.68 ID:6WIvNod10
山口県は、長野県に次いで寺小屋数全国2位だったんだっけ。
長州藩の他にも、庄内藩とかは領民に慕われてたな。

184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 13:39:07.43 ID:HU2YbIFn0
藩版も水戸や薩摩と同じく盛んだったはず

185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/15(木) 19:58:33.44 ID:22nfzmGM0
維新はそもそも攘夷から始まってるんで。
外国に植民地化されない為どうすりゃ良いかと主導したのが江戸時代に教養化された武士。
基礎作って自階級を切腹が明治維新。
庶民がフランス革命で王様をギロチンにかけたのと違う。
武士は一定の税取る権利と、政治軍事の負担と権利権利持ってたけど土地所有者でないし。
大抵の武士はその辺の裕福な百姓商人より貧乏で民間のが金持ちだった。

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 11:38:41.60 ID:631XSyeg0
>>181
長州の場合、馬関戦争で外国軍に武士が負け、複数の村を破壊されたからね。
長州の庶民はこの時、武士は自分達の村を守れない。自分の村は自分達で守るしかないと自覚させられた。
その結果、生まれたのが奇兵隊などの諸隊。

>>185
明治維新が起きなかったら……幕府体制のままでユルユルと近代化できたのではないかという話しも聞くが、
開国が必然である以上、権利という思想も輸入されてしまう。維新が起こらなかったら、いずれヨーロッパ式の革命が起こされたと想像する。
この時、たぶん天皇・将軍・大名・武士は皆殺しにされてただろうね。フランスみたいに。
本来であれば、自由民権運動でこの革命が起こったはずだが、自由民権運動のリーダー達が皆武士だったのでそうはならなかったな。

187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 19:12:25.96 ID:vzMOxmRM0
>>183
確か岡山についで2位だったかと。
あと領民には慕われてないと思うぞ、長州はかなり重税。それも税の対象がかなり広い。
検地も頻繁に行われる。
何故かと言うと120万石から36万石、さらに幕府から目をつけられていたから、
賦役とかも多いし、城を作るのも山陰の萩とかイジメ。
結果負担が多いから、その分領民が苦労した。

ただ長州は寺子屋や藩校などが多く、さらに寺子屋は藩が率先して立てていた、
その代わりその先生は武士がやっており、藩の思想教育などもおこなっており、
また知識があるから尊攘派が非常に多かった。幕府にもイジメられていたのもあるだろうしな。

結果的に革命だああああとなっちゃったわけ。

188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 19:23:52.11 ID:fGME7OvF0
江戸期は基本善政だろう
ペリーが来なくても幕府は倒れてたろうが。
鎌倉、足利、徳川が倒れた様、朝廷の権威が使われたろう。
尊皇攘夷は士民の常識だったし、外国の貴族の場合は富と権力の独占者だからやられたんで。
ロシアなんか領地にそのまま人民が付属してつくから。
武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし、経済力は民間のがあった。
民は戦国末期に決められた税さえ払えば良く、江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった。
一方でどの藩も藩財政がボロボロだったのはその為。
武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義で近代国家も西洋文明も理解する事ができた。
結果尊皇攘夷と明治維新が生まれた。

一般からすればむしろ明治のが負担増。
武士廃止の代わりに軍事負担として徴兵が必要になり、地租改正で税逃れなくなり、米でなく金で払わなければならない。
軍事や産業や近代化の為に莫大な税が必要になった。
武士の役目もする以上、政治権を持つのは当然の流れで。
民権運動も必然の延長戦でしかない。

189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 20:29:33.67 ID:2C5ur6fo0
>江戸期に新しく開拓した税は払う必要なかった
江戸期にも検地は行われてますけど。

>武士は名誉と政治権こそあったが、その分軍事負担あったし
軍事的に脆弱な軍事負担なんて無駄そのものだな

>武士も250年形而上学問ばっかやってたから、政治は徳治主義
>で近代国家も西洋文明も理解する事ができた
幕府は蘭学を弾圧したけどね。

日本が列強から後進国に落ちた時代なのに
江戸時代を評価しすぎだな。

190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 08:32:59.90 ID:pKb+7q8S0
江戸時代日本は先進国だった!
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1298690382/401-500

191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 13:10:06.77 ID:x2jwE8ci0
>189
対外国向けの軍備としては問題があったかもしれないけど、江戸期の軍備ってのは
基本的に国内の治安を主眼としたモノだったのだから、「脆弱」と言って切って
捨てるのはどうかと思う。

江戸期の日本がそれなりに豊かで落ち着いた生活環境をその国民に与え得たのは、
司法や行政、それに軍備といった「公権力」が肥大化するのを抑えて、国家運営に
かかるコストを切り詰めたこと。
それから、支配階級が被支配階級から過酷な収奪をしないという基本的な統治方針が
堅持されていたことに理由を求めることが出来ると思う。


鎖国をしている間に西欧各国から後れを取って後進国化してしまったことは事実だけど、
教育の水準を高めて(識字率の高さ・教育機会の均等化)、独特の分化を醸成して、
国民が「太平の眠り」に沈むことが出来るくらいに、安定して穏やかな社会を築いていた
こと自体は、賞賛されて良いことだと思う。

192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 18:43:45.23 ID:HV9jIlfm0
>>191
成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。
南部藩なんか、一揆勢が仙台藩まで行って直訴してるし、財政再建策として
検地及び新田没収を行い、一揆を起こされた例もある。
そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
どっかの藩みたいに、困窮する民を放っといて大阪に回米するのはかなりアレだが。

それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。
財政再建で名声を得た徳川吉宗も、晩年その課題をどうにかしようと苦心するが、
結局根本的な解決はできなかった。
これに対応して成功を収めたのは、江戸時代を通じてもほんの一握りの政治家だけ。

193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 18:59:57.72 ID:PrZEQ71m0
一揆や打ち壊しは不作になればおこる
反乱を起こさせれば領地召し上げになるから大名からしても戦々恐々
幕府の大塩平八郎などは、農民が苦しんでるのを知らせる目的の為に幕府に反乱起こした
フランス革命は餓死線上にあった農村が、重税と我慢の限界で土地所有を求めた革命

194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 20:55:06.10 ID:IHGBephE0
>>191
幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし
長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
これこそが最も重要だろう。


195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 21:42:11.40 ID:PrZEQ71m0
維新が出来たのは日本だけ
清だって大国だが100年以上も植民地化された
日本は江戸期の蓄積あったから独力で出来たと見なければ
維新を主導した側だって江戸時代が生んだ武士

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 22:02:28.76 ID:CQYAcBhK0
経済的なことでいえば、革命を主導した長州と薩摩は異例に、金満といっていいほど財務状態が良好でした。
この二藩が他藩同様余裕の無い状態だったら、倒幕と維新はどうなっていましたかね?

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 23:37:39.81 ID:19OaTwSI0
明治維新は必要だったのか

198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 00:13:16.34 ID:ltUJQOsK0
幕府がいらなくなったから維新が起きたんだろ

199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 04:26:43.67 ID:C+U7oCKV0
>192
>成功した商人や豪農は豊かだっただろうけど、農民もそんな生活を享受できてたら、
>命懸けで一揆や打ち壊しを起こす必要がないでしょう。

それがそうとも言いにくい。

一揆が命がけの行動だったのは江戸の初期までで、綱吉から吉宗にいたるあたりで、
暴力的な行動が行き過ぎなければ「ただの抗議行動・示威行為(デモの一種)」と
みなされて、過酷な処罰を行うことが控えられるようになっていた。

大名は「領地内を混乱無く納めて善政を敷いているかどうか?」というのを
幕府から評価されるか否かの基準にされていたので、うかつに過酷な取り立て
などを行って一揆が頻発すると、国替えやお手伝い普請などの罰則的な仕打ちを
受けることを覚悟しなけりゃならなかった。

また、幕府の方もそうやって手綱を引き締める一方で、そう簡単には「取り潰し」
という強硬手段を封印することで大名を暴発させないようにと手加減していた。

江戸期の二百数十年間続いた幕府政治の中で、飢饉と呼びうるほどに大きな
天候不順が起こったの期間は、トータルではそれほど多くはない。
また、東北が飢饉に襲われていても西国はそうでもなかったりと地域差もあるから、
「どこそこでこういう行動が行われた史料がある」というのが必ずしも全国的で
継続的な事例だとも限らないみたい。

どこかの県で、生活保護の受給を打ち切られた人が「おにぎりが食べたい」と
書き残してアパートの一室で餓死してた、みたいなニュースがあったけど、
今の日本人すべてが餓死するほど追い詰められているかって言うとそうではないでしょ。


>そもそも財政が悪化する一途だから、飢饉などの非常時にも有効な対処ができない訳で。
>それに一口に財政悪化と言っても、その原因は農本主義と経済構造の変化が
>深く関わっている訳で、倹約しただけでどーにかなるようなもんではない。

財政が悪化したのはあくまで武士の側、つまり支配階級側。
なぜ支配階級が財政が悪化しているのに、商人や豪農が富裕になったかと言えば、
彼等を対象にして過酷な収奪を行い得ないような社会体制が存在していたから。

そして、支配側が放埒に振る舞えない環境下では、その下の国民はわりと安心して
生活が出来るし、だからこその「太平の眠り」が存在していたわけです。

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 04:54:05.90 ID:C+U7oCKV0
>194
>幕府が軍事的に弱かったからこそ、米国の要求を飲まざる得なかったし

当時の米国の要求を蹴るぐらいの軍事力っつったら、国民全員が餓死しても
賄いきれないぐらいの金が必要になっていたと思うけど。

「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
活用することで外注化していたような統治機構なので、そもそも「強大な国家」を
優先していなかったのだから仕方がないことだったとも思う。

むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
攻めてくるような事態を想定していなかったから。
実際、巨大な蒸気軍艦が造られはじめたのはペリー来航のほんのちょっと前だし、
そもそもそんな軍事力を持っている国自体がそう沢山は無かった。

アヘン戦争で英国がそうした力を持っていることを認識したのが
このほんの十数年前。

幕府の対外認識が甘かったという批判自体には私も同意するけれども、
じゃあ認識できたとしてそれに有効な手立てを打つことが出来たかどうかに関しては
個人的にはあんまり幕府を批判は出来ないような気がしてる。


>長州征討にも敗北し、鳥羽伏見にも敗北したわけだから
>これこそが最も重要だろう。

このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ。
「徳川と薩長の私戦だ」と見なされて諸藩は協力的ではなかったし、大義名分も
あまり無かったからそもそも勝ち目の少ない状態に入ってからの軍事行動だった。

長州征伐にしても、ホンの二年前の「蛤御門の変」の時には打ち破っているし、
その後の馬関戦争で四カ国連合軍にコテンパンにやられているから、
まさか外国と手を結んで武器の輸入をしているとは思っていなかった、
と考えるのも無理はなかったかなぁ、と。

201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 05:05:46.35 ID:C+U7oCKV0
>195
天保時代に改革を行っておらず、藩が貧乏なままだったなら維新は無かったかもしれませんね。

薩摩は調所広郷が行った改革がなかったら500万両の借金で首が回らない状態だったろうし、
長州も村田清風が行った諸々の改革がなかったら、薩摩ほどではなかったにせよ借金が多くて
なかなか派手な行動は取れなかったろうね。

特に長州は、幕府に追い詰められた後でも下関を舞台にした貿易によって力を付けていたけど
それが出来る体勢が出来ていたのは村田の改革に拠るところが大きかった。
特産品の奨励と、その貿易を藩が一手に行うことで利益を上げるというシステムがなければ、
幕末の長州の大暴れはまずあり得なかったと思う。

202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 05:11:14.49 ID:2VlnCEMz0
>>199
江戸時代中期以降の日本は地獄だよ。明治になるまでね。
寒冷化の影響などもあるけど(ていうか今も寒冷期にあたるが)
ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。

お前さんは比較的温暖であった江戸時代初期などもあわせてトータルでみるとか詭弁使っているだけ、
気候変動などをみれば寒冷期の合間にたまに温暖な時代があるだけなんだよ。
奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。

また江戸時代の飢饉は幕府の行政に問題がある。
参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
資金的にも苦しくそれを捻出する為に商品作物なども行われたり、東北で無理な米作りなどをした結果の失敗も大きい。
これはアジアなどで行われたプランテーションにより、現地で餓死が生まれた構図と同じ。

そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。

203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 05:57:34.58 ID:C+U7oCKV0
>202
>ここまで大規模な飢饉が続いたのは江戸時代のみ。
>日本の三大飢饉は全部江戸時代だしな。
>奇跡的に温暖であった時代もあわせてそんなに多くないというのは詭弁である。

同意しかねます。

4大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
という側面は考慮に入れないんですか?

平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。

江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
という側面もあるのではないでしょうか。

鎌倉・室町時代などの記録を見ると、農村部における秩序は必ずしも整然としたモノでは
無かったようですから。

>参勤交代や江戸滞在などで莫大な出費を諸藩は強いられた事により、諸藩は重税に苦しみ、
>借金の返済の為に飢餓移出が起こった。
>そもそも国換えとか普請で諸藩の財政を悪化させて領民を間接的に苦しめていたのが幕府なんだよ。

この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。

『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則

こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。

204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 06:15:22.13 ID:4gCPzfp+0
>>203
>大飢饉と一言に言うけど、それ以前に起こった飢饉が記録に残されていないだけ、
>という側面は考慮に入れないんですか?
>
>平安時代とかに東北や九州で飢饉が起こったとしても、記録なんか残らないと思いますけど。

「日本三代実録」とかありますよ。あなたは日本を軽視しているのではありませんか?

205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 06:28:10.36 ID:4gCPzfp+0
>>203
>江戸期に飢饉が頻発したように見えるのは、政治的に安定していたがために、
>きちんと行政が行き届いて記録が残されているからという事情と、
>安定した生活が行われていたから不作になって食糧が足りなくなっても
>「隣村を襲って皆殺しにして食糧を奪う」的な乱暴な解決策をとれなくなったから
>という側面もあるのではないでしょうか。

それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。

江戸時代を良いものだったと言い放つ人は大抵、薩摩では搾取が多く人々は虐げられていたと言って貶しますが、
その人たちがよきものと看做す東北地方は人口が激減し、逆に悪いと言い放つ西南諸藩地域は人口が増加しています。


>この辺のことは、明治政府が徳川幕府の施策を否定的に宣伝するために流布させたプロパガンダが
>明治時代を通じて勢力を保っていたために主流になってしまった認識で、近年の研究の結果からは
>逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。
>
>『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
>『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則
>
>こういった本の中で、「虐げられた百姓」というこれまでの歴史学で言い習わされてきた
>概念がかなり覆されつつあるというのが私の認識です。

むしろ、これらの本の記述は実際の人口増減に触れられていない、
徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。

特に、彼らと一緒になって「東北地域主義」を主張した人のしでかした、「東日流外三郡誌」問題や「藤村旧石器」問題の発覚に伴い、
「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、というのが私の認識です。

206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 06:35:14.83 ID:C+U7oCKV0
>204
私が日本を軽視しているかどうかは、どうぞご勝手にご判断下さい。

私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。

少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
思いにくいと考えています。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 06:47:59.88 ID:4gCPzfp+0
>>206
あなたは平安時代に東北や九州の飢饉の記録なんて残らないと主張し、実際は記録がある。
発言を後から修正し、元からその主張だったと言い直すのは、不公正ですよ。

208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 06:58:54.85 ID:C+U7oCKV0
>205
>それにしては、江戸時代の仙台藩の人口統計では飢饉のたびに人口が減り、再生産ができていません。
>そして薩摩の場合、江戸時代になぜか人口が激増しています。他の西南諸藩も軒並み増加が見られます。

仙台の人口統計では確かにさほど人口が増えていませんし、薩摩の場合に激増しているのも確かです。
けれども、この両者ともに当時の人口動態の平均からはちょっと外れた傾向を示していますから、
むしろ「なぜ平均と違う結果が出ているのか?」というのを基準にして考えていった方が
良いのではないかと思います。

また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、
全国的な平均という尺度を基準にすれば「誤差の範囲」と言いうるもののような気がします。


>徳川施策を肯定的に宣伝するために流布させたプロパガンダに思えてならないのです。

これに関しては、 何とも言いかねます。
上記の著作を読んでみた限りでは、その手のルサンチマンが書き手にあるとは思いにくかったので。

ただ、「虐げられた明治」という東北地域主義者の言い習わしてきた概念がかなり覆されつつある、
という部分に関しては同意見です。

明治政府の諸施策を見ても、ことさらに東北地方を差別的に扱ってきたという部分はむしろ少なく、
相当に気を遣いながら行政を行っているように見えるので。

東北出身者が官界や政界で阻害されることはままあったにしても、それは国家の上層での勢力争いという
限定された局面での話で、国家の政策として東北を痛めつけたり差別をしたりという政策を採っていた
とする見解は、かなりの部分それこそ「ルサンチマン」のなせるワザなのではないかと考えています。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 07:02:30.62 ID:4gCPzfp+0
>>206
>私は中世以前の社会では、民衆のレベルでの生活環境や飢饉への対応などが
>それほど整備されていたとは思えない、という疑義を提出しているだけです。
>
>少なくとも、江戸幕府以上に民衆のことを考えながら政治が行われていたとは
>思いにくいと考えています。

論拠が見えません。あなたの主張した、平安時代の東北や九州の飢饉記録など抹殺されている、という主張は成立していないのに。
結局、江戸時代を偉大だと捏造したいという思い入れしか、あなたの言葉には無いように思います。

あなたの言う明治プロパガンダではなく、あなたの心の中の江戸プロパガンダに問題があるのではないでしょうか。
江戸時代はあなたの思うほど良いものではありませんよ。五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。
この困窮社会を、「足るを知る質実剛健主義! ああなんて素晴らしい!」と言い換えることこそが、悪質なプロパガンダと思います。

210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 07:10:34.00 ID:C+U7oCKV0
>209
>五街道は大型車両の通行が禁止され、舟も大型船が作れず技術の退化すら発生した。

これらの施策はもっぱら内乱の発生を抑止したり、急激な社会変動による統治システムの変化を
嫌ったがためのモノであったろうと考えています。

トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
私ならば軍配を上げます。

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 07:51:08.80 ID:S6wiJ3PsO
戦乱が起こってなけりゃそれでいいってもんじゃないだろ。
アフガン・イラクで交戦中のアメリカと北朝鮮、どちらに住みたいかって話だ。

戦乱がなかろうが、領民は、飢餓だの疫病だの斬り捨て御免だの政治の責任で
戦乱期以上に苦しみ悶えボロボロ死に続けていた。それが江戸時代。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 08:12:59.22 ID:C+U7oCKV0
>飢餓だの疫病

戦乱が起こっている状態でこんなことになったら、その被害は桁違いのモノになるとは思わないか?
気候が寒冷化していたというのなら、飢饉が起こること自体は避け得なかったわけだし。

>斬り捨て御免

時代劇の見過ぎです。
詳しくはWikiで「切捨御免」の項を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E6%8D%A8%E5%BE%A1%E5%85%8D

むやみやたらと無礼討ちをしようものなら、斬首された上にお家断絶も
覚悟しなけりゃならないような制度ですよ。
切り捨て御免が実際に行われた事例は、かなり少ないと考えられているようです。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 12:59:45.11 ID:+jCc56//O
人権ボーイの論理破綻が恥ずかしい。

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 13:23:07.91 ID:U+YUyid+0
うむ。やはり薩長は悪!幕府は正義!
この考え方に変わりはない。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 13:54:34.82 ID:9aZJIvMO0
>>199
話それるけど北九州の餓死事件はウラが胡散臭い。
「男性は持ち家に暮らしていたし、同じ同和部落内に家族が生活していた」という謎の背景もある。
市が生活保護を打ち切ったのは不正受給を疑って強硬手段にでた側面もあるよ。あのへん工藤会の組員だらけだし。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 14:31:42.86 ID:emupeT000
斬り捨て御免って教科書にも載ってるのか?

217 :194:2011/09/18(日) 17:50:43.28 ID:4T/efTme0
>>200
>「小さな政府」を目指して行政や軍事をスリム化し、行政コストを民間の自治を
>活用することで外注化していたような統治機構
小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄してい
ませんよ。それに、鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府とい
うのは無理があると思います。

>むしろ、何千キロも離れた国から海を越えて軍事力を搭載した外国が
>攻めてくるような事態を想定していなかったから。
ラクスマンが来寇した時に松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と
認識してますけど、結局ペリーが来寇するまで半世紀以上効果的な政策はとられません
でしたねえ。


>このどちらの軍事行動も、軍事の前にまず政治で敗北してたと言っても良いからなぁ
長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、さらに諸藩兵も動員できている
のですから、敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が
自然だと思います。
鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、討幕派が新政府の主導権を
握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。

218 :194:2011/09/18(日) 18:05:22.58 ID:4T/efTme0
>>210
>トータルで見て、二百年以上に及ぶ「戦乱のない時代」を現出せしめた功績の方に
>私ならば軍配を上げます。
欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
戦乱の有無は一長一短ですね。
幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討が
あったからですし。
文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。
個人的には歌川広重は好きですね。


219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:20:06.15 ID:C+U7oCKV0
>217
>小さな政府というのは福祉や経済部門であって軍事部門の役割も放棄していませんよ。

実際問題、外敵が攻めてくるということが全くない状態が長年続いていましたから、
建前上は軍事の看板を下げていなくとも実質的にはなんら軍事的な備えをせずに
そこにかかる経費を節約していました。

外敵に備えるのであれば本格的に必要とされるはずの各地の湊を守るための砲台や
軍船といった軍事施設・軍事組織が必要とされますが、そんなところにかける経費は
無いとばかりにまったく予算を計上しようともしなかったし、そういう組織を作ろう
という機運もありませんでした。

>鎖国という強い貿易統制を強いている幕府を小さな政府というのは無理があると思います。

貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
別段両立し得ないことでもないと思いますが。


>松平定信が「江戸湾に侵入されたら永代橋まで突破される」と 認識してますけど

そういう認識を持った個々の政治家や官僚はいたとしても、組織としてまた国家として
そういう事態に備えようということはありませんでした。

かつての地震の例があるからと三陸海岸に15メートル超クラスの堤防を築く必要が
あると認識した政治家はいましたけど、現実的な「予算」という壁の前に断念する
という事例もありますよね。

また、関東大震災の例を元に、再度の震災の発生を懸念する人々もいますが、
東京への一極集中や高層ビルのむやみやたらな建設に歯止めをかけようという
現実的な動きにはなかなか結びつきません。

当時の幕閣が外敵の侵攻を「想定外」として棚上げしていたのも、実際問題として
手の付けようもなかったからという面があっただろうと思います。

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:31:54.21 ID:C+U7oCKV0
>217
>長州征討では幕府歩兵隊単体の兵数でも長州藩を数倍上回り、

幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。


>さらに諸藩兵も動員できている

ほとんどの藩は「金もないしやる気もない」という状態で、まともに戦う気を
持っていた藩はごく少数。
軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
そういう藩を動員するハメになったこと自体が政治的な敗北です。

なにしろ大阪に滞留しているだけで幕府の年間予算の何割かを食いつぶしましたから。


>敗北の原因を政治的失敗に求めるよりそれぞれの軍の近代化の深化に求めた方が自然だと思います。

幕府軍・諸藩兵の近代化がなっていなかったことに大きな原因があることは承知していますが、
あの時点での長州征伐が政治的にも大失敗だったということも敗北の原因だと考えています。


>鳥羽伏見の戦いに於いても新政府の構成員の多数派は親慶喜派で、
>討幕派が新政府の主導権を握ったのは1月3日の戦闘に幕府軍が敗北した報が届いた後ですし。

ですから、あの局面では軍事的に攻め上るよりも大阪で事態が有利になるのをゆっくりと
待っていることが政治的な勝利への道であり、鳥羽伏見に軍を勧めたこと自体が
政治的な失敗だったと申し上げております。

勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
こと自体が政治的な失敗です。

221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:33:44.30 ID:2VlnCEMz0
>>203
それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。
最もこれらの飢饉は天候不順や異常気象などで、江戸時代にように構造的に飢饉を生んだわけではありません。

>近年の研究の結果からは逆の事例が多数存在していたことが分かってきています。

一部の事例を曲解しているだけですね、お話になりません。
江戸時代以上に地方が搾取された時代はありませんので。
江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。
そういう構造を押し付けて、幕府の政策に問題がなかったは無理がありますよ。
江戸幕府とは、諸藩を締め付けて、日本全体の歩みを止めることで、太平を作ったのですから。
反乱が起きないように力を常にそぎ、その結果が地方の餓死ですよ。

特に江戸や街道筋は物価が高く、それらで強制的に消費させられますので、
地方の富が都市部や街道筋に吸収される事になりました。
街道や大型船の事にも触れておられる人がいますが、
それにより、輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
意図的に川から橋を除いたケースも少なくなく、当然大変な事になりました。

それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。
ですが江戸時代は江戸や街道筋を消費をされ、当然それらは生産地ではないため、
輸送が必要、そして輸送の邪魔をしていたのが幕府の御政道というわけです。

222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 19:54:14.74 ID:C+U7oCKV0
>218
>欧州ではその戦争を梃に軍事技術の進化や行政、財政の合理化効率化が進みましたから
>戦乱の有無は一長一短ですね。

それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えることで、
実際に蹂躙されて国土を踏み荒らされた国の住人にとっては、あまり聞き入れられる
内容のことではないと思います。

戦後の高度成長期には戦争中に軍の機構に携わっていた人々が民間に移ってきて
その技術を活用したおかげで発展した産業などもありましたが、だからといって
「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。

欧州での軍事技術や行政・財政の合理化効率化をちゃっかりと身につけて強大な国家を
作り上げた大日本帝国という事例もありますので、「200年間の平和な時代は、
全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。

江戸期の日本が、相応に合理化や効率化を推し進めて国民に豊かな生活をさせられる
国家であったという様々な例証は数多く上がっていますし、進歩したという欧州諸国が
自国民に幸福な生活を約束し得ていたかというと必ずしもそうでない部分もありますから。

また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。


>幕府に於いても天保改革が失敗し慶応改革がそれなりに成功したのは、長州征討があったから

これに関しては、同意します。
明治維新にしても、戊辰戦争という形での流血の事態がなかったならばあそこまで上手く改革が
進むことはなかっただろうとも思っていますから。

日本は近代を成し遂げた国家としては例外的なくらいに「流した国民の血」が少ない国ですが、
そういう利口な立ち回りが可能だったのも、江戸期が相応の時間をかけて育んだ優秀な国民と
指導者とに恵まれたからだと考えています。


>文化面においてもルネサンスや東山文化のように戦乱の時代でも花開く事もありますから。

「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
イコールではないですよね。

江戸期にも元禄文化や化政文化といった文化が花開いておりますので、戦乱が必要という
ことではないのではないでしょうか。

戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。

223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 20:12:35.08 ID:C+U7oCKV0
>221
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

では、具体的な飢饉による死者の規模の違いを提示して下さい。
また、ご指摘頂いた飢饉の記録も、西日本から中四国の記録が主で、
九州や東北地方の記録は少ないようですが。


>江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。

これは否定しません。
幕府は中央集権的に強大な権力を持った政権ではなく、地方のことはそこの領主に
相当の権限を許す体制だったので、無能な領主の元では不必要に甚大な被害が
発生したことは否めません。


>江戸滞在費と参勤交代の費用は遠方に住む外様諸藩では藩の出費の半分以上を占める莫大なものでした。
>これらの出費は全ての諸藩に重くのしかかっており、その負担は諸藩の民が背負う事になっております。

何度も言うように江戸時代というのは全期間を通じて武士の経済的な余裕が失われて行き、
農民・町民・商人たちにその富が移っていった時代なのです。

武士の財政が苦しくなっていったからには、地方の農民達から過酷な収奪をしていたに
違いないとお考えのようですが、実際にはそのような傍若無人な行政を行っていると
幕府の側から叱責を被ったり、領民が他領に逃げてしまって非耕作地が広がって
年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。


>輸送コストも跳ね上がり、移動するためのコストも非常に高くなってしまったからです。
>それまでは良くも悪くも地産地消で、一部の物意外は現地でなんとかなっていました。

つまり、それらの輸送コストが掛かるということはその輸送に携わる膨大な雇用が存在した
ということでもあり、地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる
くらいに商品経済や貨幣経済が発達していったということでもあります。

どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって
ありがたみのある事柄だったように思います。

224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 20:43:33.11 ID:2VlnCEMz0
>>208
>また、「東北諸藩の人口の伸びが悪い・西国の方が人口が増えている」というにしても、

正しくは東北では微減、北関東では激減、西国で増加。
で、日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。
そして明治になると数十年で人口は倍増します。気候は寒冷のままです。
江戸幕府の統治に問題があるだけですよ。
結果的にはいかにして民を苦しめるかという時代だったのです。

>>212
寒冷期で戦乱が起こるのはむしろ普通です。そしてだからといって、
寒冷期で人口が伸びないわけじゃないのです。
戦国時代は寒冷期でしたし、戦争が起こっていたわけですが、人口は増えてます。

>>210
日本社会を停滞させることで安定といわれましても。
ただたんに貴方幕府の政策ならなんでも賛美するだけじゃないんですか?
日本が列強から、辺境の小国になってしまったのはこういう「規制」により、
社会の発展が阻害されたからなんですが?

225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:09:01.85 ID:C+U7oCKV0
>224
>日本全部でみると人口が停滞していたのが江戸中期以降です。

その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。


>そして明治になると数十年で人口は倍増します。

明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が
速やかに行われていった結果だと考えておりますが、あの当時の西欧列強の
植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに
その原因を求められると思います。

欧米から与えられる技術に魅せられてその侵入を容易に許した国々が、
さんざんな目に遭ってきたのは近代のアジア史を調べてみれば容易に先例が
見つかりますし、幕末の過程においても薩英戦争や戊辰戦争の過程で日本人が
相応の軍事力を持っていることを諸外国認識させたからこそ列強につけいる隙を
与えなかったのです。

そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は
多々あると感じております。


>日本が列強から、辺境の小国になってしまった

現在の日本も戦前の列強の一角から憲法で軍事力を縛られた小国に成り下がりましたが、
60年間の平和を守って経済的な大国にのし上がりました。

豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに
かなり大きな痛手を負うことになります。

日本は、戦国期には世界に存在する銃の総数のウチ、かなりの割合を自国で持つに
いたる強大な国家でしたが、あえて外国に侵攻するような武力を封印して、
「元和偃武」を成し遂げたました。

江戸期の日本も当時の世界の中で100万の人口を持つ大都市「江戸」を抱え、
三千万という人口を安定して抱える地域大国では有り続けました。
これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで
100万もの人口を抱える都市は数えるほどです。
こういう実績にもきちんと目を向けるべきなのではないでしょうか。

226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:10:36.80 ID:j8dTM+VP0
外敵が来て、攘夷できないから幕藩体制が滅んだんだから。
外敵が存在なかった日本では、国民国家を作り出す基盤があっても中々起きないのは当然。
西洋列強は外敵との争いから、国家が上下左右一致して外敵に当れる統一国家・国民国家を作る必要に迫られたんで。

227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:18:33.32 ID:2VlnCEMz0
>>222
戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。
江戸幕府はそういう政府だったのですよ、
戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
様々な方法で量を増やすようにします。
ですけど江戸時代とは、量を増やすのではなくて節約というか我慢する時代なのですよ。
行政機構を刷新すると古くからの伝統が崩れ社会が不安定になるのでやらない。
生産力の増加は力をつけてくる奴等がいるので制限する。
他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。
軍は官僚機構にはや代わりと。
既得権益を守る事しかやらないから、どうしても社会は発展性を失う。
パイをどんなに上手く分けるか、ではなくてパイを増やす事が必要なのです。

>>223
俗にいう享保、天明や天保の大飢饉になると数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。
それも江戸時代の飢饉は50年に一度というペースで起こっており、こんな頻発したのは江戸時代だけです。
(数万人規模の飢饉もあわせれば10年に一回くらいのペースです)
そして飢饉として主なのが東北や九州でないから、というだけの話です。

>無能な領主の元では不必要に甚大な被害が発生したことは否めません。

違います、幕藩体制に根本的な問題があるんですよ。
どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?
商品作物や米の売買以外で捻出しないと、構造的に飢餓移出が発生するわけですが?
ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。

228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 21:35:55.28 ID:2VlnCEMz0
>年貢収入が減ってしまい、なおのこと武士が貧乏になるという構造が存在していました。

だから実際そうなっていたじゃないですか。何を言っているんですか。
東北北関東の人口減はこれが原因です。
富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。
それを人返し令とかで強引に戻そうとしても上手くいくわけがないのです。
さらにいうと、そうやって都市部に出てきた者たちは、丁稚奉公などでこき使われて、
大半は子供も残せず死にます。疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、
ばたばたと死にます。歴史人口学ではこの時期の都市を蟻地獄と読んでいる人もいるくらいです。
既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。

>地産地消をせずに都市や街道に物産を輸送することで利益を上げられる

地方の富が都市部に移るだけですが?武士が地方で消費活動をすれば地方は潤いますが、
都市部で消費しても地方はうまみがないです。
また輸送コストというのは時間的なロスだけでなく、物質的にもロスします。
難破率が高く商品を安定的に供給できません。小さい船のほうが積載量も小さいので、
その分船も人員が多くかかるのにです。

>どちらも支配階級である武士の側に有利な事柄ではなく、底辺の庶民や農民にとって

武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。
公務員が高コストの仕事をすることで、確かに潤っている人達もいるでしょう。
けどそれって最終的に税金でまかなっている事を忘れている人が多すぎですね。

苦しい藩では税率だけでなく、税の対象まで広げ、検地も頻繁に行い。民から富を収奪しました。
けど諸藩も好きで苦しめているわけじゃありません、全て幕藩体制という精度が悪いのです。

229 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 22:00:31.50 ID:C+U7oCKV0
>227
>戦争をしない代わりに、戦争よりも飢餓で殺していたら同じ事でしょう。

戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が
確実に多いという根拠はどこにあるのでしょう。

戦乱の最中にでも飢饉というのは起こりうるものだと思いますが。
寒冷化に由来するものならばなおのこと。
寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が
混乱が少なくて済む分だけ死者は少なくて済みそうなものですが。


>戦国時代以前や明治以降は、米が足らないなら他所から奪う、生産力を増加する、
>様々な方法で量を増やすようにします。

戦国期を通じて日本の人口は一千万人台の半ばくらいです。
江戸期に入って三千万くらいに倍増して、そのあとはこの数値で頭打ちになり
微増や微減を繰り返しながら幕末になります。

江戸期にも新田の開発や特産品の奨励など、生産力を増加するという作業は行われており、
その上での限界が三千万くらいというラインだったんです。


>他所から奪うのも行わない、他所から奪う為に力をつける事もしない。

これはむしろ賞賛されるべきことだと思うのですが。
他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと
判断したわけでしょう。
とりわけ日本は島国で、他所から奪って持ってくることに関するコストは
バカ高かったわけですから。
地産地消でいいじゃないですか。


>軍は官僚機構にはや代わりと。

これも賞賛されるべきことでしょう。
治安が安定していて、外敵が攻めてこない状態だったら軍なんて無用の長物。
それを上手く国内向けの官僚組織へと脱皮させたのは英断だと思います。

230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 22:13:06.91 ID:C+U7oCKV0
>227
>数十万から一説には100万にも達する規模といわれてますね。

記録に残っているそれ以前の飢饉の時の総人口を考えてみて下さい。
鎌倉以前であれば1000万人を切るくらいです。

飢饉が起こったにしても母集団が少ないがために数が少なくて済んだのであって、
総人口に比したパーセンテージで見れば江戸時代と良い勝負だと思います。

もともとから抱えていた人口が養いうる限界に近かったがために
天候不順が一度起これば飢饉の被害が大きなものになってしまうのであって、
抱えていた人口が少なかった時代と直接に比較するのは公平ではないです。


>どうやって江戸滞在費や参勤交代費用を捻出するのですか?

年貢の中からですよ。当然でしょう。
江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような
ことは許されておりませんでした。

江戸時代初期には、大名の経済状態は年貢収入だけでも結構裕福な状態で、
それだからこそ参勤交代のコストも払い得ていたのですが、貨幣経済が発達し
参勤交代や江戸在府にかかるコストが上昇して行くにつれてその余裕は失われ、
かつ年貢収入の増加もそれほどではなかったがために徐々に経済状態は悪化し、
出入りの商人に頭を下げて金を借りたり、大名行列の人数を外注したりするような
ハメに陥りました。

>ちなみに参勤交代とか無駄ですよね?これなんの得にもなってない。

経済というのは膨大な浪費が元になって貨幣が潤滑に流通することによって活性化します。

各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を
養って他国に攻め込もうなどと考えはじめるとろくなことにはなりません。

参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に
流すための回路として機能していたという側面があり、全くの無駄とは言い切れません。

231 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 22:31:47.46 ID:C+U7oCKV0
>228
>富など移りはしませんでした、ただ皆が貧しくなったのが江戸時代なのですよ。
>貴方の指摘した構造のとおりにみなが貧しくなっていったのです。

私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、
これらのいわゆる「幕末の志士」とやらが澎湃として日本中からわき出てくる
その母体は何だったのだろうかというのが興味の対象でした。

それまで教科書で習っていた「百姓は生かさず殺さず」という幕府の政策が
行われていたのであれば、あのように大量の人間があっちこっとに移動したり
農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。

そしてあれこれと調べていくうちに、当時の農民は「食うや食わず」などという
過酷な状況に置かれていた訳ではなく、それなりに円満で穏やかな生活を
営みうる程度にはちゃんと食えていたし、そうした余裕を生み出しうるだけの
しっかりした基盤を持っていたことが分かってきました。

全員が貧しくなったというのは認識の仕方が間違っていると申し上げます。
より正確には、「支配階級側の富が民間に移った」というのが実情であり、
その中で豪農や豪商といった富裕層は存在したにしても、総体的には
富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。


>丁稚奉公などでこき使われて、大半は子供も残せず死にます。

丁稚奉公で順調に出世してのれん分けをされたり番頭として商家の差配を
するまでになれるのはごく少数です。
ではそうなれなかった人々はどうしたかというと、奉公の年季が明ければ
実家に帰って農業に戻ったり、武家の雇いモノになったり、日雇いの労働などで
それなりに食っていける道を探せたのです。

丁稚奉公というのを過酷な奴隷労働か何かとお考えなのかもしれませんが、
わりと緩い勤務形態でしたし、それがイヤであればドロップアウトすることも
可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。


>疫病なども大流行ですし、衛生観念などろくにない時代ですから、ばたばたと死にます。

これは中世ヨーロッパなどでも同じ事です。
産業革命以前のヨーロッパは酷いモノだったんですよ。


>既得権益をもった一握りの特権階級は豊かだったでしょうが、そんなのごく一部ですよ。

いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか?
そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。


>武士は重税という形でそれを回収します。よって庶民も苦しくなります。

この認識がそもそもの間違いです。
何度も言いますが、簡単に重税を課して農民を搾取することが可能なのであれば、
もっと手軽に出入りの商人たちに重税を課しますよ。

江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には
認められませんでした。
だからこそ武士階級は貧乏になっていったのです。
重税を課すことが出来ていたのであれば、武士は貧乏にはなっていません。

232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 22:41:07.18 ID:2VlnCEMz0
>>225
>その当時の日本で養いうる人口の上限がそのあたりだったということでしょう。

間違いですね。
農業や農法は劇的には進化しませんよ。少なくともいきなり倍にはなりません。
つまり江戸時代は幕府の失政で減っていただけです。
実際東北や北関東は減っています。つまり上限値はもっと上だったのです。

>明治になって人口が極端に増えていったのは、医療の発達と戦端的な技術の導入が

違います食料の生産量が増えたからです。
そして幕府に殺される民衆がいなくなったからです。

>植民地化政策を免れ得たのは徳川幕府の統治が盤石であったことに

新政府のおかげであって、幕府が統治していたら植民地化ですよ。
幕府では近代化できないか、近代化の金を借金でまかなうのが計画ですから。
鉄道なども敷設権を与えています。自分で作るわけじゃないんですよ。

>そういう環境を形作り、調えてきた幕府の施策に対して、私は評価すべき事柄は

その上の文章を読み限り、薩英戦争やら戊辰戦争なので幕府関係ないと思われますが。

>豊臣秀吉が行った朝鮮出兵に象徴されるように、対外的な武力行使は失敗したときに

国内的にマイナスがあったとは思えませんが?
そして江戸時代は経済的にも貧しくなった時代ですよ。戦国時代は世界有数の鉱山をもち。
人口も当時の欧州とは比べ物になりません、中国の人口も6000万から一億くらいで、
日本は1500万から2000万くらいです。江戸時代は3000万で頭打ちですが、
中国は数億人にまで増えました。中国と比べても駄目なレベルなんですよ。
戦国時代の日本は世界を震撼させる大国だったというのに。

>これは当時のヨーロッパのどの国よりも大きな人口ですし、同時期のヨーロッパで

欧州にはそもそもあまり人口いませんから、そして江戸時代の都市化は諸藩の苦しみの上に成り立っているのですよ。
江戸は政治的な都市です。自然発生したわけじゃないのです。
諸藩の江戸滞在を強制させる事で生み出されたものなのです。

233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:03:14.42 ID:2VlnCEMz0
>>229
>戦争で死んでいた人数よりも、幕府統治下の平安のもとで飢饉で死んだ人数の方が

数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。
戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。
ですが江戸時代は増えません。なんでしょうね。

>寒冷化で生じた飢饉の最中に戦乱が起こるよりも、安定した社会での飢饉の方が

食料の量によりますから変わりませんよ、そして江戸時代の場合、
購買力のある江戸の富裕層や江戸に滞在するものたちに、米が買われます。
諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。
餓死というのは食料が足りなくなるのと同時に、購買力のないほうからある方へと移って起こるものです。
だから江戸時代の飢饉は構造的な問題だと言っているのです。日本史のほかの時代にはありえない事です。
だって参勤交代みたいなクソな制度は存在しませんから。

>他所から奪うことを作業に伴う非生産的な労力を払うのはトータルで損だと

当時の武士の大半は仕事なんてしてません。行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。
実際明治政府は武士の大半の首をきっても、行政機構を回しています。
役所でお茶飲んでいる無駄な公務員みたいなもんですよ。

234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:16:58.12 ID:2VlnCEMz0
>>230
一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。
それも100年以上にわたってね。
そして江戸時代の餓死とそれ以前の餓死の違いが分かってない。
なんで頭打ちになったのかをね。
諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
けどこれが上手くいかないと食べ物が買えないという代物。もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、
米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。
米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。
全て幕藩体制が生み出した人災です。

>江戸時代には大名や旗本が勝手不如意だからといって気軽に税負担を重くするような

嘘です。藩によって税率はばらばらです。さらに租税の対象もばらばらです。
藩によっては畑や庭になっている柿木ですら税の対象にした藩もあります。
勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。

>各地に割拠する領主が年貢を年々貯め込んで民間に廻すことをせず、あまつさえ軍事力を

他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。
そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。

>参勤交代はそうした地方の領主の力を適度にそぎ、民衆から吸い上げた年貢を再度民間に

支出の半分以上が適度?そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
地方の富を搾取しているだけではないか。
東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、
江戸では白米が普通に食べられていた。今の北朝鮮と同じだよ。
一部の特権階級とそのおこぼれに預かる人間だけ豊か。地方の農村は死屍累々。

235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:29:46.43 ID:C+U7oCKV0
>233
>数十万単位の人が死ぬ合戦などありません。

戦乱というのは、戦闘で死ぬ人間の数だけでなく、その背後に膨大な量の
不安定な地域を生むことで国土を荒廃させるのです。

戦闘で勝った側が、負けた側の土地に住んでいた住人達から食糧を奪ったり
住人を過酷な労働に使役することによっても死亡する人間は出ます。

戦闘で死ぬのは武士達ですが、戦闘によって田畑が荒らされて食っていけなく
なるのは主として農民ですよ。

>戦国時代にも飢饉はありましたが、人口は順調に増えていました。

「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?
江戸時代は戦国期の倍以上の人口を養っていますよ。


>諸藩は借金をして参勤交代を行っているので、国内で餓死者がどんなにでても、
>売らないわけにはいけません。なので領民から食料を奪って、江戸で売るわけです。

飢饉の時に借金の返済を滞らせたり、参勤交代の免除を幕府に申し出るくらいのことは
どこの藩でもやっています。

所領の中で餓死者が出ているときに、呑気に参勤交代をしたり米を売ったりしているような
領主ばかりだったら江戸時代には人口がもっと減っていますよ。
そういうバカな統治をしている藩は容赦なく石高の低い国にお国替えをさせられたりしています。

無能な領主が悪政の限りを尽くしているようなイメージを持たれるのは勝手ですが、
そういうイメージは実際の姿を反映しておりません。


>当時の武士の大半は仕事なんてしてません。
>行政機構の維持にあれだけの武士がいるわけないでしょ。

その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり
庭に作物を植えて食糧を確保するなどの涙ぐましい努力をしていました。

高等遊民のように優雅な生活を送っている武士もおりましたが、そんなのは
それこそごく少数。
ほとんどの武士は、生活が苦しい中で、武士としての矜恃や教養を身につけようと
悪戦苦闘していました。

幕末に劇的な体制の変換を成し遂げたのはこうした下級士族層です。
彼等のような存在を養い得ていたというだけでも、幕藩体制というのは
相応に意味のあるモノだったと考えています。

236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:50:29.19 ID:2VlnCEMz0
>>231
>私は新撰組モノなどの小説から歴史の分野に興味を持った人間なのですが、

だから無知なのですね。新撰組(笑)なんてただのちんぴらごろつきですし。
池田屋事件はただの捏造。拷問で「自白」させただけの架空の計画。その後も京都を火の海にしたりと最低の連中ですよ。
京都の町民から勝手に徴発はする。小説家や江戸時代はよかったとか、
見てもいないのに空想で書く江戸マンセー作家に貴方は汚染されてますね。

>あのように大量の人間があっちこっとに移動したり農作業もせずに食えていけるというのはおかしいと考えたからです。

農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?

>富の再分配が着実に行われていた社会であったと考えます。

どこで再分配されたというんですかw、
そもそも富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw

>いったいどこのマルクス歴史学を習ってきたのですか? そういう前世紀の歴史理論は近年では退けられています。

おいおいおいおいw江戸時代は完全な階級身分社会ですよ。商人でも扱う商品が決まっており。
株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。
これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。
競争などもありません。新規参入もありません。
これを既得権益といわず何を言うんですかw
こんなの商人だけに留まりません。農民でも莫大な農地を持つ豪農も似たようなものですし。
職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。彼らが物を作るからどうしても高くなる。
カルテルを結んだ存在が市場にとって害悪でしかないのは分かるでしょうに。
江戸の高物価とはこういう幕府のゆがんだ政治により行われ、それによって諸藩が苦しめられたのです。

>それがイヤであればドロップアウトすることも可能なくらいに柔構造の体制だったんですよ。

だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。
江戸の町民の大半はそういう状況下で、退廃的かつ享楽的で刹那的な生き方をしてました。
別にそれが悪いとはいいませんが、とても不安定な立場だったって事ですよ。

>江戸時代にはそれまで取っていなかった税金を取るという行為は簡単には

これが間違いです。新たに税を課すのは諸藩の自由裁量です。
藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
収入とみなされて重税が課されました。

237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/18(日) 23:57:58.67 ID:C+U7oCKV0
>234
>一説では100万近く餓死者がでたのが数十年おきですよ。こんな時代他にないですよ。

だから、総人口の推移のことを考えなさいってば。
鎌倉以前の人口が数百万くらいしかいなかった時代と、三千万の人口を擁する江戸期とを
同じ基準で比べようってのがそもそもの間違いです。


>諸藩は金銭的に苦しい。だから金を作る為に商品作物を奨励した。
>もしくは飢饉がおきて食料が減ったら、 米価が上がって米が買えなくなってやっぱり餓死。

飢饉が起きて米が不作だったときに、換金作物がちゃんと収穫できれば
そのお金で他所から米を買うことも出来るでしょ。

リスクを分散する手法としても、山がちな国で水田のための広い面積を
確保できない地域にも生計の手段を図るための手法としても有益です。


>米が高かったときに東北の不毛のところでまで米作をしたことで、寒冷化で頻発する飢饉。

で、その東北では江戸期以前にどれだけの人口を養っていて、
飢饉はどのくらいの規模・頻度で起こっていたんですか?

どうもあまりしっかりした記録が残っていないように思うのですが。


>勝手に気軽に税を重くするのが当たり前だったんですよ。

特異な例を出して全体を推し量ろうという乱暴な手法です。
それこそ「おにぎり食べたい」といって餓死した老人のニュースをもって
「日本は餓死者が続出している」というミスリードをするのに似ています。


>他国から奪うで何が悪いんですが、西洋はそれで発展しました、日本も戦国時代それで発展を遂げました。

それでオッケーなのであれば徳川時代を通じて戦乱が絶えず、人口も増えないままだったの
ではないでしょうかね。
戦国期に増えた人口なんて、それこそ「微増」と言って良いレベルですよ。


>そもそも戦争とは巨大な消費であり、経済活動でしょ。
>参勤交代はよいが戦争は駄目というのは理解できませんな。

合意の元に行われる経済行動と、強盗とを一緒に並べるようなモノですね。
「活発な経済とは金を回すことだ」とはいいましたが、泥棒をしてその金を使って
消費するのが善であるなどと申し上げた覚えはありませんよ。


>そして地方の民衆から吸い上げたものを。江戸や街道筋の民衆が吸うのが妥当だと?
>地方の富を搾取しているだけではないか。

おや、あなたは戦争によって他者から食糧を奪うのを奨励していたのではなかったのですか?
合法的な搾取はダメで、暴力的な収奪はオーケーというのはよく分からない基準ですね。


>東北で大飢饉で藩によっては人口が半減したところもあるのに、江戸では白米が普通に食べられていた。

で、そういった地域の藩が自国民を飢えさせて米を換金していたというのはどこから出た話ですか?
飢饉の時にはもっぱら他領から米を買って自国の領民に食わせていたという記録の方が多いのですが。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 00:32:26.39 ID:r/0+aDma0
>236
>農業では食えなくなったので流民になっただけなんですが?

実家から仕送りをもらっていたり、国元を出るときにけっこうな額の金を
貰ってきていたりもしていますよ。
そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?

そういう「志士」を送り出すだけの基礎体力を農村が持っていたということです。

>富の再分配された社会がいいとかいうのはマルクス主義に汚染されますよw

あなたはどこにスタンスを置いているのか分からない人ですね。
さんざん一部特権層とやらを攻撃しているのに、「富の再分配とかw」という発言が
どうあなたの中で繋がっているのかをお教え願いたいものです。

>株をもった人間だけで独占されて運営されていました。結果的にこれが江戸の高物価を生み出しました。

株というのは売買されもしましたし、貧乏人が金を貯めて株を買って成り上がっていった
という話も枚挙にいとまがありませんよ。
そもそも士族である「御徒」の株でさえ買うことが可能だったんですから。

勝海舟の祖父はそうやって武士になりましたし、日田の代官の手代の息子だった
川路聖謨は武家の養子になって幕臣となり、刻苦勤勉を重ねて出世していき
勘定奉行にまで上り詰めました。

あなたのいうように、「ガチガチの身分社会で身分の上昇などは不可能」という
江戸期の社会の理解は間違っているとしか言えません。

>これは世襲で身分と職を受け継ぐ商人に代々継承されていきます。

それから、商家においては世襲といいつつも息子が後を継ぐということは
結構少なく、丁稚奉公を勤め上げてその人格を認められた番頭や手代が
入り婿という形で迎え入れられる例がかなりあります。

有能な人間に後を継がせなければ家が傾くという「生活の知恵」が働いていたのか、
商家の若旦那がそのまま家を継ぐというような太平楽な世襲制度ではありませんよ。

>職人もほぼ世襲の特権階級ですから、競争もクソもない。

特殊技能を持つ宮大工とかならともかく、その辺の植木屋とか鋳掛け屋なんかは
かってに仕事をしていましたよ。
仕事の内容に満足して金を払う人間がいれば仕事を続けられるし、技量がまずくて
仕事が途切れればまた別の仕事を探すってだけで、世襲制度でガチガチの社会だなんてのは
それこそ前世紀の歴史学の認識です。

落語で裏長屋に住んでる「八っつぁん、クマさん」みたいな連中が相応にいたんですよ。
大工でも左官でも、とりあえず五体満足ならば食っていく事が出来るだけの仕事に
ありつくことができて、長屋に住んでりゃ家賃もそれほど高くはなかったから
けっこう呑気に暮らしていました。

239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 00:33:09.91 ID:r/0+aDma0
>236
>だからそれ現代でいえば派遣でしょ。特権階級の商人や武士の下働きで終わる人生ですよ。
>自分一つ食わすのがやっとで、子供なんてとてもとても。

その理屈で行くと、江戸の町民には子供がぜんぜんいなくって、成人になって
流民として農村から出てきた人間だけが食うや食わずで生活していて、
子供を産まずに死んでいき、そのあとをまた流民が埋めてというサイクルですよね。

常識的に考えておかしいとは思いませんか?
町民の子供が学んでいた寺子屋はいったいどうやって成立していたんですか?

>藩によっては検地が頻繁に行われ、それまで課税対象ではなかったものまで、
>収入とみなされて重税が課されました。

そういう政治を行っていた藩が領民からどんなしっぺ返しを喰らっていたのかが

『百姓たちの江戸時代』 渡辺尚志
『逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦』宮崎克則

といった本の中では書かれているのですが。
ちゃんとお読みになってます

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 01:11:04.26 ID:ECxFC0X40
おい、誰かに襲われたのか?

241 :194:2011/09/19(月) 01:38:18.64 ID:gTIgKGo80
私も含めて論争してるのは3人?コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。

>>220
>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。

>軍事組織として統一が取れているわけでもなく、てんでんばらばらな指揮系統ですから、
それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。新政府が戊辰戦争
の際に諸藩を組み入れた時は指揮系統を統一し諸藩の軍備にも容喙しています。

>勝っていれば良かった、というのは結果論の話で、そういう一か八かの選択に出てしまった
>こと自体が政治的な失敗です。
当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
状態で開戦したわけですよ。それが、軍事改革の不徹底による人事的硬直と慶喜の不決断に
よって敗北してしまったわけですが。

結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。
最も17世紀に於いては欧州もそこまで強く、幕府も戦国時代の遺産がありますから
ここまで脆弱では無かったのですけれども。


242 :194:2011/09/19(月) 01:52:45.63 ID:gTIgKGo80
>>222
>それは戦争に勝って自国が壊滅的な被害を被ることを免れた側にのみ言えること
むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。例えば幕末でも下関戦争に負けた
時の長州の軍制改革、長州征討に負けた時の幕府の慶応改革、ナポレオンに負けた際の
プロイセンのシャルンホルストらによる改革。18世紀でもマリア・テレジアの改革はオーストリア
敬称戦争に負けた雪辱を晴らすために始められました。

>「あの戦争」をやって良かったと考える人がほとんどいないという事例もありますし。
限定戦争と国家総力戦は違いますからね。

>「200年間の平和な時代は、全くの無為な時間だった」という意見対して、私は首肯できません。
私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。
ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。

>「戦乱の時代に文化が花開いた」というのと、「文化が花開くには戦乱が必要」というのとは
>イコールではないですよね。
ええ、文化の発展に戦争か平和かはあまり関連性が無いという意味です。

>戦乱に巻き込まれていつ殺されるか分からないような国にいるよりも、殺されるような
>事態がそうそう起きない国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
>「軍配を上げる」と申し述べました。
幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・


243 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 02:19:17.75 ID:r/0+aDma0
>241
>コテをつけてくれたらわかりやすいのだけれども。

こんなに話が長くなるとは思わなかったのから、面倒だったんで
コテを付けなかったんですよね。

今から思えば付けていた方が分かりやすかったですね。


>>幕府歩兵の人数はそこまで多くはなかったと思いますが。
>長州軍は2、3千人。幕府軍は1万。だったはず。

私の記憶では幕府歩兵は五千人くらいだったかと思いましたが。
まぁ、それでも確かに長州側よりは多いですけれども。


>それが出来ていないからこそ幕府の軍事力への評価は低くなるわけで。

この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動だったが故に
諸藩の足並みが揃わなかったという側面もあるわけで。

「外国人を打ち払え」という攘夷気分自体はどの藩にも多かれ少なかれ共有されていたので、
実際に攘夷戦争を行った長州藩に対して、「困った問題を起こしてくれた」と頭を抱えつつ
内心では「よくやった、あっぱれ」と感じている士民は相当にいましたから。

また、一度は謝罪恭順した(第一次長州征伐)長州に対して、あまりハッキリとした
理由もなく再度の軍事侵攻を決定した幕府の方針に対しては、諸藩は不信感を持っていた
という状況ですから、政治的にはかなりまずい選択でしょう。


>当事者の認識では逆に薩長側が一か八かで、慶喜側は兵力的にも政治的にも有利な
>状態で開戦したわけですよ。

ならばなおのこと、そんな一か八かの勝負を仕掛けてきている相手の誘いに
乗る必要はまったくないですよね。

兵力的には優位でも、一つ間違えて躓いてしまえば全てを失ってしまう賭なんですから。
相手の一か八かの誘いに乗るということが、そもそも政治的には愚策です。


>結局幕府は寛政年間以来、効果的な軍事改革に失敗し続け討幕に至るわけですから、
>幕府に対する評価としては軍事的に脆弱というこになると思います。

欧米列強に比して脆弱だったという意見には同意致しますけれども、
私はそうした幕府の軍事的な弱体化は、幕府によって国内にもたらされた平和と安寧の
恩恵との価値を、天秤で量ってみるべきモノだと思います。

私は二百年に及ぶ戦乱のない時代の現出の方の価値を重くみます。

244 :194:2011/09/19(月) 02:24:23.72 ID:gTIgKGo80
>>222
>また、軍事技術を身につけた彼等がアジア・アフリカ・南米で行った数々の非道を
>考えるにつけ、欧州での「進歩」というのが無条件に賛美されるべきものなのかどうか
>という視点も必要とされるものなのでないでしょうか。
欧州が非欧州に対して軍事的経済的に優位であったからこそ、それらに対して
自らの意思を強要できたわけで、その押し付けられた意思の倫理性とは別に
その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。
自国の意志を貫徹するのにはその能力が必要ですから。

>>199
>貿易の窓口を小さくすることと、行政コストをあまりかけない「小さな政府」というのは
>別段両立し得ないことでもないと思いますが。
小さな政府とは自由貿易が前提ですので。

レスが前後して失礼。





245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 02:43:59.94 ID:r/0+aDma0
>242
>むしろ負けた側が合理化を進める場合が多い印象です。

あくまで印象の話、なのではないでしょうか?

実際には負けたあげくに合理化を進めるだけの余力を奪われて、国家としては
成り立たなくなったという事例も、欧州史にはけっこうあるように思います。

インドや清のように植民地状態に陥っても、「そこから這い上がればよい」と
考えて、「負けて良かった」と考えるのでしょうか?

私はあまり同意できません。


>例えば幕末でも下関戦争に負けた時の長州の軍制改革

あのときはその負けた長州の尻ぬぐいを幕府が肩代わりさせられました。

ケツを持ってくれる人間がいたからこその話であって、もしも各国が長州に
賠償金の支払いをあくまで求めていたら、いったいどうなっていたでしょうね。


>私は別に江戸時代を全否定したいわけでなく、前半はむしろ大発展時代と評価していますよ。

その点では同意をしていただけるようですね。
私が幕府の治世を評価するのも、この前半期に確立された制度なりシステムなりの
優秀さに対しての評価が大きいです。


>ただ欧州が本格的に発展しだした18世紀に鎖国をしていた故に乗り遅れたのはもったいないなあと。

産業革命という機械文明の発達は、その威力なり効力なりを実際に目の当たりにしない限りは
なかなか納得できないモノだと思いますし、遠く離れた地域にいて欧州の発展ぶりの情報が
なかなか入ってこない状態だったのは、ある意味やむを得ないかと。

入ってくる情報にしても、三十年戦争だとか宗教戦争だとか植民地獲得戦争だとかの
物騒な話題ばかりですから、あまり積極的に付き合いたいとも思わなかったでしょうし。


>幸せかどうかは主観的な問題で、例えば現代に於いても日本より経済的に劣っている国の方が
>幸福度が高いというアンケートもあるのでちょっと・・・

日本では当たり前の「水道をひねれば安全に飲める水が無尽蔵に出てくる」「警官に賄賂を
渡さなくともちゃんと働いてくれる」「電気もガスも安定して供給されていて、停電などは
よっぽどのイレギュラーでなければそうそう起こらない」といったことが成立しない国だって
かなりありますけど、それらの国では「それが当たり前」だから自然に受け入れているだけです。

日本の状況を体感して、その上で自国に戻ったら同じ意見が出るかどうかは分からないのでは?

やはり多少なりとも客観的な基準でもって、「むやみやたらと殺されたり、強盗被害にあったり
しない」とか、「餓死スレスレの状態にいる国民の数が全国民のうち何パーセントか」とかの
具体的な指標が必要じゃないかと思いますよ。

246 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 02:57:56.35 ID:r/0+aDma0
>244
>その優位な能力に対しては評価するべきだと思ってます。

西欧文明が優れていること自体は私も承知していますし、人道上の判断に
振り回されて、その優位性を否定するという考えは持っていません。

けれども、最低限の武備を保って外敵の避けつつ、国内的には武装の解除を
進めることで安定した社会を築こうという幕府が選択した政策に対しては
相応に評価するべきだと思っています。

また、幕府の対外的な軍事の脆弱化にしても、十八世紀以降の産業革命や宗教革命等の
劇的な技術進歩・社会変革が幕府には予想し得なかったという要素も加味すべきですし
それらの変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。


>小さな政府とは自由貿易が前提ですので。

・小さな政府
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E6%94%BF%E5%BA%9C

「民間で過不足なく供給可能な財・サービスにおいて政府の関与を無くすことで、
政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようとする思想または政策である。」

私はこのように理解しておりました。
必ずしも貿易に関する取り決めなどは前提とはならないと考えています。

247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 07:36:44.69 ID:g+etQ/Cn0
>>245
>もしも各国が長州に賠償金の支払いをあくまで求めていたら

彦島が99年間租借され香港化して関門海峡の通行税がとられるだけ。
幕府は存続するが英国の傀儡としてインドと共に英露戦争の前線となっていただけじゃね?

248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 16:45:04.21 ID:+zzl1iAe0
>>231
江戸時代の商人がほぼ野放しだったのは、会計技術の未発達により
資産経済どころか実体経済の把握すら困難だったからで、搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。
できたのはせいぜい、適当な豪商に難癖付けて財産没収するぐらい。
それに、商人を下手に叩きすぎると年貢を売って金を得るという幕府・諸藩財政の根幹が立ち行かなくなるし、
同時に商人が握る流通が滞れば、幕臣や江戸町民の生活もオワタ式になるから。

物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
ただしこれは不景気を招いて庶民の不満を増加させる諸刃の剣。素人じゃなくてもお勧めできない。
江戸期の三大改革の基幹が悉く復古主義であるように、米を投機の対象とするまでに発達した経済に対して、
最後まで農本主義から脱却できなかった幕府の敗北と言ってもいいと思う。
米将軍とも言われる吉宗はそれに気付いて、なんとかして米価格を安定させようと奮闘したが無為に終わった。
幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない?
これだけでは不十分だったが、換金作物の奨励・専売化も、この経済構造の変化に対応しようとした
幕府や諸藩の必死の努力の跡。
専売制が反対一揆や抗議で頓挫した例も枚挙に暇が無いが。
ここからもう一歩進んだのが長州藩で、専売制撤廃による生産及び藩内流通自由化の代わりに
運上銀による生産高に対する課税と、藩外輸出の管理と課税で利益を上げるシステムを作った。
また、膨大な利益を上げた越荷方は上記の米・商品の投機化を逆に利用したもの。

>>247
300万ドルっつーと、180〜200万両ぐらいなんだっけ?
この額で合ってれば、分割なら払えたと思われ。
あと彦島割譲話も本当にあったかどうか?だったような。

249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 20:01:32.66 ID:HkW20lYO0
長州の攘夷戦はいくつか狙いあったが、幕府や諸藩が足引っ張ったから講和に切り替えたんで。
長州が外国と戦ってる最中に長州征伐なんてやるから。
日露戦争の最中に国内で戦争するようなもの。
これが封建制の限界なんで。

尊王攘夷運動は、尊皇攘夷が確立してないから運動してる。
日本は列強の様に国内一致の統一国家、国民国家でないのに、列強と同じと勘違いし通商すれば諸外国の例に従い植民地になると攘夷派は見てる。
長州や尊攘派だけが、統一国家樹立の意識で動いてるから、他から見れば暴走してる様に見える。
四境戦争、鳥羽伏見、戊辰戦争も長州の攘夷戦と同じで、戦ったのは一部だけで他は傍観。

300諸侯の内、幕末の時勢を担当した雄藩は極一部しかなく、加賀百万石なんて存在感無い。
佐賀藩も近代化はしてたが、幕末の時勢にほとんど出てこない。
封建体制は各藩が独自の思惑で動く為、一致した行動で外に当れない。
各藩が独自の政治と軍隊を持ち、身分制で別れ、利害バラバラで皆自藩の利害を優先する。
統一国家樹立の為に倒幕に行くのは当然の事。

清国も国内一致不可能で、攘夷を確立できず植民地化された。
政治は賄賂で腐敗してたし足の引っ張り合いが起きる、清の正規軍は戦う士気も無い。
清自体も異民王朝でナショナリズム運動が反清になる可能性もある。
太平天国の乱はむしろ弾圧してる。
本来純軍事的に清を植民地にするなら、100万の兵が必要。
そこを列強は外交を活用し相手が攘夷一致できない体制を見透かし、なだめたり恫喝したり軍事力駆使し有利な条約を結ばせ植民地にした。
他の国々に対しても同じ。
中南米なんかも初め友好的に通商しましょうと未開な原住民に近寄り、相手が大した事ない場合は軍事行動を起こす。
相手が手に余ると見れば、引いて外交を駆使しじわじわと行く。

250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 20:48:05.14 ID:r/0+aDma0
>248
>搾取しなかったっつーより出来なかっただけだぞ。

んなこたーない。
商品経済の流れに関してはかなりの程度まで外部からも把握可能だったし、
やろうと思えば経済活動に税をかけることだって可能だ。

株仲間というのは幕府が認めた組織なのだから、そこに課税する方法だって検討されてた。

幕府がそうした課税を行わなかったのは、幕府の経済体制が「農民からの年貢」というのを
基礎に置いていて、商人からの税の取り立てという仕組みを持っていなかったこと。
また、全ての商品は作物なり材木なりが収穫された時点で税を取っているから、流通過程の
段階で税を取ることには「二重課税」という批判を受けることへのためらいがあったから。

また、幕府の政治は「諸藩のお手本」として天下にその威厳を示すという建前があったので、
新しい徴税手段をあれこれと考えることは「みっともない」という気分が幕府官僚の中に根強かった
こともある。

>物価の安定は江戸中期以降常に幕府の至上命題だったが、結局は庶民まで含めた倹約令によって
>経済全体を停滞させるぐらいしか対策がなかった。
>幕府でこの問題にある程度対応できたのは、重商主義に移行しようとした田沼意次ぐらいじゃない

江戸の三大改革と呼ばれる倹約主体の改革は、実際のところはほとんど効果がなかった。
では、それで江戸幕府が立ちゆかなくなったかというとそうではない。

実際には、田沼意次の時代や水野忠成時代のように経済がうまく回転して好景気に沸いた時代があり、
これらの時代に積み上がった富によって幕府は多大な利益を得ていた。

その利益の源泉は貨幣の改鋳益や、南鐐二朱銀や天保一分銀のような「銀貨で代用した金貨」といった
カラクリで生み出していた純粋な利益金。

この辺のことは佐藤雅美の『将軍たちの金庫番』に詳しい。
要約を載せた書評があるんで、とりあえずURLを貼っとく。
http://lounge.cafe.coocan.jp/novels/isbn4101360510.php

「十一代将軍家斉の時の老中が水野忠成である。
金を何とかしろと言われて、手をつけたのが貨幣の改鋳であった。改鋳には二通りある。
品位を落とすものと、「官府の印理論」を応用したものである。水野はこの両方を行った。
結果として、貨幣の改鋳を行った年から四十年間で千七百九十六万九千五百両余、
年で平均四十四万九千二百両の益金を得たという。
重要なのは、「官府の印理論」を応用した改鋳は世人に貨幣改鋳と悟られなかった。
幕末の俊才・川路聖謨ですらそのことを知らなかった。
幕府の唯一の成功した改革・享保の改革など足元にも及ばない成果を上げたのだ。」

「官府の印理論」というのが何かというと、同じ重さでくらべれば1対15くらいの価値の違いがある
金貨と銀貨とを、幕府の刻印を打つことによって1対5くらいの価値で銀貨を流通させるというモノ。
つまり、本来であれば一分銀4枚の重さでは1/3両程度の価値しか無いのにもかかわらず、
幕府がその銀貨に「一分銀」という刻印を打つことによって1両分の価値をそこに持たせるという手法。

今の一万円札は紙幣の原価としては十数円程度のモノだけれども、そこに「日本国政府」の権威を
持たせることで一万円として流通させうる、という考え方に近い。

251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 21:01:49.23 ID:ZmJ0mnCE0
>>237
>鎌倉以前の人口が数百万くらいしかいなかった時代と、三千万の人口を擁する江戸期とを

それは事実を矮小化しているだけですね。今一億二千万人いますから、100万人餓死しても江戸時代の四分の一の被害とでも?
それにここまで大規模な飢饉が頻繁に飢饉が起きたのを否定する事にはなっていません。

>飢饉が起きて米が不作だったときに、換金作物がちゃんと収穫できれば

その場合米価が高騰していますので、商品作物では米が十分に買えません。
また都市部の武士や商人などの購買力のある人達にはどうしても勝てませんので、彼らは餓死します。
また物価は一握りの特権商人が独占で商いしている為、投機目的であがります。

>「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?

劇的に増えてますね、戦国初期は1200万程度といわれていますが、戦国末期1600年ごろには、1500万から1800万人まで増えていたといわれています。
一説には2000万人はいたとも言われていますね。石高などからするとそのくらいが妥当かもしれません。
子供を入れるか入れないかでも変わってきますのでなんともいえませんが、
短期間で1,5倍くらいは増えてます。江戸初期の人口増加は戦国時代の惰性といってよいでしょう。
実際江戸初期しか人口は増えてません。

>戦闘で死ぬのは武士達ですが、戦闘によって田畑が荒らされて食っていけなく

江戸時代のように幕府と領主の圧政と失政で死んだ人よりははるかに少ないですね。
江戸時代の東北や北関東は村ごと人が逃げ出すなんて珍しくありませんでした。
飢饉により身売りも盛んに行われ、人身売買が横行しました、戦国時代とやっている事はかわりません。
いや被害はもっと酷い。年貢が払えなくて人を売っていたのが当時の北関東と東北です。

>そういうバカな統治をしている藩は容赦なく石高の低い国にお国替えをさせられたりしています。

津軽藩は領民の半分を餓死させましたが、お咎めなどありません。
蝦夷警護で逆に加増されているくらいです。なおお役目の出費がとても重く、
領民に重税を強いて、一揆が多発しましたが、幕府からのお咎めもありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E5%AF%A7
江戸時代はこんなんばっかりですよ。

>その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり

そりゃいらないもの。やる事のない扶養家族をどれだけ養っている事やら。
そして上級の武士は豪農や豪商と変わらずいい暮らしをしてますよ。
そういう時代なんですから。

252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 21:39:01.90 ID:HkW20lYO0
幕藩体制の問題上げても仕方ないわねw
100年以上の戦国時代を何とか治めた。
中世ヨーロッパは人口の3分の1が死んでるくらいだし。
しかも日本と違うのは土地所有権を求めて、フランス革命が起こった。
自由平等とうたった後、ナポレオンが皇帝なってるし。
日本の場合は幕藩体制があって、教養人となった武士が主導したのが明治維新。
根本的に海外の貴族と違うしね。

253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:13:05.10 ID:r/0+aDma0
>251
>今一億二千万人いますから、100万人餓死しても江戸時代の四分の一の被害とでも?

18世紀と21世紀とを同列に比べる?
アホですか。
科学技術も生活環境も何もかも違うのに比べようという発想がおかしい。


>それにここまで大規模な飢饉が頻繁に飢饉が起きたのを否定する事にはなっていません。

だから、鎌倉以前に記録に残っていないような飢饉が起こっていた可能性は?
基本的にこの頃の歴史の資料って、せいぜい北関東から越後あたりまでで、
奥羽から北の記録は残って無さそうですけど?


>その場合米価が高騰していますので、商品作物では米が十分に買えません。

借金すれば良いだけのこと。
その後の何年間かは金欠で苦しむだろうけど、死ぬよかマシだ。

>また都市部の武士や商人などの購買力のある人達にはどうしても勝てませんので、彼らは餓死します。
>また物価は一握りの特権商人が独占で商いしている為、投機目的であがります。

その弊害は、戦国時代でも構造は同じでは?

>>「増えていた」と胸を張れるほどの増加だったのでしょうか?
>劇的に増えてますね

戦国期の人口増が、300万〜500万、おおよそ40%前後。
江戸期は1600年から1700年までの百年間で3000万まで、ほぼ倍に増えてます。
パーセンテージでいえば150〜200%増。

どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?


>江戸時代のように幕府と領主の圧政と失政で死んだ人よりははるかに少ないですね。

何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?
戦乱の最中に山奥の村で数百人が餓死してたって記録にも残らないでしょ。

江戸時代に飢饉が大量に起こっているように見えるのは、人口調査が全国くまなく行われて
正確な領民数の把握が行われたことと、行政が整備されてしっかりと記録が残されるように
なったからという側面があるのではないですか?

254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:13:59.91 ID:r/0+aDma0
>251
>江戸時代の東北や北関東は村ごと人が逃げ出すなんて珍しくありませんでした。

逃げ出していった先では食えたってことでしょ。
それこそ『逃げる百姓、追う大名』のタイトル通りですね。


>飢饉により身売りも盛んに行われ、人身売買が横行しました、戦国時代とやっている事はかわりません。
>いや被害はもっと酷い。年貢が払えなくて人を売っていたのが当時の北関東と東北です。

あなたの主観ですね。
有無をいわさずに暴力的に殺されたり誘拐されるのと、飢饉や天候不順という天災を前にして
泣く泣く子供を手放すのと、どちらの方が酷いのでしょうか。


>津軽藩は領民の半分を餓死させましたが、お咎めなどありません。

いつの飢饉の話ですか?
天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら
一藩だけにお咎めを下すようなことが出来るわけ無いでしょ。


>>その大半の武士はかつかつの生活をしており、傘貼りの内職をしたり
>そりゃいらないもの。やる事のない扶養家族をどれだけ養っている事やら。

おやおや。
幕末に日本に来た西洋人達が武士に接して漏らした述懐をご存じない?

ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、
それらを身につけていない町人や商人達を「同じ民族なのか?」と感じるくらいに
評しておりますよ。

こうした武士階級の存在こそが欧米列強が日本を植民地化することにためらいを
抱かせる原因の一つとなったと思いますけれども。


>そして上級の武士は豪農や豪商と変わらずいい暮らしをしてますよ。

「上級の武士」ってのが人口総数のうち何パーセントくらい居たとお思いで?
笑ってしまうくらいにごくわずかの人数ですよ。

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 22:52:17.83 ID:ZmJ0mnCE0
>飢饉はどのくらいの規模・頻度で起こっていたんですか?

ただたんに貴方が知らないだけでは?
50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから)
だから人口が減っているわけですよ。

>特異な例を出して全体を推し量ろうという乱暴な手法です。

特異な例ではなくて普遍的な例ですが?藩の徴税権は諸藩が勝手に決めています。
幕府が税率や税の対象を決めているわけじゃなんですよ。収入が悪化したら検地や増税を行っていたのが江戸時代。
戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。

>戦国期に増えた人口なんて、それこそ「微増」と言って良いレベルですよ。

戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。
江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。

>合意の元に行われる経済行動と、強盗とを一緒に並べるようなモノですね。

自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね?

>おや、あなたは戦争によって他者から食糧を奪うのを奨励していたのではなかったのですか?

自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと?

>で、そういった地域の藩が自国民を飢えさせて米を換金していたというのはどこから出た話ですか?

藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。
収入は米しかない。年貢はとうぜん取り立てます。支払いは米で行われて領民は餓死です。
津軽をはじめとする東北の諸藩で餓死がでたのはこういう事情です。

>飢饉の時にはもっぱら他領から米を買って自国の領民に食わせていたという記録の方が多いのですが。

どこの藩の話ですかそれは?

256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 23:19:51.09 ID:ZmJ0mnCE0
>>238
>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?

実際そうですけど?街道で行き倒れ、都市にきて行き倒れ、どれも珍しくありません。
あとは身売りみたいな形で都市部に出稼ぎにいくわけです。これだけ野垂れ死ににはなりませんね。

>さんざん一部特権層とやらを攻撃しているのに、「富の再分配とかw」という発言が

特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、
とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。
そして富の再分配も特権階級の収奪にも反対派ですよ。

>貧乏人が金を貯めて株を買って成り上がっていったという話も枚挙にいとまがありませんよ。

ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。
貧乏人が買えるような価格じゃありません。それも売る相手もけっこう限られていて、
事業を独占する為に同じ一族にばら撒いたり、長年使えている番頭などですよ。

>あなたのいうように、「ガチガチの身分社会で身分の上昇などは不可能」という

そんな事を言っていません、どこに書いてありますか?
がちがちの身分社会で差別社会で、その上賄賂社会なので身分を買うことも出来るだけです。
身分を買える事と身分社会である事は矛盾しません。

>商家の若旦那がそのまま家を継ぐというような太平楽な世襲制度ではありませんよ。

間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。
そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。
どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。
だから経営などは番頭がやる事なのですよ。
婿も普通には取れないから、養子などを駆使して、法を潜り抜ける必要があります。
身分社会であった事を、それを潜り抜ける裏技があることで否定できるわけがない。

>落語で裏長屋に住んでる「八っつぁん、クマさん」みたいな連中が相応にいたんですよ。

それはその日暮らしのぷータロー。景気が悪化したら野垂れ死に。



257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 23:37:42.04 ID:ZmJ0mnCE0
>>239
>子供を産まずに死んでいき、そのあとをまた流民が埋めてというサイクルですよね。

はい実際そうですね。だからあり地獄といわれるゆえんです。
(実際三大都市は中期に人口のピークを迎えた後は減少に転じている)
江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、実際の既婚はさらに減ります。
まあ早い話が殆ど結婚できないんですよ。だから女郎屋が大繁盛。
子供ってのはたいてい子連れででてきたものや、元々番で出てきたものです。

>そういう政治を行っていた藩が領民からどんなしっぺ返しを喰らっていたのかが

一揆はあるでしょうね。けど同じ事です、

258 :194:2011/09/20(火) 00:08:16.24 ID:bpM0pkut0
>>243
>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動
既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と
旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。
地方政府より中央政府が軍事的に劣っていては評価が低くなるのは
仕方ない。

>相手の一か八かの誘いに乗るということが、そもそも政治的には愚策です。
確かにあれは慶喜の失策でしたね。幕府軍の過大評価して血気盛んな状
態を統率できなかった。

>私はそうした幕府の軍事的な弱体化は、幕府によって国内にもたらされた平和と安寧の
>恩恵との価値を、天秤で量ってみるべきモノだと思います。
欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを
投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい大開墾時代
であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。特に人口
をを見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。


259 :194:2011/09/20(火) 00:28:55.86 ID:bpM0pkut0
>>245
>インドや清のように植民地状態に陥っても、「そこから這い上がればよい」と
>考えて、「負けて良かった」と考えるのでしょうか?
日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。インドや清と違い
それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して
取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。

>あのときはその負けた長州の尻ぬぐいを幕府が肩代わりさせられました。
>ケツを持ってくれる人間がいたからこその話であって、もしも各国が長州に
>賠償金の支払いをあくまで求めていたら、いったいどうなっていたでしょうね。
賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。
そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた
ことも一因ですし。

>三十年戦争だとか宗教戦争だとか植民地獲得戦争だとかの
三十年戦争や宗教戦争は17世紀や16世紀ですよ。

>具体的な指標が必要じゃないかと思いますよ。
222で国に住む方がおそらくは幸せであろうという考えのもとに、
「軍配を上げる」と申し述べました。
と書かれていたので。


260 :194:2011/09/20(火) 00:36:24.93 ID:bpM0pkut0
>>246
>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて
であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。

>必ずしも貿易に関する取り決めなどは前提とはならないと考えています。
小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」
「小さな政府」では、市場の失敗などが起きず民間でも問題なく運営・供給可能な事業においては、極力民間
に行わせることを目指す。そのため、国営事業の民営化・私企業化(privatization)や、規制の撤廃、国有資産
の売却などを行う。
ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。



261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 00:59:03.63 ID:v2tgR6Ba0
>>253
>18世紀と21世紀とを同列に比べる?

鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw

>だから、鎌倉以前に記録に残っていないような飢饉が起こっていた可能性は?

飢饉というのは収穫量の低下以外に、購買力のあるものが、購買力のないものから取ることで起こるので、
それ以前に大規模な飢饉が発生する構造的な要因がないですね。
つか悪魔の証明を要求されてもこまりますね。
また江戸期で東北で飢饉が多発したのは、商品作物や米を作っていたからで、
当時の東北ではありえない事です。米が豊作で米価が高いと大もうけできますが、
米が不作だったり、米価が安いと大変な事になります。早い話がばくちなんですよ。
ばくちで負けると餓死者が多数。

>その後の何年間かは金欠で苦しむだろうけど、死ぬよかマシだ。

小規模な農家にそんな借金をさせてもらえる信用などありません。
だから身売りや田畑を手放す事になるんですよ。

>その弊害は、戦国時代でも構造は同じでは?

戦国時代の場合は農村がかなり強く、そんな無茶な事したら大変な事になります。
戦争してないからこそ、藩が無茶できたんですよ。

>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?

戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。
増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。

>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?

ならそれを証明してください。実は死んでいたかも知れないとか、史料にも存在しない事を言われても困りますな。
そして何度も述べたように、江戸時代の飢餓は構造的な問題であり、ほかの時代に参勤交代などで、
無駄な出費を地方に強いて、領民を餓死させるような体制はありません。

>逃げ出していった先では食えたってことでしょ。

都市部にきて疫病で死ぬか、街道で死ぬか、身売りなどで奴隷生活って所ですね。
そのままいて餓死よりはマシかな?

>泣く泣く子供を手放すのと、どちらの方が酷いのでしょうか。

同じでしょう。

>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら

飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。
周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。
で、飢饉で国替えされた藩ってどこですか?会津藩とか凄まじい数の人間を餓死させましたが、
そのままですよねえ。

>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、

非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、
無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。

262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 01:37:27.02 ID:Wn4byAEf0
>>258
揚げ足取りっぽくなるけど
征長軍が最初から士気が低かったわけではないし、装備が旧式装備ばかりだったわけではないでしょ。
装備の質も物量も幕府方のほうが長州より何倍も多い。海軍戦力に至っては長州を圧倒する軍艦の差があった。
にもかかわらず戦力差を覆されて各方面で苦戦をした結果士気が低下しただけ。
すべては小笠原ら各方面司令官の戦術の拙さにつきる。

263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 12:54:20.24 ID:Vx+ezDr70
>>262
長州のほうが新式銃がおおかったでしょ。

264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 13:14:28.32 ID:AJuLpvPIO
>>255
横レスすまん
他藩から米買って自領民に与えたのは松平定信だな、他の例は知らんが。
自領から餓死者を出さなかったものの、大量に米を買われて価格が急騰し、
米を確保出来ず餓死者を増やした他藩(特に隣の会津藩)はとんだとばっちりだ

265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 15:24:52.07 ID:rpzM6Zow0
>>263
幕府歩兵隊は1864年からエンフィールド銃を装備してる筈。
まぁ何部隊出征したのかは知らんけど。

>>250
大体の流れを把握することと、それの金額まで把握して課税する手法は全くの別物だぞ。

寡占体制を容認し、大体の流れを自主的に決めさせて、代わりに運上金や冥加金を徴収するのが株仲間制度。
この株仲間の制度が、時代によって容認されたり奨励されたりはたまた中止されたりを繰り返したのは、
寡占体制の弊害や儒教思想と商人からの税の徴収を天秤に掛けた結果だよ。
あと、生産者と流通者、販売者にそれぞれ税を課しても二重課税にならないやり方は幾らでもある。
今でもそれぞれから所得税や法人税を取ってるが、二重課税じゃないでしょ。
これは別に幕府や諸藩の怠慢でもなんでもなく、こういう手法が江戸時代には技術的に不可能だっただけ。

それと倹約令には、緊縮財政以外にも物価の安定って目的があったよ。
財政問題だけなら、庶民にも倹約を強制する必要が無いでしょ?

それに改鋳益のことは勿論知ってるがね、財政的には単なる対処療法だから。
その「官府の印理論」は計数銀貨の事を指してるんだろうが、明和南鐐二朱銀だって
すんなり市場に受け入れられた訳じゃないぞ。
明和五匁銀の失敗や、文政の改鋳での混乱の果てに受け入れられたもので、
またそれについても良い事ばかりではなく、銀目取引における銀札の横行や銀相場の高騰を引き起こしてる。
ちなみに計数銀貨が普及した後も、金銀銭相場は変動相場のままだったりする。
つまりそれらの改鋳は現代で言うインフレ政策で、江戸時代が大体においてデフレ傾向で推移してたから
財源抽出策として行われても経済的には何とかなってたものであり、無限の金策を約束するものではない。

266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 17:54:06.90 ID:Vx+ezDr70
>>265
それらを紀州藩か熊本藩というよりか、西洋式の部隊を
一つにまとめて編成すればよかったのに。

267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 19:12:29.74 ID:qJV8EKY30
江戸時代の基盤があって日本は成功した。
生活水準は当時のヨーロッパと変わらないし質は上。
ヨーロッパは18世紀に寒冷化と飢餓とペストがあり人口停滞。
日本は江戸時代に入り18世紀寒冷化。
ヨーロッパが富強になり人口が増えるのは産業革命以後。
岩倉使節団もヨーロッパ各国の文明富強を目撃をすれば、ヨーロッパが元から商利を重じ固有の物と思うが違う。
ヨーロッパが今日の富庶を見るのは、1800年以後の事でわずか40年前であると書いてる。

268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 21:16:44.86 ID:GaTRnXgK0
>>263
肥後藩だけでも上回っていないか?

269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 23:37:37.14 ID:Uy26qxDH0
一応当時の幕府海軍はアジア最強の海軍だったはずだからな。
長州征伐で戦果を挙げられなかったのが悲しい。

270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 00:20:58.82 ID:UKW5NgZK0
>>264
そういやそいつはその功績で老中になったんだったな忘れてた。
>>267
江戸時代は戦国時代の恩恵で続いていただけ、
むしろ世界有数の大国だった日本を落ちぶれさせたのは幕府。

>>263
大半はミニエー銃だったと思う。これが二万丁くらいあり、
ほぼ全ての歩兵が携帯していた。スナイドル銃やスペンサー銃もそれなりにもっている。
ただし戊辰後期の話だけどね。
四境戦争の頃はまだまだミニエーだろうね。

271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 00:23:59.56 ID:wtlU9ixc0
当時の軍艦の大砲の射程や威力、絶対数と火力はたかがしれてるでしょ。
幕府艦隊が味方地上軍を艦砲射撃で援護してもどれだけ陸戦に寄与できるか。

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 01:09:06.64 ID:co+Uh1VM0
>255
>50年に一度の大飢饉、数十年に一度の飢饉です。大飢饉は数年から長いときは10年近く続きます。(種籾もなくなるから)
>だから人口が減っているわけですよ。

私がお伺いしたのは、江戸時代ではなくそれ以前の戦国期・室町期・鎌倉期、それ以前の飢饉の頻度なのですが?

それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。
何度もいいますが、江戸期には全国的にくまなく行政が行き届いたがゆえに信用性の高い正確なデータが残っています。
それに比肩しうる正確なデータが残っていない限り、妥当な「戦国期と比べて」とか「鎌倉期と比べて」とかの
それぞれの政権が採った政策の比較評価は出来ないと申し上げているのです。

>江戸初期にしても戦国時代の恩恵で増えていただけです。

なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。
自説に都合の良いことは「戦国期のおかげ」、都合の悪いことは「幕府のせい」と
単純に盲信しているだけのように思えますが。

>自国の農民から収奪するのと、他国の農民から収奪するのとでは他国から収奪したほうがいいですよね?
>自国の民を養う為に他国から奪うのは当然でしょう。自国の民を餓死させるのがよいと?

意味不明。
北朝鮮の指導者様じゃあるまいし、そんな乱暴が許される社会状況とそうでない社会状況とを
ごっちゃにするのはそもそも認識不足です。

戦国時代に「飢えるから他所から奪う」という行為が存在したのは、「飢えた隣人から襲われる」
というリスクと隣り合わせのモノだったということをお忘れ無く。

「米がなければ泥棒すればいいじゃない」とお気楽にのたまうのはあなたの勝手ですが、
多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が
強かったからこそ幕府による安定した政治が受け入れられたのです。

「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、戦国時代はもっと長く
延々と続いていたことでしょうよ。

>藩には毎年の借金の支払いがあるんですよ。参勤交代と江戸滞在もね。
>免除になった事なんて江戸時代通じて殆どない。

無知乙。
病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。
2年に一度を3年に一度にするとか、1年在府しなければいけないところを半年だけにしてくれとか。
単にあなたが勉強不足なだけでは?

>どこの藩の話ですかそれは?

天明の大飢饉:上杉鷹山:松平定信、適当にググって下さい。
これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

>戦国時代のように農村が独自に自衛している時代じゃないんですから、お上には逆らえません。

まるで戦国時代は農村が自衛していたから守護大名からの無理難題を退けられたとでもいわんばかりですね。
手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

>戦乱でありながら人口が五割も増え、江戸中期以降完全な停滞なのに、何を言っているんですか。

1200万が1500万に、50%増というのは少々過大評価では?
25%増がいいとこでしょう。
1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。
増加率でいえば4倍ですね。

273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 01:37:28.59 ID:co+Uh1VM0
>256
>>そうでなければあっという間にのたれ死にでしょ?
>実際そうですけど?

そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという
行動を取っておりますけれども。
のたれ死にと背中合わせというのであれば、あんなにも長く(人によっては5年とか10年とか)、
長距離の移動を行い続け得るとも思いにくいのですが。

金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。


>特権階級が裕福に暮らして、庶民から収奪していた時代を富を再分配していた、すばらしい時代とか、
>とんちんかんな事いうから批判しているんですよ。

ですから、実際に富の再分配が相応に行われており、一部の大商人や豪農などが富裕な生活を
行っていても、その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を
武士が行使していて町民があちこちでバッサリ斬られてばかりいた、などという世迷い言を
あなたが言っているから批判しているんですよ。

>ありませんね、そんな話は。なら枚挙してください。

間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

貧乏人でもこつこと働いて小金を貯めたり、仕事が出来ると認められた人間であれば、
御家人の家に養子に入る(こういう戸籍上の操作を行い事を「御徒の株を買う」と言います)
ことを通じて御家人になれました。

後世に名前が残っているだけでもこれだけ居るんですから、数万と言われた江戸の御家人や
諸藩の陪臣まで含めれば相当数が居たと推測しても間違いではないでしょう。


>間違いですな。そのまま継ぐのが普通です。商家の跡取りは飲む打つ買うと遊び放題ですよ。
>そうやって人脈を作って、家を継ぐわけです。江戸時代はコネと賄賂の時代。
>どうせ独占企業がやっているので、経営もクソもありません。東電が潰れないのと一緒です。

単なるあなたの思い込みですね。
史料の提示をお願い致します。

>それはその日暮らしのぷータロー。

そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。
現代の価値観で当時の人々の処世方を批判するのは僭越というモノですよ。

274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 02:56:29.68 ID:co+Uh1VM0
>257
>江戸の男女比は7;3から、8;2さらの女の数割は女郎とかだったりするので、
>実際の既婚はさらに減ります。

それは前期から中期までの話。
徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの
割合になっていきます。


社会実情データ図録 「江戸・大阪の町人人口と性比(江戸時代)」
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7850.html

「ところが、こうした状態は江戸時代を通じて変化した。
江戸時代末期の江戸では、ほぼ性比は100、大阪でも100に近づいている。
すなわち男女のバランスはとれていったと考えられる。
江戸については、奉公人人口比率が江戸時代末にかけて大きく低下し、
奉公人が雑業者層に代替されたからである。
大阪においては商家を中心に奉公人が多かったが、女子奉公人、
都市内婚姻の増加が想定される
(斎藤修「江戸と大阪―近代日本の都市起源」、図録7855参照)。」


東京都の統計
http://www.toukei.metro.tokyo.jp/
付録 *「江戸の人口について」*
http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jugoki/2002/02qdj210003.pdf
「この記録された町人人口の推移をみると、享保年間から幕末まで、総数は大きく変動し
ていないが、女子の割合は次第に増え、幕末には男子とほぼ同数に達した。これは、江戸
へ移住した者が一家を成し、郷里から母や妻を呼びよせたり、妻帯したりする場合が多く
なったこと等が一因と考えられている。」


歴史的に見た日本の人口と家族
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/20061006090.pdf
「上記人口を見て気づくのは江戸中期における男女比の異常である。享保6年の男女比は
男100 に対し女55 であり、当時の江戸が異常な「男性過多」社会であったことがわかる。
天保14 年は89 となっており、男女比は均衡しつつあるが、いずれにせよ男性の流入民に
より人口が増大してきた江戸の性格がここに示されていると言えよう。」

275 :263:2011/09/21(水) 02:59:09.91 ID:zwp0KPhL0
>>268
アームストロング砲ももっていました。

>>269
宝の持ち腐れ。

>>270
そうでしたか?

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 03:28:40.45 ID:co+Uh1VM0
>258
>>この場合は軍事力というよりも、「長州征伐」という軍事行動
>既にライフルを装備し高い士気と優れた戦術要していた長州軍と
>旧式装備で戦術も稚拙、士気も低いと軍事力に如実に差があります。

装備していた銃器の質に関しては、前々年の禁門の変、前年の第一次長州征伐時には
長州側も装備していなかったわけで、この短期間でこれだけの軍備を調え得た
長州側の方が異常だったと言うべきでしょう。

士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。
現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。
『長州戦争―幕府瓦解への岐路』
『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』

総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも
政治的拙劣さに多く拠っているように思います。

>欧州では戦争により行政や財政の効率化がおこり、植民地貿易により富を獲得し、それを
>投資し産業革命が起こります。幕府の鎖国政策はどちらもの芽も摘んでしまい

欧州で起こった産業革命は、それこそ人類史におけるある種の奇跡と言っても過言ではないでしょう。
幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、
うかつに国を開いて技術を取り入れようとした場合には、西欧列強につけいる隙をあたえてしまい、
植民地化される恐れとても充分にあったと思います。

攘夷意識という対外的な強烈なアレルギー反応が起こったからこそ、そうした危機を回避する
エネルギーが供給されたと考えることも可能でしょう。
不平等なモノとはいえ、穏便な形で条約を取り結ぶことが出来たのも、冷静な対外認識と
危機意識とが幕府を動かしたからだと思います。

少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて
清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。

277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 03:29:14.09 ID:co+Uh1VM0
>258
>大開墾時代であった17世紀と打って変わって18世紀から19世紀の停滞を生んでしまいます。
>特に人口を見ればあきらかです。故に後半の幕府は個人的に評価が低いのです。

このような意見をネット上で見つけました。
ご一読下さい。

東京都統計協会
トピックス 「江戸の人口停滞と近代への胎動」
http://www.metrosa.org/topix/jinko-ed.htm

2 大開発の時代と人口の激増

江戸時代の前期に人口が激増した要因について、「参勤交代や明暦の大火を重視する見方」と、
「耕地面積の拡大を重視する見方」があります。
前者の見方は、参勤交代により、全国の諸大名が強制的に江戸に居住させられたため、
また、明暦の大火後に、江戸の拡大が進むと同時に、大火後の復興景気を当て込んで、
大勢の商人が江戸に進出したため、商業が活発になり江戸に人口が集中したと考えます。
なお、この江戸の拡大の過程で、いわゆるドーナツ化現象が発生したことが当時の記録に
残っています(甲斐庄正親「御役人代々記」1673〜1704年)。
後者の見方は、江戸時代前期は、大開発の時代といわれるほど、全国的に新田開発が行われ、
農産物の生産量が飛躍的に増えた結果、出生率が上昇し、農村で過剰になった人口を都市が
吸収したと考えます。いわば高度経済成長と同様にみなすのです。
これら発想の異なる考え方は、多角的な視点から観察や分析することの必要性を思い起こさせてくれます。

3 人口の停滞と少子化・晩婚化

江戸時代の後期に人口が停滞した要因についても、「飢饉の頻発を重視する見方」と、
「出生率の低下と晩婚化を重視する見方」があります。
前者の見方は、小氷河と呼ばれる気候寒冷化により凶作が頻発したり、大地震や富士山・浅間山の
噴火など相次ぐ自然災害により飢饉が頻発したため、人口が停滞したと考えます。
後者の見方は、大開発の時代が終焉して、耕地の拡大が鈍化するとともに、文明が成熟して、
出生率の低下と晩婚化が起きたと考えます。
つまり、女子は、早く結婚してたくさんの子供を生む必要がなくなって、商家や武家へ奉公に
出るようになり、少子化が始まったのです。
人口停滞は、耕地開発の鈍化に対応した、豊かな生活を維持するための、意識的な出生抑制の効果で
あるとみなすのです。
こうして総人口の増加がストップした結果、高齢者の比率が上昇して、高齢化も進みました。
そのうえ寿命(平均余命)も伸びたと考えられています。このあたりは、現代における経済成長の
鈍化と少子高齢化の関係と似通っています。

278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 03:49:27.59 ID:co+Uh1VM0
>259
>日本も不平等条約を結ばされ国内に外国人居留地ができています。

清がアヘン戦争の敗北後にイギリスの武威によって強制的に結ばされた条約の内容と、
幕府がそのイギリスが要求するであろう過酷な要求を退ける目的でアメリカと結んだ
条約とでは、そもそもその「不平等」の度合いが根本的に違います。

>それらから植民地にならなかったのは新政府による近代化が成功して条約改正して
>取り返したからです。つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。

違います。
そもそも幕府が条約を結んだのは1859年。
新政府が誕生する10年も前です。
では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、
そんなことはありません。


>賠償金は新政府が引き継いで財政、徴税制度の近代化を行い返済しています。

分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や
租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。


>そもそも賠償金が膨らんだのは幕府による政治戦術により兵庫港の延期させた
>ことも一因ですし。

幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、
もっぱら長州を中心とした破約攘夷を唱えていた急進的な排外主義者たちの
ためなのですが。

279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 04:00:27.82 ID:co+Uh1VM0
>260
>>変化への対応の遅れを「絶対悪」のようにして批判するのもどうかと思います。
>少なくても対応できなかった以上高い評価は与えられません。もちろん欧州と比べて
>であって、非欧州国では優れた対応と認識しています。

欧州で起こった体制変革・義塾革命は、それこそ人類史の中で特筆大書するべき
特異な出来事であって、それに対応できなかったことを指して非難するのは、
あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。

それまでの数千年の人類の歩みの中でも、まったく未知な出来事が起こったのですから。


>小さな政府はその記事にも書いてあるように「政府の市場への不要な介入を最小限にすることを目指す。」
>ですから鎖国を行っている幕府は小さな政府とはいえないと思います。

鎖国を行っていても、「国営事業の民営化・私企業化」「国有資産の売却」は可能なのではないでしょうか?
海外との貿易を禁止していることを指して「規制の撤廃」をしていない、とは言いうるでしょうが、
大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。

そして、その「小さな政府」を実現するためにも、鎖国という経済活動上の大枠を維持することは、
「必要な介入」だったと判断したのだと思います。

280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 04:22:47.64 ID:co+Uh1VM0
>261
>>18世紀と21世紀とを同列に比べる?
>鎌倉時代と江戸時代を比べている人に言われても困りますがw

<221>
>それ以前にも飢饉は存在しますが規模が違います。
>また江戸時代の飢饉はただの気候変動などよりも、行政のミスにより起こったものです。
>また飢饉の記録は存在します。養和や寛喜の飢饉などは有名です。
>それぞれ方丈記や吾妻鏡などに記録がのこっております。

先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。


>>どちらの方が「劇的」と形容されるべきでしょうか?
>戦国時代ですな、江戸時代は中期以降から全く増えてませんから。
>増加率で見ると低いです。初期だけは戦国時代の恩恵で増えただけです。

>277 をご参照下さい。
人口の停滞を悪政のみに由来すると見なすのならば、1億2千万をピークに
人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。


>>何度も言うけど、「記録に残っていないだけ」ってことは考えないの?
>史料にも存在しない事を言われても困りますな。

ですので、江戸期以前の正確な人口動態を記録した史料を出してきていただきたいと
申しているのですが。

そうした史料抜きに一方的に「甚大な被害を出した飢饉は江戸時代ばかりで起こっていて
それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 04:23:31.76 ID:co+Uh1VM0
>261
>>天明の飢饉などのように周辺の領地一帯でも膨大な犠牲者が出るような大規模な飢饉だったら
>飢餓輸出をしてもお咎めなしという事ですね。13万もの人間を殺しておいてね。
>周辺の藩も同じ事、幕藩体制に殺されたわけですから。

江戸期に養い得ていた人口を3000万人程度。
戦国期に養い得ていた人口は1500万人程度。

差し引きで考えれば、戦国期は江戸期に比べて1500万人程度を殺していた、とも言えますね。
3000万人生存することが可能な国土において、1500万人しか生かせなかったのですから。

一方に3000万の貯蓄がある人があり、もう片方に1500万の貯蓄しか無い人がいるとして、
前者が100万の損失を計上し、もう片方は損失が無かったとしても、保有する可処分金額は
前者が2900万、後者はやはり1500万です。

どちらの方が「フトコロが豊かだ」と考えるべきなのでしょうかね。

>>ほぼ一様に、武士階級に属する人々の礼儀作法や立ち居振る舞いの美しさを賞賛し、
>非生産的な事しかやっていなかった事例ですね。
>礼儀とかいって無駄な作業ばっかり増やして、無駄な仕事を作る、まさにお役所仕事。

その武士層が、対外的な外交交渉を巧みに行ったおかげで植民地化の危機を免れ得たのであり、
西欧列強の持つ先端技術や知識の速やかな消化吸収が可能になったのですけれども。

知識と教養を身につけておくこと、そういった積み重ねが非常時にどれほど役に立つのかに
ついて、ご理解いただけないというのはとても残念ですね。
そういった教養層を培養しておかなかった他の非西欧諸国がどうなったのかについても
少しは知識を身につけていただきたいものです。

282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 19:20:09.41 ID:3knOqADW0
江戸時代の天下泰平の功、特に流通路の拡大と商業の発展は評価しても良いと思うが。

>>271
関門海峡で部隊移動や補給を寸断できれば、かなり効果があったと思われ。
まぁ砲台も再建されてたらしいから注意が必要だが。
ただ、赤坂沖まで長州藩艦隊の進出を許してるのは明らかに怠慢。

>>273
男谷検校は富農だったろ。武士株が小金で買えるほど安かったとは思えんが。
累積した借金とかも相続することになるんだし。
ただ武士株は有名だし、低い身分の者が才や功によって取り立てられた例もあることは間違いない。
前者は結構な数が居そうだが、後者はジョン万次郎とかの例もあるにせよ
それほど数は多くなさそうだが。
そういう人は、抜擢理由の能力や功績によって大体史書に名を残すから。

>>278
兵庫港開港問題については、破約攘夷派は余り関係ないぞ。
これの最大の壁は孝明帝。

>>279
最後の方、問題は鎖国か否かではなく、市場への介入の方じゃね
あの頃はむしろ専売制の強化で民営化とは逆に向かってた様に思うが。
極一部の例外を除いて諸藩もそう。
あと庶民も含めた倹約令も経済統制の一種だな。
小さいか大きいかについての論争はお任せします。

283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 20:05:46.68 ID:UKW5NgZK0
>>272
>それらの正確なデータが出てこないことには、江戸期との比較など出来ませんよ。

大規模な飢饉が起きていれば記録は必ず残る。おきてないから記録には残っていない。
そういう事、江戸時代なみの頻度で飢饉が起きていたと主張するなら、飢饉の記録持ってきて欲しいね。
というか君は相手にソースを求めるだけですね。
江戸時代以前は飢饉の記録がない比較すべきではない→私が飢饉の記録をだす→いやまだ飢饉が頻発していたが記録が残っていない可能性がある
大規模な飢饉が起こった場合、飢饉の記録が残っているのは証明しました。
なのにもっと頻繁に起こっているはずだ(根拠なし)と主張されてもね。悪魔の証明は出来かねます。

>なにをもって「戦国期の恩恵」と断言しうるのか、その根拠の方をお伺いしたいですね。

明治期の成功を江戸時代の恩恵とか意味不明な事を主張している貴方がそれを言いますかw

戦争しまくっていた時代は何気に急速に発展するものです。でないと他国に食われますから。
欧州が発展をし、アジアが遅れたのは戦争をしていたか、していなかったかの違いでしかない。
二期作や三期作が全国的に広まったのはこの頃で、鉄製の農具や土木などが全国的に普及しだしたのもこの頃。
灌漑設備などが整って、人口が爆発的に増えたんだよ。
江戸初期は比較的温暖であったので、これに拍車をかけた。
江戸幕府がなにか農業、農法の改革をしたから増えたわけじゃない。
幕府にイジメられていた外様諸藩が収入が足りないから、必死に開墾していただけ。

>多くに人々は「いつ襲われるか分からないんじゃ安心して生活できない」という実感が

だからこそ農村はある程度の自治権をもっており、自分らで武装していました。
だから領主が増税といっても簡単には受け入れません。反抗する力を持っていましたからね。
だけど江戸時代になると、兵農分離や領主に敵がいないので、好き勝手できたのですよ。
そして食わせられないなら、他国で略奪をするというのは悪い事ではないですよ、
食わせられないから、餓死させてしまったよりもね。

>「他所から奪えばいい」という論理を支持する人々が多かったのなら、

だから最終的に徳川が全国から奪って言ったんですよ、富をね。
参勤交代や江戸滞在などで諸藩の富を奪い、都市部で消費させ、
商人からは屋敷の大きさや、株などの特権に応じて金を取るという方法でね。

>病気だのなんだのの理由を付けて、参勤の免除を申し立てた事例などいくらでもありますよ。

殆ど認められてません。天明の大飢饉クラスがおきて初めて認められたくらいで、
それも次の年からは参勤交代を強制されています。どの藩も江戸時代を通じて数例もないですよ。
250年間でたった数例です。

>これら「名君」と呼ばれた大名の治績は幕府から称揚され、多くの大名が参考にしています。

レアケースである事にかわりませんな。それに上杉庸山は天明の大飢饉ではかなりの餓死者をだしてます。
その前の宝暦の飢饉でもね。数千から万単位のね。
殆ど出さなかったのはその後の天保の大飢饉です。このときには庸山はもう死んでます。

>手前勝手なことを主張する農民のクビなど、簡単に撥ねる事の出来たのが戦国時代なんですが。

江戸時代に比べて、領主の村の力関係に差は小さいですよ。そして戦国時代にも法はありますし、
それにそって行われるので、無茶苦茶な事はできません。

>1500万が3000万は、完全な倍増。100%増です。

かかった時間は計算に入れないのですかね?江戸時代は260年あるわけですが?
そして江戸初期は戦国時代と違い、温暖な気候です。それで人口が増えただけですな。
戦国時代のように寒冷化すると人口は増えてません。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 20:57:12.24 ID:UKW5NgZK0
>>273
>そのわりに、幕末の志士と呼ばれる人々は割と気楽にあっちに行ったりこっちにいったりという

気楽に?命がけですが?志士が気軽に移動していたとか笑える話ですね。

>金を送金して貰う当てがあったり、蓄えがあったからこそのことだと考える方が自然ですよ。

藩の金で動いている人はそりゃ裕福でしょうな。で?それが何か関係あるんですか?
送金?当時にそんな金融システムはないですよ。
伊勢参りは一生に一度というもの、一生かかって貯めれば一度は旅行できるかもねって話。

>その余録にあずかれる庶民が相応にいたという事実を申し上げているのです。

それは富の再分配とはいわんよ。金持ちが道楽をしてそれで景気が良くなった事は再分配とは言わん。
税などによって再分配しないとね。当時は商業活動に対しての税金などないよ。
特権組織である株仲間からの上納金や、土地に応じての税金はあるけどね。
そして貧民に分配していたわけでもない。あくまで武士の給料になっていただけ、ただの収奪行為。

>一部商人が富を独占し、それ以外の農民が餓死寸前で生活していたり、切り捨て御免の特権を

私は切り捨てごめんがまかり通っていたなどとは主張してませんが?
勝手に人の発言を作らないように。ただ前者は事実ですな。
一部の特権商人が富を独占して、農民は餓死ですよ、いや町民もかな。
飢饉が発生したら、米価が高騰し都市部でも餓死がごろごろ出ます。
その為打ち壊しなどが多発したわけですから。
蔵元や札差は投機目的で米を扱い莫大な利権を上げました。
新規参入などは基本的にできない特権商人ですね。

>間宮林蔵、最上徳内、勝海舟の祖父、榎本武揚の父、川路聖謨など。

全員違いますね。貧乏人が金をためて、株を買って株仲間に入って巨利をあげたケースを聞いているんですよ?
なに話を変えているんですか?
その武士になった人達もとても珍しいから有名になっただけなんですがね。

>単なるあなたの思い込みですね。史料の提示をお願い致します。

江戸マンセーの杉浦さんだって言っているでしょう。若旦那=遊び人で問題ないんですよ。
ていうか若い頃からむしろ率先して遊び人であることが求められます。
江戸時代はコネの時代、そうやって一緒に遊んで金使って人脈作るのが若旦那の仕事です。
店の経営は番頭の仕事です。
落語とかでも若旦那は何時も道楽者でしょ?なんでそうなのか少しは考えて欲しいものですねえ。

>そういう人間が太平楽に暮らしていけたのならば、それで充分に幸福な社会でしょう。

だから暮らしていけないわけですが、正社員になれるのは親が正社員の場合のみ。
それ以外は一生派遣です。
江戸時代は職業も管理されていた社会で、外部の人間が新規に入れるところは決まっています。

285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 21:29:54.70 ID:UKW5NgZK0
>>274
>徐々に定住層が拡大していくことで、幕末までには男女比はおおよそ10:9くらいの

嘘ですね。中期以降では都市部の人口が減っただけです。
つまり余剰人員を養う事が出来なくなっただけです。
鬼頭さんの研究じゃ100万人くらい三都で人口が減ってます。
ここにも少しのってますね。人口の推移が。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%BD#.E5.A4.A7.E5.9D.82.E3.81.AE.E7.94.BA.E6.96.B9.E4.BA.BA.E5.8F.A3
江戸時代は身分社会、身分についていないと職という食い扶持はありません。
実力でその身分を勝ち取れる人がいないわけじゃないですが、
(丁稚から番頭に成り上がったり、養子などで跡取りになったりね)
その身分という枠に入らないと暮らせません。中期以降はその身分以外の人間が死に絶えたという事です。
家族を持てるのは、その身分をもてた人達だけです。
たとえば番頭まで出世しないとまず結婚できません。
つまり出稼ぎにきていた労働者は定住などできずに野垂れ死にして、人口が減り、
人口の流入も減った為、男女比が均等化したという事です。
最盛期には武士も合わせて100万とも200万とも言われていた江戸ですが、
明治の正確な人口統計では80万人しかいません。
これはつまり、中期の人口が嘘か。後期に大幅に人口が減ったことを意味します。
武士分を除いてもほんと少なくなっています。武士という消費者でもっていた社会が江戸なんですよ。

ちなみに貴方が持ってきたものにも、かかれてますが、既婚男女がとても少ないとなってますね。
つまり子供をもち家庭を持っていた人が少なかったのですよ。

>>278
何が何でも幕府が悪くないと言いたげですが、そもそも下関の賠償金など払う必要などないんですよ。
列強が求めたのは開港であって、賠償金は開港しないなら払えというものです。
そして幕府は愚かでしたので、賠償金を選びました。
そして案の定払えなくなり、借金の返済の延長の変わりに開港することになります。
はっきりいって馬鹿です。元々払う必要のない借金を払う事になったのは幕府の失政です。

そして新政府は幕府の借金を引き継いだら、前倒しで借金を返済しておりつけ入る隙を与えていません。
これ一つとっても幕府の無能と、新政府の有能さが際立って分かります。

286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 21:45:21.63 ID:R5OLPBjL0
幕末幕府の対外外交の失策と、江戸時代の統治はまず別だわね。
江戸時代は独力で産業革命前まで発展してた。
ヨーロッパが人口増えるのも産業革命以後。
イギリスの場合1800年代まで1000万も人口なく、1900年代で4000万まで増える。

幕府は米国の脅しに屈し、不平等条約を結ばされ、金流出が起こり急激なインフレになり倒幕された。
幕府が結んだ不平等条約は、領土割譲以外などは阿片戦争で清が結んだ条約と大して変わらないしね。
ペリーが開国を迫り戦争すると脅した時、吉田松陰など先覚的尊攘派は国内一致で当れば逆に戦争にならないと相手の手の内を見透かしてるしね。
幕府は国内をまとめられなくなり、武権として対外能力が衰えたから座から下ろされただけ。

287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 22:00:11.37 ID:7MuHlbsV0
まー藩士がお役目や許可なしに藩外を出歩くことは出来ん罠。
それなしだと脱藩するしかないし、無許可でそれをすれば、甘いので有名な長州藩でも
士籍家禄の剥奪ぐらいはされてたね。吉田松陰とか。江藤新平なんかは永蟄居。
ちなみに脱藩後は、方々で講義とかして旅費を稼いだ例(吉田松陰とか)、
豪商や豪農のパトロンを得た例(白石正一郎とか)、他藩の庇護を得た例(高崎崩れとか高見弥市とか)
などがある。一般的なのは吉田松陰の例かな。脱藩した後、塾を開いた頼山陽とか。

ちなみに新撰組は、幕府の許可を得た浪士組として上洛してる。

288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 22:03:54.14 ID:UKW5NgZK0
>>280
>先に鎌倉時代の話題を出してきたのはそちら様だったように記憶しておりますが。

話をそらさないで下さい。
鎌倉時代をだしたのは、お前さんが江戸時代以外の飢饉の記録は残ってない。
などと電波を飛ばしたからです。私が江戸時代以前でも飢饉の記録は残る事を証明しました。

そして貴方は鎌倉と江戸時代では人口が違う、人口比で被害が違うと主張しました。
なので私は人口比なら、今100万の餓死者がでても人口が江戸時代の四倍だから、被害は小さいのかと反論すると、
貴方は時代が違えば出る被害が違うのが当然といいました。
それに対して私は、なら鎌倉時代に比べて社会が江戸時代のほうが発展しているのだから、それを指摘するのがおかしいと指摘しましたら、
この答えですよ。貴方の理屈なら江戸時代は鎌倉時代に比べても餓死は減ってないといけない。
けど江戸時代のほうが規模も頻度も明らかに増している。

>人口が減少に転じた戦後の日本も相当酷い時代だとご認識なのでしょうね。

平成の今の世がいい時代だと思っているんですか?自民党が問題を先送りにし、
民主党によって日本人虐殺されている、といってもいいくらいなのに。

>それ以外の時代ではあまり起こっていない」という発言には説得力がないと申し上げているのです。

何を言っているのやら、私は江戸時代は飢饉が多発したと主張しています。
そして記録などをみてもそれは明らかです。
それに対して貴方は、鎌倉時代にも飢饉が起きたかも知れないが、実は史料が残っていないのだ、
だから私に鎌倉時代の餓死の史料を出せといっているんですよ。
どっちに提出義務があるのかくらい考えて欲しいですね。
私の主張を否定したいなら、江戸時代以上に飢饉が起きたことを史料を添えて証明しなさい。
なんで私が存在しない史料を探さないといけないんですか。
江戸時代の飢饉の記録ならだしましょう。大飢饉といわれるものだけで、
寛永、延宝、元禄、享保、宝暦、天明、天保 ほかにも私が知らない小規模な飢饉はあるでしょうね
まあ小規模といっても万単位は餓死しているでしょうが。

でこれくらいの頻度で数十万単位の大飢饉が発生した事がかつてあったんですか?

そして明治になると爆発的に増加しますよね?

>>281
明治になると50年ほどで人口は倍になりました。
なら明治政府と違って、幕府は3000万人ほど殺していたという事ですね。

289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 23:33:18.50 ID:FOGTt9Tl0
>>287
長州の甘さは異常。高杉晋作は6回か7回脱藩しているけど怒られたのは3回目だけだしなあ。

290 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 00:20:44.06 ID:NGl1J7uF0
なんだ?徳川幕府時代が悪かったというなら
戦国時代の豊臣政権が続いて豊臣幕府かもしくは織田信長が殺されずに天下を取って織田幕府のほうがよかったのだろうか?

291 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 00:27:57.58 ID:D8NkyjKv0
馬鹿は口はさまない方がいいと思うぜw
俺も含めて。

292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 06:14:19.69 ID:B+5CyHIz0
38のソースは・・・・・。

293 :194:2011/09/22(木) 20:01:17.63 ID:M6W05vJB0
>>262
諸藩は軒並み財政が悪化してましたのでもともと士気が低くかった。
幕府軍は確かに海軍に関しては長州より優勢でしたね。失念していました。
陸軍に関してはライフルは導入中という記述を見たので、オールライフルの長州と比べて
劣っていると評しました。


294 :194:2011/09/22(木) 20:52:53.88 ID:M6W05vJB0
>>276
>士気の低さに関しても、やはりその原因はもっぱら政治的拙劣さに由来すると言うべきです。
>現に幕府歩兵は長州に匹敵するだけの装備を持っていました。
>『長州戦争―幕府瓦解への岐路』
>『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』
その二つの書にも書いてあるように、長州軍は志願兵でしたけど、幕府歩兵は嫌々ながら
徴集されてましたから。

>総じて、第二次征長戦争における幕府の敗北に関しては、軍事的側面よりも
>政治的拙劣さに多く拠っているように思います。
政治的拙さでいえば当事の長州の方が追い込まれているのですよ。
長州・・・朝敵認定をくらい官位を剥奪され、同盟軍は薩摩だけ。
幕府・・・長州征討の勅許えて、諸藩十数藩を動員。

>幕府がその政策を変えていたとしても自然発生的に自国内で産業革命が起こった訳はないし、
戦争と貿易はあくまで必要条件ですからね。しかし、必要条件である以上それが無いと近代化は
できないのですよ。例えば幕府でも天保の改革での上知令は既得権益層の反対で頓挫しました
がそれ以上に過激な慶応改革はそれなりの成果をあげてました。もっとも長州に比べれば、まだ
甘かったのですが。

>少なくとも、長州や薩摩があの時点で政権を取っていたら、無謀な攘夷戦争を仕掛けて
>清におけるアヘン戦争後の半植民地化を強いるような条約を結ばされていたと思います。
薩摩は当初から開国派ですし、長州も航海遠略策を出してますよ。

295 :194:2011/09/22(木) 21:31:26.64 ID:M6W05vJB0
>>278
>では、新政府が条約改正を勝ち取るまでの間は日本は植民地になっていたかと言えば、
>そんなことはありません。
居留地も清の租界も当初は同じようなものでした。ところが清は失政を重ね租界は侵略の
拠点になってしまいました。居留地がそのようにならなかったのは新政府の近代化が成功
したからですので>つまり日本も一度負けているのを取り戻したわけですよ。
と評しました。

>分割返済ということを認めてくれたからこその話で、強引に領土の割譲や
>租借を押しつけらてしまっていた可能性だって皆無ではないのですよ。
近代化に成功した史実の日本はロシアやドイツからも領土を得ているので
たとえそうなっても問題なかったと思われます。ただあくまでこれはifですので
どうとでも言えますから。難しい。

>幕府がそういう戦術を採らざるを得ないまでに追い詰められたのは、
反対体制派にそこまで追い詰められるのは拙いですよ。


296 :194:2011/09/22(木) 22:04:56.17 ID:M6W05vJB0
>>279
>あまりにも「後世の視点」から当時を断罪するという部分が強いように思います。
欧州諸国と比べるから筆が厳しくなるのであって、他の非欧州諸国、例えば清やオスマン帝国
と比べると逆に甘くなりますよ私はw
「後世の視点」からといわれても、私は後世の人間ですので。

>大筋においては幕府の施策の大部分は「小さな政府」を目指したものと言って良いと思います。
小さな政府という言葉における政府の対義語は市場なのですよ。その市場に鎖国という強い規制を
かけている以上小さな政府の概念とは違うものになる。ただ財政状況が悪いというだけではそうは
いえないと思います。

297 :194:2011/09/22(木) 22:15:08.27 ID:M6W05vJB0
>>286
イングランドの人口は1700年で520万、1800年で890万ですよ。
それにヨーロッパも18世紀は成長期です。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html

逆に日本は低定期。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html


298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 23:59:57.89 ID:ESxm6S890
世界各国は貿易で開国通商で植民地にされたんだから。
日本だけが開国に成功したんで、開国して貿易すれば近代化とかそんな単純でないわね。
江戸時代に産業革命に乗れる基盤が作られ、明治維新で西洋における絶対主義と国民国家建設が両方同時期に成功して開国近代化も成功したんで。
ヨーロッパでも列強なんてのはイギリス、フランス、ドイツくらい。
逆にスペイン、ポルトガル、オランダは落ちたんで。

清の場合、イギリスが好んだ清の茶などとイギリスの銀の貿易が行なわれ、イギリスが銀を失うのを防ぐ為に三角貿易で阿片を輸出しはじめた。
清は風紀が乱れ、逆に清が銀を失うはめになった。
清にも林則除という攘夷派が居ることには居て、阿片を没収し全て焼き阿片通商を拒否した。
イギリスの軍事行動を当然見越してた。
砲台を築いたり義勇兵を募り作戦も練って戦争準備もしてた。

ここでイギリス軍は直接清政府を脅した、清政府は屈して砲台や義勇軍などを解除し、さらに林則除に賄賂拒否された勢力が付け入り林則除は解任。
穏健派が台頭して代わりに和平交渉したが、武装解除した為舐められ横暴な要求を突きつけられ、軍を解除した状態で戦い敗北。
その後駐屯したイギリス軍が庶民に横暴した為、怒った民衆が義勇兵を募り挙兵。
民衆軍は矛など古典的な装備だったが、地の利や天候を味方に付け巧みに戦い、イギリス軍を包囲全滅に追い込んだ。
イギリス軍が清政府に国際法違反と抗議し、民衆を止めないと報復すると脅すし、清政府はまた屈し要求を呑んだ。
阿片戦争なんて、まともに戦わずして終わった。
そもそも対外戦を戦えない国内体制に屈してるんで。

近代国家を作るのには、体内資源がないと無理なんだよ。
単に開国すればよいと言うもんでない。

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 00:12:22.88 ID:6dK5xVoI0
>>297
ヨーロッパ別の人口推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9012.html

300 :194:2011/09/23(金) 16:03:10.31 ID:7H5bui4P0
>>299
ヨーロッパ別の人口推移では無くて
ヨーロッパ地域別人口分布の超長期推移であって
>ヨーロッパが人口増えるのも産業革命以後。
の証左にはなりませんよ。

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/23(金) 18:04:12.37 ID:X6aCp+sd0
近代日本の経済成長は江戸時代の遺産の上に築かれた。
発達した市場経済、情報流通のネットワーク、高い農業生産力、読み書きの普及、出生抑制と結び付いた比較的高い生活水準。
エネルギー資源は、森林、家畜や人間の筋力、風や水の自然力であった。
江戸時代は当時の技術とエネルギー事情から日本列島の人口収容力ぎりぎり水準で精一杯の人口を養っていた。
18世紀から人口は停滞していたが、民衆の生活は向上していたのであった。
江戸時代は持続可能な開発を見事に実現していたのであった。
17世紀から世界的に寒冷な時代で、18世紀いっぱいまで続いた。
江戸時代は、寒冷化の真っただ中で始まったのであった。
ヨーロッパは17世紀の危機と呼ばれる人口停滞があったのに対して、江戸時代前半は寒冷化であったにもかかわらず、大きな人口増加をみた。
反対に、人口が停滞したのは文明システムが成熟化した時代である。
18世紀から19世紀にかけて、2歳時の平均余命は男女とも3年から4年くらい、長くなっている。
江戸時代後半を通じ、農民の寿命は明らかに伸びていたのである。
生活水準が上昇したことのあらわれである。
江戸時代中期の人口停滞は、出生率の低下にあったと言ってよい。

302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 01:20:59.57 ID:E869cY6i0
長州側の銃の配備はどのような状況だったのでしょうか?
薩摩から購入したミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺と
大村が購入した数十挺は有名ですが
他どのくらい所持していたのでしょうか?

4分した迎撃部隊が約4000だけでなく、
山口や萩等拠点防御戦力が1000以上必要なことを考慮すると
迎撃部隊が完全にミニエー銃を配備させるには不足しているので
石見口は多め、大島口は少なめと言った具合に方面ごとに配分されていたと思うんだが。

303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 16:31:56.26 ID:I09tviPs0
第二次長州征伐までの最終的な輸入総数が分からないからなぁ。
薩摩に名義借りる前もルート開拓頑張ってたみたいだけど、輸入まで漕ぎ着けた例は少なそう。
中には時間が掛かりすぎて第二次征長に間に合わなかったのもw

芸州口・小倉口・石州口の正規軍3000はミニエーだったんじゃない?
それ以外の部隊も存在してて、たとえば大島口だと、ゲベールや火縄銃で武装した
大島代官指揮下の大島兵や、周辺の島の領主である村上一族の手勢が最初の迎撃に当たっている。
また、大島奪還の基幹兵力は第二奇兵隊や浩武隊などの正規軍だが、
それ以外に阿月浦家、三丘宍戸家の手勢+上記の大島防衛軍が参加している。
また、ゲベール銃を輸入する際に「豪農が買うっつってるから」とか言ってることから、
豪農や豪商が組織した民兵部隊もあったかもしれない。
おそらくそれら郷土防衛隊的な位置づけの兵力が、沿岸警備や重要拠点の防衛に
当たっていたんじゃないかと思われる。

上記の第二奇兵隊・浩武隊は、大島陥落後そこを拠点に徳山などへ侵攻される可能性が高いため、
特に予備兵力として配備されていたものと思われ。

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 20:04:55.37 ID:K09q7Grz0
>>302
萩拠点防衛用で石見に侵攻したんだよ。

305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/26(月) 22:01:15.99 ID:kA6ShZCD0
>>303
その村上一族ってのは戦国時代の村上水軍の子孫ですか?

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 08:01:31.34 ID:yrklIZ7t0
>>305
そう。村上武吉の末裔

307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 09:04:04.41 ID:8TBE93po0
>>305
そうですね。
能島村上の裔は村上元吉系が村上亀之助、村上景親系が村上河内で、
因島村上の裔が村上太左衛門……らしい。間違ってたらサーセン。
大島口に全員参戦。毛利家御船手組ですな。
ちなみに猟師を集めて狙撃兵にもしてたそうな。

308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 09:45:32.20 ID:UuHl/eh60
長州征伐の時の長州兵の射撃の腕はかなりやばかったらしいな。
当時の銃にそんな命中性能があるのか?レベルで。

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 09:50:18.27 ID:QVF7Vw290
200メートル先のコインを撃ち抜けた?とかだっけ。
そりゃ甲冑に勝ち目はない。

310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 19:50:53.05 ID:uLI+bNeR0
長州征伐とか長州藩の危機に奮戦した岩国藩6万石って
男爵扱いなんだな

何もしていない連中でも15万石以上で侯爵、5万石以上で伯爵、1万石以上で子爵なのに
あれだけ働いてその下扱いとは酷い話だな。

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/02(日) 10:14:57.95 ID:T76xdkl00
吉川経健はのちに子爵になってるぞ。
他の支藩主が一律子爵なのを考えると当初の男爵は頭一つ低いとも言えるが、
岩国藩が正式に藩になったのと同じ年に藩と認められた紀伊新宮藩主も男爵になってる。
時期が悪かったとしか。
ただ、吉川経健の贈従二位は他の支藩主と比べると図抜けて高い方。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 23:55:52.26 ID:8fY6w08x0
>>310
岩国藩は長州の支藩ではなく陪臣扱いだから、男爵で仕方ない。

313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 10:18:46.11 ID:0Cs+kS2u0
>>294
長州諸隊=義勇兵=士気が高い と言う認識そのものが俗説すぎる。
史料的にも事実上の兵賦、徴兵がなされた例が多数確認できる。

例えば美祢市が発行している冊子では、伊佐徳定村の10代〜50代までの適齢者27人が
入隊を「勧誘」されたが、断る者が多く、元治元年7月に5名が入隊(以後、徐々に差出あり)しているが
これは「仰せ付け」と言う形を採っている(奇兵隊日記。志願兵の場合は「願い出」と記される)
でその5人の内訳をみるとほとんど当主多忙や生活苦による子供の差出

また義勇兵なら出自でなく軍隊内の階級で身分を判断されるはずだが、
実際には奇兵隊は袖印の着用を義務化し、処刑まで予告して厳守を徹底している。
諸隊も他藩の徴募隊と同じく「階級上昇」と「雇用」が大きな魅力だったので
義勇兵と傭兵と言う対立項は必ずしも成立しない

マナーも特段よかったわけではなく、報国隊士の「つかずの灯篭」事件に見るように
泥酔して市民を斬殺したり、良民に「手の付けられない荒くれ者」と見られていたのは確か。

このあたり、奇兵隊日記を読んでも分かるし、90年代頃からとっくに指摘されてるだろ。

314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 09:57:25.29 ID:3knOcWhE0
>>313
当時は多産で家主と跡継ぎ以外は養子として転がりこまないと、
食い扶持がないから生きていけない時代。
子供が志願兵になるのは別に珍しくもないよ。
だから一発逆転を狙って士気が高かったんだから。
長州は寺子屋などで尊王思想を徹底的に叩き込まれるから、後から後から人が来るわけ。
最終的には二万はいるんじゃないかな。

315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 10:03:23.78 ID:3knOcWhE0
ついでにいうと報国隊は長府藩の藩士の隊であって奇兵隊じゃないよ。

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 19:10:44.16 ID:lX+E2JRU0
志願兵の士気は高いが、その士気ゆえにたまに暴走するのが困りもの。

>>313
まだ戦争=武士が崩壊し始めたばかりの元治元年だったからってのはない?
大村益次郎の軍制改革で諸隊が正規軍になった際は、諸隊の隊員数が多すぎて
定員数に合わせた大幅な削減や無断入隊の禁止を何度か布告してる。
士官や装備の数には限りがあったしね。
ただ、諸隊も隊員を無理矢理追い出す訳にもいかないから、2直制にしたり
削減緩和願を出したりしてるね。

あと、諸隊としては慶応元年に正式な苗字帯刀の許可が出てたかな。

317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 00:42:41.10 ID:/g2cE4w60
>>314
いや>>313は「仰せ付け」になってるんだよ。
当主が働き手の主力は勘弁してくれと言って子供を差し出してるの。志願ではない
まあ差し出されたからって士気が低いとは限らないけどね。
奥羽戦争でも15歳くらいの少年農兵が勇敢に戦って薩摩藩の隊長を感服させているし
>>315
報国隊のは諸隊の乱行で残っている一例を適当に示しただけだよ

長州藩諸隊=志願兵制=士気が高い と言うのは幻想で、もちろん一藩攘夷に踏み切ったから
「御国」の危機を救おうと言う草莽も多かっただろう
ただ、現実には戦時の徴募の方法はほぼ村方や町方の有力者に割当を行うもので、
幕府、関東や奥羽諸藩の農兵の徴募と大差なかった。関東でも暴動に対抗するために商兵、農兵が自主組織されている。
彼らも士気は高かったよ。

一方で長州も攘夷戦争の最中に、戦争を引き起こした藩に憤慨して長州藩の大砲の撤去作業に加わった百姓がいたのも事実。
アーネスト・サトウはその両者について記述している。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 00:45:05.55 ID:/g2cE4w60
ちなみにリストラについては幕府歩兵も改組の時に大幅な余剰人員が発生し、
銃の扱いに習熟した農兵が大量に都市に滞留し、社会問題になったので再雇用を行っている。

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 00:58:03.46 ID:/g2cE4w60
ちなみに家近良樹は第2次幕長戦争において
「長州の勝因」より「幕軍の敗因」を重視して「負けるべくして負けた戦争」と言うが、
そこで挙げられている長州側の勝因は
・装備の充実
・宍戸備前の捕縛拘束による反幕感情の刺激
・「最も重要なのは下関を経由して大坂に回送される物資、特にコメを当地で差し押さえたこと」
なんだな。この3番目が非常に大きかったと思われる。

また熊本藩が小倉口の長州藩兵と互角に戦い、天狗党には負けた幕府歩兵も善戦していることを考えても、
熊本・久留米の解兵、薩摩藩(萩口)、宇和島藩、佐賀藩など有力諸藩の不参加や、諸藩の指揮不統一が大きかった。
薩長同盟も第1条で薩摩藩兵2000の上洛、1000の上坂を定めており、
長州藩が負ける要素はまずなかったと言える。
その証拠に第3条は
「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」
と強い自信を示している。

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 07:06:19.15 ID:BI02oiX00
後出しだからなんとでも言える
実際は長州藩が負ける要素だらけじゃん

321 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 16:51:46.75 ID:6wAZxVaw0
>>317
あんた言っている事おかしいわ。
「奇兵隊日記」に志願兵なら「願い出」と記される事と、美祢の村落の「志願兵」が「仰せ付け」
である事は別に矛盾せんだろ。記載したものが違うんだから。
そして当主多忙だからというが、普通当主が戦争に行くことはない。
明治の徴兵令でも当主と跡継ぎは徴兵されない。
これら者が徴兵を断るのは当然の話。それをもって言うのはおかしいんだよ。
そしてその藩からの募集のあった隊ってほんとに奇兵隊なの?
藩でも諸隊を形成しているんだけど?
志願兵が隊として認められたケースも少なくないけどね。

>報国隊のは諸隊の乱行で残っている一例を適当に示しただけだよ

奇兵隊の乱交でもなんでもないのを例にあげたのは何故?
これ長府藩の正規の隊だよ、志願兵や義勇兵じゃない。

>長州藩諸隊=志願兵制=士気が高い と言うのは幻想で、もちろん一藩攘夷に踏み切ったから

なら士気が低いという例を出さないと、出してないよね?君は。
正規の部隊との比較をしないといけないのに、正規の部隊の乱交をあげて何を主張したいのかな?
それどころか徴兵だからといって士気が低いわけではない例を挙げているだけ。


322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 18:35:16.62 ID:VU7M2XfX0
奇兵隊の構成員には神主や藩外の浪士までいるのに義勇兵で無いというには
無理があるだろう。隊内部に会議も要しているわけだし。
義勇兵的要素が弱いとするなら元治内乱における藩政府への反乱と勝利が
説明つかない。

>>319
全て軍制改革の成功が前提になってるのにそれを軽視するのは
どうよ。長州藩が諸藩と同じ軍制なら、長州は負けてたよ。


323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 18:58:33.81 ID:Aheihfkx0
>>319
>熊本藩が小倉口の長州藩兵と互角に戦い、天狗党には負けた幕府歩兵も善戦していること

幕府歩兵隊なんかは既にミニエー銃装備では?
それと幕府歩兵隊と共に戦った紀州藩のこと、たまにでいいので思い出してあげてください……
あと熊本藩は交戦後の援軍要請を無視されたのにブチ切れて勝手に退却してたと思うが、
熊本藩単独での戦線の維持に嫌気が差す程度には損害が出ていたということでは?

>「万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付」

これは国境線で負けた後の戦略。
ゲベール銃を豪農豪商に卸したり、長州藩の大義を書いた本を庶民にまで配っていたことから
ゲリラ戦のようなものでも考えていたと思われ。
こういう戦い方自体、兵士や民衆の士気も高くないと採れないよ。会津藩みたいに、徴兵した農兵が即座に逃亡なんてことになる。

324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:27:58.09 ID:sp7FPblp0
熊本藩は戦闘に参加してないよ。
やっと初参戦した時に長州と対等以上に戦ってるんだよ。
だから長州が小倉口で勝てた。それだけの話。

>>323
幕府歩兵は2年前まで天狗党に負けてたレベルだよ

325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:29:52.49 ID:sp7FPblp0
>>321
いやお前さんのほうが矛盾してる。
仰せ付けと願い出を分けて記述していて、その村の場合は仰せ付け。
つまり員数差出が義務化されていた。

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:32:02.77 ID:sp7FPblp0
そもそも、革命や武力クーデタが起きて成立した政府がその権力を守ろうとする時に、
純然たる義勇兵に頼るなんてことはあり得ない。フランス革命でもロシア革命でもそんなことは起きてない。
民衆の強制動員を否定するのは長州藩の臨戦体制を否定するのと同じこと。

327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:34:06.93 ID:sp7FPblp0
長州諸隊マンセーの人には気の毒だが、徴兵が士気が低く、志願兵が士気が高い
と言う方程式が必ずしも成立しないことは鎮台兵が証明してくれてるし、
各藩の農兵・商兵が証明している。

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:54:57.97 ID:BI02oiX00
>>324
5000と800で200ずつ損害出して長州側が撤退したので肥後側の戦略的勝利だけど
よくよく考えれば長州側に壊滅的損害を与えたとはいえ
5分の1の相手に同数の損害を受けた肥後の戦術的劣勢は否めない。

329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 22:32:45.34 ID:VU7M2XfX0
>>326
国民衛兵や赤衛隊は?
フランスやソヴィエトは膨大な兵数を用意したけど長州は
それほど多くないのだけれども。

>>327
そりゃ四民平等の国民軍と中世的賦役は違うから。
奇兵隊は過渡的なものだけれども。

>>328
熊本藩は銃兵隊も要しているが、槍隊もある旧式制度だから
全ライフル兵の長州と比べたら不利だわな。

330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 06:43:12.39 ID:i5GfkY4c0
肥後藩はアームストロング砲とミニエーの鬼装備だぞ?


331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 08:27:46.87 ID:1WDOf3j50
>>328
ていうかその後も普通に長州は渡航して攻撃しているしな。
ただ肥後はよく守ったといえる。
そして長州藩の渡航の邪魔くらいしろと幕府にいったけど、長州のオンボロ海軍にボコボコにされて逃げ出す幕府海軍と。
どんどん送られてくる長州兵をみてやる気がなくなった。

>>330
肥後藩の装備は当時としては一流。
>>325
だからそれは奇兵隊なのかどうかと言っているだろうか。
>>326
わかってないなあ。当時の長州は革命戦争やってんの。
20万部とも言われるほど本刷って、全ての世帯に長州の正義を宣伝して一億玉砕火の玉だ。
ってやったわけ。
だから後から後から志願兵が来たわけ。
>>327
いいかげんにお前は長州の志願兵の士気が低い例を挙げてみろ。
各地の農兵が士気高く活躍ってのもねえ。たいていの民兵は正規軍がいなくなることで、
治安が悪化するので農民の反乱などの為に編成されたものばかりだぞ。
庄内藩みたいに本間が金にものを言わせて装備を整えた民兵隊もないことはないが、
そんなのはレアだ。当然士気は低い。

332 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 10:31:17.57 ID:WWV0cjwC0
肥後藩のアームストロング砲は凄いですね。

333 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 11:44:16.69 ID:i5GfkY4c0
>>331
長防士民合議書と大島の虐殺この2点が士気高揚に通じたとおもう。
民間人が小倉戦争作戦要図を作製するための情報収集に協力したり
能動的な行動が見受けられる。

334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 19:03:52.51 ID:c2XLgyja0
>>327
長州マンセーてwww
特に前近代の徴兵制は、何も分かってないようなのを布団から叩き出して
そのまま戦場に放り込むのが多いから、当然のように士気が低いんだよ。
徴兵でも士気が高い軍が存在するが、それには政府による仁政や国民教育、あるいは軍隊教育を通して
共通の大義名分を叩き込むのが前提条件。
それが出来なきゃ、ペリー艦隊を見物に行った江戸の町民と同じだよ。
政治や軍事は武士の物だから俺らは関係ないって考えのままで兵士にしても、士気が上がる訳がない。
フランス革命まで国軍としての国民兵が誕生しなかったのはそのせいでもある。
大義名分自体は、朝廷の為でも将軍の為でも恩を施してくれた藩の為でもおらが村を守るためでも何でもいい。
ただし、単なる功利はダメな。国民軍が編成されるようになって傭兵が廃れたのは、スイス傭兵やランツクネヒトなど
極少数の例外を除いて、兵士が従うべき最大単位が金をくれる部隊・部隊長であり甚だしくは自分のみだったから。
だから傭兵部隊は逆境に弱く、崩れ始めたら止まらないから当てに出来ない。

志願兵はそれらの教育を事前に受けた状態で、最初から仕上がってるから士気が高いってだけの話。
それと同じ意味で、そういう教育を信奉してきた薩摩藩や鳥羽伏見の会津藩などは、士族部隊にも関わらず士気が高かった。

335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 22:11:50.29 ID:OS0F8ale0
>>330
だから旧装備では無く旧制度と。
戊辰戦争の時に新政府に編成を変えろと注文つけられているから。

336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 22:36:44.90 ID:qoJZeaPN0
熊本藩の場合、小倉藩との対立から最初の戦闘には加わらず、
ようやく催促されて戦った直後に帰っちゃったんだよな。
で、小倉が孤軍となってそのまま長州藩兵が進撃。
この方面では事実上、小倉藩だけが長州藩の敵。
あと落城後の小倉藩兵がゲリラ戦に転じたらかなり長州藩を苦しめたのは周知の通り。

そして熊本藩の引き上げを見た小笠原長行が戦線維持は無理と判断して上洛。
これで慶喜が長州打ち込みを断念と言う流れ。
結局、大藩の不参加が一番大きかったんだわ

>>334
>特に前近代の徴兵制は、何も分かってないようなのを布団から叩き出して
>そのまま戦場に放り込むのが多いから、当然のように士気が低いんだよ。

長文の割にはすごい無知晒してるけど、農村出身兵は下手な志士気取り士気高いぞ。
なぜか分かる?卑怯な振舞いをしたら村落共同体で生きていけない、
逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。旧日本軍の日本兵の強さを支えたのもこの種の農村の縛り。
逆に志願兵や志士気取りは意外と弱い。まず志士は意見対立ですぐ戦線から離脱する。
志願兵と言っても要は農村の中核から外れ、組織のタガが弱いあぶれ者が中心だから極めて扱いにくい
ムラ社会を舐めるなかれ。

337 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 22:41:08.85 ID:qoJZeaPN0
>>333
ただ、この時も実は長州藩の領民は幕軍の手引きをした者もいたんだよね。
事前に一揆が起きてるし。長州藩はそれを徹底的に弾圧して禍根を断ったわけだが

338 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 22:47:59.10 ID:qoJZeaPN0
>いいかげんにお前は長州の志願兵の士気が低い例を挙げてみろ。

だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。

>各地の農兵が士気高く活躍ってのもねえ。たいていの民兵は正規軍がいなくなることで、
>治安が悪化するので農民の反乱などの為に編成されたものばかりだぞ。
>庄内藩みたいに本間が金にものを言わせて装備を整えた民兵隊もないことはないが、
>そんなのはレアだ。当然士気は低い。

一揆鎮圧のために結成された関東の農兵は極めて士気が高いよ。なまじな藩兵なんかよりはるかに使えた。
庄内藩農兵に至っては敵中突撃まで敢行して、多くの戦死者や捕虜を出しているが、
その捕虜たちが捕まった以上は早く首を刎ねろと言いだして薩摩藩の隊長を
「こっちの武士より全然ましだなあ」といたく感心させている。

339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 23:10:35.85 ID:WWV0cjwC0
>>338
御用盗を取り締まったのは当然です。

340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 23:54:03.43 ID:Y26COrSg0
どっちが強いか一概に言えないけどね。
明治後の反乱見ると士族は圧倒的に強かった。

341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 07:56:18.60 ID:dq6qXrXv0
>>336
小倉藩が優位になったのは高杉晋作がいなくなってからだからなあ

342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 08:37:20.93 ID:6mdHgSFn0
>>336
そら前線に出るの嫌がるだろうね。
既に門司から赤坂まで小倉藩見殺し状態なのに、自藩が出てって同じように見殺しにされたらどうすんのって話。
長州軍の急所である馬関海峡での輸送妨害ですら、小倉藩の輸送船飛龍丸が決死で突入してるのを尻目に傍観決め込んでたでしょ、幕府海軍。
しかも戦った直後に帰っちゃった理由が、熊本藩からの援軍要請の無視でしょ。そら誰だって怒るよ。
小倉の幕府歩兵隊だけでも援軍に出せば違っただろうにね。

ただでさえ幕府の私戦だと言われてるのに、その幕府軍が陸海どちらでも矢面に立たない所か動く気配すら感じられないんだから、
付き合ってる諸藩が幕府に不信感抱いて戦いたがらないのも当然だよ。
芸州口では第一陣が敗走した後すぐ幕府歩兵隊出してかなり頑張ってるから、小倉口の指揮が無能だったとしか思えないね。

343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 11:08:04.88 ID:3PN7UkDU0
小倉に戦力を集中させていたらなぁ。

344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 12:21:59.65 ID:6mdHgSFn0
>>336
いや君のそのレス、似たような事を述べてるのに、そこを理解できてないよ。

>卑怯な振舞いをしたら村落共同体で生きていけない、
>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。

これ自体が、「村が藩に対して貢献しなければならない」って意識を前提にしてるよね。
その帰属意識を醸成できないと、その前提自体が崩壊するんだよ。
顕著な例を挙げるなら、領民が三方領地替えに抵抗した庄内藩ね。藩の為に働こうという意識があるから、庄内藩の農兵は強い。
逆に会津藩の場合、幕府から受け継いだだけの新潟領で徴兵された農兵はあっという間に逃げ散って、
中にはその足で新潟の民衆の信望が厚かった米沢藩に従軍を願い出た隊まである。
山入村の戦いでは、頑強に交戦した伝習隊第二大隊が壊滅した一方で、仙台・二本松・会津農兵は死傷者僅か3名にも拘らず
真っ先に敗走し、大鳥は「益々三藩の兵の頼むに足らざるを知れり」と嘆いている。
また母成峠の第三線では、大鳥がここで敗れれば会津は滅亡、今一度戦えと叱咤するが、留まった者は僅か数人だった。
この時の敵手だった板垣は、会津戊辰戦争の序文で会津を含む列藩同盟に同情しつつも、僅か5千未満の官軍に会津藩が敗れたのは、
会津の民衆に会津藩を守ろうという気持ちがなく、上下一心にして力を尽くすことがなかったからだと述べている。

旧日本軍についても、士気が高いと言われるようになるのは、国家への帰属意識や奉仕が
名誉であるという公の意識を公教育・軍隊教育を通じて敷衍し、藩という概念を脱して文字通り国民軍となった日清・日露の頃からだよ。
日清戦争については、士気がやたらと低かった清軍と比較しての話だが。

それと、志願兵の士気が低いなんて君の話以外で聞いたことがないよ。
色眼鏡なしで長州藩以外の志願兵部隊を調べてみたら?
仙台衝撃隊、丹波山国隊、桑名雷神隊、土佐断金隊、士気が低かったり、部隊の体を成していないものがあるか?

345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 12:31:24.24 ID:1nOHMAYd0
>>336
>結局、大藩の不参加が一番大きかったんだわ
幕府側には紀州、彦根、熊本藩、松江などの大藩を動員して
長州側はゼロ、薩摩藩の局外支援だけ。
大藩の動員が勝敗の差なら、より多くの大藩を動員している
幕府が負けた説明がつかないぞ。

>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。


346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 12:35:40.33 ID:1nOHMAYd0
>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。
一部の例外を過大評価しすぎだろ。奇兵隊が志願兵でないと
評価してるのなんて、見た事ないぞ。
『戊辰戦争』保谷徹でも志願兵による有志隊と評してるし。

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 13:34:49.21 ID:kgR0QJ9y0
>>342
どうもありがとう。つまり幕軍は指揮不統一の状態で、
参加した大藩にも戦意がなかったと君は自ら証明してくれた。
なぜ幕軍が指揮不統一だったか?それは幕府の予定にない戦争だったから。
幕府は長州藩への寛典を決めて、ヒアリングのための呼び出しを行ったが長州は応じなかった。
従って軍を進発せざるを得なくなった。この間、幕府の大軍が京阪に滞留して無為に日を過ごしている。

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 13:42:56.60 ID:kgR0QJ9y0
>>344
>これ自体が、「村が藩に対して貢献しなければならない」って意識を前提にしてるよね。

江戸時代は村落は自治を認める代わりに貢納を代行するので、藩への貢献も何もないよ。
江戸時代の村落共同体がまるで一方的な弾圧の対象だったような理解は全く不正確
と言うより30年ほど前の小学校の教科書的な理解

あと庄内藩と会津藩を何か対立物のような言及をしているが、
実際は庄内藩もそれなりに収奪を行っており、天領が庄内藩の統治に委ねられそうになると反対運動が起きている。
また盛岡藩、久保田藩でも農兵は活躍している。
庄内藩と会津藩の相違は純然たる収奪の差と言うより、「武士の軍隊」を徹底して民衆の武装を禁じるか、
それとも「士庶共同の藩防衛」に転換するかの差。
会津藩も、例えば猟師を組織して狙撃隊を作っているがこれはそれなりの戦果を挙げている。
また会津藩統治下の民衆も、藩軍と共同して官軍への抗戦を手伝った事例もある。

一言で言えば、会津は民衆を戦力とすることの害悪のほうが大きいと判断したんだよ。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 13:52:33.08 ID:kgR0QJ9y0
>>344
衝撃隊は結成経緯を見てもかなり「志願兵」に近い部隊と言ってもいいんだが、
正規軍に編入されて行動すると以前のような活躍は出来なくなっている
また戦後に衝撃隊は仙台藩軍に準じて取り扱われたがこの時期に色々騒動を起こしている。

あくまでゲリラ戦や偵察行動を行う「奇兵」として意味があった部隊。
庄内藩農兵、幕府歩兵、長州藩諸隊のように正規軍の戦闘序列に入ることは出来なかったと言っていい
細谷はこうした特色を踏まえて運用していたんだよ

350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 13:59:29.45 ID:kgR0QJ9y0
>>345
幕長戦争は前述の通り、幕府の予定になかった戦争。
諸藩は幕命により参加したものの戦意はほとんどなかった。
(そもそも薩摩、佐賀、宇和島、さらには会津藩ですら藩内の反対もあり参加していない)

その結果、小倉口は小倉藩が事実上孤軍となって戦うしかなくなり、
熊本藩の解兵が報じられると慶喜は簡単に陣頭指揮を諦め勅命による停戦を求めている。
つまり幕府側としては長州戦争は交渉がこじれて軍を進発せざるを得なくなった戦争でしかなく、
収まりがつけばどうでもよかった。勝つも負けるも止めるも、その主導権は終始幕府にあった。

実際、長州戦争後に慶喜は薩摩藩との融和に努め、幕薩間の関係は一時的に融和となっている。
こんなこと、ちょっと長州戦争の経緯を調べれば大体書いてあるのに、
幕軍の士気を過大に高く見積もり「数十万の大軍を押し返した」などと言ってる時点で、
太平記と大して変わらんことを言ってるね君は。

351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 14:03:24.78 ID:kgR0QJ9y0
>>346
奇兵隊が志願兵、他藩の徴募兵が徴兵、よって前者が優れている
と言う図式化の無意味さを指摘したわけなんだが。
奇兵隊は仰せ付け、願い出の両方の方式で兵を徴募しており、当然員数差出を義務化された例もある。
また入隊後は実は新撰組顔負けの過酷な演習と隊内秩序によって縛り上げられているし、
処刑、またリンチと思われる事例も多数記されている。

我々が想像するような「志願兵」なら円満脱退も可能だったはずだが、実際には違う。

352 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 14:12:03.31 ID:kgR0QJ9y0
つまり「志願兵」は組織への帰属意識や忠誠心が高く、従順に上からの命令に従うことが必要で、
そのためには一定のトレーニングが必要。奇兵隊でもここは一番苦労した部分
なぜなら百姓上がりが勝手に政事を論じるようになっては困るから。

農兵の場合、領民と藩の意思疎通が円滑であれば帰属意識と忠誠心の部分はかなりカヴァーされている。
会津・二本松のように武士と民衆の区分を厳しく引き、
戦力としての価値より武装の危険を重視した藩は、当然、農兵の参戦意欲は低い。

353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 14:24:10.14 ID:kgR0QJ9y0
「長州がなぜ勝ったのか」から考えると、1人で10人に当たる異常に高い士気とか天才的な指揮能力とか、
非現実的な想定をせざるを得なくなる。幕府軍のほうに原因を求めるのが自然な発想。
高杉の小倉口の戦略も、幕軍の内情を計算した上で組み立てられている。

軍隊が一時的な熱狂のみで成立するものならこれほど楽なことはない
しかし現実にはアナーキストの民兵が多く参加したスペイン内戦を見れば分かる通り、
必ず分派が出来、内部対立が起き、最後は引き締めを行わなくてはならなくなる

半年前にエジプトやチュニジアで革命を先導した若者はどこに消えてしまっている?
最後は日頃から活動を行っている宗教組織だけが残る。最後は組織、組織、組織だよ

354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 15:47:06.46 ID:j7aMmAWl0
東国の農兵っていうのは自警団的なものや韮山代官所のものを除けば農兵といっても博徒や猟師が中心だよ。
武州世直し一揆や出流山挙兵の鎮圧に活躍した岩鼻代官所の農兵も発端は近隣農村の自警団だが
渋谷鷲郎に従って上記の行動に参加した農兵というのは300人程度で博徒や猟師が中心だ。
背景には目明しの存在に代表される関東取締出役と村役人と博徒の関係があったわけだが
これを一般農村に広げて農兵を徴発しようとした時に激しい反対闘争が起こって渋谷鷲郎は逃亡、
上州世直し一揆となり上州、野州の支配体制がほぼ崩れるに至っている。

355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 17:43:49.80 ID:8Qr1WGsY0
>>347
>参加した大藩にも戦意がなかったと君は自ら証明してくれた。
熊本藩に戦意がなかったら、命じられても前線には出てこないでしょ。その場で帰国すればいい。
幕府の行動によって、戦意より幕府への不信感が勝ったという話ですよ。
味方の戦意を掻き起こし高めるのではなく、戦意を落とさせてどうするんですか。それも司令官が。

>なぜ幕軍が指揮不統一だったか?それは幕府の予定にない戦争だったから。
>この間、幕府の大軍が京阪に滞留して無為に日を過ごしている。
予定に無くても、この期間が丸々余裕ですよね。
この間に長州藩は準備してるんですけど。

>>348
>村落は自治を認める代わりに貢納を代行するので、藩への貢献も何もないよ。
下記にある”功労”は、藩への貢献の結果ですよね。
>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。(>336)
暗黒史観などとは関係ありませんし、この場合でも問題なのは藩(国)への帰属意識です。

>実際は庄内藩もそれなりに収奪を行っており、天領が庄内藩の統治に委ねられそうになると反対運動が起きている。
軍隊の士気の話ですよ。
これについて庄内を挙げなかったのは、新潟で庄内藩が徴兵を行った事例を見つけられなかっただけです。

>一言で言えば、会津は民衆を戦力とすることの害悪のほうが大きいと判断したんだよ。
しかし結局、切羽詰まってから農兵隊を組織していますよね。
君が>352で指摘しているように、領民と藩の意思疎通が円滑であれば臨時徴集でも農兵の士気は高くなると思いますが、
会津藩では苛政と身分意識がそれを妨げ、僅か5千の官軍の前に敗れたと板垣は指摘しています。
苛政については、京都守護職の出費という斟酌すべき点もあるとは思いますが。

>>349
問題行動があったことを含めて、異論は全くありませんが。

356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 18:46:25.39 ID:3PN7UkDU0
5000人とはいえ新式の武器があるしそのあと援軍がくるるので・・・・・。

357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 21:20:01.24 ID:1nOHMAYd0
>>350
>幕軍の士気を過大に高く見積もり「数十万の大軍を押し返した」などと言ってる時点で
勝手に人の発言を捏造しないでくださいよw

>つまり幕府側としては長州戦争は交渉がこじれて軍を進発せざるを得なくなった戦争でしかなく、
>収まりがつけばどうでもよかった。
そんな軽いものではありませんよ。徳川が諸侯の上に立っている正当性である
軍事的優位(武威)の失墜が明らかになったのですから。

358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 21:22:56.74 ID:1nOHMAYd0
>>351
>当然員数差出を義務化された例もある。
だから少数の例外を過大評価しすぎだと

>新撰組顔負け
そりゃ新鮮組みとの類似性が見られるのは当然でしょう
新撰組も義勇兵適要素があるのですから。それは、新撰組結成の過程を調べれば明らかです。

>我々が想像するような「志願兵」
あなたはどのような志願兵を想像しているのですか?

359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 21:39:02.77 ID:1nOHMAYd0
>>353
>1人で10人に当たる異常に高い士気とか天才的な指揮能力とか、
>非現実的な想定をせざるを得なくなる。
非現実的ではありませんよ。10倍の敵にも士気旺盛に戦う軍は戦史上にいくつも例があるでしょう。
西郷隆盛もこの戦いを見て『幕府の兵十人に我が兵一人の算盤を立てて行けるといふ決心を
立てた』と言ってます。

スペイン内戦とアラブの春との対比ですが、前近代から近代への過渡期と
現代では状況が違うので比べようがありません。
江戸時代では軍事システムが長い太平のため軍事的合理性とは関係ない非合理的な理由により
権威をもってしまい、幕末になっても軍事改革には抵抗が付きまとった。
しかし、長州は攘夷を梃子にそのような抵抗を一掃し幕府より、より過激に軍事改革を行えた。

360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 22:55:23.55 ID:lowYP5m70
>>354
まず2つ論点があって
・東国は攘夷戦争を起こしたわけではないから、賊徒からの自警団的な組織で足りたのは当然。
・幕府歩兵の改組前は普通に知行地から徴募した農兵や、郷土で組織した農兵が存在する
博徒・猟師だけなどと言う驚くべき指摘は聞いたこともない(時期間違えてない?)
長州藩諸隊も、攘夷戦争と言う対外戦争に際して(と言うより攘夷戦争を利用して)民衆動員に成功したもの。

>>355
熊本藩ですら解兵したから慶喜は大打ち込みの中止を決めたんだよ。
君の指摘は「戦場における幕軍の指揮不統一」を一生懸命論証しようとしているが、
それはつまり「長州戦争の帰趨を決めたのは幕軍内部の要因にある」ことの立証に他ならない。

それと幕軍が京阪地方に長期滞留を余儀なくされたことによる財政的影響、
さらに物価やら民衆感情への影響も考えないのか君は?長州戦争が尻すぼみに終わった最大原因は、出費だぜ。

361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:02:27.52 ID:lowYP5m70
>下記にある”功労”は、藩への貢献の結果ですよね。
>>逆に功労を挙げれば村内での地位が上昇する。(>336)

何を言いたいのかよく分からない。村落共同体と藩を同一視するなと教えたはずだが。
繰り返すが、江戸時代は村落共同体は自治を認められる代わりに貢納を行う関係にある。
単純な支配−被支配の関係ではないし、村落の中で生きていくこと=藩に忠節を尽くすこと ではない。

>軍隊の士気の話ですよ。
>これについて庄内を挙げなかったのは、新潟で庄内藩が徴兵を行った事例を見つけられなかっただけです。

これも何を言ってるのかさっぱり分からない。徴兵・志願兵の別と士気が直結するものではないと指摘したはずだが。

>会津藩では苛政と身分意識がそれを妨げ、僅か5千の官軍の前に敗れたと板垣は指摘しています。
>苛政については、京都守護職の出費という斟酌すべき点もあるとは思いますが。

君は一体何を反論したいんだ?庄内藩と会津藩の民衆の武装についての思想が異なると私は指摘したんだが、
板垣の言ってることはまさにそれだろう。会津藩は民衆の武装のほうにより大きな害悪があると判断した。
私の言ってることをいちいち補強しているのか?

362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:07:50.45 ID:9CvE4lCf0
結局統率士気の差
政治が上手く行なわれなければ民衆が戦うだけの士気も道理も起きない

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:12:12.70 ID:lowYP5m70
>>356
何度も言うように、熊本藩は最初から戦闘に加わらず、
唯一参加した戦闘の直後に解兵している。来援がどこから来る。
薩摩、佐賀、宇和島、芸州など西日本雄藩はおろか会津藩ですら参戦慎重論が強かった。
慶喜は自前の兵力がゼロなんだが。

>>357
確かに幕府(と言うより一会桑政権)が主導した戦争で戦果が挙がらず、武威が低下したと言う効果はあるよ。
それは長州戦争の「結果」であって「敗因」ではないけどね。
しかし、現実には慶喜はその後、対薩融和路線を取ることによって慶応3年中盤まで政治的優位を保っている。
慶応3年の四候会議などで島津久光らを慶喜が一蹴したのは説明するまでもないね
薩長を討幕に踏み切らせたのは長州戦争の幕軍の敗北ではないし、幕府が倒れた直接の原因でもない。

慶喜は勅命と言う形を取っての停戦が可能だった。幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない。
幕府にとっては、長州戦争が予想外の敗北に終わっても政治的に巻き返すことが可能だった。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:22:46.65 ID:lowYP5m70
>>358
美祢市の史料は、地元の記録と奇兵隊の記録が照応する(両方から裏を取れる)
一例を示しただけで、奇兵隊が仰せ付け、もしくは願い出と言っても徴兵に近い形の隊士募集を行っていたのは事実
事実上の徴兵の中ではっきりそう確認できる一例を示しただけだが。

>>359
それは西郷隆盛の主観であって、事実ではないね。
しかし鳥羽伏見戦争では新政府軍5000、幕府軍は8000と言うところ。
現実には1対10なんて兵力差を士気の差で覆した例は…
戊辰戦争の「戦闘」ではなく「戦争」レベルでは、存在しない。

>江戸時代では軍事システムが長い太平のため軍事的合理性とは関係ない非合理的な理由により
>権威をもってしまい、幕末になっても軍事改革には抵抗が付きまとった。
>しかし、長州は攘夷を梃子にそのような抵抗を一掃し幕府より、より過激に軍事改革を行えた。

抵抗を一掃して過激に軍事改革を進めれば一騎当千の強者が出来上がるなら苦労はない。
長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
そんな精神主義的な議論は太平洋戦争の御前会議でやってくれ。

常識的に考えても、幕長戦争は長州に原因を求めるより、
客観情況および攻める幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
家近良樹は戦争の帰趨を決めた要因として、完全にそのような常識論に立っている。

365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:31:24.77 ID:lowYP5m70
長州藩諸隊の強さに勝因を求める議論は、どうしても精神主義や革命万能論になりやすい。
しかし例えば熊本藩、紀州藩、まだ未完成だった幕府歩兵がそれなりに健闘している事実を考えれば、
長州藩は幕軍の不統一を衝いて局所的勝利を積み重ね、同時に京阪地方への物資補給や民衆暴動、
さらに大軍の滞留による巨額の出費を強いられ、進軍の必然性が乏しかった幕軍が自壊した
と考えるのが最もバランスのよい説明である。長州藩サイドの要因だけ指摘しても30点程度しか貰えないだろう。
なぜなら薩摩藩が萩口に攻め込んだだけで、もしくは会津藩が前線投入を受け入れただけで、
先手の戦意は大きく変わったはずだ。薩摩藩が参戦したら長州は間違いなく敗北しているし、
会津藩兵その他が投入されても長州藩は大変な苦戦に陥ったと思われる。

しかし実際はそのような兆候はなかった。会津藩は逆に西南雄藩の反発を恐れ、
長州に対して慶喜よりはるかに寛大な条件を提示する有様だった。
薩長盟約第3条の自信もここからきている。
今日では長州藩諸隊にひたすら勝因を求めていくような議論は既に廃れている。

366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:44:59.96 ID:lowYP5m70
>>355
最後に、君は結成経緯から参戦までが「志願兵」に極めて近い衝撃隊について
>問題行動があったことを含めて、異論は全くありませんが。
と述べている。つまり組織行動を叩きこまれていない志願兵の限界を認めたわけだ。

細谷十太夫は自身が結成した衝撃隊の特徴を良く把握しており、
偵察や夜襲と言った、正規軍とは離れた軍事行動に衝撃隊を使用した。
しかし正規軍と同じ戦闘序列に加えられてからの衝撃隊は、特徴を消されて苦戦しているんだよ。
志願兵は「上からの」厳しい規律と秩序を叩きこまれて「戦争マシン」にならないと、
基本的にそういう使い方しかできないの。衝撃隊の場合はそれをやってる時間がなかったんだが

スペイン内戦のアナーキスト民兵は志願から実戦の過程で「軍隊組織」になることを拒否したために、
勇敢ではあったが規律ある行動がとれず、無駄な損害を積み重ね、さらに残虐行為が頻発している。
志願兵への美しい幻想を払拭するためにあえて説明したんだが分からなかったか?


367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:46:02.33 ID:9CvE4lCf0
長州の諸隊が強かった長州の士気の高さが要因
統率と兵站が優れてたから士気が高かったわけだ
逆に力を集中できるだけ巧みに政治が行なわれてたわけだ
鳥羽伏見も日露戦争も似たような松陰だね
太平洋戦争は士気はあったが兵站で敗れただけで

368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:51:36.39 ID:lowYP5m70
>>346
無理やり引っくくって作ったわけではない、と言う意味では、
確かに有志隊ではあるんだよ。ただしそれも諸隊の入口をくぐるまで。
その後は徹底的に藩国家の兵士としての規律と秩序を叩きこまれる。
もちろん死や暴力と言った厳しいサンクションを課せられ、脱走は敵前逃亡になる。

有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。

369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:52:29.46 ID:lowYP5m70
>>367
郷土防衛だから当然、士気は高いが、士気よりも装備の充実のほうが大きかったでしょうな。

370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:55:10.38 ID:lowYP5m70
あと鳥羽伏見に関しては、幕軍が平和的上洛が可能だと考えており、
ろくに戦闘態勢に入らず行軍していたのが大きい。
日露戦争に至ってはロシア兵の士気もまた非常に高かった。
日本でも紹介されていたが、ロシア兵の士気が低下したのは敗退が続き、
指導部への疑問が生じてから。

この両者に関しては、兵個人個人の士気より、軍指導部の問題が大きい。

371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 00:08:20.24 ID:koY7QgPd0
会津戦争を見れば郷土防衛だから士気が高いと限らない
日露戦争は装備や兵站面ではロシアが勝ってた
統率で日本が上回ってたため勝利できた

372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 02:14:36.92 ID:S7Jy840R0
>>360
>>>354
>まず2つ論点があって
>・東国は攘夷戦争を起こしたわけではないから、賊徒からの自警団的な組織で足りたのは当然。
>・幕府歩兵の改組前は普通に知行地から徴募した農兵や、郷土で組織した農兵が存在する
>博徒・猟師だけなどと言う驚くべき指摘は聞いたこともない(時期間違えてない?)
>長州藩諸隊も、攘夷戦争と言う対外戦争に際して(と言うより攘夷戦争を利用して)民衆動員に成功したもの。

というわけで長州のと関東の農兵は比較にならないね。とりあえずそれだけわかってくれればいいよ。

373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 07:57:41.94 ID:S2BacBll0
>>371
会津戦争だけ見た場合、会津兵の士気は高かったよ。
ただ戦略が間違っており、トンチンカンな場所に主力を配置した為に、
弱点の母成を突破されて決戦を行う事無く籠城戦になっただけでしょ。

374 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 08:57:54.01 ID:58rFcDAu0
そもそも劣勢な側が海上封鎖している幕府海軍を退かせて
九州側に渡航して攻撃する発想なんてあるのか?
普通は地の利生かして籠城するものじゃね?

375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 09:39:23.99 ID:hmTQKaxz0
>>338
>だから長州は義勇兵ばかりじゃなかったと言ってるだろ。

義勇兵は士気が高く、義勇兵以外も村社会という事で士気が高かったという話にしかならんぞ。
お前の主張だとwで、士気が低かった隊ってどこよ。

>一揆鎮圧のために結成された関東の農兵は極めて士気が高いよ。なまじな藩兵なんかよりはるかに使えた。

それは幕府の兵士に比べたらであって、長州の奇兵隊などと比べたら雑魚レベルだよ。
薩長の隊が突っ込んできたら、基本的に止められないからね。
最も戊辰戦争でも最前線を任せられた兵は、薩摩長州などの隊ぐらいのもので、
後は後方支援や占領地の管理などなんだから。
>>336
熊本藩は要地赤坂口を守っていたので動かなかっただけ、
長州が攻撃してきたら、きっちり守りきっている。
ここは山と海に挟まれた狭い街道であり、ここが抜かれると小倉城まで守れる場所はない所。

ただ流石の熊本藩長州の突撃を受けて損害を受けたので、守備変わってくれといわれたわけだが、
熊本藩以外守れる藩はいないし、誰もやりたくなかったので断った。援軍も送らなかった。
熊本藩はうちだけに厳しい戦いだけさせるのかといって、ぶちきれて撤退となった。
あわててその場所に小倉藩が守りに入ったけど、当然防げるわけもないのでそのまま押し込まれた。
戦線が崩壊してしまい、諸藩は退却、さらに家茂が死んだ事で小笠原は逃げ出したと。
後は城を捨ててゲリラ戦。幕府が馬鹿なんだよ。

376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 09:42:47.10 ID:bJs9fmY+0
会津は市民が傍観してた
長州と違って根本的に統率の体制に欠陥さらしてる
幕府も体制に欠陥あるから、尊王が叫ばれるようになった
鳥羽伏見の薩長は3千程度
幕軍は統率が効いてなく当然作戦もなく負けた
結局軍の強さと勝敗を分けるのは統率面が大きい

377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 10:16:36.15 ID:hmTQKaxz0
>>347
大阪で軍事訓練しとったやん。
戦争経験のない素人だけ集めたわけだから、軍として動かすのもとても大変だしね。
で、そうやって脅しをかけとけば従うとか甘い事考えていたのも不味かった。
諸藩への根回しも不充分、幕府が無理難題を押し付けているようにしか見えず、
別に幕府に恩顧があるわけでもない西南の諸藩が動くわけがない。西南の藩は外様ばかりだしね。
>>348
長州の場合はここが違う。長州は領民に対する思想教育などを行っており、
寺子屋などを藩が直営で立てて、そこの講師に武士を派遣しており、直接的な統治形態に近かった。
こうやって思想的にまとめ領民を「自発的」に志願させて高い士気と目的意識をもった兵士を作り上げた。
散兵戦術が出来たのはこういう所が大きい。国民国家までは行かないが、挙藩一致体制を構築できた。
大砲作るからって、自発的に領民が鉄などを持ち寄り、多くの志願兵が集まった、(なお長州の場合武器は自分で買うシステム)

>また会津藩統治下の民衆も、藩軍と共同して官軍への抗戦を手伝った事例もある。

それは詭弁というもの、一部の反例を挙げても全体はかわらん。
大半の民衆は新政府軍になだれをうって降り、逆に案内人なるほどだった。
板垣が駄目だこりゃとなったのも当然の話。
なお猟師は無理やり徴用された領民と違い、高給で雇われているからそりゃ真面目にやるよ。



378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 10:27:24.71 ID:hmTQKaxz0
>>374
その場合長州藩内が戦闘になるだろ。
領内があらされるのが嫌だったんだよ。
大島みたいに無茶苦茶されると思ったんだろ。
特に領民の支持が必須なわけで、領内でゲリラ戦や抵抗を続けるのは、
長州藩としては出来ない相談。
>>371
装備や備品などは実はロシア軍より日本軍のほうが優れていた。
帝政ロシアの兵士の武装なんて酷いものだったんだよ。
日本が戦闘で勝ったのは、要所要所への兵力の集中運用と、優れた武装と、高い士気。
いわば勝つべくして勝っただけ、日露戦争を調べてみると奇跡も偶然もない。
ロシアとして本土でないから、何が何でも守りきる必要もなかったので、
遅滞戦術でよかった。日本は戦債を売る為にも目先の勝利がほしかった。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 10:39:03.20 ID:bJs9fmY+0
日本のが優れてたは無いわ
陸軍は弾丸欠乏症に悩まされてたし兵力も補充もロシアが上
海軍力も戦力差は3倍ある

380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 10:43:32.48 ID:hmTQKaxz0
兵力が上でも極東に送るのが手間。
徴兵してシベ鉄で送るのに長い時間がかかるが、日本だと海渡るだけなので、
輸送が楽だったのが大きい、
シベ鉄の複線化前に戦争を仕掛けたのはこういう理由。


381 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 10:48:26.63 ID:bJs9fmY+0
日本はそもそも補充が無い状態
毎度の決戦もロシアが兵力でも火力でも上
旅順も攻め側は本来3倍の兵力が必要

382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 11:16:36.87 ID:hmTQKaxz0
>>381
実はそうでもない。最初の鴨緑江は倍以上、南山も倍以上、得利寺も兵力では負けていたが火砲で圧倒、大石橋でも倍近い。
兵力で負けてきたのは遼陽あたりからだね。
そして兵力では負けても火砲や機関銃の数では勝っていたりするので、何とかなった。


383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 11:46:29.09 ID:a1jayhkv0
>382
日露戦争後に大本営が戦訓として導き出したのは、「敵に勝つのならば敵よりも多い兵力・火力を
ぶつけること」というしごく当然のもので、日露戦争に参戦した指揮官たちはそれを良く承知していた。

けれども、国力の関係でどうしても敵と同等の兵力・火力で布陣するしかない場合も多々あって、
そうなった場合に前線指揮官が突撃をためらったり、積極的な指揮を執らなかったために
均衡が崩れて敗走した部隊が出たことを過度に気にして、「戦闘の勝敗を決定づけるのは
兵の士気の高さだ」という精神論を高く掲げることを選択してしまった。

そうした「ホンネ」と「タテマエ」の戦訓が並立していて、その実態が記憶に留められている
ウチは良かったんだけど、いつしか威勢の良い言動を良しとする軍人特有の空気感が支配的に
なっていくにつれて、「タテマエ」の方が強く残ってしまったのが、昭和に入ってからの陸軍が
暴走したあげくに非合理的な戦場での兵員配置を録り続けた理由でもあったんだろうね。

384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 12:25:28.50 ID:hmTQKaxz0
ちなみに遼陽あたりからは日本軍はかなり苦戦している辛勝レベル。
けっこう想定どおりの結果だと思うよ。
旅順も第一次は酷いもんだけど、二次以降は避難されるようなものでもない。

>>383
まあ士気はとても大切なものではあるけどね。
士気が低い軍はまず勝てないし。士気が高ければ軍はまず崩壊しないから、
最後まで粘り強く戦うし。無茶な突撃も実行できる。

スローガンとして言っていた人は分かるけど、真面目に信じていた人達がいたのが問題。
昭和期の東北軍閥のみなさんとかね。

385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 12:27:13.30 ID:QF1lvQ5m0
典型的なGHQ史観ですな
そもそもアメリカ相手に火力で上回る事など無い
戦争理想論に過ぎない
日露戦争も力をつけてから戦争すべきと主張した戦機を知らないのが居たが
そもそも日本が圧倒する力を備えていれば初めから戦争には至らない
むしろ火力で上回れない以上より士気が決する
士気が敗れない限り最終的に敗れる事はない
ベトナムやイラクはアメリカの士気を完全に破ったから勝てたわけだ
日本が敗戦から復興したのも最終的な士気は敗れなかったからだ

386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 14:39:45.28 ID:NyjFt5BL0
日本はなんだかんだ言って資本主義が根付く前の時代から要はお金が全てだったんですね。

387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 16:26:38.54 ID:/1cODVoR0
>>363
>慶喜は勅命と言う形を取っての停戦が可能だった。幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない。
長州再征は、幕末政治史上の一大事件であり、幕府支配を決定的に揺るがす役割を果たしたことは、
周知のことである。と家近良樹編『もうひとつの明治維新』にもあるんですけど。

388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 16:33:24.83 ID:/1cODVoR0
>>364
>長州藩は士気、装備、組織、訓練の総合体で軍事力を高めたのであって、
>君の議論は士気のみを論じ、装備、組織、訓練の要素を等閑視している。
軍事システムとその改革について述べているのに、何故そうなるのよ。

>幕軍の側に原因を求めるほうがはるかに説明しやすい。
幕府側というか、長幕双方の軍事に求めるべきであり、政治に求めるなら
政治的に幕府より圧倒的に不利な状況におかれている長州が勝った説明がつかないじゃん。

389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 16:36:14.39 ID:/1cODVoR0
>>365
>会津藩兵その他が投入されても長州藩は大変な苦戦に陥ったと思われる。
幕府側が軍事システムを改革して投入するならともかく
そのまま投入しても、結果は変わらん。鳥羽伏見で会津軍を見れば
そう考えるのが自然。

390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 16:40:35.74 ID:/1cODVoR0
>>368
>有志隊=志願兵、参加・離脱自由な義勇兵 ではない。甘っちょろい幻想が多いねえ。
変な幻想を抱いているのはあなたでしょう。奇兵隊は当初は義勇兵的性格を有していたけれども
それは慶応改革で藩政府の指揮下におかれ義勇兵的要素は弱体化したんですから。


391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 16:55:02.10 ID:6C5FmJesO
>>389
鳥羽伏見どころか、禁門の時点で長州に押されてる会津が、
軍政改革後の長州に挑んでも彦根の二の舞を演じそうだね

392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 17:32:04.36 ID:ct6c+DK/O
すくなくとも戊辰よりかは、ましになっていたかな。

たまよけ程度には利用できたでしょう。

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 04:24:12.88 ID:4PSTHhPs0
>>353
実際に10倍の相手に勝っているからね。
いや10倍じゃなくて30倍くらいか。最も日本の歴史上では10倍の敵にかったケースは別に少なくないが、
源平合戦の平家側は途中までほんと酷いものだったし、その鎌倉が楠木すら倒せなかったのも時代の流れ、
戦国時代でも川越の野戦などなくはないケースですな。
日中戦争になると10倍くらいなら余裕で勝てるというのが日本軍の認識でした。
(士気の高い共産党軍は除く)
戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね。
>>365
萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。
そして薩摩が動かないと分かったので、石見方面に進撃したんだし。

んで会津なんて来ても相手にならんよ。200人くらいの隊が一つあれば余裕で撃破だろう。
数合わせにしかならん。一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?


394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 05:39:35.41 ID:Q67abPbs0
>393
>戦争ってのは士気が崩壊するか、部隊が全滅するまで終わらないものです。
>部隊が全滅する前に士気が崩壊して、壊走状態になるだけでね

これはいささか乱暴すぎる論理だと思いますよ。
士気が崩壊する前に、被害状況を冷静に見定めてお互いに矛を収める場合だってあるんですから。

東條英機みたいに「負けると思ったときが負け、負けないと思っている限りは負けない」とかいうのは
無能な指揮官のタワゴトです。

>365
>萩には元々大村がいるので打ち破るのは薩摩でも容易ではない。

その薩摩を経由して買った武器があるからこその長州の勝利では?
薩摩が敵に回っていたのならば武器は手に入らないので、大村の戦術は根本から崩れます。

>一度でも会津が長州に勝った事があるのかね?

禁門の変の時には勝ってますよ。
薩摩の援軍云々はあるにせよ、結果として敗走する長州勢を掃討したのは会津藩兵。

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 05:41:55.87 ID:nade5K5U0
家近良樹さんは、『孝明天皇と一会桑』で会津の軍事力を
高く評価してんだよな。長州戦争に会津兵が参戦していたら、
戦争の行方はどうなっていたか分からないと。

396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 05:59:42.13 ID:+6TANqL4O

高杉晋作、桂小五郎が長州の士気を巧みに上げ…
大村益次郎の名参謀が相手の意表をついた奇策、戦略、戦術を用いて相手のハナをあかした。
近代兵器をここぞという場面で効果的に使った事が、極めて的確だった!
幕府側の被害も甚大になり、士気が下がり敗走するに到る。
こうなると長州側の攘夷のボルテージは必然的に上がり、各地へ飛び火し国内は攘夷の流れに感化されていった。
薩摩も小倉の戦いまでは、正直なところどっちつかずで傍観に徹し旗色を伺っていた感はあるのでは?
西郷はあわよくば…棚ぼた的な漁夫の利をねらっていたのではとたまに思う。
幕府も長州も疲弊している訳だしね。

それを考えると、やはり長州は勇敢だったと思う。大村益次郎の存在の大きさには感嘆する。



397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 06:18:40.36 ID:+6TANqL4O

盛岡はアホだったよな…黙って中立しときゃよかったのにさ…
秋田が倒幕になったからという安易な理由で佐幕になる始末。
会津も、庄内も既成のしきたりや形に無意味にすがる傾向あるよな?
画期的な事が出来ないというか、それが時代遅れでも間違っていても、よゐこちゃんでいたい的なさ。

秋田だけだよ北で感心できるのは!確かに知的好奇心の高い土地柄ではある。

でも北は総括的には陰湿さや内向的さは感じる。
コレを俗に村意識が強いとか閉鎖的や陰湿と揶揄される由縁なんだろうな。

東北の知り合いも少し変わった突飛さは罪になると嘆いていたわい。



398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 08:46:12.97 ID:FXrult5H0
>>394
根本的な知識が不足している
グラバーを通して密輸ルートは保持していたが薩摩への利益供与のためにあえて倍の不利なレートで購入した。
また禁門の変においても会津自体は突破されている。

399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 17:26:07.77 ID:4PSTHhPs0
>>394
薩摩は密輸ルートの一つであって、薩摩を経由しないでも密輸は可能。
元々上海ルートで密輸する予定だった。
また薩摩に対価で米送っている。
また上でも言っている人がいるが。禁門の変でも会津は破れており、
その後薩摩が追い返しただけ。
撤退中の追撃戦で勝った?w

そして被害状況が大きいから手打ちにしようとなったら、負けている側には勝利なわけで、
士気が崩壊しない限り問題ないという話になるよ。

400 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 04:03:37.51 ID:cwW71r+r0
>>396
その辺りがまさに胸躍る奇跡的な個性配置の妙ですな
もちろん紛れもない無比無類の天才軍師・大村益次郎の
神がかり的な采配、功績は今更いうまでもないが
個人的は大村にMVP

401 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 10:19:08.16 ID:8ygpFky+0
最強議論の際に
戦国時代は戦術が誇張された上杉謙信が最強といわれるのに
幕末は個人武芸に秀でた新選組が最強とか言われる不思議。

幕末こそ個人武芸がクソほどの役に立たず
戦術家大村益次郎などが評価されるべきなのに。

402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 08:31:36.18 ID:FZPOWwCZO
大村の真骨頂は戦術よりも、農兵の組織化やそれを活かす為の指揮官の教育じゃないかな
単純に近代兵器を購入して兵に与え訓練させるまでは、借金さえすればどこでも出来たが、
近代戦術を現場指揮官に叩き込んで合理的な指揮をさせたから長州は第二次長州征伐に勝ち、
それが出来なかった幕府は鳥羽伏見で(兵力、装備では)圧倒的有利なのに敗北した訳だし

403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 09:53:40.21 ID:SS02si/g0
戦術レベルの敗北の積み重ねが最終的に戦略レベルの優勢を覆してしまったんだよな。
なのに作家等は「長州が勝つべくして勝った(キリッ」とかほざいている。
大鳥など優秀な人材を掣肘せずその才覚を発揮させることができていれば
戊辰戦争は違った結果になったろうな。

404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 10:43:28.92 ID:jazQUWSwO
>>403
大鳥と大村は緒方こうあん一門ですね。

大村が幕府歩兵隊を指揮していたら・・・・・・

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 12:23:30.18 ID:q1IvMQfzO
>>385
最後の一行の強引なとってつけ方にワロタw

406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 12:33:27.04 ID:FZPOWwCZO
>>403
人材登用にかけては幕府も結構実力重視だから大村に並ぶ人材はいたかもしれないのにね
しかし大きな権限を与えるには身分制が邪魔をした、そこが幕藩体制の限界なんだよな
その点、長州は殿様が木戸や高杉に丸投げ状態だから、
医者の大村に軍を統括させることが出来た
大村が幕臣なら、ここぞと言う時に重用されずに宝の持ち腐れになってただろう

407 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 21:32:59.88 ID:K0Q6OLqL0
>>401
土方なんかが評価されてるのは新撰組組織を作ったからだろ?
新撰組はかなり近代的な組織だったから。

408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 08:31:41.62 ID:8LzCvJl10
>>377
対長州交渉がどんどん長引き、インフレ激化や民衆暴動の発生の中で
大坂で幕府歩兵がどんな荒んだ状態だったかは周知の事実のはずだが。

あと長州藩が寺子屋等を通して思想宣伝を行いやすかった素地は確かだが、
その程度なら庄内藩も三方領地替えの時に巧みに領民の運動を盛り上げていった。
あと長州と庄内の大きな違いは、それだけやったにも関わらず、
長州は攘夷戦争の時に2回とも連合軍に協力した民衆が出たし、対幕戦の直前には一揆も発生しているが、
庄内藩は特にそのような形跡はない。長州藩の方針に対して反発する民衆がいたのは事実。
庄内はリッチではあったが普通に搾取もしていたが、その種の内乱は発生していない

長州藩の領民だけなんか自由な理念で結ばれてたような馬鹿らしい幻想は捨てろよ
現実には長州は対幕戦を遂行するに当たって藩内の不穏分子の粛清を行っている
この臨戦態勢が長州の強さで、ゆえに史料が散逸して収集が大変になっている

409 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 08:48:57.64 ID:8LzCvJl10
>>378
領外へ踏み出した理由はそれでいいとして、
幕府海軍どころか、6月17日、7月3日、長州藩諸隊が交戦したのは小倉藩のみ。
熊本も久留米も千人隊も参戦していない。幕府海軍は損傷を極度に嫌い、また出船に消極的
追い込まれた小倉藩が独自行動を宣言したため、小笠原長行が懸命に説得してようやく前線に出たが
士気は高まらない。戦闘中に使いを次々に走らせたのに幕兵は参戦要請を断り、幕府海軍も出てこない
しかも小倉藩兵は籠城。で、途中で完全に切れて、翌日帰国。
防長回天史にも書いてある事実だが

410 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 08:59:41.84 ID:8LzCvJl10
>>387
長州戦争の意義は大きいが家近はその原因を幕府側に求めて負けるべくして負ける戦争と言ってるんだって。
ちなみに家近は「もちろん長州戦争においては長州藩が頑張ったことは大きいが、それ以上に…」
と「公論」に規定された戦争だったことを強調しているがそれは知ってるよな?

>>388
だから長州藩の要因に装備の充実と薩長盟約を挙げてるじゃんか。
あと政治的には薩摩、佐賀、宇和島をはじめ有力諸藩が不参加で萩口が最初から潰れてる
一橋慶喜のほうが当初は予定になかった戦争に引き込まれた分、政治的には不利だよ。
幕臣ですら途中で解兵を堂々と進言する奴が出るほど叩かれたからね

>>389
会津藩兵の投入は一橋慶喜の虎の子の軍事力の投入だから大きな意味を持つよ
戦争を主導した一橋・会津が前線に立てば諸藩の傍観状況が一挙に変わる
熊本藩の動向が事実上、小倉の命運を決めたように、会津藩兵の投入があれば局面は変わった可能性は否定できない。
もっとも会津藩は長州問題の前面に立ちたくなかったし、慶喜も投入のタイミングを決断できなかった。

411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 09:12:46.82 ID:8LzCvJl10
ちなみに幕府は6月下旬にパークスから関門海峡の航行について抗議を受けている
そしてこの席で小笠原長行は「下関にては戦なきようにしたし」と明言してるんだが。

長州はパークスさんにお礼を言わんといかんね。
これで幕軍からの下関攻撃は事実上消え、2回目の攻撃でも幕軍は戦意に乏しかった
その間に石州戦線が片付いて軍事的重圧が劇的に改善されている。
長州戦争は7月4日、総督茂承が辞表を提出する騒ぎになった時点で事実上終わってる

412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 09:28:38.08 ID:8LzCvJl10
>>393
富士川合戦の官軍は出発に手間取った上、東下の際に兵員が集まらず、
甲斐源氏の本拠地の駿河に踏み込んで数的不利で勝てないと判断し撤退を決断していた所に
奇襲をかけられて動転した。

長州戦争の幕府軍も全く同じ。まず江戸の幕閣が上洛の賛否で大揉めした上に、
上洛後は長州征討の勅許がなかなか下りず、1年も待たされる羽目になった。
ちなみに薩摩藩の恩をかなり都合よく忘れてるようだが、元治2年初頭には大久保が幕軍上洛を警戒し、
長州は捨て置くよう朝廷を懸命に説得してる。これがこの後の幕兵上洛後も響いてくる

413 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 10:20:59.99 ID:DwQiwlZm0
>>410
投入してもボコボコにされますよ。

414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 11:43:55.40 ID:rA5sNH0ZO
>>410.413
幕府歩兵隊、紀州のたまよけに、なるでしょう。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 17:51:34.81 ID:tOACZTLP0
弾除けになったら後は幕府歩兵と紀州藩が数の力で押すだろう。
もともと芸州口は芸州藩が先鋒を辞退したため彦根・高田が繰り上がったが、
両藩には長州藩の布陣を警戒する声が大きかった。
この方面を管轄する竹中重固は大島、芸州の両方面を押すことで岩国藩の中立化を狙っており、
武装について詳しく指示を与えなかったので緒戦が悲惨なことになった
紀州藩、紀州藩と言うけど紀州藩も方面隊ごとに武装バラバラだぞ、この段階では
会津藩は勅命を奉じているし、戦闘意欲だけはどの戦いでも旺盛だから、幕府直轄軍として動かせる最大の部隊なんだよ
熊本藩や紀州藩のように幕軍幹部が他藩との調整に追われる相手ではないからな

416 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 17:55:03.66 ID:0HwkSrCj0
開戦までを長引かせたのも、
第二次征長に消極的あるいは反対の藩が多かったのも、
かなりのとこ長州側の情報戦略が効いてるだろ。
自分は義勇兵的な側面を過大に評価する気はないが、
かなう限り挙藩一致体制に持っていったのもしかり。
薩摩のみならず内外に味方や共感者を増やす工作をして。
幕府側の足下は揺らいでたんだろうが、
そこにさらにせっせと穴を掘ったのは長州なんだよね。


417 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 17:58:54.71 ID:tOACZTLP0
もっとも、開戦直前に江戸で大規模な打ちこわしが発生、
開戦半月で本荘と紀州藩が大喧嘩してるような状態では
いかな芸州口の紀州藩兵が武装していても退守が精いっぱいで、
組織的な戦争遂行そのものが無理でしょうな。



418 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:16:40.85 ID:tOACZTLP0
一番の勝因は開戦を1年以上延ばしてその間に武装と軍制を整えたことにあるわけだが
(芸州口でも維新団なんて初陣だし、最前線以外は急きょ徴募・結成された兵が大勢いた)

その点では幸運が色々重なったんだよね。上洛前後から9月の兵庫開港問題までは薩摩藩の工作が大きかった。
ただ勅許が下りた後になると長州藩が交渉を引き延ばしてる
長州のは時間稼ぎなのか、それとも幕府への不信感で凝り固まってたのかよく分からない。
桂・広沢は戦略的に引き延ばしてた可能性が高いが、高杉は慶応元年9月段階では単純に主戦論ぽいんだよな…

長州の情報戦略は確かにあるが、実際は禁門の変の段階から西国諸藩は長州に同情的だったので、
薩摩藩の止戦工作と一緒で実際は長州が工作を始める前からストップがかかってたんだよな
西国雄藩だけでなく大奥、家茂と慶喜、いろんな対立があった。それに桂たちの外交が上手く連動していった。

419 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:28:28.65 ID:SIX2OhE+0
たしかに長州の政略は流れに棹さす形ともいえる。
そりゃ利用できる状況は利用しようと必死だよ大軍相手にするんだから。
引き延ばしは意図的。
てか、先方から手を出してくるのを待ってた。大義名分が力になるから。
だからその前の手出しを固く戒めた。
そんで血気に逸った連中をガツンとやったのが第二奇兵隊の事件。

420 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:58:16.47 ID:rA5sNH0ZO
>>415
紀州の洋式部隊の囮というか弾避けが、最適ですね。

421 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:02:06.47 ID:rA5sNH0ZO
>>411
内政干渉だと突っぱねて、しまわなかったのか(怒)。

422 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:02:24.65 ID:0q8ikZOU0
長州戦争は難しいよ。幕府・征長諸藩側で何本も政治ラインがあって、
どういう人脈や、派閥で括るかによって論者ごとで全く差が出てくるし評価も変わる
その点、長州側は編纂戦史が残ってるからいきおい戦闘中心の記述になりやすい
その結果、ミラクル長州軍が1人で10人を倒しましたと言う太平記も真っ青の戦史が信じられることになる

でも防長回天史もちゃんと読むとそんなことは書いてないけどね



423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:09:09.61 ID:0q8ikZOU0
>>421
だって長州の賠償金払ってる最中だもん、まけてもらって
幕府は400万両くらい戦費に使ってるけど、こういう余計なローンもあるからね

424 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:11:43.29 ID:rA5sNH0ZO
だから馬鹿にされるんだ(怒)。

ぶっ殺してしまえ(怒)。

425 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:23:14.40 ID:VCrzI0f00
うん、防長回天史、意外にマトモだったんでびっくりした。
もちろん長州ビジョンなんだけど、
記述の根拠となる書簡文書類もちゃんと示してあるし。
あと、妙なライブ感があるんだよね。
宍戸備後助が芸州でがんばってたこととか、
岩国から長州の結束を崩そうとしてか仲裁提案にくる彦根藩使とか、
遠島になってた俗論派首領の息子が許されて軍に加わったとか、
黒田了介と品川ヤジの動きとか、
細かいエピソードが面白い。


426 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:25:26.63 ID:VCrzI0f00
パークスはロッシュと違って基本的に中立だよ。
中立が結果的に長州有利に働いたのは事実だが。

427 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:32:17.93 ID:7A7jZhVt0
>>375
お前の言うことが本当なら熊本藩も幕府海軍も千人隊も極めて間抜けだね
だって彼らも持ち場を守ってたよ。熊本藩に来援要請されても持ち場を守ってたけど
2度にわたって孤軍奮闘した小倉藩もその戦闘中はちゃんと持ち場を守ってた。お城と言う一番大事な持ち場を
それで戦闘中に全然来援が来なかったのに怒った熊本藩が引き揚げ、久留米その他の諸藩も解兵

熊本藩に出動を求めてもいっかな出てこない、熊本藩が来援を求めたら他藩は持ち場を守ってる
これを「傍観」「バラバラ」と言うんだろ?


428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:37:50.51 ID:7A7jZhVt0
>>426
この場合のパークスの中立は、幕府海軍の出動を結果的に封じてる
幕府海軍も船の損傷がイヤで出撃に消極的だったけれど、この交渉以降は一層それが鮮明に
7月3日の時も突然引き揚げて長州が不思議がっている

429 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 19:47:10.83 ID:rA5sNH0ZO
内政干渉があったとしても、勝てなかったのは情けない(怒)。

430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 23:47:34.45 ID:ItIohVgx0
結局高杉さんのクーデターのおかげだよね

431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 23:59:07.07 ID:Rmvhp4GF0
>>430
あんな杜撰な挙兵は通常すぐに鎮圧されるレベルなのに
成功したのが不思議だ

432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 10:42:46.29 ID:S8xJEH5u0
>>410
>と「公論」に規定された戦争だったことを強調しているがそれは知ってるよな?
公論による掣肘も結局は軍事的弱体化の結果であって、戦闘で勝利をえれば
沈黙せざるえないよ、戊辰戦争の経過を見ればね。

>だから長州藩の要因に装備の充実と薩長盟約を挙げてるじゃんか。
>あと政治的には薩摩、佐賀、宇和島をはじめ有力諸藩が不参加で萩口が最初から潰れてる
>一橋慶喜のほうが当初は予定になかった戦争に引き込まれた分、政治的には不利だよ。
>幕臣ですら途中で解兵を堂々と進言する奴が出るほど叩かれたからね
サボタージュした藩を強調しているけど、長州と幕府を比べてみてくれよ。
出兵を断った藩より出兵に応じた藩の方が多いし勅許も得ている。翻って長州は
薩摩しか同盟藩はおらず朝敵認定されてる。どちらが政治的に孤立しているのは
明らかだろ。

>会津藩兵の投入は一橋慶喜の虎の子の軍事力の投入だから大きな意味を持つよ
>戦争を主導した一橋・会津が前線に立てば諸藩の傍観状況が一挙に変わる
戦場にさらす死体が増えたところで、状況が好転するとは思えないのだけど。
むしろ会津の軍事力の無力さが露呈して政治力が低下するんじゃ。虎の子が
張子の虎じゃ意味無い。せめて、譜代だけでも軍制に容喙できてれば良かったのにねー。

433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 10:58:30.40 ID:ZSEv1Dc1O
会津も銃の凄さを身に染みて、改革がすすめばよいが

434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 12:16:23.29 ID:IbCARc2q0
会津がきても長州の士気が上がるだけだと思うがw

435 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 12:55:29.98 ID:KAwARyL80
戊辰戦争じゃ、主力が居た越後でも役に立ってないからなぁ、会津。
同盟してた米沢や庄内から、後方で略奪してないでもっと前線に出て来いよって言われるし。
鳥羽伏見の時は不利ながらも頑張ってたのに。
第二次長州征伐に出て負けてれば、その辺の展開の方が変わったかもね。

>>366
論刀槍主体の部隊で正規戦しても戦績が芳しくないのは道理だと思うが……
しかも仙台藩正規軍が刻限通りに戦場に現れない状態で。むしろ正規軍に規律があったのか疑問。
あと、スペイン内戦で民兵が人民戦線軍への参入を拒否したのは、元々アンチファシズムしか
共通点のなかった共和国政府内部での政治的対立が原因だよ。
CNT、FAI、POUM vs 共産党の構図。これがバルセロナ事件で顕在化する。
これは志願兵義勇兵に限った話ではなく、徴兵軍でも内戦時に分裂するのは同じこと。
スペイン内戦でもそうだったし、ロシア革命でも正規軍が分裂した。

>>368
正規軍でも志願兵は成立するよ。今の世界の軍隊は殆どが志願制でしょ。
それに上でも書いたように、徴兵制の正規軍でも略奪に走った例は幾らでもある。特にソ連軍の蛮行は有名だが。

436 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 16:49:41.62 ID:ZSEv1Dc1O
>>434
会津が打ち倒されるのは、確実ですよ。

437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 18:37:21.45 ID:xj1j/avU0
>>432
>公論による掣肘も結局は軍事的弱体化の結果であって、戦闘で勝利をえれば
>沈黙せざるえないよ、戊辰戦争の経過を見ればね。

そりゃ新政府は武力行使によってしか政治的優位を確立する方法がなかったからね
鳥羽伏見の段階、いや江戸進撃の段階でも対内的対外的に必ずしも優位を確立できてないんだから
幕長戦争においては公論による掣肘が働いていたのは厳然たる事実
お前、結局、家近の換骨奪胎による反論は諦めて軍事力万能論に転換したと言うことだろ?

>サボタージュした藩を強調しているけど、長州と幕府を比べてみてくれよ。
>出兵を断った藩より出兵に応じた藩の方が多いし勅許も得ている。翻って長州は
>薩摩しか同盟藩はおらず朝敵認定されてる。どちらが政治的に孤立しているのは
>明らかだろ

薩摩藩しか同盟藩って、薩摩藩が参戦しなかったから萩直行便を免れて助かったんだろう
お前は圧倒的な維新の主役である薩摩藩に対する感謝の念が足りない。
参戦した大藩がどのような状態だったかは小倉口に象徴される通りだ。
先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
これでどう戦意が騰がるんだよ。幕軍は政治解決が失敗して進撃せざるを得なくなったツケが出て、
開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。
どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな

>戦場にさらす死体が増えたところで、状況が好転するとは思えないのだけど。
>むしろ会津の軍事力の無力さが露呈して政治力が低下するんじゃ。虎の子が
>張子の虎じゃ意味無い。せめて、譜代だけでも軍制に容喙できてれば良かったのにねー。

前に見たように幕軍の敗北の原因は装備もあるが、最大原因は指揮の不徹底。
つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、
政治的効果は絶大なんだよ。紀州の辞任騒動も、雄藩の引き上げもその瞬間になくなる。
慶喜の最大の弱点は、手持ちの兵力のなさだからね。会津藩兵投入は局面を大きく打開する可能性が高かった

438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 18:55:24.82 ID:xj1j/avU0
>>435
>あと、スペイン内戦で民兵が人民戦線軍への参入を拒否したのは、元々アンチファシズムしか
>共通点のなかった共和国政府内部での政治的対立が原因だよ。
>CNT、FAI、POUM vs 共産党の構図。これがバルセロナ事件で顕在化する。

いやスペイン内戦の政治過程はお説教不要、戦後は共産党が悪かったと言う左翼が多いんだが、
実際のところ、秩序と規律によって戦える組織を作っていたのは共産党だった
共産党がアナーキストと対立した原因はその軍事指導方針を巡る対立にある
あとアナーキスト内部でも対立が発生していた。ボランティアを徹底すると結局それは不可避になる
ついでに言えば国際旅団内部でも同じ。共産党とそれ以外の政治対立に敗因を求めるのは20年くらい前の研究
何でかと言ったら左翼の旧左翼=共産党嫌いと「自由で民族的な」アナーキスト幻想が残ってたから。
最近は非共産党系左翼内部の軍事指導をめぐる混乱もちゃんと指摘されている

>これは志願兵義勇兵に限った話ではなく、徴兵軍でも内戦時に分裂するのは同じこと。
>スペイン内戦でもそうだったし、ロシア革命でも正規軍が分裂した。

近代化と徴兵制で縛り上げた日本軍には分裂現象は起きていない
むしろ民衆の社会的地位上昇の回路として軍への過剰な支持があった
長州諸隊も諸藩有志隊や農兵もそれと同じ、ボランティアと徴兵を截然と区別できると思ってる時点でそもそもおかしい
最初はボランティアであっても最後は軍事組織にならなきゃ話にならないのはみな同じ
スペイン内戦は上述の通りだし、ロシア革命はもともと正規軍が崩壊して革命の母体になってる有様だろう

>正規軍でも志願兵は成立するよ。今の世界の軍隊は殆どが志願制でしょ。
>それに上でも書いたように、徴兵制の正規軍でも略奪に走った例は幾らでもある。特にソ連軍の蛮行は有名だが。

ソ連軍の場合は最高指揮官たるスターリンが許可したからね
まともな正規軍であれば秩序と規律が重視されるから、アナキスト民兵のように即決処刑や虐殺なんてそうそう起きない

なんか話がどんどん抽象論になってるんだけどさ、最初は仰せ付けの例が奇兵隊日記にあるじゃん
と言う話からだったよな?長州藩でも事実上村方町方を通しての徴募が採られていた
入口が志願であっても途中で国家の戦争機械化しないと使えないと言うのは分かるな?
奇兵隊日記やその他の郷土の史料に登場する凄まじい数の粛清やリンチは、
明らかに階級上昇と雇用、そして少しの幻想を持って入隊した庶民出身兵に対する藩権力の「改造」の証左だよ
奇兵隊に入隊した部落出身兵はリンチ受けて殺されてるだろ。

赤根武人は士庶平等を強く要求する傾向があったが、高杉は明らかに身分差別撤廃反対派だぞ

439 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 19:04:43.00 ID:xj1j/avU0
いま幕長戦争のメインは長州藩サイドじゃなくて禁門の変から第2次幕長戦争に至る幕府側の政治過程だけど、
長州藩おたくはほんとに四境戦争史観で止まっちゃってるのな。

20年〜30年くらい前まで、長州藩の勝利が必然みたいに言われてきたのは
長州藩サイドに防長回天史、奇兵隊日記、吉川経幹の開戦前の史料とか編纂済み史料があったのに対して、
幕府・征討軍諸藩側は当然ながら記録の編纂をやってないから長州藩側史料の洗脳を受ける
バラバラな史料を集めてその史料価値を論ずるところから始めなくてはいけなかった

長州戦争は、慶喜らが媒介となって朝幕一体となる政権が誕生する過程のコマに過ぎなかった

440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 19:10:03.01 ID:xj1j/avU0
>>431
高杉の功山寺決起の性格については、白石正一郎が「暴挙」と非難した有名な逸話でも分かる通り、
当初は奇兵隊をはじめとする諸隊からも賛同者がなかった。文字通り偶然成功した義挙と見るのが正解

441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 19:18:04.38 ID:xj1j/avU0
会津観光史学もいい加減とんでもないが、だからって時計の針を巻き戻して
近代史で四境戦争史観をはびこらせる気はないな。
長州戦争は会津も薩摩も参加していない政治交渉の延長上の戦闘なんだからなおさらだ。
政治プロセスは江戸の幕閣、幕臣、朝廷、将軍、一会桑、それを支える諸藩、批判的な諸藩、
民衆、これらの当事者の間で成立していた。極論すれば対長州方針はその反射に過ぎない。

442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 20:32:30.01 ID:D0k71tU/0
その程度の当たり前のこと偉そうにいわんでもw

たしかに長州マンセーが行きすぎるのはキモいが、
このスレの主旨からいっても長州側の勝因をいろいろ語るのは当然

幕府側に敗因があるってのはわかってるから
人の意見叩き潰して悦にいるよりも
どうしたら幕府側が勝てたのか語れば?

443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 20:35:25.92 ID:ZSEv1Dc1O
圧倒的な海軍力を活かすために、榎本が帰国するまで延期かな?

444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 21:57:36.08 ID:S8xJEH5u0
>>437
>お前、結局、家近の換骨奪胎による反論は諦めて軍事力万能論に転換したと言うことだろ?
初めから軍事的失敗とくにシステムと言ってるだろーが。家近氏をだしたのは
あなたが家近氏を引用しているのに
>幕府にとっては勝敗がクリティカルではなかった戦争と言わざるを得ない
何て言ったからだよ。

>薩摩藩しか同盟藩って、薩摩藩が参戦しなかったから萩直行便を免れて助かったんだろう
>お前は圧倒的な維新の主役である薩摩藩に対する感謝の念が足りない。
>参戦した大藩がどのような状態だったかは小倉口に象徴される通りだ。
>先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
>これでどう戦意が騰がるんだよ。幕軍は政治解決が失敗して進撃せざるを得なくなったツケが出て、
>開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。
>どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな
感謝ってなんだよw感謝ってwwアホな伝説も何も動員兵力差を比べれば間違ってねーだろ。

>前に見たように幕軍の敗北の原因は装備もあるが、最大原因は指揮の不徹底。
装備といより幕府の兵制だと原則諸藩の軍事編成に口出しできないのよ。

>つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、
>政治的効果は絶大なんだよ。紀州の辞任騒動も、雄藩の引き上げもその瞬間になくなる。
>慶喜の最大の弱点は、手持ちの兵力のなさだからね。会津藩兵投入は局面を大きく打開する可能性が高かった
いくら征長令が出ていても虎の子の軍事力を使ってもそれを実行する力が無ければ、ますます政治的失墜が
酷くなるだろ、普通に考えれば。

445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 22:12:00.97 ID:RRE+BJGq0
>>440
偶然でないな海軍奪ってるし
幕府海軍にも奇襲成功させてる
だから高杉は天才といわれてるんだよ

446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 22:36:20.76 ID:ZSEv1Dc1O
長生きしていたら奇兵隊の反乱に、参加しましたかね。

447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 07:34:03.71 ID:hnSZwhR7O
長生きしてたら井上コース
旧士族の決起に同情するような性格ではないだろう
ただ、高杉が死ななかったら前原が活躍することもなく、
萩の乱は前原が関わらない違う形になったかもね

448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 09:03:11.45 ID:1olvxQqYO
この時代の幕府の最大兵隊動員って、どれくらいできたの?30万くらい?

449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 12:14:32.85 ID:wMoHXPsO0
>>437
>どうでもいいが薩摩藩の協力の成果を認めたと言うことは1人で10人を破ったとかいうアホ伝説は信じなくなったわけだな

間違っているな、長州は一人で30人くらいを破った計算になる。

>先鋒総督を出した紀州藩ですら茂承が7月初めに辞任を言い出す騒ぎになっている
>開戦後わずか半月で長州と交渉を始めてるんだが。

その時点ではもう三方面でボロ負けじゃないか。
小倉でもボコボコにされている最中。そりゃ勝てないとなるよ。

>つまり言いだしっぺの一橋慶喜が直属兵力である会津藩兵を投入すればいくら犠牲が多くても征長令が出ている以上、

会津藩の兵がきても勝てるわけねーだろwつかあいつら戊辰戦争でも何したんだよw
後で略奪してただけだろうが。そんなの来ても鎧袖一触で蹴散らされるだけ。

つかんなこというなら、萩口に幕府自らこいよw
一番大変で危険な萩口を薩摩に投げて、薩摩が動けば勝てたはずとかw
そりゃ薩摩だってそんな被害が出そうな所に進撃したくないに決まっているだろ。
幕府が上陸作戦で萩占拠とかやればよかっただろw薩摩でもそんなの絶対に無理だが。
上陸作戦という難しいもので、お膝元を占領とかできるわけがない。
ただでさえそこには大村がいたってのに。

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 12:48:57.72 ID:wMoHXPsO0
>>438
>まともな正規軍であれば秩序と規律が重視されるから、アナキスト民兵のように即決処刑や虐殺なんてそうそう起きない

長州の規律ある奇兵隊と違って、会津の正規軍は滅茶苦茶だろ。
略奪徴用のオンパレード、おまけに街道に火を放って焦土作戦。

>奇兵隊日記やその他の郷土の史料に登場する凄まじい数の粛清やリンチは、

ならその史料をだせよ。具体的にな。

>入口が志願であっても途中で国家の戦争機械化しないと使えないと言うのは分かるな?

訓練その他は当然あるだろうな。でそれが何か?彼らが志願兵で士気が高く、
幕府の大軍を蹴散らしたのはかわらんよ。

451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 16:31:13.70 ID:XfNSN6zP0
>>442
その当たり前のことをまるで分かってないじゃん。
長州戦争において重要なファクターはほぼ幕軍で起きてるんだが
なぜ長州征伐において、長州藩兵側からの戦闘の経過記述しかないの?
防長回天史を引き写してた時代と全く変わらない古色蒼然たる人間ばっかり集ってるんだけど

452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 17:07:16.48 ID:SGNHUlA80
>>445
白石が暴挙と記したのは三田尻襲撃の後だよ
>>450
ただの訓練ではない。日本軍では軍法会議によらない私刑による殺人は横行していない。
ましてや出自が判明しただけで殺された例など…
薩摩藩や会津藩ですらこんな例は聞いたことがない

それと幕府の大軍、幕府の大軍と言うけど幕軍の内情は右の通り

453 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 17:09:10.93 ID:SGNHUlA80
と言うか「幕府の大軍を蹴散らす」と言う発想そのものが固定観念なのだけどな
なぜなら幕府は開戦直後に休戦交渉を始めているから(これが原因で紀州藩の総督辞任騒動が起きている)
この時期の戦争は政治プロセスの延長だから、幕長戦争そのものが政治の誤算で開始された戦争

幕府海軍も連携より船の損傷を恐れている状態なんだから全く戦意がない
幕府軍は何を目標にしていいのか分からないのだから、戦略的勝利などあり得ないんではないかな
第1次征長戦から1年半も経過した以上、無駄な戦争を避けることが勝利の方法だった。
ただし、これを幕府内部から見ると無駄と言い切れない面が出てくる

長州戦争は幕府の統制力の問題と言うより、ひとえに「予定にない戦争」だったんだよ
幕閣内部はこの時期に京と江戸の政権が曲がりなりにも一体化している

454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 17:14:38.63 ID:SGNHUlA80
まあベトナムが米軍に勝ったからベトナムはアメリカより強いと思ってるような時代には、
長州藩が民衆パワーで幕軍を蹴散らしたと言う発想が相性が良かったのかも知れないな

455 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 17:22:12.94 ID:SGNHUlA80
>>449
ちなみに
>幕府が上陸作戦で萩占拠とかやればよかっただろw薩摩でもそんなの絶対に無理だが。
>上陸作戦という難しいもので、お膝元を占領とかできるわけがない。

連合艦隊は上陸して長州藩の民衆の協力を経て砲台を撤去してますが何か?
萩口が実現していれば長州藩は守備兵力を大幅にそちらに向けざるを得ないから、
時間差で芸州→石州→小倉と各個撃破していった作戦が完全に狂うことになる
薩摩藩が参戦していても(第1次征長戦の初期の西郷の構想ではまさに長州滅藩だったわけだが)
長州が勝てたとかどれだけ戦況を楽観視してるのかと。

456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 19:06:19.62 ID:wMoHXPsO0
>>452
そもそもそれがフィクションだろ。
もしそんな例があるなら示せ。
部落民まで隊に入れることを認め屠勇隊が結成が許され、
さらには諸隊の中には参加を許されたのは長州くらいのもんだろう。
他藩の扱いと比べても雲泥の差だな。
他藩で彼らへの武装の許可などできるわけがない。

457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 20:35:20.98 ID:88ve4Qix0
>>454
ベトナムに限らず戦争形態や独立戦争全てそうだっての
ナポレオンがなぜ強かったかというと国民軍を率いたから
当時欧州諸国は金で雇う傭兵
ナポレオンはヨーロッパを制覇したが、諸外国に模範されて勝てなくなった

458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 20:56:10.60 ID:zqQmehL+0
ナポレオンの国民軍と比べて奇兵隊の凄まじいところは
奇兵隊以外の全世界を敵にまわしたところだね

459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 21:41:18.41 ID:l4qF5XO40
そもそもベトナム戦争は戦場では米軍が圧倒していたのだから
長州征討とは状況が全然違うな

460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 21:44:55.64 ID:88ve4Qix0
フランス革命時ヨーロッパは戦争は傭兵がよいとされた
しかし兵を集めるには金がかかる
ヨーロッパ全土を敵にしたフランスは滅亡に直面し兵を集める為に徴兵制を断行
民衆を集めて四方から殺到して来る職業軍人の連合軍に対抗
革命で生じた体制軍制の変化を新しい戦略で運用したのがナポレオン
ナポレオンは諸国と対等のことをやったのではなく、諸国とシステムが違う体制戦略を活用した
ナポレオンにボロカスにやられ、その体制を諸外国も模範した
以後ナポレオンは戦争に勝てなくなる

461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 22:08:11.48 ID:l4qF5XO40
>>453
戦略的勝利は幕府自信があげているように長州処分の執行だろ。
勅許と台命という当時の最高意志をえているにそれを貫徹できなければ
既存のシステムへの正当性が喪失する。

462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 03:49:20.39 ID:5vlTrL1X0
>>459
ベトナム戦争では現地の最高司令官が開戦直後に休戦を申し出たりはしてないし、
米軍部隊が離反して帰国したりもしてないな。長州征討のほうがはるかに大変だ

>>461
勅許がなかなか出ないから大変だったんだけど。

463 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 03:59:08.13 ID:5vlTrL1X0
>>456
小郡宰判出身兵が奇兵隊に入隊し、即座に処刑された事例は超有名
論文でも奇兵隊の性格を論ずる際に触れられる
>>457
ナポレオンが率いたのは「徴兵制によって徴募した兵士」ですよw

464 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 04:07:28.22 ID:5vlTrL1X0
だいたい芸州口の緒戦で活躍した維新団も慶応2年5月に藩命によって組織されたもので、
服はおろか笠まで黒ずくめの服装をするよう規則で命じられていた。もちろん正規軍にはカウントされてない。
事前の風当たりが非常に強かったのが窺える。被差別部落出身兵を別組織にしたい思惑が明らか。
被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね

465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 04:19:14.20 ID:5vlTrL1X0
あと上関茶筅隊の強制解散も有名。
部落解放史ではやかましい論争があるんだが、
少なくとも出身地を離れて自主的に結成の動きを示した賤民については
長州藩はこれを徹底的に弾圧している。あくまで藩命に従って結成されたもののみ公認。

466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 04:33:52.10 ID:5vlTrL1X0
何というのか、諸隊はあくまで入隊許可制、設立許可制であって
屠勇隊も明らかに攘夷戦争の際の戦力不足を補うために賤民を動員したもの

藩秩序を守るのが目的だから良民の隊と一緒にする考えは最初からない
動員令に触発されて良民の隊に紛れ込んだ兵は容赦なく処刑されたんだけどね

467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 07:57:01.76 ID:NxzZ2FKo0
>>453
開戦直後から負けまくりだろ、そりゃ適わないとみて停戦交渉するのは当たり前。
>>455
連合艦隊?あれアヘン戦争並の戦力だぞ、17隻の艦隊数百の砲門と2000の海兵隊からなる大軍だ。
それでも長州よりも死傷者が多かったくらい損害が出ている。
それと同じ事をどこがやるんだよw

>時間差で芸州→石州→小倉と各個撃破していった作戦が完全に狂うことになる

時間差じゃないな。そもそも芸州口と石見口と小倉口は同時に行われている。
大島が少し速く始まっているが、大島の戦闘が終わる前に他の方面が戦争を開始している。
萩に上陸していれば石見口の侵攻作戦がなくなるだけ。

468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 08:49:36.89 ID:NxzZ2FKo0
>>465
それ集めた奴が新撰組と繋がっている可能性があったから解散させられただけ。
んな胡散臭い奴等を認めるわけないだろうが。
それ以外の隊はたいてい認められているのと比べて、何故解散させられたのかくらい思考しろよ。

そもそもこの事例が上の464はお前の意見を否定しているな。
つまり当時の長州では自主的に多くの隊があちこちで結成されたという事だよ。
その後藩に認められただけの話。
藩命に従って結成されたもののみ公認されたわけじゃない。
自主的に多くの隊が当時長州では作られていた、そしてその多くが隊として正規軍として認められたという事だ。
一部敵と通じている疑惑のあったところは解散させられたが当然の事だろう。
また奇兵隊にも部落民の入隊は許されているよ。

>被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね

そもそもこれがフィクション、藩はそんな約束してないし、
彼らもその為に戦ったわけじゃないだろ。まあそんな奴がいないとまではいわんけどね。
維新団にしても功績が良かったので士分取立てを提案されたが、その分金や土地くれと言った者ばかりだったし。
また奇兵隊にも部落民は入隊しているだろ。

つか部落なんて大半は今で言えば、下っ端役人なわけで、
獄吏とか警邏、処刑とかやっていたわけで、警察や刑務みたいな事やっていたんだよ。
ただ武士の手先となり農民を支配し、彼らが対処するわけだから当然大多数の農民から恨まれる。
間接統治のクッションの役割に近い。戦争の時の徴用されるのは別におかしくないだろ。

つかね部落差別なんて、明治以降作られた幻想みたいなもんだがな。
農民の不満を抑える為に、身分的に士農工商の下においただけで、
実際は武士の命令で農民を支配する手伝いしていただけなんだよ。

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 17:35:20.08 ID:ZhjHBlcG0
>>462
ベトナム戦争とは過程も時代も違うのにどちらが大変かなんて
比べられんよ。
和平交渉もそもそも、本荘が宍戸と小田村を解放した6月25日時点で
既に芸州口は撃退、逆襲され、大島は奪還され、石州口では益田が失陥、
大敗をきっしている。たとえ本荘が和平工作をしなくても結果は変わらないよ。


470 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 18:26:17.40 ID:Dmml4gC2O
萩に上陸するのでなく、艦砲射撃はどうかな。

その前に日本海で決戦ですね。

471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:26:52.12 ID:W5NwjSpw0
>>467
>開戦直後から負けまくりだろ、そりゃ適わないとみて停戦交渉するのは当たり前。
6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。事前の政治交渉の延長
この段階では芸州口は紀州藩の参戦で長州藩の大野攻略が失敗しているし、
小倉口も石州口もまだ戦闘が開始されて数日に過ぎない
慶喜が8月に陣頭指揮を1回は決意していることを考えたら、明らかに幕閣内部での対長州方針の混乱を示すもの

>連合艦隊?あれアヘン戦争並の戦力だぞ、17隻の艦隊数百の砲門と2000の海兵隊からなる大軍だ。
>それでも長州よりも死傷者が多かったくらい損害が出ている。

連合艦隊はあくまでも関門海峡の安全航行の保障が目的で、深追いする意図がなかったから
長州は講和程度で助かっている。上陸戦の際、
またアヘン戦争の場合、艦隊が北京の外港の天津沖に出現したから内訌が発生し、
僅か2000人の兵で進撃を許すのはむしろ異常事態
たとえば元寇の際、鎌倉幕府軍の前線は数千程度だったが1日で数万の元軍を撃退している
(上陸後に)
高杉が萩の沖合で空砲をぶっ放しただけで鎮静会が出て来たように、
薩摩藩が萩口に参戦したらまず他の3つの方面で攻勢に出られない。勝利の帰趨は決定的。
薩摩より長州が上とか何の根拠があって思い込んでるんだ

472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:31:19.80 ID:W5NwjSpw0
>時間差じゃないな。そもそも芸州口と石見口と小倉口は同時に行われている。

開戦は同時だが、幕軍は完全にバラバラに戦ってるし戦況もまちまち。
戦闘の経過が良好な所から膠着状況の所へ兵を向けられる。結果的に時間差になってるんだよ。
長州藩側の史料でも石州口で大勝した余剰兵力を他の口に振り向けたのは明らか。
しかし萩口が実現した場合、余剰兵力の移動そのものが難しくなる上に、
熊本藩・紀州藩が体面上撤兵できなくなり、小倉方面でも長州は劣勢に回る。


473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:37:26.89 ID:W5NwjSpw0
>>468
>それ集めた奴が新撰組と繋がっている可能性があったから解散させられただけ。
>んな胡散臭い奴等を認めるわけないだろうが。
>それ以外の隊はたいてい認められているのと比べて、何故解散させられたのかくらい思考しろよ。

それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。
お前は被差別民が在地を離れて庶民と共に戦うと言うのがどう言うことか分かってないだろ。
志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態
だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ
しかもこの段階では比較的被差別民に理解のあった吉田利麿や赤根武人がおらず、
保守的な高杉だったから一層弾圧が酷くなった

474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:42:27.03 ID:W5NwjSpw0
>そもそもこの事例が上の464はお前の意見を否定しているな。
>つまり当時の長州では自主的に多くの隊があちこちで結成されたという事だよ。
>その後藩に認められただけの話。

自主的に作られた隊が藩に潰されたと言う証拠しか出てこないけど?

>藩命に従って結成されたもののみ公認されたわけじゃない。
>自主的に多くの隊が当時長州では作られていた、そしてその多くが隊として正規軍として認められたという事だ。
>一部敵と通じている疑惑のあったところは解散させられたが当然の事だろう。

いや、だから諸隊は藩公認制だっつの…
藩が公認しない隊設立あんてあり得ない
お前は自由な隊の設立と言うのが藩権力にとっては危機だと言うのが分からないの?

>また奇兵隊にも部落民の入隊は許されているよ。

それは身分移動を藩が認めた場合ね。その対価は藩の要求する労務や金品の提供
江戸幕府だって労務の提供を行った弾左衛門以下を平民に取り立てている
別段珍しいことじゃない

475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:48:13.12 ID:W5NwjSpw0
>>468
>>被差別部落側も身分解放への希望を繋いで奮戦したんだけどね
>そもそもこれがフィクション、藩はそんな約束してないし、

お前、適当にググってあそこの部落問題のサイト見てきたんだろw
あれはあくまで想像
維新団は士分取立を断ってるがそれは生計の道が断たれるから、土地利用権のほうが切実な問題だったから
藩にとってもそっちのが都合がよかったんだよ。
被差別身分の兵でも、例えば奇兵隊に入隊した小郡宰判の兵は明らかに在地の部落から離れた身分移動を求めている
長州藩の被差別部落民が身分解放を求めていなかったなんて超絶理論を打ち立てるとはね。
知ったかぶりはするなよ

476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:54:44.18 ID:W5NwjSpw0
>つか部落なんて大半は今で言えば、下っ端役人なわけで、
>獄吏とか警邏、処刑とかやっていたわけで、警察や刑務みたいな事やっていたんだよ。
>ただ武士の手先となり農民を支配し、彼らが対処するわけだから当然大多数の農民から恨まれる。
>間接統治のクッションの役割に近い。戦争の時の徴用されるのは別におかしくないだろ。

農民だって戦時徴用は別におかしくないよ。
おかしくないから徴用はされて当然だとか言い出したら、
理想に燃えた志願兵たる諸隊の意義を自己否定することになるが構わんのか?w
幕府と違って雇い兵やら徴兵じゃなく、あくまで志願兵だから長州藩の諸隊は優秀だったんだろw

>つかね部落差別なんて、明治以降作られた幻想みたいなもんだがな。
>農民の不満を抑える為に、身分的に士農工商の下においただけで、
>実際は武士の命令で農民を支配する手伝いしていただけなんだよ。

じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。
弾左衛門は大富豪だから経済的差別なんて存在しないよ。残るのは社会的差別だけだろ。

477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 19:59:05.48 ID:W5NwjSpw0
>和平交渉もそもそも、本荘が宍戸と小田村を解放した6月25日時点で
>既に芸州口は撃退、逆襲され、大島は奪還され、石州口では益田が失陥、
>大敗をきっしている。たとえ本荘が和平工作をしなくても結果は変わらないよ。

は?芸州口では長州藩はこの時点で2度にわたって大野奪取に失敗しているし、
小倉口も最初の戦闘があっただけ
パークス小笠原会談が行われたのは26日だからまだこの段階では下関への攻撃の芽は残っている
それと本荘が停戦を求めたのは「25日以前」 であって25日じゃないよ

478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 20:09:15.67 ID:W5NwjSpw0
身分引上と醜名除去
ttp://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/56203.pdf

一応参考までにこれ弾左衛門の事例ね。明らかに身分移動を求めているし、
幕府は弾左衛門以下60余名の身分引上、および「手下の者」の醜名除去を認めている
まあ弾左衛門に関しては長州戦争以前から幕府の引立てがあったのだけど

479 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 20:18:37.80 ID:W5NwjSpw0
幕府軍は既にこの段階で1年も京阪に滞留して多大な乱費を余儀なくされた上に、
直前に薩摩藩が正式に不参加を通達し、芸州や佐賀ら他の諸藩も右へ倣えでアフガンの治安維持よりはるかに酷い状態
士気が著しく下がってるから幕府海軍も艦隊温存を第一にして出撃しなかったんだよ

だから開戦直後から本荘が見切り発車してるの

480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 20:27:13.37 ID:W5NwjSpw0
あと長州オタはよく「死傷者は連合艦隊のほうが多かった」と言うけど、本当に印象操作だね。
薩英戦争の薩摩藩は死傷者数や士官の犠牲で比べたらイギリス艦隊に圧勝。

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 21:42:43.08 ID:W5NwjSpw0
長州藩が粛清の大義名分に新撰組を使うと言うのは周知の事実だと思ってたけど、
まだ間違える奴がいるんだね…驚いた
この時期の長州藩の粛清事例を見ると、新撰組は長州藩に1万人くらい工作員を潜伏させてたみたいだけどねw

482 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 22:26:08.55 ID:ZhjHBlcG0
>>477
大野が攻撃を受けているから逆襲されていると評したんだよw
それに下関攻撃もパークスの圧力が無くてもできたか疑問。
幕府海軍は戊辰戦争を見る限り練度が高くない。


>>479
アフガンではソ連もアメリカも正規戦では勝ってたけど。
幕府は正規戦で大敗しているから、アフガンとも状況は違うな。


483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 23:33:01.44 ID:wdDGKr2r0
国民国家を形成した国ほど強い国は無いわけ
幕府が弱く長州が強いのは当然だね
植民地化された国は全部形成できなかった国
独立した国は形成できた国
日本は植民地にされる前に自力で形成した世界でも珍しい国だね

484 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 00:59:36.65 ID:eVQZHs1+0
>>482
大野の奪取を2回も失敗してるじゃん
幕府海軍と言うより、この時期の海軍は命中精度は低いよ。
阿波沖海戦でも薩摩海軍と幕府海軍が撃ち合ってほとんど当たってない
それでも阿波沖海戦で幕府海軍は薩摩海軍を追っ払ってるけどね
日本海海戦のように練度が高い方がむしろ異常
ロシア太平洋艦隊もウラジオ艦隊は捕捉されなかったが、彼らは石炭代も惜しんで演習もできないありさまだった
薩摩海軍ですらしかり、にわか仕立ての長州海軍は奇襲くらいしかできない

あと長州と交戦した諸藩は小倉口では小倉藩、
芸州口では急きょ先鋒に繰り上がって武装の指示も受けてない高田、彦根藩
石州口では益田、浜田に旧式装備の紀州藩兵と言った弱兵のみ
芸州口では緒戦の勝利に乗じて攻めかかったら相手が紀州藩の洋式部隊に入れ替わり、
天狗党にコテンパンにされた幕府歩兵も善戦して以後は全く進めなくなっている

あとアメリカはアフガンの軍閥を懐柔して初期に支配を広げてるから、
正規戦で打ち破ってるわけではない。
内乱国家のアフガンと曲がりなりにも権力が藩に一元化されてる長州と一緒にする時点でちょっとね

485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 01:02:03.61 ID:eVQZHs1+0
長州オタもここまでかな。だんだん勢いがなくなってきたぜw

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 01:08:12.03 ID:eVQZHs1+0
天狗党>>>幕府歩兵=長州諸隊 これが真実w
>>483
攘夷戦争での長州の講和条件はアヘン戦争とそっくりだよ。
幕府も米国船来航の兆候はモリソン号の前から把握していたが、
江戸〜大阪間の航路が遮断されたらアヘン戦争の二の舞になると判断、
開港を前提に予備交渉で突っぱねてみせ、最も大事な国内商人の保護を図るという落としどころで纏めている

これが全く理解できなかったのが尊攘激派。単に幕府が異国に屈したと見た
現在では幕府の対応は鎖国攘夷の成功に味をしめて大きなしっぺ返しを食った朝鮮と比較して
「およそ考えうる限りもっとも理想的」と言う海外の学究の評価すらある
特に慶喜は個人的魅力で諸外国公使からの信任が厚く、パークスも慶喜追討に関して強く反対している

487 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 01:16:32.37 ID:eVQZHs1+0
幕府オタと思われるのも何だから一言言っておくと、
幕府の意思決定はセーフティだったが遅かった。行政実務はきちんとしていたが政治的決定ができない
文久年間に幕閣首脳部が京と江戸、復古派と改革派、旧南紀派と尊攘派などに細かく分裂した段階で、既に幕府は役割を終え
あとは新しい公儀政体をどう作っていくかの政局に入っていた。
立場的には同輩中の首席に過ぎない徳川家が大政を委任されて単独でやっていくことはもはや不可能だった
なぜなら大政を委任されている以上、徳川家の内部問題が日本の政策問題に直結するから、これは解消するほかない
ここまでは慶喜も含めて全員一致。

だから文久以前の幕府体制のままで近代日本を担えたとは幕臣ですら思ってないわけだが、
(幕権派は幕権派で従来の幕府と違う枠組みを模索していた)それと長州戦争の評価は全く別なんだわな

488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 08:23:45.03 ID:AUJ9hcXD0
>>470
艦隊が沈められるだけ。480にもよくわかってない馬鹿がいるが、
当時は陸上からの砲撃が圧倒的に有利。いや今でもかな?
馬関戦争でも英国は旗艦に砲撃を食らい、艦長を含む士官が何人も死傷している。
薩英戦争の薩摩も同じく艦長以下を殺傷している。
当時の砲の制度で数メートル程度しかない砲に命中させる事はまず不可能。
たまたま偶然当たるのを待つだけ。
だが陸上からの砲撃の場合は、巨大な艦艇に当てればいいだけなのでけっこう当たる。
だから上陸戦が必須になる。

>6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。

何言っているの?負けまくりだから休戦を申し込むしかないわけ。だって勝ち目ないからね。
もうこの時点で岩国に侵攻してきた幕府軍は撃退されている。
その後逆激をこうむり10キロだったかな?逆に侵攻している。
あまりに前進しており、また戦場が広島になってしまい。
友誼を結んでいた浅野から、うちでこれ以上やらないでくれといわれて進撃を止めたくらい。
元々この方面は河川を利用して守備に徹する構えだったのにこの始末。

石見方面ももう益田にいる幕府軍は壊滅しているだろ。
大島ももう既に奪還し終わっている頃。もう幕府は詰んでいるんだよすでにね。
大島方面と石見方面から援軍が来る状況になっている。

>僅か2000人の兵で進撃を許すのはむしろ異常事態

連合艦隊の上陸した部隊は砲台を破壊したら、即座に撤退して沖に逃げているが?
長州はそれを修復して砲撃をやり返している。

>薩摩藩が萩口に参戦したらまず他の3つの方面で攻勢に出られない。勝利の帰趨は決定的。

石見方面で攻勢に出られないだけで、他の方面の戦闘結果は変わらんよ。
大島も奪還されるし、芸州方面も大敗して逃げ散って、何とか防いでいる状態。
小倉も大島の援軍が着たら、詰みだな。史実どおりに進む。
石見方面の戦闘がないだけ。
まあ石見方面の軍が萩に来ても結果はかわらんだろうさ。

>薩摩より長州が上とか何の根拠があって思い込んでるんだ

軍の質に大差はない、なら当時の輸送力の上陸戦になる。
補給すら間々ならない状態で城攻めとかw
無理に決まっているだろ。長州よりも小勢で上陸して勝ち目があるわけないだろ。


489 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 08:27:40.72 ID:2H62kQSD0
大島口ぇ・・・・

490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 08:46:36.06 ID:AUJ9hcXD0
>>472
小倉方面は第二奇兵隊、つまり大島を奪還した部隊が回っている。
石見方面の軍は岩国に回っている。つまり小倉陥落は変わらん。

>だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ

そういえばこれ初耳なんだがw有名って誰が言っているんだ?
部落民だから処刑されたとか言っているが。そんなケースは存在しないよ。奇兵隊にはね。
命令を無視して勝手に隊から離れた奴が処刑されたケースはあったが。まさかその事じゃあるまい?

>それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。

口実?ここ以外で第二奇兵などが出てきて強制解散させたケースなんてないよ。
解散させたケースでも、よくやったと集めた人には、お褒めの言葉と金一封などが下賜されて、兵士はどっかの隊に吸収されるだけ。
そしてこの集めた人は新撰組と実際にあっており、入隊許可などをしていた人。
んな胡散臭い奴が集めた隊を解散させるのは当然の事。

>志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態

は?身分移動なんてないよ。何言っているの?

491 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 09:43:25.61 ID:AUJ9hcXD0
>>474
>自主的に作られた隊が藩に潰されたと言う証拠しか出てこないけど?

おいおい、当時の長州では志願兵が殺到し、自主的に多くの隊が結成されていたという事だろ。
それが藩に認められて正規軍になったという事だよ。
当時の長州ではそういった諸隊は200くらいは合ったとされている。
その後統廃合されて正規軍として出発するんだよ。

ていうかお前の言っている事と矛盾するじゃないか、お前は長州は兵士がいなかったから、
村に言いつけて、徴兵していたといっていた。
だが史実としては長州の各地で隊を自主的に作っており、全くの逆だ。
お前の言っている事が事実なら、当時の長州は各地で自主的に隊が作られていたが、
藩はそれら志願兵の部隊を強制的に解散した、そして長州藩は今度はむらむらに徴兵を化し、
兵士を無理やり集めたとなるんだがw正気で言っているのかい?
志願者が自主的に隊を作っていたのが事実なのか?それとも藩の命令で徴兵されていたのか?w

>いや、だから諸隊は藩公認制だっつの… 藩が公認しない隊設立あんてあり得ない

違うな、「公認」ではなくて「追認」
自主的に兵を招集して隊を作っていた。藩が公認しない隊なんてそこらにあったんだよ。
その後正規軍として認められた隊と、そうでない隊がいただけの話。
隊号などが藩に認められなかった隊も珍しくない。解散させられた隊も中にはある、
大半は合併でなくなっているがね。

>それは身分移動を藩が認めた場合ね。その対価は藩の要求する労務や金品の提供

そんな条件はないよ。

>お前、適当にググってあそこの部落問題のサイト見てきたんだろw

どのサイトだよ。維新団の話をみても義兵が集結に条件を出していたなんて話出てこないぞ。

>被差別身分の兵でも、例えば奇兵隊に入隊した小郡宰判の兵は明らかに在地の部落から離れた身分移動を求めている

だからそいつ誰だよ?ていうかお前言っている事変わってないか?
お前は463と言っているようだが?入ったら即座に処刑されたんじゃないのか?

>長州藩の被差別部落民が身分解放を求めていなかったなんて超絶理論を打ち立てるとはね。

常識なんだが?そもそも部落差別がーとか言うのは明治以降身分が平等になってから言われだしたこと。
江戸時代は武士の下っ端として、農民の迫害を直接やっていたのが彼らなんだよ。
武士の変わりに汚れ仕事といってもいいかな?
むしろ彼らの身分と安全を保証していたのが武士。既得権益に守られた仕事を世襲していた人達なんだよ。
後は人や動物の死体の処理や、解体業務の人達。処刑とかは刑務系になり、
動物の死体にしても皮剥いだりして、色々作るわけ。
刑務も革製品もどちらも武家の下っ端なので、彼らの庇護下にあるわけよ。
ただ刑務系は農民や町民からすれば当然嫌われるし、「穢れ」である死体の処理をするものは、
生理的に嫌悪される、これは温暖多湿で腐りやすい日本では仕方ない。
こういうのは今で言えば、専門職や官吏の仕事なわけでこれを辞めて、
明日から農民や町民やれといわれても、普通困るだろwどうやって生活するんだよ。
身分開放の為に戦ったとか、当時の参加者が誰か言っているのかい?

勿論中には仕事が嫌で辞めたい人とかいただろうけど、それは別の農民や町民だってそうだからね。
家業を世襲する身分社会が江戸時代なんだから、それを抜け出すには、
その身分を金で買うしかない。


492 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 10:39:49.76 ID:AUJ9hcXD0
>>476
>農民だって戦時徴用は別におかしくないよ。

そうだよ。だけど長州の場合は部落も農民も志願兵でしょ。

>じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。

幕府のケースであって長州とは関係ないなそれ。
ていうかそいつ代々続く部落利権のドンだろ、今で言えば松本や野中のようなゴミくず。
そして彼らの主張は革製品や刑務などの独占産業を維持したまま、身分上げろというものでしかないな。
そいつの血筋もサラブレッド。

>>477
もう大島でも石見でも大勢は決している、芸州にしても長州の反転攻勢を必死に防いでいるだけ
そして長州としてはこれ以上の進軍は芸州藩が嫌がるので辞めておきたいところ。
>>479
テスト結果が酷かったから、昨日勉強してなかったからだもん、
本気を出さなかっただけとか言い出す餓鬼みたいだなw
つまり外交で失敗して、戦略でも失敗して、戦術でも失敗しただけだろ。
長州が西国の有力大名に根回しをして、出兵をやめてもらうように工作をして、
交渉を長引かせて、その間十分な準備をして、
領民に藩の行為の正統性を宣伝し、多くの志願者をえて高い士気を保ち、訓練の行き届いた兵士を用意したのに比べたら、
幕府はほんと馬鹿だなw

493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 11:01:12.90 ID:AUJ9hcXD0
>>481
まーたフィクションですかw
ていうか金作が無実だったとか思っているとはおめでたい奴だなw

あと見つけた。http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/cat4754864/index.html
ここの事か。
部落のやっている事を歴史として知っていれば、普通に分かる事ではあるんだけどな。
明治以降差別ダーとか言い出したのは。元々偏見がある職業。
江戸期は武士の変わりに農民と対立、明治期に解体業の独占を禁止された事。
革製品などを大量に作る必要が生じたため。
彼らの特権が奪われたので、生活が苦しくなったから。

彼らの身分差別というのは武士階級下の最下層的な身分であって、
農民とかとは別系統なんだけどね。まあ不満をそらす意味で農民より下とは位置づけられただろうが。
実質差などない。

494 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 11:22:49.18 ID:AUJ9hcXD0
>>486
長州なんか馬関戦争でも突っぱねているのに。幕府はあっさり屈服した馬鹿だよ。
列強にしても開港して貿易できればよかったのに、開港よりも賠償金を選んで、
結局払えなくなって、開港する始末。
長州が断固として断ったのと比べるとへタレとしか言いようがない。
幕府には貿易利権の独占というのが目的であり、それを他藩に譲りたくなかったから、
開港する場所は極力押さえたかった。
そして無計画に開港、金の流出、国内産業の保護をやらなかったから、
国内の物価が高騰して大変な事になった。生糸が安く買い叩かれた事で、
国内の生糸げ欠乏して、高騰した結果綿製品を作っていたものは大打撃、
そいて国内製品は舶来物に駆逐され、またまた綿製品を作っていたものは大打撃。
国内商人の保護?一部の輸出で儲けた特権商人だけだろw

さらに幕府がやらなくてもいい長州征伐などやっちゃったから、米の買占めと投機が起こり、
米価は八倍にも急騰。打ちこわしが多発。

>これが全く理解できなかったのが尊攘激派。単に幕府が異国に屈したと見た

明治政府が実際に上手く立ち回っているのをみれば幕府が屈しただけなのがよく分かる。

495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 17:54:52.91 ID:iX+XzQ8y0
>>484
攻め込んだ征長軍が芸州で防戦している時点でダメじゃないか。
それに全く進めなくなるは言いすぎだぞ。宮内を迂回攻撃されて
大野からも撤退してる。
日本海海戦の頃と幕末の海軍を練度だけで命中率比べるのは
不適切よ。当時の海軍は日進月歩だから。
アフガンに関しては状況が全く違うのに比較対象として出した479
に言ってくれ。


496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:00:55.20 ID:j5v3VnSJ0
>>488
長く書けば反論になるってもんじゃないぜw
>艦隊が沈められるだけ

じゃ何で高杉の海軍奪取がクリティカルだったんだよ?それと同じこった
薩摩海軍は上陸戦を必ずしも行う必要はない。下関に砲台設置を禁じられている長州船舶を拿捕し、
萩近辺に軍事的重圧をかければ長州藩内で高杉の時と同じことが起きる。
また石州口や小倉口に関しても薩摩海軍が出没することで進撃が困難になる
この時期長州藩の財源はかなりの部分通商に依存していたから荷を止めるだけでも大打撃
どっちにしても萩口の実現が決定的なのは間違いない

497 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:28:23.16 ID:cGfISQhnO
下関封鎖?馬鹿がいるなそんな事したら日本の物流が止まる。
江戸大阪の物価が更に上がり、幕府崩壊だよ。

498 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:40:56.28 ID:j5v3VnSJ0
>6月20日過ぎに「負けまくり」で休戦を申し入れる理由がない。

長州藩は19日に水野忠幹率いる新宮藩兵および幕府歩兵隊1個大隊を相手に
山上を占拠して攻撃を加えた。この時点で長州藩は大野奪取を固く決意し勝利を確信していた。
ところが不利な位置に陣取る両軍が前回をはるかに上回る銃撃にも頑強に抵抗し、
長州藩兵に多大な損害が出て20日についに敗退している。
守る紀州藩兵のほうは長州が高所から加える銃撃に対して遺体収容も出来ないほど不利な状態だが、
それでも抜けなかったんだよ。
さらに撤退も困難を極めた。幕府海軍の砲撃を恐れて迂回撤退を行っている。
長州藩はこの戦いで現場指揮官クラスを多く失っており、以後攻勢に出るのが困難となった。
25日に再度攻撃をかけたがまたも撃退されたのは前述の通り。

さらにお前が書いてる通り、芸州藩がこの段階で長州に「何でうちの領内でやるんだ」
とクレームをつけて長州は芸州藩内に押し込むのが難しくなっている。
石州口は津和野の中立で益田までは進んでるが、

それとお前は本荘の交渉が「25日」に開始されていたことを前提とするが、
本荘は「25日より前」に交渉を開始して、それが判明したのが25日なんだよ
また本荘はこの後呼び返されるんだが、彼の上申書の内容を見ると
「長州藩内が激徒に固められており、英薩がこれに協力して蒸気船を貸し出したり、
薩摩藩兵が一緒に抗戦している」だとか「西国諸藩や芸州が後備兵を出さす兵糧供給も難儀している」
とか、風聞や幕軍の内情をかなり悲観視して奏上しているのが分かる。
戦闘経過はその補足なんだよ。
彼が「穢兵」の存在を認識していること、またミニエー銃を長州藩兵が全員装備している、
などと語っていることから、芸州口の彦根・高田両藩と維新団の戦闘までは知っていた可能性がある。
とすると、当然小倉口の最初の戦闘での幕軍の内紛も知っていたと思われる。

しかし彼は「佐賀藩、薩摩藩、幕府歩兵」は長州藩に劣らない装備を持っていると認識している。
これを書いた状況からして、おそらく彼は芸州口の新宮藩兵の装備を知らない。
あと「フランスに30隻ほど汽船を借りてくれば絶対に勝てる」などとたわけたことを言っていて、
べつに「敗戦」を予想して停戦交渉を始めたわけではなく
本荘は現地で見聞した内情によって「いまの前線部隊では」勝算なしと判断して、
幕軍を強化して大規模攻勢をかけるほかなし、さもなくば停戦をと要請しているんだよ。

つまり彼は戦闘経過を見てこれを書いたのではなく、開戦前夜の状況からほぼ継続して
交渉を開始してるんだわ。

499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:43:09.42 ID:j5v3VnSJ0
なお本荘は彼自身「浅見にて」と断っており、戦闘経過や幕軍の内情は後付けに過ぎず、
彼自身の意見が先にあったことは明らか。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:51:24.50 ID:j5v3VnSJ0
>>496
>連合艦隊の上陸した部隊は砲台を破壊したら、即座に撤退して沖に逃げているが?
>長州はそれを修復して砲撃をやり返している。

だってもともと砲台破壊が目的だものw 砲撃をやり返すって、いつの攘夷戦争の話してんだ?
しかも下関条約で砲台撤去を約束しちゃったから長州戦争の時も桂がイギリスにお伺い立ててる有様だろう。
イギリスは許さなかったけどね

>>497
おやおや、幕長戦争の長州側の最大の強みは下関の流通が止まったからと言う家近説を頭から否定していたのに、
今になって「関門海峡を止めたら大坂が大騒ぎになって戦争継続不可能」ですか。
お前ら本当に都合の良い所で他説を引用するね。
薩摩海軍は日本海岸に艦砲射撃を加えるだけで充分軍事的重圧を加えられる。
また薩摩藩の参加で主攻である萩口が実現した場合、体面上も紀州、熊本の撤退はなくなる。
さらに関門海峡を渡海攻撃していた長州海軍は、薩摩海軍と幕府海軍の挟撃にあったら一瞬で制海権を失う。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 20:58:54.43 ID:j5v3VnSJ0
>>496
>石見方面で攻勢に出られないだけで、他の方面の戦闘結果は変わらんよ。
>大島も奪還されるし、芸州方面も大敗して逃げ散って、何とか防いでいる状態。
>小倉も大島の援軍が着たら、詰みだな。史実どおりに進む。
>石見方面の戦闘がないだけ。

面倒だからお前の言い分で反論してやろう。
石州口の惨敗が本荘の交渉に影響を与えたと主張しているんだから、
石州口で攻勢に出られなくなっただけで停戦の必要性は半減するじゃんか。
芸州口では紀州と幕府歩兵が長州藩を返り討ちにしてるんだし。
それと小倉に関しては上述の通り、退守していた幕府海軍が薩摩海軍の回航で出てくるから、
こちらも関門海峡にまず出てこれない。さらに石州口の兵力が萩に釘付けになるから、
史実では石州口から徐々に回ってきた余剰兵力が7月以降攻勢に出るのも困難になる。

>軍の質に大差はない、なら当時の輸送力の上陸戦になる。

かなり差がある。長州藩兵と薩摩藩兵の動員力だけでも比較してみるといい
薩摩藩は軽く数千は動かせる。戦時体制でもその程度の長州藩のほうが財政的に干上がるよ。

502 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 21:06:05.32 ID:j5v3VnSJ0
×>>496
>>488

>>490
>小倉方面は第二奇兵隊、つまり大島を奪還した部隊が回っている。
>石見方面の軍は岩国に回っている。つまり小倉陥落は変わらん。

だからそれは主攻の萩口が存在しないと言う前提で組み立てられた作戦だからだろ。
薩摩が参戦しないと言う言質を与えてるんだから。
石州口の軍を岩国に回せたから第二奇兵隊が小倉にいられたんだよ。
薩摩海軍が萩の沖合から関門海峡近辺まで遊弋するような状況では兵力の配置が一気に変わってくる

さらに何度も繰り返すけど、大手軍である萩口が実現したら、熊本藩は勝手に撤兵できなくなる。
小倉が陥落したのは熊本藩が終始非協力的で、さらに解兵したことが決定的要因なんだから

503 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 21:14:01.11 ID:T9+1xdQSO
熊本にもアームストロング砲が、あったのは意外だ。

504 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 21:30:09.66 ID:j5v3VnSJ0
>>だから小郡宰判の兵が「志願兵制」であるはずの奇兵隊でたちまち殺されてるんだよ
>そういえばこれ初耳なんだがw有名って誰が言っているんだ?
>部落民だから処刑されたとか言っているが。そんなケースは存在しないよ。奇兵隊にはね。
>命令を無視して勝手に隊から離れた奴が処刑されたケースはあったが。まさかその事じゃあるまい?

存在する。小郡宰判や幕長戦争の時の私刑は奇兵隊日記にも書いてある。
無許可離隊が処刑されるのは当然で、そんなケースをわざわざ研究者は取り上げたりしない。
長州の部落解放史で30年くらい前には少なくとも確認されてるし、
それこそ遠山や田中彰の時代から普通に被差別部落民への長州藩の待遇は記されている。
知らないのが信じられない。

>>それは粛清の際の口実ね。被差別民出身諸隊は在地を離れたものは強制解散されられている。
>口
>>志願さえすれば自由に身分移動を許されるわけだから、士分からなる藩権力にとっては異常事態
>は?身分移動なんてないよ。何言っているの?

ある。非常民は選抜入隊制(定数制限あり)だったが入隊した時は平民取立、苗字帯刀も許されてる。
自分で書いていたことを良く思い出せよ。被差別民、非常民は刑吏邏卒の役割をしてたんだろ。
それが在地を離れて勝手に志願してそれを認めたらどうなるんだ。
非常民を集落ごと管理することが不可能になり、つまり非常民と言う身分そのものが事実上消滅する。
それはどういうことか。良民と非常民が一緒くたに扱われることになる。
となると非常民を良民の監視に当たらせる藩構造が不可能になるばかりか、
良民出身の兵が差別撤廃に強く抵抗する。実際、解放令を出すのが難しかったのはこれがあるから。
だから長州藩は藩が身分移動を許可した兵(弾左衛門と同じく限られた階層だね)のみ入隊を許可し、
それ以外の在地の移動を認めていない。「穢兵」を藩が認めることなどあり得ない。


505 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 21:49:44.66 ID:j5v3VnSJ0
上関茶筅隊で「金作」をはじめとする茶筅を第二奇兵隊が逮捕した一件は、
「金作」が大野を出奔した=在地を離れた人物であり、
さらに他の被差別部落諸隊とは明らかに違う隊中規則を定めたりしたことが藩の警戒感を買ったもので、
新撰組への入隊志願歴は後付けの理由に過ぎない。ましてや「敵との通謀」に至っては完全に事実無根。
そもそも入隊を志願したかどうかも実際には分かっていない。
残っているのは金作の自白だけだが、彼は取調中に恐らく拷問を受けて自殺している。

そもそも慶応元年の結成時点で金作の上方出奔履歴は知られていながら隊結成が許可されているのに、
慶応2年3月に至って突然逮捕されると言うのがおかしいし、茶筅隊の具体的な通敵行動もない。
普通に吉見隊へ付属させられて訓練に励んでいるが、外敵との通謀の兆候など一切ない。
ではなぜ慶応2年段階で粛清の対象になったかと言えば、
慶応軍制改革の結果、諸隊を藩が再編統一する過程で中央集権性が重視されたからに他ならない。
独自の隊規を有する茶筅隊は真っ先に目を付けられたと言うのがいまの有力な見解。

茶筅隊の解散と維新団の結成はほぼ時期を前後しているが、
維新団の隊規を見ると明らかに茶筅隊と異なり、隊士が「分限を弁えること」を強調している。
これは官製の被差別民諸隊に共通する隊規の傾向。

506 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 21:54:45.34 ID:j5v3VnSJ0
論者によっては維新団が前線に出される確率が異常に高かったことを
「忠誠心を試す意図があった」と見て、維新団が士分取立を辞退したのは
この茶筅隊の粛清で隊士たちが警戒したと言う説もあるくらいだよ。

つまり士分取立にうっかり賛成してしまうと、茶筅隊と同様に粛清の対象になりかねないと。
実際、井上も維新団が辞退するのを見越して士分取立を言っている可能性が強い。
脅迫したのか、経済的実利のほうを選ぶだろうと思っていたのかは定かではないけどね

507 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:02:57.93 ID:j5v3VnSJ0
長州藩ではこれ以前にも領民(士分も含む)による非常民の集団リンチ殺人が多発してるから、
維新団側も、士分取立とは言っても生活保障や事後のリンチを警戒したのかも知れない。
ちなみにこの時期、幕府も弾左衛門に命じて長州戦争での人足差出をさせているが、
まず前線で戦わせるような危険なことはさせてないし、家族の生活保障にも応じている。
幕府が人権を尊重したわけじゃなくて、一応、非常民は幕府が委託した業務を行うお役人的側面もあり、
皮革業は軍需物資調達の面でも貴重だから、無茶はさせられなかったのね。
維新団が前線に出されたのは確かに異常。

あとはなんだ、下関条約か。それもとっくに反論が出てるんで後で書こう。

508 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:14:57.09 ID:j5v3VnSJ0
>>491
お前の書いてることはぜんぶ主観じゃないか。
「公認制だよ」「いや追認だ」どっちも許可制には変わりない
酷いのは、最初から隊設立を許可しなければいいのに許可した後に
藩の内情で茶筅隊みたいにどんどん潰していくんだよ
被差別部落民の組織は実は俗論派が慶応元年初めから開始して諸隊討伐に当たらせようとしてるんだよ
この段階では当然、藩の「命令」ね。

509 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:20:40.79 ID:j5v3VnSJ0
で、正義党政権はそれをそっくり戴いた。ところが慶応2年段階になって突然粛清を始めてる

>>493
と言うかお前、金作の口供(それも拷問に耐えかねて自殺)しか残ってないのに、
なぜ無実じゃないとか分かるんだよ。金作と新撰組の関係を断定できたものなんてないよ

それと長州藩でその前に良民による被差別民のリンチ殺人がたびたび発生していることをどう説明する?
確かに被差別民は「家業」を独占した状態で、良民とは別建ての人たちだったことは確かだが、
社会的差別が厳然として残っていたのは事実なんだが。
何で全国で最も優遇された大富豪の非常民である弾左衛門が「身分取立、醜名除去」を強く要請しているのか
お前はちゃんと説明すべきだな。
だったら解放令なんて出す必要はないじゃん。

510 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:30:50.79 ID:j5v3VnSJ0
>>494
長州が下関条約でどう突っぱねてる?
高杉が租借を拒絶したなんて話は伊藤の回顧録に出てくるだけで、
サトウの記録には一切出てこない。
長州が下関開港を勝手に認め、砲台撤去に応じ、償金支払の約束まで応じたのは
アヘン戦争の諸条項と全く同じだぞ。

しかし幸いなことに、米蘭仏はオールコックと異なり、問題への深入りに消極的だった
幕府はそこを衝いて交渉を重ね、事後に「賠償」ではなく「友好関係維持のための補償」
とすることに成功し、同時に長州への懲罰は「大君政府の職務」として勝手な長州攻撃や開港の強要を禁じている。
償金も6回ローンで3回分の支払は慶応2年までに滞りなく済ませている。
明治政府になってからのほうが支払に時間がかかってる

幕府の開港交渉は長州戦争とはスレ違いになるが、
幕府は「開港拒絶→落としどころを探る→最終的には開港を許可した上で商業範囲を限定する」
と言う限定開国を目指してたことは明らか。交渉の主眼は開港の是非でなく開港条件。

ところが内情を知らない尊攘激派には「幕府が譲歩した」と見えたと言うのが実情。
薩摩藩なんかは阿部からこれを伝えられてる

511 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:38:35.94 ID:tgpzSxq60
幕府が結んだ条約自体が阿片戦争と同じだよ
だから攘夷論が起きて倒幕に行ったんでしょ
しかも攘夷を約束しながら国内を騙しやらなかったからね
だから倒幕されたんだよ

512 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:40:14.03 ID:j5v3VnSJ0
>>495
>宮内を迂回攻撃されて大野からも撤退してる。

それいつの話だ?
もともと幕軍が「出張っていた」前線が大野で、総督辞任騒動が起きてからは大野を放棄してるよ
7月末からの攻勢では幕軍は宮内を通過してるし

513 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:40:58.11 ID:j5v3VnSJ0
>>511
アヘン戦争と同じと言われるのは下関条約のほうだよ。租借がないだけで。

514 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 22:44:37.65 ID:j5v3VnSJ0
何か反論このくらいかね。拍子抜けだわ。

515 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:08:59.30 ID:j5v3VnSJ0
ちなみに幕府の施策が従来言われていたように幕府による貿易独占を目指してはいなかったこと、
諸藩との情報共有もそれなりになされていたこと、開港条件に際してもかなり粘っていることは、
今日学界ではほぼ周知なんだがお前らどこの大学?

516 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:36:38.05 ID:bal8aVMP0
士分と庶民の袖印で区分があり、守らなかったら処刑された話とか知らないんだね
東京招魂社も大村益次郎が「屠卒」は除外してるけど、
その先例は下関の桜山招魂場の「門閥の習弊を矯め、暫く穢多の者を除くの外、士庶不問」
と言う高杉の布告にあることも知らないんだろうか

517 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:43:09.30 ID:tgpzSxq60
幕府ってのは徳川家の為の政権なんで国内が統一できない
だから日本の政権、誰もが認める天皇を頂点とした政権を作ろうと尊王論がでるわけね

518 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:49:32.66 ID:Zr7U7H+50
>>516
それは怪しいんだよなあ。東京招魂社で屠卒に関する論争があったのは事実だが、
真偽不明じゃないか?だいたい良民の部隊に入隊を許可された時点で良民扱いでしょ
仮にそういう事例があったとしても、どうして分かるのかと言う問題がある

高杉のその発言は入隊時に「エタの者を除くのほか」と門前払いした奴が混同されてるんじゃない
まあそっちのほうがさらに酷いけどさ…

519 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 00:14:56.06 ID:/9JaFnBq0
>宮内を迂回攻撃されて大野からも撤退してる。

これもしかして8月7日の戦闘じゃないの?
とすれば本荘停戦交渉や紀州の総督辞任騒動と全く関係ないけどw

7月末からの幕長双方の戦闘は相当の激戦になってるが、
28日には幕府歩兵が宮内に進出して占拠、紀州・彦根・幕府歩兵が大野に進撃、
長州は高所からこれを銃撃すると言う全く同じパターン。幕府海軍と紀州海軍が砲撃を加えたことで大苦戦に陥るが、
日没になったので幕府軍は引き揚げ。こっちは海軍の援護射撃つきだから普通に引き揚げ。

第2回の攻勢も幕軍からで、この2回の戦いで彦根藩は奮戦して幕軍は陣地まで構築して事実上占拠に成功したが、
やはり日没を迎えて長州藩兵が後ろに回る懸念があるからと、戦わせてくれと言う彦根藩を引きずるようにして退陣している。

第3回攻勢は連敗に危機感を覚えた長州藩軍が大攻勢を仕掛けたんだが、
台風が襲来して幕軍が凄まじい逆風に晒され視界がほとんど効かなかったために接近に成功している
ここでも奇襲にも関わらず幕軍がどんどん増援に駆け付け、見事に敗退している。
ところが明石を通って宮内の本拠を攻めた部隊は風雨で幕兵の視界が効かないのが幸いして
ここを制圧するのに成功し、せっかく大野にいた幕軍も後ろを取られたから引き上げざるを得なくなっている

一連の戦闘で長州も彦根藩の善戦を第一に挙げて評価しており、
緒戦の戦闘で相手との戦い方が分かった彦根藩は素早く軍装について指示を出し、
以後は旧式装備で、しかも高所を扼されると言う不利な状況でも対等に戦ってるんだよな。


520 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 00:20:23.07 ID:/9JaFnBq0
芸州藩がこの段階で廿日市の幕軍と長州の間に入ったのも、
長州藩の領内乱入を警戒したと言うか、主に幕軍を止めてるんだよな。

と言うのはこの時は慶喜が陣頭指揮の意向を紀州藩に伝えたので、
早めに休戦状態を確定してしまわないと、慶喜出陣を控えてまた幕軍が出撃しかねないから

521 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 00:40:14.69 ID:/9JaFnBq0
あとこれが残ってるか。
>>492
>そうだよ。だけど長州の場合は部落も農民も志願兵でしょ。

上述したけど、志願兵ではない。基本的に村方や非常民の纏め役に対して兵賦差出を命じ、
一定の集落に対して差し出すべき定員を示す。その上で志願のあったものを選抜するわけ。
もちろん「志願」は願い出で充足されればよいが、充足されない場合も多いため
その場合は代人を立てることになる。まあどこの幕藩でも行っていた方法だよ
例えば願い出によって身分上昇を期待する傾向が強かった非常民集落に対しては
「○○名以上の入隊は認めない」と言うように強く制限している(被差別民だけの部隊であっても)

>じゃなぜ弾左衛門が幕府や政府に繰り返し身分解放、醜名除去の確認を求めているのか説明してくれや。

>幕府のケースであって長州とは関係ないなそれ。
>ていうかそいつ代々続く部落利権のドンだろ、今で言えば松本や野中のようなゴミくず。
>そして彼らの主張は革製品や刑務などの独占産業を維持したまま、身分上げろというものでしかないな。
>そいつの血筋もサラブレッド。

だから、なぜ皮革業において独占的権益を持ち、幕府の機構の一部として「役所」と言う地位にすらあった大富豪が
自分の譜代之家来65名の平民取立、「手下の者」の醜名除去まで願い出てるのかと聞いてるんだよ。
弾左衛門は与力格で、松本良順も普通に先代を診察に行ってるくらい重んじられたが、
それほど政治的、経済的地位の高い弾左衛門が銃隊を創設してまで身分上昇にこだわったのはなぜだ?

どうでもいいけど明治政府は兵部省が皮革を納品する必要上、弾内記(弾左衛門)の力を借りざるを得ず
彼の要求をほぼ通してたんだよw ほぼ弾左衛門の代弁者みたいなもんだな



522 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 00:44:51.75 ID:/9JaFnBq0
弾左衛門の要求は明らかに身分差別を前提としてしか考えられない要求だよ。
江戸で1,2を争う大富豪が身分引上を要求したのは、社会的差別を前提にしてしか考えられない
いくら事実上、浅草御役所と言う実態にあっても身分引上げが切実な望みだったんだよ。

523 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 01:25:14.90 ID:/9JaFnBq0
茶筅隊事件は、3つの証拠が全て「第二奇兵隊二被召捕茶洗金作、富蔵ニ関スル史料」
に所収されているもので、確実なのは金作が上方に出奔していたことだけ。
ところがここで新撰組から入隊許可を貰ったと言う文書にはおかしな点があり、
慶応元年4月14日の日付と新撰組隊士の名前があるが、
このうち村井善三郎は隊士と確認できる史料がない。尾関弥四郎は文書中に言う摂津難波の屯所万福寺にはいない。
新撰組側の史料にも金作の存在はない。この村井善三郎が易者だと言うんだが、
この人物は隊士ではなく、隊士募集の取り次ぎをしていたか、もしくは実在しなかった人物。
この時期は新撰組が隊士の大拡張を行っていた時期だから、上方で身分上昇の機会を求めて出奔した金作が声をかけられるのは
特段珍しい事情でもない。

ところが金作は結局これに興味を示さず帰郷している。
金作自身が述べる通り「格外出精」が第一目的である以上、郷里の長州で屠勇隊結成が始まったので
新撰組に加わる動機が既にない。よって彼は慶応元年11月に隊結成を許可され隊則を作っている。
結成当初17名だった茶筅隊は4か月で40名に急膨張した。ここで第二奇兵隊が28名を一斉逮捕している。
この規模は明らかに首謀だけでなく、茶筅隊と言う隊そのものを狙い撃ちしたもの。

金作が目を付けられたのは、この「格外出精」=身分上昇を説いて隊を結成した点だな。

524 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 01:44:37.88 ID:O3fnDde00
なお慶応年間には長州藩は文久年間と異なり、諸隊の設立の許可を厳しくする方向に転じている。
例えば桂は「みだりに諸都へまかりこし、勝手に農商兵を引き立てるのは厳重に禁止する」と言っており、
また藩令も「銃砲その他の技芸の師弟関係などにより私的に農商兵を取り立てる」ことも禁じている。

これがストレートに出たのが、自主的徴募を行い数百人と言われた小郡宰判の佐分利隊に対して
「軍制改正があったから農兵隊の結成は許可しない」と藩が通達し、布地を渡して解散させている。
軍制改革によって諸隊の自主性が著しく奪われ、それまで私的募集の追認があった庶民兵取立が厳しく制限されている

525 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 05:58:25.26 ID:bAi1WHNO0
濡れ衣着せて暗殺 
テロリスト長州藩の面目躍如

526 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 06:33:01.52 ID:HLUiAhP00
つまり6月19日、25日の戦闘では幕府軍が長州藩を撃退したがその後に茂承の辞任騒動で1回撤退
7月28日から再会した戦闘では幕軍はその間に大野を占拠した長州に対する攻撃
2回目3回目の戦闘では宮内、大野から長州藩を一貫して押しまくり、駆逐してるんだよな
台風に紛れて宮内への奇襲が成功するまでは

527 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 06:39:42.17 ID:HLUiAhP00
あと19日の戦闘は高所から銃撃できた長州藩にも大きな被害が出て
幕府艦隊の砲撃におびえながら徹底してるのに対して、
28日から始まった幕府軍の攻勢は海軍の援護に守られてじわじわ長州側を消耗させている
8月7日の長州藩兵の攻勢も、暴風雨が幕府軍に吹き付ける形で接近に気づかれなかったからで
明石から進撃した部隊だけが攻撃に成功したために幕府軍が撤退せざるを得なくなった

この方面では緒戦でこそ負けたが、長期戦になるにつれ長州兵の戦い方に慣れて次第に幕軍が優勢になってる
幕府歩兵はこの一連の戦闘で飛躍的に強くなってる

528 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 07:08:57.90 ID:HLUiAhP00
幕軍は7月上旬には紀州藩が一時撤兵状態になり、7月20日には家茂が逝去。
紀州藩と幕閣の対立も家茂に大きなストレスを与えたようで、
停戦交渉を聞いた9日に激怒し、翌日10日は食事を受け付けない状態になってしまい
病状が急速に悪化している。家茂逝去もかなり急な出来事で、この時点で征長戦は事実上終わっていたと言える

慶喜は宗家相続直後の27日に親征の意思を表明しているので、前線にいつそれが伝わったかは疑わしいが、
芸州口の幕軍の7月下旬の攻勢もあまり準備期間が取れないものになっている。
幕軍は8月20日頃に慶喜が芸州に到着して陣頭指揮を執る予定だった
(紀州藩の主攻は石州口へと変わり、慶喜自らが新補の部隊を率いて到着する)
ので、幕軍も攻勢には出たが、その頃の総攻撃を予定してあまり無理しなかったと思われる。

ところが幕軍が攻勢に出る直前の7月27日、小倉攻撃で熊本藩の来援要請を幕府海軍、小倉藩、
千人隊などが傍観したのが原因で激怒した熊本藩が解兵。小笠原が必死に諸藩を引き留めるが、
久留米、柳川、唐津すら撤兵してしまい、さらに小笠原に家茂逝去の急報が齎されて彼は急きょ上坂、
これに絶望した小倉藩が8月1日、城を自焼

小笠原から諸藩の解兵状況を聞かされた慶喜は一転して出陣を取りやめ、
芸州口の幕軍は予定していた第2次攻勢をすっぽかされてしまった。

529 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 07:45:33.81 ID:HLUiAhP00
ちなみに薩摩藩は27日に「急に態度を変えたら面目が立たなくなるので出兵はできない」
と言う懸命の上申を行っているため、慶喜の親征表明は家茂病没後、27日までの間になされたと思われる
薩摩藩内部でもさすがに徳川宗家当主=次期将軍予定者 の親征と言う事態に際して、
出兵に抵抗するのはどうかと言う保守派の主張もあり、大久保らが懸命に抑えたらしい

慶喜の親征に対して7月29日の朝議で薩摩藩の建言を受けて正親町三条実愛が反対論を主張したのに対し
孝明天皇がこれを一喝し、両者が激論する一幕もあった。
薩摩藩としては朝議で慶喜を引き留めてもらいたかったらしいが、結果的に征討令が出て動揺したことは確か。

530 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 08:08:44.78 ID:CDgHAKjVO
>>520 528 529
出陣しても家茂が死去したから、どちらにしても挽回は無理ですね。

暗殺されていたらそれでも、ひきさがったでしょうか。

531 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 09:10:53.53 ID:ZWr9Z24c0
孝明天皇はほんまに長州が嫌いやったんやな。
あの朝議で天皇が諸卿の反対を押し切って慶喜に征長令を出すとか前代未聞やわ

532 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 09:19:19.71 ID:CDgHAKjVO
鉄砲を打ち込まれたから、そうなるでしょう

533 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 09:49:31.04 ID:ZWr9Z24c0
慶応2年の長州征討令の話やで、孝明天皇だけが征長軍解散に反対した
慶喜が解散を奏上してもなかなか許さなかった

534 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 09:56:58.91 ID:CDgHAKjVO
うそでしょ

535 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:24:05.10 ID:XQOsSCmc0
>>496
長く書けば(以下略w
薩摩が上陸戦を行わないなら無視していればいいだけ、上陸兵乗せて遊弋するならただのアホ。
食料や衛生環境やら、砲弾打ち込まれたらどうするのとかあるのでありえんw

>また石州口や小倉口に関しても薩摩海軍が出没することで進撃が困難になる

ならない、大島は幕府海軍がいたが普通に奪還。芸州のほうも幕府の艦隊がいて砲撃したが、
普通に長州が買っている。小倉も幕府の艦隊がウロウロしていたけど、通行の邪魔になってない。
薩摩の艦隊がきても同じ事。薩摩が幕府の私戦に死力を尽くして戦い。艦隊を全部沈めていいくらい頑張れば別だが。
ありえんよw

>この時期長州藩の財源はかなりの部分通商に依存していたから荷を止めるだけでも大打撃

無理、したで他の人も言っているが、そんなことしたら日本の物流が止まって大変な事になる。
>>500
馬関戦争の時に普通に破壊された砲台は翌日には修復されて打ち返している。
また下関に協定で置けなくても、萩には置ける。
また下関に砲撃は出来ない。連合艦隊でも出来なかった。
ここは各藩の御用商人の倉庫街になっており、ここを吹き飛ばす勇気はないよw
長州だってここで戦争したくなかったから、渡航攻撃なんて無茶したんだし。

>おやおや、幕長戦争の長州側の最大の強みは下関の流通が止まったからと言う家近説を頭から否定していたのに

誰にレスをしているのだお前は?
長州征伐で物流が滞ったのは、江戸大阪の物価高騰の要因の一つ。

>また薩摩藩の参加で主攻である萩口が実現した場合、体面上も紀州、熊本の撤退はなくなる。

面子じゃなくて被害の問題なので、熊本藩は援軍遣さない限りかえるよ。
なんで薩摩ごときが参戦したからといって戦う義理があるのかわからん。

536 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:30:46.63 ID:XQOsSCmc0
>>498
何を言っているんだ?大野の撤退は浅野との政治的な妥協もあり、
無理をするところじゃなかったから、この方面の死者は100人を切っており。
それ以上の被害が出ても突っ込んだ小倉などと比べてもやらなかっただけに過ぎない。

>それとお前は本荘の交渉が「25日」に開始されていたことを前提とするが、

そんなことは言った覚えはない。また20までで大敗をすでに喫している。
長州はお前がマンセーする芸州のほうですら、
この方面は防御の予定で川の向こうで渡河を防ぐ予定だったのにだ。
それにそもそも交渉?降伏しろとか言っているだけだったろw


537 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:40:45.39 ID:XQOsSCmc0
>>501
>石州口の惨敗が本荘の交渉に影響を与えたと主張しているんだから、

ンな事は言っていない。
ていうか薩摩が参加してくれれば、交渉する必要がなかったとかいう主張?
仮定に仮定を重ねて何がいいたいのだお前は。
ここでの論点は、大将が弱気になって停戦を申し込んだから、士気が下がって戦えなかったというお前の主張を、
その時点でもう大勢は決していると言っているだけだよ。

そしてそこの内容は仮定と妄想の産物であり、水掛け論にしかならん。
薩摩が参加してもやる気になるかどうか疑問であるし、
薩摩が参加しても普通にまけるだろうし、他藩がさらにあっさり負ける事もある。
お前の主張に根拠が伴わないので意味がない。

>かなり差がある。長州藩兵と薩摩藩兵の動員力だけでも比較してみるといい

長州の動員兵力は二万を超える。薩摩が戊辰戦争で遠征した軍は8000弱だが、
長州はそれくらいは動員しているからね。
最も薩摩は西南戦争で二万くらい動員しているから、二万くらいは動員可能だろうな。
戊辰戦争で長州が保有した洋式銃も二万を軽く超えていた。
長州の当時の実高は100万石はある。薩摩の実高は実はそれほどでもなくて70万石ほど。(どちらも支藩含む)
これを一万石250人に当てはめると、(400から500は戦国時代でも動員可能といわれているが)
長州の最大動員兵力は25000になる。
また財政もかなり上だな。長州は戊辰戦争では薩摩と違って一度も外国から借金はしていない。
それでいて藩を潰したときには100万両の備蓄があった。
当時数千で戦ったのは洋式銃の数と錬度の問題。

538 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 10:46:50.81 ID:XQOsSCmc0
>>502
小倉の陥落はかわらんよ。芸州口を幕府が打ち破るのは不可能。
長州の戦略は事前の計画はこの方面は防衛であり、侵攻までする必要はないからね。
援軍をこっちに割く必要性がない。
大島の部隊はそのまま小倉にいく。史実に変化はない。石見方面がなくなるだけ。
その石見方面にしても萩までくれば、蹴散らされるだけ。

そしてなんで薩摩が参加したら、熊本が撤退できなくなるんだかw
史実同様長州の突撃を単独で防ぎ続けて、幕府が援軍送らなければ帰るよ。
まだ薩摩が小倉防衛に入るとか妄想してくれよ。それなら流石に長州も抜けないだろうがな。

で、今から出るから、後で残りはかえそう。

539 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 12:01:20.18 ID:CDgHAKjVO
榎本がいたらと、思ってしまいます

540 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 13:06:51.36 ID:XQOsSCmc0
>>504
>存在する。小郡宰判や幕長戦争の時の私刑は奇兵隊日記にも書いてある。

なら奇兵隊日記の何巻の何項なのか書けるよね。
まさかそいつ庄屋とか嘘ついて入隊してないよね?

>ある。非常民は選抜入隊制(定数制限あり)だったが入隊した時は平民取立、苗字帯刀も許されてる。

ないよ。維新団にしても元の身分のまま参加している。

>それ以外の在地の移動を認めていない。「穢兵」を藩が認めることなどあり得ない。

屠勇隊にしても維新団にしても、名字帯刀などしていない人珍しくないんだが?
奇兵隊の名前にも苗字のない名前は珍しくない、利吉とかそんなの普通あるよ。



541 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 13:49:42.50 ID:XQOsSCmc0
>>505
>金作
金作が長州から家族を連れて出奔して、新撰組へ入隊志願した事実がバレタから、
急遽奇兵隊が出動して、強制解散させられ、捕まっただけ。
同時期にある維新団は誰も捕まっていない、一新組もな。

金作の口述書がおかしいというが、金作と富蔵二人の口書が食い違っており、
二人に議論させたら、金作は最初は威勢よく議論していたが、後に黙ったと記されている。
自殺したのはその日の晩。ただたんに嘘がばれたので、自分の口を封じただけでしょ。工作員だよこいつは。
金作の口書は家族が帰りたいとかいうから、占師に占ってもらった。それが新撰組だったとかいう内容だよ。
拷問の末の捏造にはみえねーよw検察ストーリーもびっくりの内容だ。
適当に嘘並べたら、つじつまが合わなくなったんだろ。
ただ具体的な名前があっているので、実際新撰組と接触したのは確かだろうな。
ちなみに富蔵によりと、金作自らが新撰組を尋ねたとある。

100歩譲って金作が無実だとしても。家族連れて出奔して、いきなり帰ってきて隊を結成。
その時新撰組に入隊したという噂が流れた。これは否定できない事実だろう。
そりゃ逮捕するわ。
>>506
前段の上関の件がまず嘘の上に、それらの内容にも史料により裏づけがない、お前の妄想としか言いようがないな。
前線で活躍したのは否定せんが、芸州口が圧勝であった為か、死者も少なくたった二人。
井上は高杉よりも上の身分だが、伊藤が有人であるようにそういう拘りは少ない。
実際その働きをほめる事をしている。

542 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:03:38.27 ID:XQOsSCmc0
>>507
そもそも維新団をはじめ部落の人達も郷土防衛に立ち上がった者達であり、
前線に出るのは当然だろう。
それをお前らが、彼らにはそういった公の為に戦ったわけじゃない、
ただ自分の身分向上の為と貶めているから、そんな変な解釈になるんだよ。
郷土の為に戦ったから、士分取立ても断って、戦争終わったら引退したわけ。

>長州藩ではこれ以前にも領民(士分も含む)による非常民の集団リンチ殺人が多発してるから、

そりゃ彼らは下っ端官吏だからね、民を支配する体制側の人間だ。
そして武士のように守られているわけじゃない。その不満の捌け口にされたとしてもおかしくないが。
それが何の関係があるんだ?
>維新団側も、士分取立とは言っても生活保障や事後のリンチを警戒したのかも知れない。

士分になったものにそんな事できるわけねーだろwそういったリンチなどがなかったから、身分の向上を断ったと見るべきだな。
そもそもそのままの生活を選んだだけの話。
>>508
文久に攘夷やるってんで、海防の為におのおのが諸隊を作ることが認めらているんだよ。
元治に馬関戦争があって、高杉のクーデターがあり、色々あって方針が変わり、
作られた諸隊を合併編成して奇兵隊などの少数の隊にまとめたわけ。
上関茶筅隊が潰されたのは新撰組との内通疑惑。上代の茶筅隊は普通に存続している。

>何で全国で最も優遇された大富豪の非常民である弾左衛門が「身分取立、醜名除去」を強く要請しているのか

山口の事例とは全く関係がないな。そもそも彼らは利権を独占して超え太っていたもの。
ちなみに防長一揆では、彼らの解体業の人間への不満もあったとされている。

543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:08:45.09 ID:XQOsSCmc0
>>510
彦島租借に限らず、賠償金も突っぱねている。幕府に聞けとね。
そして幕府は下関の開港は利権独占が崩されるのでいやだった。
兵庫の開港もいやだった。なので賠償金払うと約束したんだけど、
幕府は賠償金をさっぱり払えず、結局開港することになり。
借金の支払い延長の変わりに、関税を20%から5%に下げることになりましたとさ。
へタレな上に馬鹿ですね。外交能力0といっていい。
ちなみにこの借金は明治政府が期限前倒しで返済できたもの。幕府がどれだけ腐っていたかよく分かる事例。
>>515
誰だよんな馬鹿な事言っている奴は、晒していいよ。
石井せんせーもそこまで耄碌してないだろ。

544 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:24:15.95 ID:uVtDbkbz0
長州は朝敵であるから滅ぼされて当然と論ずる

545 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:27:33.75 ID:XQOsSCmc0
まあこういった歴史の新解釈は良くある事だけどね。
無能な研究家が従来の研究結果をなぞるだけなのが嫌なので、
新発見、新説を作りたがる。
結果常軌を逸した珍説が出来上がってしまう。
もしこのお前の発言が事実なら、そういう事だ。史学には良くある事なので気にすんなw
>>519
かなり間違っているな。
28日は幕府軍が攻撃を仕掛けたのを長州軍が防いだ事例。
紀州の軍は中山峠の山上、つまり高所から攻撃を仕掛けたが長州軍を抜けず敗退。
本道からの幕府歩兵や彦根も長州は守りぬきやっぱり敗退。
八月二日 今度は大野村に侵攻した。海上からの砲撃に苦戦するが、そのまま夜まで守りぬき幕府は撤退。
六日 広沢実臣と芸州藩との停戦交渉が実ったので幕府軍に最後の打撃を与えて撤退する方針が固まる。
嵐に乗じて奇襲を行う。ただ幕府軍は察知していたのかなんとか防ぐ。
七日 早朝から長州は反撃を行いそのまま奇襲を成功させ撃破。
幕府側は雨が続いたことにより火薬が湿って使い物にならなくなっていた。彦根高田と崩壊する。
結果幕府軍が包囲殲滅される憂き目にあい、あわてて陣屋に火をかけて逃走した。
これが史実だよ。なんだその脚色しまくりの歴史小説はw
>>520
幕府軍のほうが酷かったからね。長州は最初荒らしていたものがいたけど、
そういうものは処刑すると触れをだし。また米などを炊き出しをして人身掌握をしていたが。
幕府は勝手に使って、すき放題暴れて略奪は当然する、最後には火をつけて逃げ出すと、
盗賊みたいなものだった。

546 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:38:19.70 ID:XQOsSCmc0
>>521
以前書いたように志願兵。
当時の長州は各地で攘夷決行のためかどうかしらんが、砲撃するともに。
各地で武装させている。
それら多くの志願兵を、ある程度まとめたのが慶応になってから。

>だから、なぜ皮革業において独占的権益を持ち、幕府の機構の一部として「役所」と言う地位にすらあった大富豪が
>522
金を持っているものが次にほしいのは名誉だから。つまり武士になりたかっただけ。

>どうでもいいけど明治政府は兵部省が皮革を納品する必要上、弾内記(弾左衛門)の力を借りざるを得ず

そうだよ、今度は明治政府の軍部と結託して利権を維持しようとしただけ。
だが明治政府が牛馬の解体権を自由化した、牛馬の死体は部落の物ではなくなり。
かわりに部落が牛馬の解体をする。つまり「穢れ」た仕事をする義務がなくなったんだよ。
でこれに強行に反対して、軍部にも反対しろと迫っていたのがこいつ。
つまり彼らは、身分や仕事の平等化には興味がなかった。ただ利権屋だった事が分かる。
彼らが真の平等を求めていたなら、政府の牛馬の解体を部落に「押し付けていた」
差別的な行動の撤廃を賛美していたはずだ、だがその構造の維持の為に最後まで抵抗している。
どういう人間かよくわかるケースだな。
彼らの先代も非人との利権争い。芸事などがエタから脱却するのを邪魔していたりと、ほんと酷い連中だよ。

547 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 15:13:11.17 ID:CDgHAKjVO
戦争に略奪がつきものですからね

548 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:27:22.98 ID:nnU1MpND0
>>519
484で>天狗党にコテンパンにされた幕府歩兵も善戦して以後は全く進めなくなっている
と書いてるから反論したのよ。469で本荘をあげたのは和平工作による混乱前に
守勢にまわってるってのを示しただけで、他で本荘あげている奴と俺は別人よ。

>第3回攻勢は連敗に危機感を覚えた長州藩軍が大攻勢を仕掛けたんだが、
>台風が襲来して幕軍が凄まじい逆風に晒され視界がほとんど効かなかったために接近に成功している
>ここでも奇襲にも関わらず幕軍がどんどん増援に駆け付け、見事に敗退している。
>ところが明石を通って宮内の本拠を攻めた部隊は風雨で幕兵の視界が効かないのが幸いして
>ここを制圧するのに成功し、せっかく大野にいた幕軍も後ろを取られたから引き上げざるを得なくなっている

>一連の戦闘で長州も彦根藩の善戦を第一に挙げて評価しており、
>緒戦の戦闘で相手との戦い方が分かった彦根藩は素早く軍装について指示を出し、
>以後は旧式装備で、しかも高所を扼されると言う不利な状況でも対等に戦ってるんだよな。

彦根藩を過大評価しすぎだわw確かに長州側の記録でも彦根の奮戦は確認できるけど
旧式部隊の奮戦は下関戦争での矢兵や鳥羽伏見の会津槍兵でも散見されるけど
結局戦況を挽回できてない。数が多い側が高所を扼されてる時点で戦術眼が無い。
というか鳥羽伏見でも迂回攻撃されて弱体な部隊を突かれて包囲という状況は
あるから、兵制を統一できてない幕府軍の通弊だ。新政府みたいにライフル以外
もってくるなと命令すれば良かったのに、弓は勝手しだいと深く諸藩の軍制に介入
しなかったのが致命的だった。

549 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:28:00.35 ID:oqTmoFxU0
>>509
丸々頂いたって、被差別民部隊設立は吉田稔麿が提出した屠勇取立の意見書が大元なんだけど。
その結果、有志であることを重視し、「其の名を何とか改め、其格を本格より一層高くし目覚敷派手に装はせ、給金相応にあてがう」
「穢多之名目被差除、平常一刀胴腹(服)」の被差別民部隊が誕生した。

あと解散後の論功行賞については、身分上昇と出征か土地の保有かで後者を選んだって事実しか分からないんだから、
どちらの立場からしても水掛け論にしかならないと思われ。

>>508
根本的な勘違いがあると思うんだが、大村益次郎による軍制改革の前後で状況が全く違う。

軍制改革後は、軍備と士官数など考慮して既存の部隊は全て精選されてるし、勝手に志願者を部隊に入れるなと複数回触書も出てる。
新しく志願者部隊を結成しても、これは小郡の農民による志願隊の例だが
「此度軍制改正被仰出、諸郡一統之御規則一一茂拘里、無余儀次第一一付不被差免候」
と言って解散させている。
ここで重視されているのは、藩の内情ではなく軍制であり藩の戦略だよ。
藩政の指導者自体が違うんだから、許可なんか出さなきゃ良かったってのは無茶振りもいい所だよ。

>>521
因みに、部隊を解散させただとか精選したこと自体が、長州藩に志願兵が多かったってことの傍証になってるよね。

550 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:40:34.64 ID:nnU1MpND0
>>510
砲艦外交での開国である以上粘っても武威は傷つく
経済的混乱、疫病の流入で仁政も揺らぎ
勅許を得られないことで尊王もダメ
これだけ幕府の正当性を弱体化させれば、幕政が混乱するのも必然よ。


551 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:44:01.98 ID:nnU1MpND0
>>537
戦国時代の軍役を幕末に当てはめるのは無茶だわw
戊辰の時だと薩長両方とも動員兵力は1万1千で同じね。

552 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:49:54.46 ID:ltSI0+H50
>>540
無知も甚だしい。維新団は茶筅隊の解散を受けて「身分を相弁え」ることを重視して作られた官製部隊。
被差別民だけで結成された部隊だから、当然、身分は被差別民のまま。
隊則も知らないのか?

また奇兵隊は誰かが言ってるように高杉の「エタの者を除くのほか」に見られるように、
事実上、被差別部落出身者を排除している。入隊時は許可制か、または身分を隠すほかない。
奇兵隊日記や諸隊の証言などを突き合わせると、しばしばその問題でリンチがあったのは確実。

553 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:58:25.74 ID:++yrG9C70
超天才エリートの高杉東行に初めから勝てるはず無いじゃ

554 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 18:59:14.11 ID:ltSI0+H50
>>それ以外の在地の移動を認めていない。「穢兵」を藩が認めることなどあり得ない。
>屠勇隊にしても維新団にしても、名字帯刀などしていない人珍しくないんだが?
>奇兵隊の名前にも苗字のない名前は珍しくない、利吉とかそんなの普通あるよ。

元治元年6月24日から7月の一連の布告に見られるように、奇兵隊では身分を示す袖印の着用を義務付け、
苗字帯刀許可者以外は姓を書くことを禁じる峻厳な軍律を出している。違反した場合は処刑するとも言っている。
これは良く指摘されるように、私称を隊内に持ち込んでいた違反者が相当数存在したことを意味する。
苗字がない=部落民 ではないんだがそんなことくらいは分かるよな

ちなみにこの布告が短期間に再度出されていることから、最初の達しでも庶民出身者隊士はこれを嫌がったことを意味している。
これ1つ取っても奇兵隊は身分差別のない志願兵だったなんて言えない。
比較的締め付けが緩やかな文久年間ですらこうだったんだから



555 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:01:51.20 ID:ltSI0+H50
違反者と言っても当時の民衆は普通に姓を私称していたんだから、
身分上昇を期待して入隊したらそれを使うなと言われるほうが驚きだったに違いない。

>>534
7月29日の朝議では孝明天皇は「征長の事解兵は相成らず」と厳命してますよ

556 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:12:42.24 ID:ltSI0+H50
>>541
もちろん対決審問くらいは知ってるが、金作と富蔵に関する史料は全て長州藩側のもので、恐らく拷問が加えられており、
その信憑性じたいが疑わしい。金作と富蔵の言い分が食い違うこと自体はちっとも変じゃないよ。
富蔵による反駁証言=つまり金作を誣告する人間 が出てきた段階で金作の有罪はほぼ確定なのだから、
真偽に関わらず彼の処刑はこの段階で決定している。自殺したからと言って彼が新撰組に入隊志願したなどと言う事実は認定できない
それと彼らの証言で研究者が重視するのは新撰組云々より「格外出精」の部分。
現に口供に対応する新撰組側の人物は確認できないか、もしくはその場にいない。
さらに金作が家族を連れて上方に出奔した人物なのは慶応元年11月時点で周知の事実だった
(わずか半年前の出来事)なのに、茶筅隊は普通に結成を許可されて活動している。
なぜ慶応2年3月になって隊が形を整えた所で突然逮捕されるのかがそもそも不明。

お前はソース重視のようだから、もちろん新撰組と金作の結びつきを示す驚きの新証拠を挙げられるんだろうな?
茶筅隊と維新団は早くから研究対象になってたから、後世の聞き書きじゃ話にならないよ。

557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:26:57.35 ID:ltSI0+H50
職権主義のお白洲で対決審問をすると言ったら普通は有罪判決のための布石。
少なくとも裁判官が強い嫌疑を抱いていることの徴表になる。富蔵の反駁証言で金作の有罪が決せられたわけではない。
それは拘束者の数が隊士の7割にのぼる28人と言う異常な多さであることで明らか。
当然、当初血盟した者ばかりでなくその後の徴募に応じた者が一網打尽にされてるんだが。
隊そのものを狙ったとしか考えられない。

>前線で活躍したのは否定せんが、芸州口が圧勝であった為か、死者も少なくたった二人。
>井上は高杉よりも上の身分だが、伊藤が有人であるようにそういう拘りは少ない。
>実際その働きをほめる事をしている。

働きを褒めるのは当たり前だろw
と言うか維新団は幕軍の記録にもあるほど目立った部隊で
(もちろん穢兵であることを示す黒ずくめの軍服を着てたせいもあるが)
維新団の結成が慶応2年の対幕戦前の比較的遅い時期であったことを考えると
(隊則の日付が5月、実戦が6月、この間わずか1か月)
前線に出る確率が非常に高いのは否定しようもない。
また戦死者2名だから軽微な損害だとか寝ぼけたことを言ってるが、
当時の戦闘は数名も戦死者が出れば激戦。負傷者12名が少なくとも確認されている
(正確な数は分かっていない)



558 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:27:22.41 ID:XQOsSCmc0
>>552
維新団は別に解散を受けて作られたわけじゃない。
上関の部隊が突如捕縛解散になったのは慶応二年3月4日、
維新団はその前年の冬には既に存在していた。
ちなみに志願兵。
また身分はそのままと言っている。
誰にレスしてんの?


559 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:37:46.16 ID:XQOsSCmc0
>>552
>また奇兵隊は誰かが言ってるように高杉の「エタの者を除くのほか」に見られるように、

なんか問題がおきて一時的に入れなかった時期があるだけ。だから「暫く」はなんだけど。
>>551
別におかしくはないな。そのくらいは余裕で可能。洋船などで補給している場合はもっと可能だろう。
ちなみに国許にも多数の兵士がいて、戦争中も逐次結成されているのでそのくらいの兵力は保有している。
その全部が前線に送られていないだけ。
薩摩もそのあとの西南戦争をみると本気を出せばそんくらいはいける。
補給の関係もあるから全力でいけるのはせいぜい九州程度だろうがね。

>これ1つ取っても奇兵隊は身分差別のない志願兵だったなんて言えない。

身分区別があった志願兵だったというだけ。それが何か?

560 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:47:13.59 ID:ltSI0+H50
山代茶筅中は8月9日までに44人従軍、2名戦死、12名負傷だから実に損耗率3割に達する。

身分差別を示すのは維新団の黒服や前線での出戦率だけじゃない。
藩に提出した軍監の報告書には戦死者氏名・階級・死傷した場所の記載が克明にあるんだが
維新団に関しては「外に維新団7人大野手負」としか記されていない。被害報告に関しても明らかに人外の扱い。

さらに文久3年の屠勇取立令では「エタの名目被差除」と醜名除去だけは約束されていたが、
維新団の公式呼称を見る限り、これはまったく守られていない。屠卒と記されて厳しく区別されている。
(「維新団」と言う呼称も、報告書中では隊ではなく身分の呼称として使われている)

>そもそも維新団をはじめ部落の人達も郷土防衛に立ち上がった者達であり、
>前線に出るのは当然だろう。
>それをお前らが、彼らにはそういった公の為に戦ったわけじゃない、
>ただ自分の身分向上の為と貶めているから、そんな変な解釈になるんだよ。
>郷土の為に戦ったから、士分取立ても断って、戦争終わったら引退したわけ。

おかしいじゃん。諸隊は士庶平等の志願兵だったはずだろう。
だったら兵士のプライドの問題として身分上昇を求めてもちっともおかしくない。
長州藩部隊に刺激されて芸州藩でも「かわた」の兵士登用が始まっているし、
文久の達しの通り醜名除去や平民への身分引上げくらいの願い出はあって当然。
しかし実際はその後、在所で山林利用権などを与えられただけで、隊は活動を停止している。
これは他の歴戦の諸隊が一時リストラにあっても再び出戦したのを考えるとやはり異例。
現に弾左衛門は銃隊創設の見返りとして手下の者の「醜名除去」を何度も要求している。
何でここまで議論が進んできて、いきなり身分差別を肯定する従順な官兵になるんだ。

…お前の主張って、あのブログの言い分そっくりだな。付け焼刃で知識仕入れてね?

561 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:48:46.09 ID:ltSI0+H50
>>559
なんか問題が起きて…この時期の奇兵隊は問題だらけ。
なんかとは何ぞや?史料プリーズ。

562 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:52:47.99 ID:ltSI0+H50
つうかねこの長州おたくバカバカしいからいちいち反論する気なくなるんだけど、

かりに新撰組が金作の入隊志願を受け付けていたとしたら、
新撰組のほうが醜名除去も済ませず「身分を相弁えろ」とか言ってる長州藩諸隊より
はるかに先進的で開かれた志士集団だったことになるんだがw
これはこれで矛盾が生じるな

もっとも甲陽鎮撫隊では近藤は普通に弾左衛門の配下を受け入れいてるし、
特に問題が起きた様子もないから新撰組のほうが開かれてたかも知れんね。

563 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 19:59:34.58 ID:ltSI0+H50
では反論の続きを開始すると
>>542
>>維新団側も、士分取立とは言っても生活保障や事後のリンチを警戒したのかも知れない。
>士分になったものにそんな事できるわけねーだろw
>そういったリンチなどがなかったから、身分の向上を断ったと見るべきだな。
>そもそもそのままの生活を選んだだけの話。

なぜ?天保の大一揆では打毀し件数741軒中171軒がエタ部落の家だよ。
その記憶もまだ新しいのに、士分取立を辞退するほうがおかしい。
さらに幕長戦争に輸卒を出した弾左衛門は「家族の生活保障」を幕府に求め、
幕府もこれを承諾している。士分扱いとなっても芸州口の激戦のような場所を引きずり回されたら、
家族の生活保障も明確になされていない中では事実上の辞退勧告と同じ。
生計の道が断たれるんだから


564 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:08:06.37 ID:XQOsSCmc0
>>554−555
そうだね。実際奇兵隊にも無視して姓を名乗って、そのまま別段問題なく終わっている人もいる。
つまり違反者は普通におり、ばれなければ問題ないものであり。
場合によっては形式だけだったと見るべきだろう。

>>556
拷問があったらそう書かれていると思うが。当時は拷問なんて珍しくないし。
ただまあ拷問の結果の口述調書は信じられないというのはわからなくもない。
新撰組の拷問で、ありもしない事を認めさせられ、京都焼き討ち計画とか捏造されたからな。

>現に口供に対応する新撰組側の人物は確認できないか、もしくはその場にいない。

人の記憶はあいまいなもの。人物名が必ずしも合っているとは限らないし、記憶違いもある。
これは新撰組側の記録にも当然当てはまる。名前や場所が史料と違っている場合は珍しくない。
だが新撰組の固有名詞が一致しており、こういう偶然はないだろう。
それもマイナーな名前であり、尾関弥四郎が実際に隊士勧誘をしているので符号している。
村井は彼の従者とかじゃないかね。

>さらに金作が家族を連れて上方に出奔した人物なのは慶応元年11月時点で周知の事実だった
そこに疑問があるんだか。そもそもその時点で知っていたかどうかによる。
またそこで知らなかったとしても、その後新撰組との接触の密告があったのは確かだろうな。
でないと動くわけがない。


>少なくとも裁判官が強い嫌疑を抱いていることの徴表になる。富蔵の反駁証言で金作の有罪が決せられたわけではない。

だから少なくとも新撰組と繋がっていると強く疑われているという事だよ。
隊の大半が捕縛だよ。解散させられた隊はほかにもあるが。
こんな事例はない。つまりよっぽどの事であり。
新撰組との内通を疑われたのは事実だろう。
ほんとに内通していたかどうかまでは確定事項ではないがね。

最も俺はかなり疑っているが。つか真っ黒だろう。富蔵のほうに部があると見る。

565 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:15:06.02 ID:XQOsSCmc0
>>557
兵士は170人、隊の名簿によると140人。
そのうち負傷が10、戦死が2 損耗率は一割以下。死亡率はさらに低い。
小倉口では一割以上が戦死しているし、芸州口でも8%ほどが死亡率だ。
それに比べれば、せいぜい平均レベルといったところ。
奮戦そのものは否定せんが、その被害は程度だよ。
ちなみに訓練は隊規が始まる前から行われている。

566 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:19:41.67 ID:ltSI0+H50
>>543
彦島租借はソースが伊藤の後年の回顧談しかないよ。
交渉に立ち会ったサトウ日記には正使=高杉は全ての要求を何の留保もなく受け入れたと記してあり、
これには伊藤の働きが大きかったようだと感想を述べている。
現に下関条約5ヶ条に租借問題は入っておらず、今日では本交渉での租借打診の存在は疑問視されている
(実は幕軍もこの段階で保障占領を恐れて態度を急転させて長州に進発する姿勢を見せており、
英国も早く長州との話を纏めないと幕軍に妨害される可能性があった)

また償金問題だが、下関条約5ヶ条では@外国船下関通行の際の安全、A薪炭食料「その他入用の品」の給与、
B航海困難な条件の時は「障りなく」寄港許可、C台場の設置禁止、
D長州側からの発砲によって「焼失に及ぶべきの所焼かざるの故」その償金を出すべきこと
そのほかに軍の雑費を出すこと
となっている。Dの償金の趣旨説明を見たら分かる通り、明らかに長州藩の砲撃の違法性を前提として
「当然下関を焼くべきところを焼かなかった対価として」償金を差し出すのであり、
戦費負担まで押しつけられている。これは明瞭な「賠償金」。しかも完全降伏に近い講和条件。

現にこのDを意識して、英国は幕府との交渉の際に「償金」が支払われるまでは下関を保障占領する、
と恫喝を加えている。長州側が苦し紛れに約定を交わしたのは明らか。

567 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:34:07.32 ID:XQOsSCmc0
>>560
>維新団の公式呼称を見る限り、これはまったく守られていない。屠卒と記されて厳しく区別されている。

つまりこれは取り立てが条件としてあったわけでもなく、参加したものが一時的にでも身分が変わるわけでもなく。
彼らも身分が目当てではなかった事を示しているわけだが?

>だったら兵士のプライドの問題として身分上昇を求めてもちっともおかしくない。
>文久の達しの通り醜名除去や平民への身分引上げくらいの願い出はあって当然。

そもそも平民が部落より上だったか疑問なのだがな。部落は職人集団であり同時に特権階級でもある。
そしてなにより利権集団だ。武家の庇護のもと独占した活動ができる。
特に茶筅は牛馬解体などの「穢れ」た仕事ではなくて、ただの下っ端公務員なので、納税の義務がある農民らになりたかったか疑問であるな。

そして幕府の例は何度もいうように関係ない。部落の問題など藩ごとに違い。
またそいつはエタ頭で大富豪。例にするようなケースではない。
さらに当時の長州は郷土防衛の為に一致団結して盛り上がっている藩であり。
他藩とはそもそも空気が違う。
>>561
名前や身分偽ると犯罪者まで逃げ込む恐れがあるからだろ。
慶応に入ってからの言葉が残されているだけで、それ以前にまで徹底していたか疑問。

>>562
そもそも新撰組は金作が部落だとは知らなかっただけじゃないのかね。
富蔵の証言によると、金作は長州のものとも言っておらず、宮島のものと偽ったようだが。

568 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:34:53.69 ID:ltSI0+H50
>そして幕府は下関の開港は利権独占が崩されるのでいやだった。
>兵庫の開港もいやだった。なので賠償金払うと約束したんだけど、

前述の通り、賠償金としての性格を規定したのは下関条約。
防長回天史にきちんと載ってる超有名史料だから長州オタなら見ておけよ。

>幕府は賠償金をさっぱり払えず、結局開港することになり。

幕府が9月に結んだ協定では
・長州藩処分は「大君政府の職務」であると規定して、事後の開港強要を制限している。
・償い金のうちには今まで長州藩がやってきた暴行の一切合切を含める=支払上限の決定
・しかし各国が金銭を要求する趣旨は「日本と交際を厚くせんがためなり」
 =賠償金としての性格の払拭、幕府が自主的に支払う性格のものとする
・履行が続く限り開港強要の禁止=下関の自由港化は白紙撤回…ただし長州藩が勝手に開港した

これだけ大きく性格を変えている。
幕府は四半期ごとに50万両、計6回の支払を約束していたが、
第1回の支払は慶応元年7月に始まり、11月に第2回、慶応2年4月に第3回を支払っている。
幕府はわずか1年足らずで半額を返済している計算になる。ここまで延滞なし。
第4回の支払は長州戦争による多額の戦費出費に伴い明治2年に予定されていた。
明治政府の完済は明治7年だから、幕府よりはるかに遅いペースでの支払になる上、
アメリカは友好協力金的性格であることを考慮し、受領した上で78万ドルを返還している。
よって明治政府の実質負担は幕府が頑張ったことで極めて軽くなっている。

最初の長州案であれば賠償金だから、アメリカとしては返還によって長州の砲撃の違法性を否定することになり、
法理上の解釈がきわめて難しくなっていた。要は友好協力金なんだから、それが確認できれば返してもいいよね、
と言う判断が働いたのは間違いない。


569 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:45:10.62 ID:XQOsSCmc0
>>563
というかそもそもエタは統治機構の最下層なんだよ。
それらが平民になったとて、偏見や恨みが消えるわけではない。
なら平民よりも庇護下であるエタのままのほうが良いと判断しただけだろう。
そして士分取立てを断ったのは、戦争に従軍してまで武士として戦うのが嫌になっただけかもしれんよ。
目的であった彼等が願った郷土の防衛は達成されたのだから。

>>566
伊藤は通訳として実際に会談に居合わせたもの。
そして嘘をつくような必要性も皆無。偽証の可能性はほぼないよ。
そして伊藤は別に高杉に厚遇されていたわけでもなく、むしろ身分が低い事で酷い扱いをされていた人間。
高杉を称える為に嘘までつく理由はない。
つまり提案があったけど一蹴したと見るのが妥当。
それらが受け入れられなかったので、サトウのほうには記されなかっただけ。

そして5は幕府が払うのならであり長州が払う義務はない。
下関の占領が幕府に言っているだけで、長州に行っているわけではなく。
そして言っていたとしても、伊藤の回顧談にあるように高杉が却下しただけと分かる。
実際に占領はできても、それを維持するのは不可能。
当時の長州は大砲を造る為に、村々から金属を自主的に持ち寄り大砲を作っており、
領民全てで支えているのであり、折れる事はありえないね。

570 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:47:15.33 ID:ltSI0+H50
>>567
屠卒と記しているのは「軍監」であって維新団ではないよ。頭だいじょぶ?

>そもそも平民が部落より上だったか疑問なのだがな。

部落民の平民差別はなかったが、平民の部落民差別は横行していた。
身分「引上」と言う表現が使われていることに関してはどう説明する。
お前がどう強弁しようが、非常民は常民の下の序列に置かれていたことは間違いない。
先の報告書の体裁を見てみろ。

>そして幕府の例は何度もいうように関係ない。部落の問題など藩ごとに違い。
>またそいつはエタ頭で大富豪。例にするようなケースではない。

だから全国有数の大富豪であり、幕府機構の一員ですらあった弾左衛門ですら
「身分引上、手下の者の醜名除去」を求めているのはどう説明するんだよ。
彼らは天保年間の長州と異なり、平民にリンチを受けるような心配は全くない。
それでも弾左衛門は身分引上、醜名除去に懸命に拘って、そのために銃隊創設まで言上している。
政治的にも経済的にも何不自由ない人間が身分引上げを求めているとしたら、
その動機は「社会的不名誉の払拭」以外に考えられない。

571 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:00:45.08 ID:ltSI0+H50
>名前や身分偽ると犯罪者まで逃げ込む恐れがあるからだろ。
>慶応に入ってからの言葉が残されているだけで、それ以前にまで徹底していたか疑問。

屠勇取立令に醜名除去が入っていた文久年間ですらそんなもの現実には実施されてない。
奇兵隊内では身分を示す袖印の着用が義務付けられ、姓の私的な使用は禁止。
これ全部文久年間の話だよ。先のお達しをどう説明する。

>そもそも新撰組は金作が部落だとは知らなかっただけじゃないのかね。
>富蔵の証言によると、金作は長州のものとも言っておらず、宮島のものと偽ったようだが。

金作証言では新撰組は身元を疑っているようだが、別段深く詮索せず放免している。
と言うことは被差別民であっても偽名を用いることで入隊が可能だったことの証左になる。

572 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:05:50.66 ID:ltSI0+H50
少なくとも新撰組は袖印の着用を義務付けていたとはついぞ聞かないな。
それと富蔵も信用が置けないのは、8月にこの件を打ち明けたと金作は言ってるんだが、
彼その段階で何もアクション起こしてないでしょ。
首謀者どうしが罪を軽くしたいがために取調官に有利な証言をしあう中で、
自ずと証言の信ぴょう性は疑わしくなってくる。藩の取調と結果がきちんと対応する史料がないんだから

何度も繰り返すが、茶筅隊が藩に目を付けられた直接原因は、
近隣村落を説いて回って結成したこと、格別出精を前面に出していたことが、
藩中枢にとっては警戒の対象になったから。新撰組との関係なんぞ拷問の末出てきた後付け。

573 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:11:05.80 ID:ltSI0+H50
>伊藤は通訳として実際に会談に居合わせたもの。
>そして嘘をつくような必要性も皆無。偽証の可能性はほぼないよ。

伊藤は通訳と言っても長州藩側の人間で、しかも高杉の講和の席にも挙兵の際に同調した数少ない人間。
高杉を称賛することは間接的に自分を賞揚することだから、嘘をつく必要性は充分にある
さらにサトウ日記と、数十年が経過した後の伊藤の後年の回顧談では史料価値が大きく違う。
サトウ日記の観察はおおむね正確であり、高杉の「最初は傲然とした様子」をきちんと描写しているし、
租借は戦勝国の当然の要求だからそれこそ隠す必要はない。
いま一部で言われているのは、予備交渉の段階では租借の話が出たかも知れないが、
本交渉では出なかったと言う説だね。サトウの長州藩に対する記述はおおむね冷静だよ。
それでなきゃサトウ日記があれほど史料として引用されたりしない。

574 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:12:43.52 ID:ltSI0+H50
とりあえず、伊藤の回顧談には全く裏付け史料がないどころか、
全く相反する、より史料価値の高い陪席者の証言があるわけだ。
どっちを信用するか、少なくとも伊藤の回顧談を無条件に採用してもいいのかは
当然、史料批判で叩きこまれる所だと思うが、違うかね?

575 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:14:29.10 ID:XQOsSCmc0
>>568
>前述の通り、賠償金としての性格を規定したのは下関条約。

上で答えているように長州に賠償金を支払う気はない。
長州に払えといっていたなら、戦争継続だろうな。
長州が認めた講和条件は、難破船の避難を認め。補給を許し。
その後攻撃を加えないというもので、賠償金などといったものも、租借も断固として拒否している。

>防長回天史にきちんと載ってる超有名史料だから長州オタなら見ておけよ。

そんな事実はだから存在しないよ。つか回天史や奇兵隊日誌だとかいっているけど。
実際にその史料は一切例示しない人だねお前は。
奇兵隊日記の何巻の何項に、部落というだけでリンチ処刑されたのかいい加減書いて欲しいものだが。
会津オタの捏造にはつきあえんのだよ。

>幕府は四半期ごとに50万両、計6回の支払を約束していたが、

300万ドルだよ。

>幕府はわずか1年足らずで半額を返済している計算になる。ここまで延滞なし。

そりゃそういう約束だからね。そしてその金は御用金と欧米からの借款でまかなわれた。
フランスに生糸の独占購入権を認め、(相場の半額)その代わりに100万ドルの借款をしたように。
借金の借り換えでしかない。御用金も長州征伐とあわせて1000万両をこえるほど徴収している。
支払い能力などなく。面子で行ってしまっただけで、開港すればよかったのにほんと馬鹿。

>よって明治政府の実質負担は幕府が頑張ったことで極めて軽くなっている。
明治政府が支払った、幕府から継承した対外債務は600万ドルだよ。
借り換えの自転車操業で借金が雪だるまなんだが。何を言っているんだ?

なお返済が長引いたのは、そもそも明治政府は支払いたくなかったから、
それの交渉をしていたから。岩倉使節団が帰るまで返答できないとかいって、のらりくらりとかわしている。
そして英国などは日本国内の移動の制限の撤廃の変わりに支払い免除などで交渉しており、
それで支払うかどうかが長引いたから。



576 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:18:50.15 ID:ltSI0+H50
>>564
>つまり違反者は普通におり、ばれなければ問題ないものであり。
>場合によっては形式だけだったと見るべきだろう。

形式だけなら、6月24日に1回袖印着用と私称の禁止が出た直後、7月2日
と言う短期間に2回目の触れが出て、さらに袖印無着用の場合の処分まで警告する必然性がない。
定期にお触れを出すだけで済む。1回目の触れに対して不満が多かったため、
短期間に締め付けを強めたのは明らか。

577 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:23:24.59 ID:XQOsSCmc0
>>573
長州の人間ではあっても、それからかなりたっている。その頃わざわざ捏造して、
厚遇してくれたわけでもない高杉をわざわざ、立てる必要性などない。
立場を考えれば売名目的で法螺をふく必要性もない。信憑性は高いよ。


そしてサトウが記述しなかったのは、求めたけど拒否されたので成立しなかったので記さなかっただけだろう。
成立しなかったものをわざわざ記述する必要はない。

>>574
そもそも伊藤がそこに居合わせた人物なんだが?
アーネストサトウが英国側の通訳なら、伊藤は長州側の通訳。
どちらも双方の立場で記述しているだけ。
求めたが拒絶されたケースを書く必要はない。書かなかったとして別に信用性は落ちないだろう。
別に矛盾した内容にもならない。

578 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:29:34.06 ID:ltSI0+H50
>だから少なくとも新撰組と繋がっていると強く疑われているという事だよ。
>隊の大半が捕縛だよ。解散させられた隊はほかにもあるが。
>こんな事例はない。つまりよっぽどの事であり。
>新撰組との内通を疑われたのは事実だろう。

金作の出奔歴は普通に知られており、この時期は戦争前夜だから藩外に出て上方に行ったと言うだけで
当然、疑いの対象になる。新撰組うんぬんはお前が新史料を呈示しない限り嫌疑の段階に留まる。
ところで不思議なのは、なぜそのような履歴のある周知の人物なのに、隊結成を慶応元年11月段階では1回は許可しておきながら、
隊が膨れ上がった慶応2年3月になって突然逮捕と言う強硬手段に出たのかだよ。
この間、茶筅隊は通敵行動など一切していない。
自分が言った「裁判官の嫌疑」とは、要は予断のことだよ。
金作の自白が得られなかったために富蔵と対決させ、これで処分に持っていきたかったと言う意図だよ。
新撰組との関係への警戒感は多少はあっただろうが、
慶応元年段階では庶民が新選組が大募集を行っていた上方で声をかけられるのは珍しくない
長州藩側の史料しか残っていない以上、それに照応する史料がなければならないが
今の所それに照応するものが外部にない。

>ほんとに内通していたかどうかまでは確定事項ではないがね。

はい、ソースなしと言う自白が成立しました。

>最も俺はかなり疑っているが。つか真っ黒だろう。富蔵のほうに部があると見る。

その富蔵も首謀の一部であり、罪をどっちに擦り付けるかの局面になってる上に、
何しろ新撰組側で担当した隊士の所在場所も違えば、隊士の存在すら確認されてないんですな。
富蔵が全く無関係の第三者ならともかく、彼も首謀として厳罰に処せられる可能性が高かった以上、
8月時点で打ち明けられていたのに隊の結成に参加した者の証言も、
充分信憑性が薄い。

579 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:35:23.67 ID:ltSI0+H50
>>577
すべてお前の勝手な史料解釈だよ。呆れかえってものが言えない。
かなりたってから言った発言だから同時代人の史料より劣るんじゃないか。
裁判でも後になって思い出しましたなんて証言は記憶の曖昧さを片っ端から突っ込まれるぞ。
後にも先にも彦島租借要求をめぐる伊藤証言はそれしかない。

さらにサトウも立場としては伊藤と全く同じ陪席者であり、租借要求を隠す理由がない。
長州藩の下関条約はほぼアヘン戦争後の講和条件と同じ形式であり、
彦島租借は関門海峡通行の安全を保障するためなのは明白なのだから、
何か後ろ暗いことをしているわけでも何でもない。現に下関条約では砲台撤去が条項に入っている。
ちなみにサトウ日記は英国公使についても批判を加えたりしていて、
極めて冷静で観察力の高いものであるのは周知のこと。
史料価値が全く違う。

580 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:37:28.72 ID:ltSI0+H50
攘夷戦争をめぐるサトウ日記を見ていても、
前後に不審な記述はほとんどないんだな。記述は極めて正確で、
例えば幕府に対して要求を持ち出したが拒絶された、さすが○○だね
みたいな記述はしょっちゅうある。

581 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:40:49.20 ID:XQOsSCmc0
>>570
身分の引き上げは武士への取立てなのだから当然の事。
そしてあっても農工商で農が上程度の身分差だろ。

>お前がどう強弁しようが、非常民は常民の下の序列に置かれていたことは間違いない。

序列になんの意味があるというんだね?
彼等の生活の実態が農民などと比べてよかったか悪かったかが問題なんだよ。
序列が上でも貧乏ならなんの意味もない。維新団も身分より土地をほしがった。

>だから全国有数の大富豪であり、幕府機構の一員ですらあった弾左衛門ですら

何度もいうば幕府のケースは関係ない。
序列よりも生活向上にメリットおいたのが大多数の部落であったが、
大富豪であったこいつは、次は名誉がほしくなり武士として威張って歩きたかったんだろ。
別にそういうケースは否定せんよ。欧米で台頭した富豪が貴族や勲章をうらやましがったのと同じ。

582 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:48:54.72 ID:ltSI0+H50
>>575
しつこい奴だな。じゃ防長回天史から下関5ヶ条を引用してやるよ
そのかわり、この史料に反駁できなかったら
「防長回天史」にないと言い張ったお前は嘘つきでこれからの記述の信用性は一気に落ちるぞ。

防長回天史・文久元治記第19章より
(中略)
一、馬関町より始めて外国艦に発砲せしによって、此度焼失に及ぶべきの所焼かざる故、
その償金を出す事。その外に軍の雑費を出す事の二ヶ条、江戸に於て…決定するの段、承知致す事。

この条文に書かれている内容
・最初に発砲したのは下関砲台側である…違法性の所在
・焼失に及ぶべきの所焼かざる故…下関を焼失させるべき所(連合艦隊が)それを行わなかったため
・償金を出すこと

賠償金であるのは明らか。

583 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:52:03.30 ID:ltSI0+H50
>>581
いや、もうお前は最初の主張から完全に外れてグダグダになってるよ。
長州藩諸隊は士庶平等の志願兵だったと言う主張が、
今や身分差別を肯定していたことに何の反駁も出来ていないどころか、
「分限を弁える」のが当たり前だと開き直るまでになっている。

だから諸隊志願の動機が「郷土防衛」まで下がってしまっているだろ。
だったら諸藩が徴募した農兵商兵と何の変りもないわけだが。


584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 21:56:43.61 ID:CDgHAKjVO
>>555
本当ですか。

だったらどうして錦の御旗を、さずけなかった

585 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:02:21.78 ID:XQOsSCmc0
>>571
>これ全部文久年間の話だよ。先のお達しをどう説明する。

ん?俺の話と別に矛盾する内容ではないが?

>金作証言では新撰組は身元を疑っているようだが、別段深く詮索せず放免している。

内諾だからな、きちんと身元を調べたわけではないだろう。
実際富蔵の証言によると妻子がいるかどうかの確認と、それらを近くに置くこと、
(人質かね?)それで内諾だけもらって帰ったとある。
新撰組が改める前だろどうみても。
>>572
後つけであるなら奇兵隊が最初から動き、全員を捕縛する事などない。
当時村々に募集をして回った庄屋は珍しくない。だが誰もそんな事にはなっていない。
新撰組との内通を疑われたからに決まっているだろう。それ以外理由がない。
隊内で吹聴して、誰かが通報したと考えるが普通だね。

>ところで不思議なのは、なぜそのような履歴のある周知の人物なのに、隊結成を慶応元年11月段階では1回は許可しておきながら、

だからその後に新撰組の件が漏れたんだろ。それをお前が否定したいから史料の無理な解釈になっているんだよ。

>はい、ソースなしと言う自白が成立しました。

長州藩が動いた理由だよ。確信がないけど疑わしいから捕らえて取り調べしているんだろ。
俺はその後言っているように、ほぼ確実だと判断している。
新撰組と全く接触していないなら、固有名詞が一致するわけがない。
ましてやそれが偶然にも勧誘を当時行っていたとかになるとね。

586 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:02:49.74 ID:ltSI0+H50
真面目に相手していても馬鹿らしいし、
こいつは部落関係で指摘されて反論できない箇所には一切反論してないんで、
最後に大事な所だけ指摘しておくわ。

>>558
隊則が定められた日付は5月。維新団の性格が規定されたのがその頃だよ
そしてこれは茶筅隊の拘束・解散とほぼ同時期。
ちなみに強制解散の事例はないと言うが、佐分利隊の解散は藩の通達にしっかり
「農兵隊の結成は許可できない」と書いてある。

隊則を読めば、維新団に対する藩の警戒心の強さがうかがえる。
何より茶筅隊に比べて細かいしね。服装も笠まで黒を強制され、
それがために「穢兵」の部隊までいると幕軍に驚きを与えている。
維新団の戦死傷者報告に見る出自、及び報告内容の差別的取り扱いは前述の通り

587 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:09:05.62 ID:ltSI0+H50
>>585
矛盾している。慶応年間は文久年間に比べて諸隊の自主性が軍制改革の結果奪われていく時期。
よって高杉が慶応年間にエタ除外発言をしたからそれ以前は自由だったと言う論法に対して、
文久年間ですら奇兵隊の内情はこうだったと反駁しているのだから当然、矛盾。

>>金作証言では新撰組は身元を疑っているようだが、別段深く詮索せず放免している。
>内諾だからな、きちんと身元を調べたわけではないだろう。
>実際富蔵の証言によると妻子がいるかどうかの確認と、それらを近くに置くこと、
>(人質かね?)それで内諾だけもらって帰ったとある。
>新撰組が改める前だろどうみても

おやおや。内諾であって新撰組との正式接触がなかったと言う自白が成立しました。
新撰組隊士以外の、どういう関係かも分からない易者の内諾じゃ仕方ないですな。
と言うかね、いまお前と語ってるのはあくまで金作と富蔵の供述に任意性が担保されてることを前提としてるんだが、
拘束された段階で既に富蔵は結成当初からの幹部だから、厳罰の恐れがある対象に入ってるわけだよ。
富蔵が対決審問を望むのは偽証してでも自身の刑の減免に預かりたいからに他ならない。
これが当事者主義的構造なら反対尋問権が保障されないといけないはず。

588 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:17:00.63 ID:ltSI0+H50
>>ところで不思議なのは、なぜそのような履歴のある周知の人物なのに、隊結成を慶応元年11月段階では1回は許可しておきながら、
>だからその後に新撰組の件が漏れたんだろ。それをお前が否定したいから史料の無理な解釈になっているんだよ。

それはおかしい。金作の上方出奔は異例の事態だし、藩秩序の壊乱だから当然糾問があって然るべき行為。
ところが隊設立の段階ではその周知の事実が不問に付され、隊の規模が膨れ上がった数か月後に、
当初血盟した隊士以外も拘束の対象になっていると言うのはおかしすぎる。
なぜなら彼らは金作の出奔の事情を知らず、隊公認後に参加しているのだから。

>>はい、ソースなしと言う自白が成立しました。
>長州藩が動いた理由だよ。確信がないけど疑わしいから捕らえて取り調べしているんだろ。
>俺はその後言っているように、ほぼ確実だと判断している。
>新撰組と全く接触していないなら、固有名詞が一致するわけがない。
>ましてやそれが偶然にも勧誘を当時行っていたとかになると

いや、慶応元年に金作が接触を受けたとされる段階では、
実際、新撰組は江戸、京阪などで大規模な隊士の徴募を行っており(もちろん審査があるが)
諸藩の脱藩者や庶民で少し興味のある者は取次を通してスカウトされて何もおかしくない。
だからスカウトされたなら当然、隊士の氏名を知っているはずだが、
彼は新撰組に実在しない隊士と、屯所にいなかった隊士の名前を挙げている。
これはどういうことだ?新撰組側の史料を突き合わせると、そんな隊士の配置はないんだが。

589 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:18:18.57 ID:XQOsSCmc0
>>579
サトウは伊藤と交友関係もあり、伊藤がそれを発言した後も存命である。
だがサトウがそれを否定した発言はない。
回顧録だからというのを笑える話だね。サトウのも回顧録だよ。
それも書かれたのは、数十年たってから、完成したのって伊藤が死んだ後だったろ確か。

また伊藤とサトウには立場として大差などないよ。お前が言っているとおりね。
どちらも捏造などする事はないだろう。
ただたんにサトウが記述しなかっただけだろ。
英国の通訳という立場を考えれば別におかしな話でもない。

ていうか伊藤が捏造する理由が何処にあるのか聞きたいね。
彼に高杉を庇う理由などない。

590 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:23:15.27 ID:91u786Su0
というかサトウは外交官なってるしね
わざわざ不名誉な記録残すとも思えない

591 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:31:14.23 ID:ltSI0+H50
何か徒労感を覚えてきたからこれだけ言っておこう。ばいばいさるさんが出てきたから

>誰だよんな馬鹿な事言っている奴は、晒していいよ。
>石井せんせーもそこまで耄碌してないだろ。

手元の本で恐縮だが
家近良樹は「孝明天皇と一会桑」第2章「70年代以降の研究動向」において
「幕府の対外政策がそれなりに主体的で柔軟な姿勢のもとに展開されたことや、
改革を実施するに当たって幕府が諸藩や世間に対して閉鎖的でなかった
(改革の成果を独占しようとしたわけではなかった)ことなど、
幕府に好意的な評価を下す論稿が多くなったことも近年の特徴」
「それまでの幕府の評価はとにかく低かったとしか言いようがない」
「ここに我々は明治維新を薩長の維新だとする視点を乗り越え、複眼的な視点から
総合的に明治維新を見つめることが可能になりつつあると言えよう」
とはっきり述べてスタンスを明らかにしている。

また井上勝生は長州の対外政策そのものに批判的で、
幕府の開港交渉をめぐる努力を多く発掘している。

孝明天皇毒殺を信じないで喧嘩やらかした石井孝を持ち出してどうすんの、おじいちゃん

592 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:32:06.74 ID:ltSI0+H50
×孝明天皇毒殺を信じないで
○孝明天皇毒殺を信じ込んで

石井孝もそりゃ名著だけど、いかにせん今の維新史にはちょっとついてけてない

593 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:34:04.67 ID:ltSI0+H50
何か田中彰もろくに知らないような奴の話が続いて疲れた。
芸州口の問題は物凄い捻じ曲げがあるんだけど、また今度にしよう。

594 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:38:07.55 ID:XQOsSCmc0
強がりが過ぎるなw必死だなと答えておこう。
自分の知識の浅さと持論の強引差を俺が突っ込んでいるだけだろうにw
対象にレッテルをはって勝った気にだけでもなりたいのはわかるよw
>>586
あら嘘をついていたのを自白されるのかねw
お前は552で解散をうけて結成されたといっている。だが実際は解散前にすでに何度も集まり訓練している。
隊規の時が前後するとか抗弁必死としかいいようがないな。
集って訓練をするという時点で、もう募集がされて性格が決定つけられているのだから。
勧誘する時にどういう文句を勧誘をして、どういう動機で集ったと思っているのやら。

ちなみに明らかに間違っている所以外は、わざわざ指摘せんよ。

>ちなみに強制解散の事例はないと言うが、佐分利隊の解散は藩の通達にしっかり

へえそこが奇兵隊が出動して、ほぼ全員逮捕したというのかw
新事実発見だなwおいw

>維新団の戦死傷者報告に見る出自、及び報告内容の差別的取り扱いは前述の通り

維新団として別個に計上された事と、彼等がそれを不満に思い解消したいと思っていたかどうかは別の話。
>>583
>長州藩諸隊は士庶平等の志願兵だったと言う主張が、

俺がいつそんな事いった、俺は最初から長州藩は尊皇攘夷を叩き込まれているから、
士気が高いといっている。
志願兵だから士気が高いといっている。
四民平等だから士気が高いなどといった覚えはない。勝手に発言を捏造するな。
脳内で作り上げた妄想にレスしてどうするんだよ。

>>582
それのどこが長州がその賠償金を払うという内容なんだ?
>その償金を出す事。その外に軍の雑費を出す事の二ヶ条、江戸に於て…決定するの段、承知致す事
お前が書いているように長州が賠償金を払うという話ではない。
自爆かね?

595 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:40:14.93 ID:ltSI0+H50
>>589
伊藤の回顧を知らなかっただけだろう。伊藤も余興で語っただけだからね。
もし隠さないと都合が悪いものであるならば、
サトウが知っていたとしたら当然そんな事実はないと日記に記すはず。
日記にそもそも記されていないのが、サトウが租借問題について全く関心を払っていなかった証拠。
まあ予備交渉の段階で海峡の安全航行のために彦島が必要だと言う話になった程度だろう。
オールコックの関心は下関開港であり、砲台撤去とあわせて充分目的は達成されている。
彦島租借にこだわる客観情況はまったくない。

596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:42:16.91 ID:XQOsSCmc0
>>591
最近のアレな人の代表人物じゃないかw
こういう人達は今までの史観を変える事で、
俺すげええと思い込みたい痛い子の代表。

597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:42:22.44 ID:91u786Su0
>>595

事実だからそんな事実は無いと日記に書かなかった
彦島に拘れないから言い出してみたものを拒否され撤回した
とも取れるね

598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:43:20.31 ID:ltSI0+H50
>>594
償金の性格を規定している。文章も読めないの?
・最初の発砲は長州からのもの
・下関を焼尽させるところ、それは勘弁してやった
・そこで償金をだし、軍の雑費を出すことの2ヶ条 を長州側は認め
それを「江戸において」決定する、すなわち幕府の責任だと言ってるんだ。
賠償金としての性格付けは明らか。江戸幕府はこれを友好協力のための補償金に転換させている。

さて防長回天史も知らなかった長州オタよ、お前は嘘つきなのが確定したわけだが、
どうするね?



599 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:45:35.98 ID:91u786Su0
攘夷を中断したのは幕府の責任なんだから
当然幕府に責任あるよな

600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:45:39.52 ID:ltSI0+H50
>>596
最近のアレな人が維新史を引っ張ってるんだから仕方ないなあ。
まあもっと詳しい論文集とかあるから、著者名をずらずら挙げていってもいいけど
防長回天史をちゃんと読みこなさないと、アレな人にすら勝てないですよw

ちなみに長州藩側の差別や強制徴募については一坂太郎も触れてるが。

601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:49:23.61 ID:ltSI0+H50
>>584
節刀を賜ってるよ。8月8日に。

602 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:51:24.28 ID:91u786Su0
攘夷が成功してれば違った形の明治維新になったかもなあ
不平等条約も改正できたかもしれない

603 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:51:26.63 ID:XQOsSCmc0
>>595
自分でアヘン戦争と同じと言っているだろ。
実際提案されていてもおかしくなどないよ。

伊藤はそこで実際に強行に提案されたら断れなかったのではないかと、むしろ長州を卑下する内容であり。
高杉本人を自慢する内容としても、伊藤が高杉をマンセーするような動機もない。
ていうかむしろ恨んでいてもおかしくないくらい、酷い扱いを受けている。

サトウを信用しないわけじゃないけど、別にサトウが書かなくても別におかしくないよね。
これはサトウの回顧録なわけで、日記ない事は自分の記憶を頼りに書いているとしている。
書かれていないから、伊藤の記述は信用できないというのは無理がある。

604 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 22:55:54.30 ID:XQOsSCmc0
>>598
だからそれは長州が賠償金を払う事を認めた内容ではない。
>上で答えているように長州に賠償金を支払う気はない。
というのを否定するものではない、さあ回天史のどこに長州が賠償金を支払うと言ったのか記せよ。
いいかげん誤魔化すのはなしだぞ。

長州の変わりに幕府が払うのなら別に長州に損はないどころが、
幕府を弱める事ができるので、むしろ二重の意味でラッキーだろうが。

605 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:02:42.20 ID:ltSI0+H50
>俺がいつそんな事いった、俺は最初から長州藩は尊皇攘夷を叩き込まれているから、
>士気が高いといっている。
>志願兵だから士気が高いといっている。
>四民平等だから士気が高いなどといった覚えはない。勝手に発言を捏造するな。
>脳内で作り上げた妄想にレスしてどうするんだよ。

他の諸藩とさほど違った徴募方式じゃないと何度言えば分かるのかねこの男は。
現に被差別部落には1つの集落から○名までと言う定数制限がついてそれ以外の取立は禁じられてたし、
もともと被差別部落諸隊の本格的結成は俗論派の藩命により開始されてそれを正義派が引き継いでいる。
慶応改革の結果、佐分利隊のような既存の諸隊にすら藩命で解散の勧告が出ている

それはともかく、ここで
「長州諸隊は士庶平等ではなく、あくまで身分差別を前提とした藩秩序の中の諸隊だった」
との自白が成立しましたw

>>604
明らかだろ?「最初の発砲は長州側からであって、本来なら下関を焼き尽くすべき所、
焼き尽くさなかったのだから償金を求める」と言う趣旨なんだから違法性を前提にしている
これに対して幕府の協約ではきちんと支払う金員の性格について但書があり
「あくまでも友好関係維持のため」と規定されている。

長州藩が賠償金を支払っていないとかトンデモ理論を主張してる学者名と著書をプリーズ。

606 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:07:11.01 ID:ltSI0+H50
まあ必死ですなこの長州オタ君は。何しろ防長回天史にそんなこと書いてない
と言ってみたもののあっさり証拠突き付けられてんだから

慶応年間の諸隊の取立を厳重に制限する藩命や、
佐分利隊の解散と言ったきちんと史料が残ってる事例に関しても全く反論がないし、
彦島租借は存在が疑問視されてるのにサトウを否定して伊藤の回顧談を採用するとか
どんだけめちゃくちゃな大学で習ってんだよ。

つうか気持ち悪くなってきたんだけど。長州オタってこんな奴ばっかりなのか?

607 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:12:30.58 ID:ltSI0+H50
>>603
アヘン戦争と異なり、彦島の租借は関門海峡の自由航行を担保するためのもの。
仮に彦島租借を長州が飲んだとしても、幕府が絶対に承知しない。
オールコックとしては下関の砲台撤去…非武装地帯の創設と、下関への事実上の自由入港を勝ち取れば、
関門海峡の安全は確保できるどころか、従前、幕府が商業地を限ってきた前例を破って無条件開港を勝ち取れる。

だから300万ドルを吹っ掛けて下関開港の既成事実化を狙ったんだが、
これに対して幕府が米蘭仏に対して働きかけることでオールコックも尻すぼみになった。
ちなみにこの下関からの砲台撤去は幕長戦争で長州藩内が困ってしまい、
桂は砲台の設置を認められないか打診しているが、英国側に却下されている。
情けないね。

608 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:12:58.36 ID:XQOsSCmc0
>>605
>他の諸藩とさほど違った徴募方式じゃないと何度言えば分かるのかねこの男は。

だから他の諸藩と違って基本志願制。
定数制限があった?それだけ人気だったというだけ。
ていうか部落の人間は普通に仕事があるわけで、それをほっぽって参加が増えるのは、
そりゃ困り者だろ。

>「長州諸隊は士庶平等ではなく、あくまで身分差別を前提とした藩秩序の中の諸隊だった」

分かってないな、長州は武士が鉄砲足軽をやり、農民もやった。
身分が違っても同じ職務を行った事に意味があるんだよ。
幕府は旗本連中は鉄砲うつなんて、足軽の仕事やりたくねーといって、
そういうのは江戸で募集した、博徒やら火消しやらにやらせた。
平等というのは職務が平等って事なんだよ。身分が違っても同じ事をしていた。
そこがすごいのさ。そしてそれが出来なかった幕府が滅んだわけ。

>明らかだろ?「最初の発砲は長州側からであって、本来なら下関を焼き尽くすべき所、
>焼き尽くさなかったのだから償金を求める」と言う趣旨なんだから違法性を前提にしている

文盲か?それのなにが長州が賠償金を支払う事を認めた内容になるんだよ。

>長州藩が賠償金を支払っていないとかトンデモ理論を主張してる学者名と著書をプリーズ。

え、300万ドルを長州が支払ったと思っているんですかwwww


609 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:15:06.13 ID:ltSI0+H50
とにかく長州オタって独善的すぎるんだよ。
幕長戦争の全貌を知ろうとするのではなく、ひたすら長州マンセーなんだから
段々こっちも相手するのが気持ち悪くなってくる。

610 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:15:12.08 ID:XQOsSCmc0
>>606
>まあ必死ですなこの長州オタ君は。何しろ防長回天史にそんなこと書いてない

だからどこに書かれているんだよ、まだ一度も明記されてないぞ。
さあ早く、長州が賠償金を支払った記述を探してくるのだwないものはないけどな。www

>つうか気持ち悪くなってきたんだけど。長州オタってこんな奴ばっかりなのか?

気が合うな、幕府信者が狂っているのだけは理解できたよ。
もう来るなよw


611 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:16:53.15 ID:ltSI0+H50
>>608
賠償金を認めたのは長州。普通に候文が読めれば一点の疑義もない文章。
しかも出典は防長回天史。知ったかぶりしたことでお前が嘘つきなのは確定したんだから諦めろ。

早くこれを否定する論者の著書を出せよ。

612 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:20:00.95 ID:ltSI0+H50
>>610
はあ?防長回天史の協約第5条を見たら長州が自らの違法行為を認め、
下関への攻撃を免除してもらった代償としての賠償金支払を認めた上で、
決定方法=支払を江戸幕府に丸投げしたのはこれ以上ないほど明らかだろ。

こっちも心底驚いたわ。しかしお前は間違いを認めてないから、
きちんとさせるまではちょくちょく参りますよ。


613 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:21:04.22 ID:XQOsSCmc0
>>611
だから賠償金を「長州が」支払う事を認めたものだよ。
どこにもないじゃないか。

614 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:23:29.83 ID:ltSI0+H50
>>608
>だから他の諸藩と違って基本志願制。

文久年間ですら兵員不足を補うために差出を命ずる仰せ付けがかなりのウェイトで存在していたのに
慶応軍制改革以降は解散を命じられる隊が出現しており、自由な引立ては前述の通り藩命で禁じられている。
どんなに贔屓目に見ても幕長戦争の段階では諸藩と同じ。

615 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:25:55.23 ID:ltSI0+H50
>>613
だからどこで長州が「賠償金支払約束」を否定しているんだよ。
賠償金支払を約したのは長州、その弁済に関しては幕府に丸投げ
これが下関条約第5条から明瞭に読み取れる解釈。

616 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:26:02.66 ID:XQOsSCmc0
>>612
認めないのはお前だろ。いいかげんにしろ流石に腹がたってきた。
長州の主張は砲撃は幕府の命令なんで、って言うものなんだから、
それをお前が長州が支払うと言ったと主張している。
だがその例示はない。
575で記したように、長州に賠償金を支払う気があったというものを記せよ。


617 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:26:54.41 ID:ltSI0+H50
ほんと嘘つきは必死だね…

618 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:30:01.67 ID:ltSI0+H50
>>616
もう1回、防長回天史から引用してやる。
防長回天史・文久元治記第19章より
(中略)
一、馬関町より始めて外国艦に発砲せしによって、此度焼失に及ぶべきの所焼かざる故、
その償金を出す事。その外に軍の雑費を出す事の二ヶ条、江戸に於て…決定するの段、承知致す事。

この条文に書かれている内容
・最初に発砲したのは下関砲台側である…違法性の所在
・焼失に及ぶべきの所焼かざる故…下関を焼失させるべき所(連合艦隊が)それを行わなかったため
・償金を出すこと

賠償金であるのは明らか。長州が賠償金の性格を規定し、支払約束を行い、
江戸において決定すべきなのはその具体的内容ね。
もし長州が賠償金支払約束をしていないなら、そもそも江戸において決定するものは何もない。

619 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:33:00.11 ID:XQOsSCmc0
>>614
長州征伐の時に、志願兵が集っていた藩なんてどっかにあったっけ?
新説だな。w
幕府は志願兵を長州征伐に投入していたんだなw

>文久年間ですら兵員不足を補うために差出を命ずる仰せ付けがかなりのウェイトで存在していたのに

やっと文久と慶応の違いが分かってきたようだな。少しは調べたのかね?
そしてここが間違いだな。多くの隊は自発的に庄屋などが集めたもの。
彼等の募集に応じて集っており志願って言っているわけ。
藩が徴兵をかして集めたものではない。
維新団にしても志願とあり、強制性は薄い。

そしてお前が以前言っていたように、兵士が足りないのに解散しまくっていたわけではないw
文久と慶応の改革が分かってなかったから、こんなトンチキな事を言ったんだろうなw

620 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:37:21.52 ID:XQOsSCmc0
>>618
だからそれは幕府が対応する事を認めた事であって、
賠償金を支払う事を認めたものではない。

>もし長州が賠償金支払約束をしていないなら、そもそも江戸において決定するものは何もない。

長州が支払う約束などはしていないね、どうみても。

621 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:46:07.44 ID:XQOsSCmc0
>上で答えているように長州に賠償金を支払う気はない。
>長州に払えといっていたなら、戦争継続だろうな。
>長州が認めた講和条件は、難破船の避難を認め。補給を許し。
>その後攻撃を加えないというもので、賠償金などといったものも、租借も断固として拒否している。

えーと君の知能だと。この文を読んでどういう解釈になったのかな?
正直国語のテストをまず君に課したくなったよ。
賠償金と租借を長州に請求するかどうかを問題にしているのにね。

幕府に払わせる事を長州が認めた、これがその証拠だ!
とか言われてもw幕府が賠償金を支払った事を否定する内容だとでも思ったんだろうか。

揚げ足取りでしか勝てないとふんでの事かね?
史料の曲解と妄想の人なんて仕方ないのかな。

622 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:05:51.79 ID:Dv9OnGHJ0
彦島租借の件は司馬の創作だろ

さすがにアーネスト・サトウ日記の改竄とかついていけんわ

623 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:08:23.68 ID:4UIw2rHZ0
828 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:36:46.45 ID:ltSI0+H50
つーかこのキチガイ長州おたく、一体どこで幕末史習ったのよ。ほんと不思議だわ。
百歩譲って幕府の無策無能とか言ってた1970年代以前のおじいちゃんが火病って書いてるんだとしても、
田中彰や遠山茂樹の古典的名著くらい読んでるだろうになあ。

奇兵隊が「上からの軍隊」に収れんしていった過程や、維新団と茶筅隊の隊則に見る諸隊の性格、
さらに大坂南御堂の事件に見る隊内での理不尽な処刑、袖印の存在、私称の禁止
これ全部40年くらい前には指摘されてることだが

829 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:48:03.30 ID:ltSI0+H50
>>619
嘘をつきなさい。町方村方の徴募は基本的に願い出と言う形式になる。
この徴募方法はどこの藩でも変わらない。
それでも足りずに藩が員数を定めて賦役を命じた「仰せ付け」
が文久年間にあったことは明らか。これも諸藩と変わらない。
さらに維新団は志願とは言い条、隊則を見ると茶筅隊のような自主性の強い隊とは全く異なり
黒ずくめの服装を強制されたり、身分を弁えることを隊則で強調されている。
そもそも元治内戦の際に被差別民諸隊の設立は藩命によってなされている。
正義党政権はそれを引き継いだだけ。
控え目に見てもとちゃんと断ってあるが、お前は読めんのか?

>>620
違う。償金の支払と、その性格の規定は全て下関協約第5条でなされている。
もし長州藩が償金支払約束をしていないなら、当然、幕府においても支払義務は発生しない。
だいたい償金支払を拒絶したなら
誰がどこで「長州藩が償金支払約束を拒絶した」と言っている?
さっきから聞いているが全く答えがないじゃないか。近現代史の人間に聞かせたらみなびっくりするぞ。

お前の主張が真実なら、長州藩は一切賠償金支払約束をしていないにも関わらず、
なぜか己の砲撃の違法性を認め、下関を焼き尽くされる所を焼き尽くさなかったので償金は支払うべきですね
などと勝手な性格付けを与えた上で約束を拒絶したことになり、
江戸幕府は長州藩が償金支払を拒絶したにも関わらず願い出て支払った意味不明な政府と言うことになるが、
そんなことを唱えている学者は全国でどこにもいない。

つーかこのキチガイ長州おたく、一体どこで幕末史習ったのよ。ほんと不思議だわ。
百歩譲って幕府の無策無能とか言ってた1970年代以前のおじいちゃんが火病って書いてるんだとしても、
田中彰や遠山茂樹の古典的名著くらい読んでるだろうになあ。

奇兵隊が「上からの軍隊」に収れんしていった過程や、維新団と茶筅隊の隊則に見る諸隊の性格、
さらに大坂南御堂の事件に見る隊内での理不尽な処刑、袖印の存在、私称の禁止
これ全部半世紀前には指摘されてることだが

830 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 23:56:04.08 ID:ltSI0+H50
サルさんが出てきて書き込めんからこっちに書いておいた。
お前の言うことが本当なら小中学校の教科書は書き換えなくちゃならんね

624 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:19:27.92 ID:Jku6o0PD0
長州ファンはちょっと興奮しすぎだな

幕長戦争スレは長州の自慢話を聞くスレじゃないし

せっかくの部落民問題の具体的な指摘にも感情的になってちゃんと答えてない

625 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:21:12.77 ID:Jku6o0PD0
あと口のきき方が汚すぎるわ

会津信者とまったく変わらないじゃん

626 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:25:18.04 ID:rz+4lsAJ0
>>622
司馬なんて話に出てない。伊藤の回顧としてでているもの。
サトウの晩年の回顧によるとそういう話は記されていない。
伊藤が捏造したか、サトウが書いてないかのどっちか、伊藤が捏造する理由がないので、
サトウが書いてないだけだろうと判断している。
>>623
基地外はお前だけどな、お前の一方的かつ独善的で、さらにいうと複数の解釈が存在するものや。
そもそも別に有利でもなんでもないものすら、書き方による印象操作などを使って、
おかしな記述になっている。大野関係の四境戦争の話もそう。
また幕府側に不利な話や、比較対象としてあげられた場合はスルーして、
長州の一部の例だけ挙げている、はっきりいうとお前の文章は公平性を著しくかいており見る価値もない。

627 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:29:44.59 ID:AdRG9Odv0
あんたの判断なんだから人に押し付けんなよ

長州に有利な点だけ見てるって意味ではあんたも同じだぞ

628 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:31:21.88 ID:Xcb9wx+k0
つうか昭和史スレまで長州オタが乱入してくるのがうざくてたまらん

629 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:34:41.80 ID:LuKXznXl0
長州完全無欠みたいなこと
威圧的態度で言ってるから
反論したくなる奴が出てくる

そんだけの話

630 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:44:24.89 ID:0xcUZmHS0
前スレはもっとマターリしてたのに

631 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 00:48:37.11 ID:rz+4lsAJ0
>さらに大坂南御堂の事件に見る隊内での理不尽な処刑、袖印の存在、私称の禁止

これ理不尽かね?国内の過激志士の変わりに死んでもらったケースだろ。
薩摩との揉め事を抑える為にやったケース。ヤクザの代わりに出頭みたいなもの。

>嘘をつきなさい。町方村方の徴募は基本的に願い出と言う形式になる。

嘘はお前だ。庄屋が自費で集めた者達で、庄屋も集ったものは志願だよ。
特に文久に行われたのはね。徴兵なら藩は定員などを定めるし、
庄屋が自費で養う必要などない。

>黒ずくめの服装を強制されたり、身分を弁えることを隊則で強調されている。
そもそも維新団の上に当たる隊である遊撃隊の軍服が真っ黒。
差別で強制されたのかね?w
ちなみ隊ごとに制服の色が異なる。市勇隊(おもに町民)は紺
隊ごとに色が決まっていただけ。身分をわきまえる事と隊則にあるのが何が問題なんだか。
異なる身分のものが一堂に集って戦争するわけで、揉め事を避けるのは当然の事。

>控え目に見てもとちゃんと断ってあるが、お前は読めんのか?

最初こんな事書いてなかったでしょ。


632 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:08:17.95 ID:rz+4lsAJ0
>もし長州藩が償金支払約束をしていないなら、当然、幕府においても支払義務は発生しない。

意図的に曲解して答えないつもりかお前は。
長州は長州が支払う約束などしていない。幕府が払うのならそれは長州の問題ではないのだから、
どうでもいい話だろう。それは長州が決める事ではない。

>江戸幕府は長州藩が償金支払を拒絶したにも関わらず願い出て支払った意味不明な政府と言うことになるが、

長州藩が支払いを拒絶したから、幕府に請求したという事になるんじゃねーの。
どっちにしろ連合軍の目的は賠償金ではなくて、これをネタに開港させる事。

長州が賠償金を幕府が支払うと長州が約束をして、幕府がそれを履行した。
この時点でおかしいと思わないのかね?長州に幕府が賠償金を支払うように命令する権利は流石にない。


633 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:16:02.08 ID:rz+4lsAJ0
>袖印の存在、私称の禁止

上にも書いたけどあったけど守られてなかった例だね。
処刑するとか脅していたし、何度も布告されていたけど、
袖印に農民なのに苗字つきで書いてあったケースが多数ある。


634 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:25:03.39 ID:pdjL19wtO
上げで書いている人はなんでIDが変わっているの?
句読点も使ってないしまさか別人って事はないよね。

635 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:34:31.68 ID:k1nbSqbT0
>>631
大坂南御堂は事実関係に誤認がある。
これは「薩摩藩とのもめ事を抑えるために」義勇隊士を犯人に仕立てて斬殺したのではなく、
この段階では薩摩藩と手打ちをしようとしたが暴発してしまい、
もう手の打ちようがないから責任を薩摩藩の商船に転嫁して、
世論の非難を高めるために自刃を強要している。薩摩藩に非難の矛先を向けるための斬殺。
そういう意味で非常に悪質性が高い。

諸藩も大体豪商、豪農に命じて人集めをさせている。
長州藩も…って何度同じ事繰り返させる気だよ。
だいたい
>>嘘をつきなさい。町方村方の徴募は基本的に願い出と言う形式になる。
>嘘はお前だ。庄屋が自費で集めた者達で、庄屋も集ったものは志願だよ。
同じこと言ってるだけじゃん。

また維新団の軍装は「衣服黒、筒袖黒、立付共紐の事、笠総黒塗りのこと」と定められており、
幕兵が「穢兵」の存在を認識したのは軍装の異様さなのだが、遊撃隊と全く同じ軍装なら幕軍の識別は不可能となる。

またお前が言うように身分=隊ごとに色が定められていたとするとおかしなことになる。
例えば維新団は遊撃隊に付属していたために黒ずくめだったと言う解釈を取った場合、

維新団への反発は長州藩側の報告にも記されており、死傷者報告において
遊撃隊隊士の場合は氏名、死傷の状況が克明に記されているのに対して、
維新団の場合は「外に維新団7人、右手負…」と言った具合に全く違う形式の報告になっている上、
これは一新組の場合も同じ。一新組の場合は単に「屠卒」と醜名をもって呼称されており、
明らかに文久3年の屠勇取立令での「エタの名目被差除」と言う条項に違背する。
つまり屠勇取立の際の差別的呼称の廃止は守られていないことが分かる。

文書形式を見ても、岩国にても初めは維新団之事やかましく云々を見ても、
維新団に対して少なくとも公的、私的な差別が存在していたことは厳然たる事実。

>>控え目に見てもとちゃんと断ってあるが、お前は読めんのか?
>最初こんな事書いてなかったでしょ。

別に折れたわけではない。長州の農兵商兵徴募の方式は基本的に幕府・諸藩の農兵徴募と同じ。
文久年間に私称の禁止その他の引き締めが出ていたことは前述の通りだが、
慶応年間に比して仮に文久年間に自主的要素が広く認められていたとしても、
と百歩譲って書いたんだよ。実際は文久年間は兵員不足でどんどん「徴兵」していったんだけどね。

636 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:38:23.03 ID:k1nbSqbT0
>>632
意図的に曲解して答えないのはお前のほうだな。
長州藩が不法行為に基づく賠償の存在を認めていないのなら、
幕府においてこの内容を取極め、支払う必然性がない。
債務が存在しないのにその内容を取極める必要はないのだから。

長州藩サイドにおいて、不法行為を認めてそれに基づく賠償を飲んだからこそ
その内容の決定は江戸に持ち込まれた。
それなのにお前は長州藩が賠償金支払を認めた事実はないと言い張っている。
認めた事実はないどころか、平謝りじゃねえか。

637 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:43:27.22 ID:k1nbSqbT0
>>江戸幕府は長州藩が償金支払を拒絶したにも関わらず願い出て支払った意味不明な政府と言うことになるが、
>長州藩が支払いを拒絶したから、幕府に請求したという事になるんじゃねーの。

おいおい待て待て。長州藩が賠償金の存在を認めてなければ、
幕府への請求は当然できないんだが。長州藩が賠償金とその原因を協約で確定したからこそ、
請求の原因が発生してるんだろ?どこで長州が賠償を拒絶してるんだ。
長州が賠償を拒絶してるのなら幕府への請求は矛盾するからあり得ない。

>長州が賠償金を幕府が支払うと長州が約束をして、幕府がそれを履行した。
>この時点でおかしいと思わないのかね?長州に幕府が賠償金を支払うように命令する権利は流石にない。

はあ?長州オタは幕命による攘夷だと散々強調してるだろ。
長州は違法行為と賠償金支払義務の存在を認めた上で、幕府にツケ回ししている。
協約第5条を見たら明らか。もし賠償金支払義務を否定するなら、
長州藩が初めに発砲したとか、下関を焼き尽くすべき所とか、
そんな自分の非を認めるような文言を入れるわけがない。

さあ、どこのだれが長州が賠償金の存在を認めていないと主張してるのか
誤魔化さずにさっさと言えや。

638 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:49:38.93 ID:k1nbSqbT0
>>袖印の存在、私称の禁止
>上にも書いたけどあったけど守られてなかった例だね。
>処刑するとか脅していたし、何度も布告されていたけど、
>袖印に農民なのに苗字つきで書いてあったケースが多数ある。

何度も繰り返すが、6月末に布告が出されて、7月初めに再度、袖印の着用そのものを義務付けていること、
さらに着用を怠った場合は処断すると厳重な布告が出ていることから、
隊が身分徴表について極めて厳しかったことが分かる。
どうでもいいが苗字帯刀を許されている農兵、商兵は当然、袖印に書くよ。
問題は、通称として誰もが使っている姓を私称した場合に処罰の対象になること。
当時の民衆は多数が私称としての苗字は用いていた。

と言うかお前だいぶ言い分変えたな。
最初は奇兵隊は志願兵制だと言ってたが今じゃ身分別の隊編成だったことを認め、
士庶平等と言う高杉の建前を否定する所まで後退している。

639 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:53:19.80 ID:k1nbSqbT0
そこまで後退してしまえば、もはや諸藩の農兵、商兵と変わらないんだけどね。
被差別民の従軍じたいは江戸幕府も行っている。
そして維新団、一新組などこの時期の被差別部落諸隊の隊規を見たら分かる通り、
自主的要素が濃かった茶筅隊とは明らかに違う官製部隊になっている。

これなら、甲陽鎮撫隊でも近藤は弾左衛門の配下の参加を受け入れているし、
銃隊創設を進めていた江戸幕府のほうがよほど進んでいたことになる。

640 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 01:56:49.91 ID:k1nbSqbT0
防長回天史の件で嘘をついた時点で、何かお前は信用できなくなってきたよ。
>>632のこれも
>どっちにしろ連合軍の目的は賠償金ではなくて、これをネタに開港させる事。

こっちが主張したことのパクリをさりげなくやってるしね。
こっちが指摘した中で都合の悪い史料的な指摘は無視してるし、話にならない。



641 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 02:04:48.23 ID:k1nbSqbT0
いささか論理的な思考回路になってしまうが、、
協約5条においては江戸で四ヵ国公使より賠償の内容を決定すると書かれているため、
幕府の回答が「払えませんから長州藩から取り立てて下さい」と言う結論だった場合、
長州は当然支払義務を負うことになるよ。
内容の決定は江戸で行うとしても、江戸で決まる内容がどうなるかは定かではないのだから。

幕府が「謀反の大名を罪するのは大君政府の職務」と言う建前で全額引き受けてくれたから、
(その代わりに裏面として英仏蘭に対して勝手な開港強要や報復を禁じたわけだが)
結果的に幕府が支払を引き受けただけで、幕府内でもそんなもん払う必要なしと言う一派も強かった。
これが反映された場合、長州藩は不法行為とその内容、及び賠償義務の存在を認めているから、
有形無形の手段で取立の対象になる。

賠償義務の存在を認めると言うのはそういうこと。不真正連帯債務なんて言っても分からんだろうけど

642 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 02:22:16.78 ID:Ks95eh7T0
まあ、下関条約5ヶ条の性格は、幕長戦争を控えて木戸がパークスに
「砲台を撤去されたままでは野砲で戦うしかない」と何とかならないか頼んでいる時点で、
長州藩にとっては非武装地帯の設定も含む屈辱的内容だったのは間違いないよ。

パークスはこれを承諾していないけどね。
これほど明らかな「敗北」を「長州は一切の譲歩に応じていない」などと強弁する奴は、
正直言って学問的良心を疑う。議論するのにだんだん飽きてきたわ。

643 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 02:49:54.16 ID:1M7s+UHM0
さすがに馬関条約の解釈は厳しすぎるな>長州マンセー派

644 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 04:45:37.43 ID:PO9KMNW20
上関茶筅隊への第二奇兵隊の拘束が3月6日、
首謀の金作と富蔵の取調が3月8日、金作が自殺
以後隊士逮捕が9日まで続くが何で富蔵は釈放されてるんだ?

645 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 06:28:42.57 ID:14LafC6U0
確認のためにサトウ日記を見てみたが、下関協約についてはこちらのほうが詳しい。

キューパーは予備交渉でまず藩主と提督たちの会見の日取りを新暦9月14日に決した上、毛利登人に対し、
「我々はまず只今述べる当方の要求について藩主の承認を求めます。
その後で将来間違いが起こらぬよう、外国の風習について藩主に色々説明しましょう。
…どちらにせよ、協定された約定には藩主の承認が必要なのですから」と要求した上で、
賠償金についてこのように説明している
「第二、わがほうの人々が人家から発砲されているので、この町を焼く権利は充分にあったのだが、
あえてそれをしなかった。ゆえに下関の町に対する代償金は、戦時における外国の慣例によって
支払ってもらわなければならない。その額は、来るべき会談に際し藩主に直接申し入れる」

646 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 06:44:18.43 ID:14LafC6U0
長州藩は藩主謹慎中と称して名代を差し向けるが、
「我々としては藩主が下関に出向く面倒を免れるための作為的な口実と思ったので、
聞き入れなかった」。会談が始まった後、キューパーはまずこの点を厳しく問いただした上で、
正式に以下のような要求を切り出している。
「(海峡を通行する外国船の寄港、購入、上陸を認める。また砲台の完全な撤去と新築の禁止)
第三、下関はわが方の船に対し発砲したのだから、当然破壊しても構わなかったのだ。
しかるに、街を損なわずに残したのだから、その代償金を支払うべきである。
さらに藩主は、今回の遠征の費用を支弁しなければならない。
その金額は、江戸にある諸外国の代表たちによって決定されるであろう」

この条項を聞いた長州藩側は長州藩の支払能力がないとして抵抗し、
キューパーは「諸君は予め代償額を計算に入れた上でことを構えるべきであった。
そして諸君が自ら好んで戦争を仕掛けたのだから、出された勘定書は支払わなければならない」と言った。
そして日本側はこれにも同意した、と記されている。

「我々は最後に、これは一時的な停戦協定に過ぎないのだから、今後外国の代表と日本の政府との間で
解決されなければならない長州問題とは全く別個のものだと言う声明を草案の中へ入れた。
これは私の想像する所では、仏、蘭、米から要求が出るかもしれぬ賠償金との関係を考慮して
挿入したものだろう。とにかく、この条項は異議なく同意され」、家老が署名捺印し、藩主の署名捺印を求めるために退去し、
2日後に署名捺印を入れた協定書が届けられている。

647 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 06:50:27.50 ID:14LafC6U0
以上の交渉経過から
英国の提督の支払要求は
・明らかに下関からの違法な砲撃に対する反撃の権利を留保した上で代償金を支払う金員であり
 違法行為に対する損害賠償金であること
・キューパーは明らかに長州藩に対する支払を要求しており、その額も藩主に伝達するとしていること。
・長州藩は支払能力がないとして抵抗していること=自分たちが支払当事者だと認識していること
・それに対してキューパーが支払能力の有無は支払を拒絶する理由にならないと反論し、納得していること
・さらに正文では支払義務者が「長州藩」「藩主」になっていること
・江戸で公使たちにより決定されるのは「金額」であること

が分かる。つまり長州藩が賠償金の支払を拒絶したなどと言う仮説はまったく成り立たないし、
厳密に言えば幕府を現実の弁済者として指定したものですらないことが分かる。
幕府が知りませんと言えば(そんなことは現実にはまずないのだが…)、
長州が支払うべき金員として把握されている。


648 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:00:06.52 ID:rz+4lsAJ0
>>635
>世論の非難を高めるために自刃を強要している。薩摩藩に非難の矛先を向けるための斬殺。

自殺する隊士は志願なのだが?勝手に犯人にして殺すのは問題だが。
こっちは隊がお願いして自殺してもらっている。ぜんぜん違うぞ。

>同じこと言ってるだけじゃん。

自主的に集め、そして自主的に集った志願兵なのは変わらないからな。
日本の村社会特有の強要がなかったとまではいわんが、それも徴兵ではないよ。

>幕兵が「穢兵」の存在を認識したのは軍装の異様さなのだが、遊撃隊と全く同じ軍装なら幕軍の識別は不可能となる。

論点をずらしているな。軍装が決まっているのが差別の例のように言うからさ。
身分混成の隊は珍しくない。だが軍装により服やその色が決まっている事はある。
それは同じ隊として行動する以上別におかしな事ではない。
奇兵隊も確か黒だったと記憶しているが?
そして幕府軍が識別していたかどうか疑問だな。報告には穢兵とあるが長州側が吹聴しない限り、
そんなこと分かるはずがない。
部落民に井伊の武士が負けたという宣伝の為に使った可能性があるな。

>維新団への反発は長州藩側の報告にも記されており、死傷者報告において

死傷者の報告には士分とそれ以外を分けたものであり、維新団には士分はいないのだから、
維新団として纏めて報告に上がったとしても別におかしくはないな。
ぶっちゃけこの二つの事例は被害者妄想に過ぎない。
一新組のケースはまだ差別といえるけどな。

>別に折れたわけではない。長州の農兵商兵徴募の方式は基本的に幕府・諸藩の農兵徴募と同じ。

だから長州征伐の時に幕府や諸藩が多くの志願者でにぎわった事例をあげてくれよ。
奇兵隊は親兄弟が反対するのに。家出同然で抜け出してそのまま入隊した事例などもあるが、
そういうのが多々存在したんだよな?

649 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:12:40.24 ID:14LafC6U0
さらに続けて見てみると、サトウは
「海峡における海軍の軍事行動の目的が、砲台の破壊と、長州藩主との間の充分な了解の成立によって完全に達成されたので
連合艦隊の主力は撤退の準備に取り掛かったが」万一にも海峡に砲台が築かれるのを防ぐ目的で
3隻のみ残すことになった。
つまりサトウは海軍の軍事行動の目的が下関条約の諸条項で「完全に達成された」と認識しており、
租借の成否に関して全く記されていない。この前後を読めば分かるが、サトウの報告は極めて詳細であり
「租借が第1回交渉で大問題になった」とする伊藤の回顧談とは大きく信憑性に差があると言わざるを得ない。

これに信憑性を増すのは、その後でサトウがオールコックの目的を
「賠償金の取極めをしたことは、一に大君の政府を経済的に圧迫して天皇の条約批准を行わせ、
その結果として通商関係を拡大する一手段であった」と包み隠さず記していることで分かる。
サトウ日記の特徴であるが、英国のダーティな政策の裏面を隠していないのである。
このことからも伊藤の回顧談と、サトウの日記のどちらが信憑性が高いかは論ずるまでもないと思われる。

なお、サトウはこの時期、幕府の命令で長州が砲撃を行ったと言う噂に不信感を募らせており、
やや幕府に冷たい書き方をしているが、「賠償金を支払うか、瀬戸内海の一港を開くか」との要求に際して
幕府に賠償金支払を強要したことはなく、支払は幕府の自主的決断であることを強調している。
つまり幕府は「瀬戸内海の一港」の開港を峻拒した結果、長州の賠償金の支払の肩代わりに応じたのであり、
オールコックの思惑を外したことは明白と言える。

(ただし、サトウは部外者であったため最終的に幕府との間で纏まった約定に関して、幕府が金員受取を優先する米蘭仏と
開港を優先する英の潜在対立を利用して、長州が約束した賠償金を友好親善のための補償金と改めたことなど
詳しい協定経過についてはさほど詳しく述べていない。幕府が最終的に纏めた協定の文言についても同様)

650 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:13:44.73 ID:rz+4lsAJ0
>>636
だから長州が支払う義務がない事を決めているだろうがそれは。

>長州が賠償を拒絶してるのなら幕府への請求は矛盾するからあり得ない

だから長州が拒絶しているから、幕府に請求が回った事例だろそれは。
長州は不法行為をしていると認めてなどいないのだよ。
幕府の命令でやったんだから、それは幕府に言ってくれというものなのさ。
でないと長州に支払い義務が生じる事になるだろ。不法行為をしたのは長州なのだから。

>長州は違法行為と賠償金支払義務の存在を認めた上で、幕府にツケ回ししている。

屁理屈が過ぎるな、とてもお前は残念だ。
ならそれは幕府に回されるわけがない。長州から取り立てただろう。
だが長州が支払う気がなかったので、幕府にしようとなっただけ。
お前が引用したものも。それらは江戸で決めるというもので。
他の条件のように長州が主体者として決めたものではない。

たとえば薩英戦争でも賠償金を支払っているが、それは薩摩が支払っている。
最もその金は幕府から借りた物で返済などしていないが。
当然ではあるがこれは英国にも相応に問題があるから幕府もけっこう薩摩に同情的なのも大きいな。

651 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:28:33.12 ID:rz+4lsAJ0
>>638
俺の言っている事は最初から最後まで変わっていないが?
そしてそれが守られていなかった事も既に述べている。
苗字が許されていない農民が姓を名乗り、記し。罰則など有名無実化していたこともね。

>最初は奇兵隊は志願兵制だと言ってたが今じゃ身分別の隊編成だったことを認め、

志願制なのを否定した覚えはないが?お前も否定などできんだろ。
美祢のケースでも勧誘した数は27人だが、実際きたものは7人。
それらの中に仰せ付けというのがあるから徴兵というのは無理があるしな。
彼等にしても親に言われたのか、庄屋に言われたのか、○○の家がだしているから内もみたいな対面かしらんが、
そういうケースに過ぎんよ。徴兵であるなら、勧誘したもの全てが参加しているだろう。
そして身分別の隊編成でもないな。奇兵隊に入隊したものは部落も同じ扱いだが?

>>640
嘘つきはお前だろうに。それのどこが長州が賠償金を支払う話になっているのかと。
って、俺はこれを何度言えばいいんだよ。もう飽きたよ。

652 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:30:53.71 ID:14LafC6U0
>>648
義勇隊士はいったんは拒絶したものの、自刃を強要されて上坂したことは明白。
なお、中原邦平の記述によれば
「腹を斬らせに連れて行くと…そうして水井は立派に自殺したが、
山本はグズグズしているから野村子爵が介錯してやられたようです」であり、
傷の状況から水井が最初に形ばかりの切腹をし、山本が介錯した後、
山本の致命傷を誰が与えたのかと言う法医学的見地からの疑問を補う形になっている。

なお、ここで自刃した水井精一は同与作にあてて自刃の7日前に書簡を残している。
これを見ると、まず水井が焼打ちに参加していないのは当然として、
大谷の首級を梟首すべく上坂した際は切腹の意図などない。
ところが京の時山、杉山、野村が自決を強要し、即諾しない場合は殺害するような勢いで迫っている。

まあこの後2人は必死に逃れようとするのだが、自決を強要に来た連中が放免してくれず、
ついに切腹を承諾させられてしまうが本より脅迫によるものだから本意ではない。
水井、山本は脱走して帰国するが、これを野村、品川が追い、
義勇隊総督にも強圧し、さらに山口藩政府で2人の頭越しに自刃させることを決めてしまう。

完全に逃げ道を塞がれた2人はついに再度の上坂を余儀なくされ、事実上の殺害に至ることになる。
この際に野村が手を下したと言う証言は上の通り。

653 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:35:02.70 ID:14LafC6U0
>苗字が許されていない農民が姓を名乗り、記し。罰則など有名無実化していたこともね。

どこの本から探してきたのか知らないが、罰則が有名無実化していたと言い切る研究者はこれまたいない。
罰則が度々出されたことから「違反者が絶えなかった」ことを推測する人間はいるけどね。
それだって一学説に過ぎない。

と言うかお前の強情にはほとほとあきれ返ったよ。1人で長州でオナニーでもしてたら?
お前の頭の中じゃ長州は1人で30人を押し返し、身分も固定されたままで結構、
しかも志願するとかいう出来すぎたストーリーが既に固まり、そこから一歩も出てこない。

聞く耳を持たないカルト信者と議論しても、気味が悪くなるだけだ。

654 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:41:09.70 ID:14LafC6U0
>>644
富蔵が釈放されたのは確かに釈然としない話。
両者のどっちの言い分を取っても、富蔵は金作の「野望」を聞かされて秘匿していたわけだから、
罪一等を減ぜられるのはともかく最初に召し捕えられたのに釈放とは辻褄が合わない。
金作の口供がおかしいと言うが、富蔵が暴露した金作の野望も充分おかしいんだよな。

自分は富蔵はこの事件で金作に警戒感を向ける者と通じており、
身分上昇を説いて隊士募集に駆け回る金作の監視者・誣告者として行動していたのではないか
と考えている。富蔵が金作から謀反の計画を打ち明けられ、半年以上も放置していたのに、
裁判の席で「自供」した程度で釈放されると言うのもどこかおかしい。

もちろん自分は金作には新撰組に興味を持ったことはあっても、
謀反の計画など存在しなかったと思ってるけどね。茶筅隊弾圧は明らかに隊の性格が警戒されたものだ。

655 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:43:07.23 ID:14LafC6U0
まあ長州の郷土史家はうるさいみたいだから、諸隊の内紛なんかを頭からはねつけるみたいだけど、
研究者はだいたいそういう見方だな。
かりに金作に新撰組への接触歴があっても、それだけで茶筅隊潰しにはならないと。

656 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:48:57.68 ID:rz+4lsAJ0
>>640
何がパクリなんだろうか、俺494で既に開港よりも賠償金を選んでといっている。

>内容の決定は江戸で行うとしても、江戸で決まる内容がどうなるかは定かではないのだから。

つまりその時点で長州には支払い義務が存在しない事が決まっているという事を示しているんだよ。
だから長州は投げれたのだから。

>これが反映された場合、長州藩は不法行為とその内容、及び賠償義務の存在を認めているから、

長州が認めたのは幕府の命令により不法行為がしたという事でしかないよ。
幕府が拒否って長州に回ってきても長州は払わなかっただろうね。

>これほど明らかな「敗北」を「長州は一切の譲歩に応じていない」などと強弁する奴は、

勝手に人の発言を捏造するな。長州は賠償金の支払いや領土の租借には応じてない、
といっているんだよ。
494と543を見ろ。
>543 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:08:45.09 ID:XQOsSCmc0
>>510
>彦島租借に限らず、賠償金も突っぱねている。幕府に聞けとね。

これで幕府で相談する内容のもの持ってきてもらってもw
さあさっさと長州が支払う事を認めた記述を出せよ。嘘つき君。

657 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 07:56:04.88 ID:rz+4lsAJ0
>>644
富蔵は金作とともに結成した一人ではあるが、富蔵は血判状には名前がない。
部落関係の研究者の中には彼こそが金作の新撰組との繋がりを密告したのではないかと疑っている人もいるね。
>>647
そこで分かるのは、当事者であったのに支払いがなくなっており、
つまり長州が賠償金を支払う事を拒絶したというものだよ。
要求したものが変わっているのが分かる。

658 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 08:04:17.13 ID:rz+4lsAJ0
>>649
別にダーディでもなんでもない。それは連合国全てが賛同する意見。
サトウがあえて記述しなかったのではないかと疑っている人達は、
租借が英国のみに利を有するもので、まだそれは連合国との意見調整などがなかったから、
書けなかったのではないかと類推しているんだよ。
サトウが気を使っている相手が違うという事だ。

考えられるのは彦島租借をまずいう事で長州側を窮地に追いやり、
その後じゃあ長州は砲台の撤去と難破船や補給をすることだけでいいよ、
と条件を軟化させることで長州の譲歩を引き出すため。
サトウからすると最初から断られる前提ブラフなのが分かっているわけで、
わざわざ記述する必要はない。記憶にも残らないかもしれない。
だが伊藤のほうはブラフとは知らないわけだし。その最初の高圧的な印象がどうしても残る。
それで両者の回顧談の内容に違いが出てきた。

659 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 08:16:24.58 ID:rz+4lsAJ0
>>652
それの記述によると誰か国家の為に死んでくれと募ったら、義勇隊からの志願者があったとされているよ。

>まあこの後2人は必死に逃れようとするのだが、自決を強要に来た連中が放免してくれず、
>ついに切腹を承諾させられてしまうが本より脅迫によるものだから本意ではない。
>水井、山本は脱走して帰国するが、これを野村、品川が追い、
>義勇隊総督にも強圧し、さらに山口藩政府で2人の頭越しに自刃させることを決めてしまう。

これはどこの記述だ。野村の回顧談と矛盾する。
まあ永井は兎も角山本は強要と言ってもいいと思うがね。
山本は以前盗賊やっていたとかで、そういう過去のある人間を処分したかったんだろうね。

660 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 08:46:13.34 ID:31r7pZmX0
第一次で処分しているから満足しなかったのか?

661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 11:37:45.94 ID:EcSVkIaO0
>>554
文久年間ですらっつーか、諸隊に対する苗字帯刀の許可は慶応元年に出た筈だが。

>>560
>維新団の公式呼称を見る限り、これはまったく守られていない。屠卒と記されて厳しく区別されている。

この点、前々から思ってたんだが、戦死者名簿でも農民は農民、陪臣は○○家家中とかになるよね。
エタの名称は入隊時に取り払われてるから、これらの人を指すのに何と呼べばいいか?
当然職業を以ってそうするしかないんだが、農業やってないし正式な役人でもない。そうすると職業としての屠卒としか呼び様がなくね?

662 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 12:46:00.20 ID:MB3xRDdZ0
しかし凄い数のレスだなw
馬関戦争に関してはID:rz+4lsAJ0の言い分が正しいと思うけど。
日を跨ってレスする人は、適当なレス番でいいからコテを付けてはどうでしょう。

>>623
>それでも足りずに藩が員数を定めて賦役を命じた「仰せ付け」
>が文久年間にあったことは明らか。これも諸藩と変わらない。

文久年間は志願者が足りなかったので徴兵しました。でも慶応年間の軍制改革では、諸隊の人員を減らしたり
新規志願者を解散させたり、諸隊は勝手に入隊させんなと何度か通達して、むしろ人を減らしました。
ってことでいいのでは?少なくともそのアンカー先のレスに対しては、矛盾していないと思いますが。

>さらに維新団は志願とは言い条、隊則を見ると茶筅隊のような自主性の強い隊とは全く異なり
>黒ずくめの服装を強制されたり、身分を弁えることを隊則で強調されている。

志願兵=自主性という観念をお持ちのようですが、それですと先進国の現代軍隊の殆どが志願兵である現状と矛盾しますよ。
先進国の軍隊で自主性の強い部隊がある所なんてないですし。

>そもそも元治内戦の際に被差別民諸隊の設立は藩命によってなされている。

被差別部落民の取立てと部隊結成は、吉田稔麿の建策による屠勇隊が嚆矢ですよ。文久三年創設じゃありませんでしたっけ。

663 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 19:29:51.71 ID:rz+4lsAJ0
>>653
なら名字帯刀を許されていないのに。苗字つけて書いていて、処刑されたケースをよろしく。

>しかも志願するとかいう出来すぎたストーリーが既に固まり、そこから一歩も出てこない。

史実にそぐわない事を言っても誰も納得などしないよ。

えーとお前の定義だと、美祢のケースが徴兵になるようだが、
同じ勧誘がきて断ったものが多数だ。ていうか応じたのが四分の一程度。
それとも募集がきて参加した場合は志願兵ではないという定義なのかね?
自衛隊に入隊した人で肩叩きされた場合は、志願兵ではないという事になるんだが。
自ら門を叩いたもの意外は違うという事かな?


664 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 20:00:04.31 ID:rz+4lsAJ0
言っていたかなと見直したら、
351を見る限り仰せ付けは徴兵と言っているんだから間違いないよな。
ていうか351酷いなこれ。
志願兵でも入隊したら、当然鉄の掟と猛訓練に決まっているだろうに。
軍隊なんだから。
お前さんの言っている上関の部落の部隊だって、朝五時から訓練、
サボったら髪の毛切るし、犯罪犯したら切腹となっている。
そして足りない分の志願者を義務化したケースってのは何処からでたんだろうねと。
それに違反して何かペナルティでもあったんだろうか。聞かないが。

そして長州の兵が強かったのは、愛国心というか郷土愛って所じゃないのかね。
長州は他藩と比べて著しく教育が行き届いた藩。
尊皇攘夷思想を叩き込んでいる。だから志願者が多く、そして散兵戦術という、
他藩が農民を徴兵してやったら、そのまま軍が崩壊しかねない事である。
悪い例かもしれんが戦時中の日本に近い。
戦国時代に徴兵した雑兵は不利になったら真っ先に逃げた。
まあ当然である。彼等に戦わせる為に褒賞を約束して士気を高めていたわけだが、
戦前で徴兵制の国で兵士を戦わせられたのは、愛国心などを植えつけて戦わせたのが大きい。
長州がやっていたのはまさにこれだろう。長州藩は別に善政をしていた藩ではない。
むしろ毛利家が小さい長州に押し込まれた事で、かなり無理をしていた藩。
そう考えるのが妥当であろう。

665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 20:19:15.84 ID:rz+4lsAJ0
350の言い訳も酷いものがあるな。
一壊走マンセー君なら仕方ないんだろうけど、
なら長州に攻撃しなけりゃいいじゃんと。
脅せばすぐ相手が引くとかお花畑な事考えているからだよ。
まず大義がないから諸藩はついてこない。外交でまず失敗しているんだよなあ。
実戦経験皆無で大軍だから、ある程度の調練が必須だが、その為に長く大阪に駐留した事で、
厭戦気分が蔓延した。米価の高騰で民心を失った。(交渉が長引いたのもあるが)
侵攻先で滅茶苦茶やったので相手の民心を失った。広島でも好き勝手暴れたので、
浅野家や芸州の民心も失った。
勝ち目がないなら攻めなければいいだけ、準備不足で攻め込むからこんなことになる。
参謀で停戦を進言した人非難しているけど、
彼が正しいよ。無理なら引けばいいんだよ。
まあ外国から傭兵雇えば勝てるとか、蒸気船30隻借りれば勝てるとか、
まあ勝てるだろうけどwそれくらいしないと勝てないと分かっていたんだろうね。
その彼を更迭するから・・・

つか長州とこじれて軍を動かさないといけなくなったが、
勝つも負けるも止めるも幕府しだいであったとかw
ギャグで言っているんだだよなこれw


666 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 20:33:37.52 ID:qCWyMRNC0
長州の政治体制が優れてた。
会津は市民が傍観してた。
長州は天才松陰らが早い時期から一君万民思想まで行ってたし。
封建体制意識を既に抜けてる。

667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 21:18:35.17 ID:Rkfxyx360
>>662
上にサトウ日記を挙げておいたが、非常に詳細な記述になっている。
今日研究者で彦島租借の件を論ずる際にサトウ日記の事実を無視する者はいない。

すごい数のレスと言うけど、ここの長州オタが人の言うことを頭から否定して噛みついてくるから
まず初歩的な反論から始めなければならず、本来書きたいことが書けないんだわ。

668 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 21:56:34.75 ID:Rkfxyx360
>>656
あれれ?長州は賠償金の約束もしてないと言い張ってたんじゃないか?
>>657
最初の血判状に署名していないにも関わらず、彼は第二奇兵隊に首謀として真っ先に召し捕られて対決審問させられている。
それがおかしいと研究者に指摘されている点だよ。
そして「その余御不審筋も各別これなく候はば、最早番人なども差し除かれてしかるべし」
としてあっさり釈放。当初、首謀容疑で逮捕されていながら結果は無罪放免。

では本当に富蔵に「御不審筋」がなかったのかと言えばこれは極めてあやしい。
9月9日の時点では富蔵の供述におかしな点がある。

金作の供述では、富蔵は「互いにいやしき者故、とても一通りの御奉公は相成らざることかねて承り及び候につき、
出精の手段これなきか」と相談を持ちかけた。これに対して金作は
「ご国恩さえ忘れずば、同類相募り、お暇を貰え他国に参り、戦争の節お国の御為、
裏切りなしとも致し候様の手段より外これなし」と応じている。

ところが富蔵の口供にはこの自分が質問した部分はまったく触れられていない。
この部分は金作自身が富蔵に藩外逃亡の選択肢を示唆したものであるから、自己にとって不利益な供述にあたり、
信憑性としては金作の供述に軍配が上がると言わざるを得ない。

ところで富蔵が言う金作の言い分は「同志の者を募りおき、戦争相始まり候節、勝ち戦のほう加勢致すべし、
尤もそのうち敵方へ合力致し候はば、格外出精も相成候」と言うもので、
どっちにしてもこの2人は「何とか出世の機会がないかなあ」「いざとなったら藩外で立身すればいいさ」
と言うような会話を重ねていたのは確実なのであり、富蔵もこの段階で金作と同類なのである。

その他にも金作の言い分も隊士の存在が確認されていないとか、実際にいた場所が違うとか色々あって、
金作が新選組と通謀したと言う証拠は極めて乏しいと言わざるを得ない。
これを事実として申し立てている富蔵は、前述の通り金作と度々突っ込んだ会話をかわす仲だったのであり、
彼の不審な挙動があったとすれば、幕長戦を控えた中立の第三者ならこれを黙過するはずがないのである。

以上の点から、富蔵は茶筅隊の中のスパイ的存在だった可能性が有力に指摘されている。

669 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 22:07:19.13 ID:Rkfxyx360
また、かりに金作が再度、藩外に出ると言う意志を持っていたと仮定しても、
9月に朝廷が長州征討の勅許を与え、11月に出兵命令が出ていることを考えると、
まず藩外逃亡、まして新撰組への入隊など不可能であり、
それ以前に逃亡せず隊結成を選んでいることを考えれば、金作はこの時点で
「長州藩内部での」屠勇取立に立身を求めたことは確実である。
攘夷戦争の際も、幕長戦争の直前(維新団が粛清された頃)も藩への民衆反乱の存在は確認されており、
金作が手引きを行うなら、隊と言う軍事組織に縛られてまで藩への御奉公を優先する事情はなかった。

茶筅隊が警戒されたのは、ひとえに金作の熱心な勧誘活動により「下から」結成された隊だったことに尽きる。
金作が勧誘したのは大島・上関・熊毛の各宰判全域、17か村と言うかなりの規模であり、
これは下からのエネルギーを抑え、軍事力を藩直属化しようとしていた当時の藩政府にとっては
「身分秩序壊乱」に他ならなかった。茶筅隊弾圧の真因をここに求める研究者が大勢なのは当然周知だと思うが。

670 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 22:18:13.17 ID:Rkfxyx360
それと金作の自殺についてもおかしな点がある。
両人が8日に対決した後で自殺したのは「やっぱり金作がやってたからだろう」
と長州オタ君は短絡しているようだが、なぜ金作が小脇差、もしくは脇差によって自殺できたのか。
これは茶筅の持参していた小脇差を使用した説、富蔵番人の脇差説が存在する。
2人の対決審問はこの日1回だけで、互いの言い分はまだ食い違っている。
そもそも2人の供述が食い違っているから対決審問の運びになったのであって、
富蔵も言い分に窮する場面もあった以上、本末転倒もはなはだしい。

それに、富蔵番人が脇差を提供したとすれば証拠隠滅に当たる重罪であるし、
収監されていた金作に小脇差を渡せるとしたら、当然同じ立場の茶筅しかありえないわけだが、
そんな立場の茶筅が脇差など持っているかと言う当然の疑問が浮上する。

ここから金作殺害説、または拷問による致死説が浮上してきているんだが、
長州ヲタ君はこれを一切知らない。長州藩側の史料を鵜呑みにして金作が自殺したものだと思い込んでいる。

671 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 22:22:14.28 ID:Rkfxyx360
「覚悟の自殺」説が仮に本当だとしても、
その場合、金作は両者の言い分が真偽不明の段階で、牢外者の協力を得て自殺したのは明らかであり、
その牢外者は当然、藩からの咎めを覚悟しなくてはならない。
なのに自殺の手段を提供したと言うこと自体、「腑に落ちない」とされている。

672 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 22:43:33.61 ID:Rkfxyx360
まあ普通に考えたら、金作の自供を取ったほうが良いに決まってますわな。
残りの隊士を拘束するにも、隊を潰すにもそっちのが都合がいいわけだし。

さらに入隊志願の経緯についてもおかしな点がある。
金作が貰ったとされる書付の内容は「尾関弥四郎 内 村井善三郎こと易名北山」
であり、このうち村井善三郎と言う隊士は実在しないし、また尾関弥四郎が当時、万福寺にいたと言う史料も、
新撰組側の史料では裏付けが取れないが、これに自白の任意性を認めるとしてもである。
少なくとも実在の隊士たる尾関弥四郎の名前を挙げる程度には、金作は真摯に釈明している。
金作の供述には当然、自己弁護があるだろうが、少なくとも実在の隊士や接触状況を挙げて、
罪一等を何とか免れたいと思う程度には、彼は「自白」しているのである
(もちろん、彼は新撰組入隊の一事については強く否定している)

一方で富蔵の口供を見ると、入隊経緯はごく簡略で、金作のように具体名が挙がっていない。
と言うより出自を偽って入隊を志願しましたと言う誰でも創作できるようなストーリーなのである。
我々が今日、村井だの尾関だのと言う隊士名を知り得るのは金作の自供によってである。
本当に新撰組と通謀して内応を企んでいる人物がこのような供述を拘束の翌々日にあっさり行うだろうか。
ここも疑問点とされている。まあこういういくつかの疑問点が重なって
「新撰組とのつながりは名目ではないか」と言われている。

ちなみに金作がこの対決審問の後半、沈黙してしまったと言うが、
これが富蔵の反駁が原因だと確定するには富蔵の反駁は抽象的すぎる。
金作が先手を打って罪を軽くするために挙げたような具体的な隊士名の供述など、
富蔵は一切できていない。
江戸時代のお白洲では、証人の出廷じたいが裁判官の権限であり、その心証を示すものだから、
どう抗弁しても有罪の帰趨が決まっていると察した人間が沈黙してしまう例は多数ある
恐らく逮捕以来の取調で体力が消耗していたであろう金作は、富蔵の反駁を聞くうちに
抗弁が無意味であることを悟った可能性も充分あり、断定などできないのである。

673 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 22:53:27.36 ID:rz+4lsAJ0
>>668
>あれれ?長州は賠償金の約束もしてないと言い張ってたんじゃないか?

自分の間違いに気付いて方向修正でもするつもりかね?最後まで意地張って抗弁しろよ

>>668
富蔵が出世の道なんかないかという問いを富蔵が記してないのは事実だが、
(金作の証言が正しければ)
金作と富蔵両者はともに金作が、同類のもの集めて裏切ろうぜってのは認めている。
金作の発言は普通にアウトだが?これが奇兵隊の耳に入れば、
普通に反乱準備と取るだろ。これでお前は無実だと言い張るのか?
>>669
戦争があるので新撰組に入るのが難しそうなので、
金作が言ったように仲間集めて天下の為に、勝ち馬乗ろうぜって話でしょ。
金作いわく他国に逃亡、富蔵いわく反乱。
それを聞いた隊士の誰かが通報しただけかと。それが富蔵である可能性は否定しないよ。
もしくは新撰組あたりから言われて反乱準備で残っていたのかもしれんけどね。
>>670
>長州ヲタ君はこれを一切知らない。長州藩側の史料を鵜呑みにして金作が自殺したものだと思い込んでいる。

脇差の件は知っているよ。だがその日の遣り取りでやりこまれたので自殺しただけでしょ。
新撰組と繋がっていたら、それこそ拷問で掃かされる前に自殺しただけ。
密告があったのはほぼ確実だろうし、新撰組と無関係でも、金作富蔵の調書を見る限り、
人連れて出奔か、反乱を計画していたのは確実。処刑は免れん。

そして富蔵の番人は脇差提供したんじゃないよ。寝ていた時に取られたの。
そして同じ茶筅が持ってきたというものでも、その時番人が寝ていたのは変わらないよ。
政事堂への報告書読んでないの?

>富蔵も言い分に窮する場面もあった以上、本末転倒もはなはだしい。

どこにそんな記述があるの?


674 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:01:54.90 ID:rz+4lsAJ0
>あれれ?長州は賠償金の約束もしてないと言い張ってたんじゃないか?

だから長州が賠償金を支払うと約束したものもってこいと何度言ったらw
>>672
金作が実際に新撰組との接触がなければ具体的な固有名詞はあげられない。

そして富蔵は入隊の誘いを断っており、金作が新撰組の人間の名前まで話していなければ、
富蔵は知る由もないな。
少なくとも金作が新撰組の人間と接触したのはほぼ確定。
この時点で奇兵隊が動くのは当然だろう。

675 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:05:55.00 ID:Rkfxyx360
長州君の無知な反論が膨大なので、思いついた所から訂正していくが、
彼がエタになんらかのトラブルがあったので一時差し止めたのだと言い張っているのは
(彼はこのソースを全く呈示していないが、だいたい知識量から見て)
慶応元年1月6日に奇兵隊入隊条件に「暫くエタの者を除くのほか」と記した高杉書簡の
「暫く」には様々なニュアンスがあり、この中で最も狭い意味、つまり「一時的」と読む学究がいるのだが、
その有力な論拠は、高杉の「見渡せばえたも乞食もなかりけり吉田の里の秋の夕暮」と言う短歌である。
この短歌をまず、奇兵隊の取立にあたって身分差別を撤廃する抱負を述べた歌を解釈すること自体、かなり強引である。
長州君が述べるように、隊内には袖印による身分徴表が存在したのだから、
吉田栄太郎や赤根武人よりはるかに保守的な封建意識を持っていた高杉が、そのような趣旨で詠歌をする、
と言うこと自体疑わしい。エタのような穢れた者はいないさまと読むほうがまだ素直だろう。
(彼は元治元年の決起の激でも「そもそも武人は大島郡の一土民のみ」と罵倒して奇兵隊を白けさせるほど
身分意識が強かったのは諸研究の示す通りである)

この「暫く」は、従前、エタ身分の取立を基本的に認めてこなかったことを前提に、
将来に向かっても、含みは残しつつ当面は入隊は見合わせる趣旨と考えるのが妥当であろう。

676 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:07:07.06 ID:Rkfxyx360
>>673
諸学究の先行研究を無視して、伊藤の回顧談>サトウ日記 などととんでもない史料価値を付けている人間に
反論することは何もないよ。ドリームランド長州で遊んでおいで。

677 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:17:41.94 ID:Rkfxyx360
>脇差の件は知っているよ。だがその日の遣り取りでやりこまれたので自殺しただけでしょ。
>そして富蔵の番人は脇差提供したんじゃないよ。寝ていた時に取られたの。
>そして同じ茶筅が持ってきたというものでも、その時番人が寝ていたのは変わらないよ。

だからそもそも金作と富蔵が対決審問に至ったのは両者の言い分が食い違っていたからで、
対決審問を経て富蔵の側も金作から告発されてるんだって。
とすれば当然、第2回の対決を経なければ有罪を確定することが出来ないが、
富蔵にも金作の出世話に乗ってしまった落ち度が判明している。

常識的に考えてみましょう。「富蔵の」番人が寝ている隙に「金作に」取られたと言うが、
一体どういう状況で取られるわけよw 協力者が多数存在して、出入り自由だったような状況しか考えられず、
そのような情況でたかが番人1人寝込んだ程度で武器を奪われるような警備をするはずがない。
この報告書だけでも不自然と言われてるのを知らんのかね。
政事堂への報告を鵜呑みにしている時点で、既に客観的な立場とは言い難いよ。

678 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:40:23.61 ID:rz+4lsAJ0
>>676
そうやって印象つけるのはお前の狙いだろ。別に俺はサトウの回顧録も否定してないよ。
ただ書かなかったか、忘れたんだろうといっている。
ていうか伊藤が捏造する理由はまだかね?
>>675
思い出した、そういえばお前は「暫く」の解釈で議論になっているくらいなのに、
何故か「暫く」をぬいて語っていたな。
こういう事するからお前は信じられないんだよ。
基本お前は無知な上に嘘つきだからね。
そしてそれはお前の個人的な解釈に過ぎない。ああ、そうですか、としか言いようがないね。
身分意識がどうであろうと、使えるなら使うし、使えないなら使わない。
身分意識のほうが重要なら、そもそも農民も使わないよ。
そもそもエタを「暫く」使わなかったのは、エタは武士に隷属する下級公務員のような存在であり、
彼等を海防や治安維持に使う必要があったからという説もあるな。

そういえばお前人が足りておらず、徴兵すらしていたと主張するんだろw
なら「暫く」でありすぐに解禁されたんじゃねーのw

679 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:42:06.74 ID:rz+4lsAJ0
んじゃ流石にお○かさんの付き合いは疲れるのでそろそろ寝るわ。
明日相手してやるから、それまでに勉強してきな。

680 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/03(木) 23:46:11.58 ID:Rkfxyx360
まあ考えられるとしたら富蔵およびその番人が上とグルで、寝てる隙に取られたと称して
拷問苦に耐えかねた金作に自決用の短刀を渡してやったようなケースだろうね。
何とも凄まじいこってす。

また維新団が遊撃隊と異なり、死傷状況について詳細な報告を省かれており、
一新組が「屠卒」と言う文久屠「勇」取立の趣旨に反する公式呼称を用いられていたのは前述の通りだが
(身分差別を前提として結成された諸隊であっても、差別的呼称=醜名除去は隊の士気をあげる上で重要
配下と家業の独占支配権を必要とした弾左衛門が手下の者全ての醜名除去を求めているのはこのため)

一新組・維新団と山代茶筅中でも異なる扱いがされている。
山代の場合、斥候に出て7月27日に戦死した2名の隊士の遺族に米5俵が与えられており、
明治2年に山代宰判が作成した書類では名字が書き込まれている。
また50年史の「慶応二年四境戦役戦傷病死者名簿」を見ると、
彼らは詳しく身元が記された上に「岡ノ寮」に埋葬されたことまで記されているが、
維新団・一新組は身元の記述が著しく簡素である上に、招魂場への埋葬が確認できていない
(「屠卒はこの例にあらず」と記された史料もある)。
このことから、被差別民内部での差別の存在を推定する学説も有力に存在する。

山代茶筅中は輜重輸卒として使われていたようだが、このように斥候もしくは戦闘補助を行うこともあり
その戦死者は従軍44名中2人戦死、12名負傷、損耗率は実に3割以上に上っている。
どうでもいいがこの時代、6月19日の大野攻略に失敗した長州の死者が数名であったことで分かるように、
損耗率が1割も行けば充分に激戦である。

さらに長州君は維新団は最初から身分取立の希望などなかったと言うが、
地元古老へのヒアリングで維新団から数名が選抜されて遊撃隊に所属していると言う証言がある。
つまり維新団そのものは士分取立を辞退したが、身分上昇を希望する者は確実に存在したことになる。
藩はあくまでも地元付きの被差別民である維新団についてはもとに戻らせた上で、
そこから選抜した者だけは動員している。ここからも維新団が身分固守に甘んじていたと言うような神話は成立しない。

681 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:03:13.70 ID:/3FuTL0S0
さらに一新組の性格に触れて「文久の屠勇取立令は実態として成立していなかった」
とする見解もある。
当時は被差別民内、農民内部においても貧富の差が顕著であり、
豪商・豪農の隊士募集は貧民層の一揆、打ちこわしなどの糾弾から自己を防衛するための私兵的性格を持ち合わせていた
(そのために藩に協力した。もちろんそればかりでなく利権問題もある)ことは周知の通りである。
(長州藩においては攘夷戦争、幕長戦争前のそれぞれについて一揆の発生が確認されている)
「屠卒」が公式にも使われており、一新組についても時政の私兵的性格が濃厚である。

このような「郷土防衛隊」すなわち地域有力者が村落秩序を防衛するための部隊は、
基本的には長州以外の諸藩でなされたものと一致している。
庄内藩においても本間家がスポンサーとなり、藩と一体化して積極的に農兵募集に協力している。
長州藩において、「志願兵」は尊王攘夷に触発されたと断定するのは初歩の初歩も知らない人間。

682 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:04:22.11 ID:/3FuTL0S0
>>679
反論できなくて逃げるのは勝手だよ

683 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:08:52.63 ID:/3FuTL0S0
>>678
はい、では何度も言っているように
サトウが「書かなかったか、忘れていた」状況証拠を挙げてみましょう。
サトウがいかに交渉経過について詳しく記しているか、英国の政策の裏面も隠していないか、
そのために日記から大分量を引っ張ってきたんだけどね。
サトウは四ヵ国艦隊襲来事件については、事後の幕府との交渉と比較にならないくらい豊富な記述を残している。

その上で砲台撤去、及び条約の諸条項によって「完全に」要求が満たされた、
と満足している。英国側が彦島租借を模索していたような様子は一切記されていない。

さすがに自分も驚いたわ。長州の郷土史家は一坂がちょっと高杉に批判的なこと書いた程度で怒り狂うから注意しろよ、
とは聞いていたが、サトウ日記を否定したらもはや日本近代史とは言えないだろw
この時点でカルトに嵌まった基地外を相手にしてるようなもんだ。

684 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:13:51.03 ID:/3FuTL0S0
まあ、あれだけ英国の本音を書きまくってるサトウが、
既にアヘン戦争の南京条約、アロー戦争の北京条約で実現している領土割譲要求を
隠蔽する必要性そのものがないのだが。
租借要求が恥ずかしいだろうと思うのは日本の勝手な感覚で、
この当時は租借要求はちっとも恥ずかしいことではない。堂々とやってます。

685 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:45:06.04 ID:/3FuTL0S0
また吉田稔麿が建言した文久3年春の屠勇取立の具申(内容を書簡から知ることが出来る)
には面白いことが書いてある。
長州藩の兵力の不足と増員の必要、そのための農兵取立を図っている藩の現状を踏まえた上で
「農民が必ずしも積極的ではない」と指摘し、「浮食の徒」を採用するほかないと論じている。
これは吉田が屠勇取立で存在感をアピールする立場にいることを差し引いても重要な指摘である。

さらに吉田は「一戦に敗北した後」兵士登用を図っても、彼らは世間が恐れるに足りないことを悟ってしまうから
集まりっこないと分析し、今のうちに登用して総督に付属させておけば憂いがないと主張する。

ここから、これは明らかに攘夷戦開始前に書かれた建言であることが分かる。
つまり吉田は攘夷戦における農兵の応募意欲を「不充分」として、
さらに攘夷戦に敗北した後は被差別民の応募すらおぼつかなくなると言う危機感を抱いている。

この吉田の危機感は、実際に攘夷戦の過程で長州藩民が示した行動によって裏付けられる。
長州藩は当時、アメリカの南北戦争に伴う綿花価格の高騰を受けて綿織物生産に大きな影響が出ており、
庶民の排外感情は強かったから、これが尊攘思想に転じやすい素地はあった。
ところが例えばサトウは報復攻撃時に長州藩の民衆が進んで大砲搬出、撤去を手伝い、
戦争は自分たちを非常な苦境に陥れたと口々に訴えるのを聞いている。
仏水兵ルサンなる人物も「英米仏蘭連合艦隊幕末海戦記」でこれを裏付ける記述をしている。

また連合艦隊は8月2日に豊後姫島に集結し、5日から攻撃を開始しているが、
報復攻撃直前の3日〜4日にその対岸の三田尻で数百人が参加した打ちこわしが発生している。
連合艦隊の到着後、臨検もあって物流が途絶したためだが、良民は怒りの矛先を藩や豪商層に向けている。
このため長州藩の防衛態勢に重大な危機が発生している。

長州藩領民が「尊王攘夷」一色に染め上ってなどいなかったのはこの一事でも明白。
ちなみに長州藩は幕長戦争直前にも粛清を強めたためか、一揆の勃発が起きている。

686 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:50:32.56 ID:/3FuTL0S0
なお、長州の打ちこわしではこの時も、天保期も、
被差別民が最初に狙われたり、被害が集中する傾向がある。
被差別民側も藩の募兵に積極的に応ずることで豪商農層と同じく、
一揆や打ちこわし、暴動やリンチから身を守るメリットがあったと見られ、
(藩の軍事力の一員となればこれを壊乱した側が処罰の対象となる。
被差別民には他にも些細なことで処罰を受ける例があり、長州藩の差別が公、私を問わず
極めて厳しかったことを窺わせる)

長州における「志願」の動向を「理想に燃えた義勇兵」と捉える発想は、もはや過去のものであり、
特に藩権力の手先的立場にあった被差別民については、文字通り身を守るために志願した経緯を無視できない。
もっとも維新団、一新組などは茶筅隊事件以降、隊則を制定され、自主的性格を払拭させられている。


687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 00:56:40.83 ID:/3FuTL0S0
ちなみに時政が隊士募集を始めるのはこの打ちこわし一件の後。
豪商、豪農や村方にとってみれば、打毀しや一揆の勃発を私兵を駆り集めて防がなくてはならない。
長州の諸隊は設立発起だけ見れば志願兵制に見えるが、
実態を見ていくと兵の徴募過程では各藩の農兵隊とさほど変わりがない。

ただ長州藩においては攘夷戦争、幕長戦争突入により、
都市、村落の支配層が藩と結びつくスピードが速められたと言うだけの話。

688 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 01:41:04.84 ID:/bi9wpl60
謀反人の前で牢番が寝込むとかあり得ねえよw
どんだけトンチキな警備やってんだよ

689 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 03:14:14.10 ID:Jn+clUuy0
朝鮮は1866年に丙寅洋擾でフランス軍艦7隻、兵数1300で攻められたが結局撃退してんだよな

690 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 04:35:40.42 ID:vvIL4Sm30
>そもそも隊士は何人いて、どんな素性の人たちがいて、それがどのように隊で編制されたのかが分からなければ、
>それ以上の分析はできません。やはり日記は日記だということになります。
>ですから、「隊士の名簿」というのは研究には是非必要なものでした。
>しかし、まとまった形の隊士の名簿というものはしばらく出てきませんでした。
>それが、昭和40年に『郷土』という下関郷土史会の会誌に10隊の名簿が掲載されました(※1)。
>奇兵隊の名簿も含まれていますが、いずれも隊の編制にしたがった名簿で、
>隊士一人一人がどのような身分であったかということは分かりませんでした。
>翌、昭和41年9月に、同じ『郷土』に「忠勇義烈 長藩奇兵隊名鑑(※2)」
>という隊士の身分が書かれた奇兵隊士の名簿が掲載されました。
>隊士の本多友一という人物が記載し、山縣有朋公爵家に所蔵されていたもので、
>その分析(下関市立大学 小林茂氏による)も『郷土』に載っています。
>まず、身分を士、農、町、社・僧、と分けて、隊士を分類すると、

士 272人 48.6%
農 237人 42.4%
町 25人 4.5%
社・僧 25人 4.5%
計 559人
ttp://www.geocities.jp/furi_316/kihei-1.htm

穢多どこ?

691 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 04:54:59.39 ID:uQNo1f+u0
北川説をまんま引用してるやつワロス
アイツ攻撃的すぎて相手にされてねえよ

692 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 06:26:49.05 ID:yL4eI4eh0
長州ヲタ君の説はほぼ北川健の門下生の某ブログからの引用なんだが、
北川は部落民が利用されたとか、上から組織されたとか指摘すると
「それじゃ部落民が愚民だと言うのか!」みたいに切れるんだよな。
反論する錚々たる研究者も扱いかねてる。

で、部落民を登用した長州藩の幹部は素晴らしいと言う結論になってくわ、
高杉はエタの登用を予定していたとか根拠薄弱な主張を繰り返すわ、
結論的には長州藩マンセーになってしまう。
権力者の視点を否定すると称して、他人を愚民史観だと批判するあまり、
部落民は常に賢い判断をしていたと考えるから藩指導者と部落民の軋轢を一切想定しない。
結局、藩は無謬と言う結論になってしまう。

まあ部落史ではうるさい人がいるので相手にしたくないが、
長州ヲタ君の大きな問題点は、一方では近世身分秩序を「差別ではなく区別だ」と肯定しながら、
一方では諸隊が尊攘思想に燃えた志願兵、義勇兵であり「農兵、商兵」より進んでいる、優れている
と言う近代的な進歩史観に基づきまくりの発想で北川説を引用している点。

ちょうど極左がヒトラー思想を引用して自分の立場を正当化してるようなもんだ。
もっともスターリンとヒトラーは同じようなもんだし、
日本でも無産政党出身者が戦争協力の一番手だったんだから、そういうのもありなのかもな


693 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 06:35:00.97 ID:yL4eI4eh0
被差別民が解放への希望なんか持ってなかったと言う説は、
長州藩が天保大一揆の時も連合艦隊襲来の時も被差別民部落が真っ先に襲撃される
と言う全国の一揆の中ではかなり珍しい履歴を持っていることであっさり否定される。

もっとも解放への希望を持ってない奴なんているのかねw
まあ長州はド田舎だったから被差別民も遅れてたのかも知れないが、
百姓一揆が被差別民を集団で大規模に襲撃したような例は、
長州の天保一揆のほかには文政6年の紀州のこぶち騒動くらいだろう。
江戸時代を通しても、記録に残ってるだけで200軒とか打ちこわしにあった例は、
他にちょっとないんじゃないかな。

694 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 06:48:40.62 ID:yL4eI4eh0
幕末は被差別民の権利意識も向上していたことや、
武州鼻緒騒動のように良民が被差別民の手業に手を染めたりする縄張り争いが始まり、
全国で被差別民一揆が勃発しているし、百姓一気に被差別民が参加する一揆も18世紀末から増えている。

安政4年の岡山藩の渋染一揆では被差別民1000数百人が藩の触書に反発して強訴し、触書を撤回させている。

ちなみに、この時の嘆願書が「指定された服を着てたら警察業務を行う時の妨げになるから」と言うのだが、
こんなの建前に決まってるのに、「本心だ!あんたはエタの職務熱心を否定するのか!!」
とか言い張っちゃう人がいるから困るんだよね。

それはともかく、こうしてみると長州くらいじゃね?
一揆や打ちこわしのたびにがこれだけ被差別民を襲撃するようなことしてるのは。

695 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 07:03:55.69 ID:yL4eI4eh0
>>689
撃退してるよ。朝鮮の官兵は旧式装備に青銅砲くらいだろ。
それでもフランスの講和条件を拒絶して1か月以上戦い、首都に進撃する仏軍を撃破して60人以上を死傷させ、
最終的に仏軍を撤退させている。ちょうど幕長戦争が一段落した頃ね
ちなみにこの年(慶応2年だが)、米国船のシャーマン号事件も発生して、
慶喜が江戸将軍家と朝鮮王家との交流を利用して仲裁を頼まれたりしている。
結局、この後の米国の侵攻も撃退されるんだけど。

こうしてみると東アジアの戦争で2000人程度の襲来で、すぐに白旗あげて停戦まで持って行かれたのは、
長州藩と内紛が続いてた清くらいか。薩摩藩の場合は英軍も勝敗が分からない感じだったからね
武士が朝鮮官兵に負けてたら恥ずかしいよ。

696 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 07:39:23.55 ID:PVGoAHP30
富蔵はスパイ確定

697 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 07:59:52.58 ID:R3aYMlmp0
>>686>>687
うーん、奇兵隊の義勇隊的性格を否定して諸藩の農兵と同一的
というのは納得できないなー。
まず、美祢の例があげられてるけど、逆に志願の場合も多いわけで
会議所での自立性もある。そして、前に述べられているように義勇兵の
特徴が隊内抗争なら、それも認められるわけだし。藩権力を強調するなら
元治の反乱が説明つか無いよ。それに構成員の半分近くは農民でも
あるけど、残りの半分は下級武士だろう。
同一性を指摘するならむしろ新撰組なんじゃ。
あと私は下関戦争や部落関係で熱弁ふるってる奴とは別人ネ。

698 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 08:40:41.53 ID:X1bEOhLZ0
金策富蔵の裁判は、あからさまにあやしいな。

だいたい、周囲は諸隊なんだから、反乱なんて起こせねえだろ。

699 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 09:26:45.46 ID:s3nbampg0
「志願」「徴兵」で分ける発想が無意味かと。
フランスで革命包囲網を撃退したのは徴兵だし。

700 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 11:20:33.45 ID:1yDhJ/WH0
フランスも最初は義勇兵募集で凌いだけど反乱は起きるわ数は足りないわ
結局ヴァンデの内乱みたいな凄まじい弾圧と徴兵制度施行による大兵力によって革命防衛に成功したからなあ
徴兵制でも民主制のスウェーデン、ドイツ、韓国とか極めて士気が高いわけだし
志願制でも権威主義体制の軍隊はやる気なし(不満や軍の乗っ取りを恐れて徴兵を敷けない場合も)

701 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 18:23:32.60 ID:lD6momA20
長州藩は吉田松陰が一君万民思想まで行ってるわけ。
攘夷の為に国民国家を作るのが目的になる。
弟子の久坂と高杉が思想を引継ぎ、それをどう実現に持ってくかの段階になる。

702 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 20:43:49.30 ID:X+5i+LUd0
>>676-677
伊藤の回顧談よりサトウの回顧談といっている人間が、
第二奇兵隊が当時藩にあげている正式な報告書の史料価値を認めないのかw
笑えるジョークだよw
そもそも上関の部隊の件はほぼ全て第二奇兵隊の報告書の解釈によってしか判読しないというのに。

>常識的に考えてみましょう。「富蔵の」番人が寝ている隙に「金作に」取られたと言うが、

だから読めよ。番人共とあるので複数の番人が前日の疲れで寝落ち。
物音がしたと思ったら、忍び込んだ茶筅が脇差を渡して自殺していたと書かれているわけ。
別に文書だとここが違って、富蔵の番人の脇差で自殺しているんだけどね。
ちなみに複数の支援とかは普通に可能だろ。単独でも可能だけど。
奇兵隊が隊士全員を捕縛したのは、金作の自殺の後の話。まだ残された人間が組織的な犯行に及ぶ可能性はあるよ。
最初は救おうとしたけど、自殺を選んだのか、それはわからんけどね。
また拷問や尋問をする番人って事は獄吏なんだろうし、これやっているのはたいてい部落なんで、
取られたのは嘘で自殺を手伝ったとかあるかもしれんが、そんなの特定できんよ。
あと拷問とかリンチとかで死んだら、「病死」に良くなるから、
自殺の可能性は普通に高い。

ていうか政事堂への正式な報告書を元に間違い指摘したら、
自分の妄想を下にお前は客観性を失っているとか言われたんだがw
こんな奴が史料批判がどうとか言っているのかよw

703 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 21:17:05.78 ID:X+5i+LUd0
>>680
山代のケース斥候中に行方不明でわかりやすいが、他のケースは戦闘中。
そして長州の戦術は散兵戦術。死因特定は難しい。
そしてエタなども恩賞や死亡した時の手当ても正規部隊とかわらんよ。

>つまり維新団そのものは士分取立を辞退したが、身分上昇を希望する者は確実に存在したことになる。

だからなんだ。出世したいものは士分取立てが認められて戦い続け。
戦いたくないものは辞退をして土地もらって引退したんだよ。
武士になったら対面保つ為に金かかるし。そんな金ないからってのが理由。

>6月19日の大野攻略に失敗した長州の死者が数名であったことで分かるように、損耗率が1割も行けば充分に激戦である。

遊撃隊がどんだけこの方面で死んだと思っているんだ?
ちなみに維新団の死者はその後の病死も含めて二名。8月までの戦闘での死者でこれだ。
ていうか6月19日の戦闘での死者は一人、負傷者は六人、即戦闘復帰可能の人あわせて七人だよ。
この一割の損耗率はこの方面で最後まで戦った時の損耗率。普通に低い。
小倉方面は死者だけで一割越えている。(傷での病死などもある為)負傷者はその数倍が出るのがざらなので。
三割くらいには普通に達しているだろうね。
遊撃隊の損耗率もそのくらいはいっていたかと。
激戦区に回されたわりには被害は出てないよ。
つかその方面で最後まで戦った時の被害での損耗率を、一戦闘での被害のように記すのはなんで?
数字大きくしたい印象操作?

704 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 21:45:50.30 ID:X+5i+LUd0
>>683
既に何度も書いているが。彼は英国の翻訳家(それもまだ当時は勉強中の身)
英国の立場を守る必要性がある。
あくまで翻訳家であり重要な事は聞いてない、もしくは勘違いしていた。
実際日記の記述には謝りが存在する。
連合各国とその事ではまだ意見調整していないものだった可能性がある。
ただたんにブラフで元々狙ってなかった。なので断られる前提なので書かなかった。
伊藤の言により、その時坂本は国産み神話からどうとか言っていたそうなので、
そこまで当時の彼が翻訳できたか疑問。
彼は後年日本駐在の公使になっており、そういう事を発表するのを避けた。
彼の子供は日本にもおり、避ける必要があった。
日記がそのまま記載されている「公使日記」などとちがい、
「一外交官のみた明治維新」では当時の日記や手紙などをみての回想談であり、
それも晩年のもの。記憶違いミスなどがあってもおかしくない。

また伊藤が高杉の回想談を語ったのはそれを出版する前であり。
伊藤が嘘を言っているのなら否定なりなんなりしてもおかしくない。
なおその頃には伊藤は死んでいる。遠慮をする必要もない。
一番大事な事だが、伊藤本人が嘘をつく理由もない。
それが合ったとしても別にサトウの本との矛盾があるわけでもない。

705 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 21:53:01.78 ID:q4Rn2bHB0
同じことを何度も繰り返して反論させるからうんざりする。
何で被差別民部隊問題でこんだけムキになるんだよ。お前はどっかの同和問題のやくざか??

茶筅以外は埋葬に関して異なる扱いがされていた可能性が高いことは
慶応二年四境戦争戦役戦傷病死者名簿より明らか。
招魂場名が記載されていない。
軍監の報告書もそうだが、遊撃隊と維新団では公式文書での戦死傷の報告も簡略化されているし、
一新組に関しては文久の屠勇取立令で否定されたはずの「屠卒」が普通に使われている。

維新団と言う地付きの組織としては士分取立は辞退していても、
身分上昇を望む者が存在しそいつらは遊撃隊に入ってた事実は否定できないじゃんか。
どこが維新団は最初から身分上昇を望んでいなかったと断言できるんだよ。

>>703
具体的な数字の反論は一切なし。「達しているだろうね」こそ主観だろ。
印象操作はどっちだと言いたくなる。お前ちゃんと軍監の報告書見てないだろ。

言っておくが、維新団の死傷者は上述した通り、遊撃隊と異なり詳細な氏名場所戦死状況などの記載がない。
よって「確認された限り」の数を記しているので、これよりもっと多くなっている可能性がある。
さらに慶応元年遅くに結成され、隊規の制定が直前の5月と言う部隊と遊撃隊を一緒に前線に出していることも無視。
山代茶筅中は輸卒としての性格が強かったと見られるにも関わらず、
7月の再度の激戦の直前に斥候と言う危険任務に付かされており
44人の参戦中死者2名、負傷者12名と言う凄まじい損害を出している。

輜重輸卒で損耗率3割なんて、船を沈められまくった第2次大戦の日本軍の輜重輸卒くらいだろう。
それを前線の戦闘を予定されたベテランの隊と一緒にされたらたまったものじゃない

706 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:00:04.33 ID:X+5i+LUd0
>>692
別に彼の受け売りではない。ただ彼の言っている事は正しいよ。
ついでに彼を批判している研究者ってただの街道やら、
まだ生き残っているのが奇跡的なマルクスに汚染された人達ばかりだからw

ちなみに君の元ネタはとてもわかりやすいねw
「長州藩維新団」解放出版社←いわずと知れた街道系のところ
奇兵隊関係は田中彰かと思ったら、一坂太郎だろうね。
長州奇兵隊あたりで正解かな。

707 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:10:59.24 ID:X+5i+LUd0
>>705
数が少ない部隊なんだから一回の戦闘で運が悪ければその程度減る事はある。
そしてその部隊は別に前線に回されたわけではないのだから、ほんと運が悪かっただけ。
部落だからといって最前線に回されて大損害が出たのなら可哀想だが、
そもそも前線任せられるだけの力量がある部隊じゃない。

>維新団と言う地付きの組織としては士分取立は辞退していても、
>身分上昇を望む者が存在しそいつらは遊撃隊に入ってた事実は否定できないじゃんか。

維新団としては身分上昇など狙ってないが、全ての隊員がそうではなかったという事。
大多数が望んでおらず。その中で一部の人間が望んでいたからといって隊全体の性格を、
その一部の事例で決めるのはただの詭弁に過ぎない。

>同じことを何度も繰り返して反論させるからうんざりする。

同じ事をそのまま返す。電波飛ばすのはいい加減やめろ。

708 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:11:41.46 ID:q4Rn2bHB0
それと「維新団が士分取立を辞退した」と言う話のソースなんだが、
今日、大学で先輩に参考文献を聞いてみたら面白いことが分かったよ。

維新団の聞き取りの先駆者である河村恵之にはこのような記述がある

「戦後論功の節、総監毛利氏郷卿の肝入りにて維新団の抜群の戦功を称えて、
士族取立ての議あり、しかれども粟飯炊く折焚く芝の細煙り、耕す方寸の地もなく、
山もなく、木の枝一片も近○の咎の的となり、茨の道の歩みには名を得て実を欠く
武士は食わねど高楊枝の譬、有難迷惑で名を重じて体面を保てば口が干上がる、
部落にも評定の結果返上に一決し、元の木阿弥に甘んずるに至る、旧維新団玉倉錬武地一円は下賜さる」

つまり維新団は「木の枝一片」を採るのも責められるような状況で、
「部落にも評定」していることからかなり迷って全体衆議にかけた上で、泣く泣く士分取立を辞退し、
「元の木阿弥」に甘んじたと言うのが内部実態だと河村は認識している。
ちなみに被差別部落民でも、この頃は貧富の格差が相当開いているから、
比較的富んで名字を称するような被差別民もいたわけだが、維新団が「武士は食わねど高楊枝」
になることを最も恐れていたことが窺える。

709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:14:01.80 ID:q4Rn2bHB0
>>707
強引な反論だなあ。数が少なければと言うけど、分子に当たる数は死者2人負傷者12人だぜ。
どこがサンプルとして少ないと言えるんだ。長州藩の大野での1回の戦闘分くらいは損耗が発生している。
これは8月8日までの記録だからね。それ以降発生した可能性のある山代茶筅中の損耗については不明だよ

710 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:20:37.88 ID:9YHb1c5z0
高杉は上級武士としてのプライドや毛利家への忠心が超絶高いから
その自分が内乱起こそうとしてるのに武人の様に藩への忠義も感傷も無い土民がしたり顔で止めるなって事だろ

711 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:23:18.99 ID:q4Rn2bHB0
維新団の記述で最も注目に値するのは「木の枝一片も…咎の的となり」
に象徴されるように、採集権をめぐって近隣の一般集落と争いが生じ、
おそらく維新団の出身集落は泣き寝入りを迫られていたと思われる点ね。
つまり維新団には常に水利、山林その他の利用権を巡って侵害状況があったと推定される。
現に天保大一揆でも、打ちこわし件数741軒中171軒がエタ部落であったこと、
報復攻撃開始前の三田尻の打ちこわしでも被差別民が真っ先に襲撃されていることから
これは充分首肯できる。
全国的にも百姓一揆が被差別民にこれだけの規模の襲撃をかけた例は、こぶち騒動と長州藩くらいしかない。

つまり「維新団の練兵場」であった土地(もちろんそこなら近隣住民からクレームはつかない)
を賦課されれば、ようやく自分たちの土地が手に入るわけだよ。
経済的な権利を確立できない限り、「武士は食わねど高楊枝」になると言う恐れが強かったのが窺える。

維新団の「ありがた迷惑」は、この最初の調査の文脈では、武士なんか望まない、安泰な日常生活に戻りたいと言うことではなく、
経済的権利が確立されていない不安な生活状況で土地をほったらかすわけにいかない、
と言う強い危機感のあらわれ。文字通り命がけで戦い取った経済的権利なんだわ。

712 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:25:01.72 ID:X+5i+LUd0
>>709
敵軍とかち合ってでる負傷者としてはその程度は普通。
ましてや後方支援やら偵察やらが主任務なら、錬度も低い。

あと大野を上げているが、その戦闘は別に部隊の多くが撃破されたみたいな敗戦じゃないから。
敵の守りが頑強なので、引いただけの話。
だから死傷者も別に対してでない。勝っているほうは負傷者を助けられるので死者が抑えられるからな。

713 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:33:23.58 ID:X+5i+LUd0
>>711
部落は納税の義務はない。
そして山への入会権は普通にどこでも揉める元。
既存の村落で分け合っているのに、新たに勝手に取りに来る奴がいれば大問題。
戦国時代なら普通にそのまま戦争にすら発展しかねないもの。
ちょっと山から木をとってとか何を言っているんだの世界だよ。
どろぼーと変わらんよ。
そしてエタのもっている牛馬解体の権利が農民からすると許せなかったのもあるだろうな。
自分の所で買っている家畜も死ねば部落が処理するので、部落の資金源にはや代わり、
農民は重税で苦しんでいるのにね。
そして部落は農民側ではなくて、体制側なんだという事を理解すべきだね。
彼等は末端の支配層に過ぎない。



714 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:45:29.91 ID:q4Rn2bHB0
維新団については別の証言者もいるんだが、赤根の話が出てきたからそっちを先にしよう。
あれは酷い話だね。

>>710
赤根武人の追贈の嘆願運動の顛末については有名な話で、
明らかに山県有朋の私怨で止められたのが実情。公使館焼打ち、攘夷戦争と、
赤根は常に高杉の忠実な同志として勇敢に戦っていると言わざるを得ない。

ところで赤根出奔までの顛末を纏めると、彼が決して不忠者などではないことが分かる。
なぜなら高杉も決起前年11月下旬に九州から帰国し、御盾隊小隊司令の冷泉らに決起を促された際、
即座に決起に反対し、勝手な行動を起こして諸隊内部を分裂させては「大事成就し難からん」
と断言して、赤根の藩政府との交渉路線を支持しているからだ。

この後で高杉は持論を変えていくのだが、12月8日に萩との交渉から戻った赤根に
「それでは交渉がぶち壊しになる」と驚き、遊撃隊の太田を尋ねて行動中止を強く求め、
遊撃隊はこの時点でいったん決起計画から離脱する。
これに激怒した高杉は、決起を促した冷泉にすら「酒を食らって歌を歌い、傍若無人」
と記されているような醜態で御楯隊を訪問した(12月12日)
この際、太田市之進、野村靖、品川弥二郎と言った幹部クラスまで高杉をいさめたのに対し、
高杉は有名な「一土民、毛利家恩顧の臣」と言う出自を罵倒する演説を行う。

なお一説には、この場に山県や当の赤根まで同席していたと言う証言もある。
こんな封建エリート意識むき出しの演説が支持されなかったことは明らかで、
奇兵隊日記にも「谷梅之進馬関へ脱走」つまり高杉の行為は「脱走行為」として記録されている。

ちなみにスポンサーであった白石正一郎が高杉の決起を知って「暴挙党」
と記し、賛同していなかったのは明らか。高杉決起後も、諸隊は駐屯地を移しただけで、
赤根が驚いて停戦工作を依頼するまでは特に目立った行動は取っていない。
赤根の留守中に、赤根と何らかの形で対立していたと思われる(奇兵隊日記を改竄している)山県が、
主導権を取って絵堂に襲撃をかけ、高杉に呼応してしまったことで、
赤根は山県によって放逐された形になってしまった。これが赤根の不運の始まり。

もちろん彼の処刑の際も全く取調がなされなかったことは周知の通り。
この経過は関係者はよく知っており、赤根の追贈運動も山県の反対がなければ実現寸前だった。


715 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:48:33.26 ID:q4Rn2bHB0
>>713
長州藩の場合、天保一揆で打ちこわし件数700軒余のうち170軒がエタ部落だと言うことが著しい特徴。
お前は幕府の弾左衛門の身分上昇嘆願をどう思うかと聞いても
「それは幕府の問題だ」とスルーして答えなかったのに、
今ここになって「どこでもやっていること」と正当化する。

これをダブルスタンダードと言うのだ。だからお前と議論するのは嫌なんだよ。
まあ北川健のような狂信的な長州マンセーの研究者の支持者と議論するなんて、
まるで極左と議論してるようなものだから噛みあいっこないけどね

716 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 22:51:17.09 ID:q4Rn2bHB0
少なくとも高杉の決起は、事前に御楯隊の決起呼びかけを一蹴して
諸隊の和を強く求めた自分の主張に矛盾するばかりか、
奇兵隊から見たら「脱走」に他ならなかったんだな。

717 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:00:56.99 ID:q4Rn2bHB0
維新団の話の続きに戻ると、もう1人、後日の証言者が登場する。
長州オタ君の説は自分で気づいているかどうかはともかく北川説に他ならないのだが、
例えば萩野静枝は昭和48年に北川の取材を受けた人物だが、上の河村恵之と同趣旨の証言をしている。
たとえばこの記事のネタ元は萩野氏だと推定されている。

「凱旋した40人には間もなく士分取立の声が起こった。しかし土地を持たぬ者のみじめな生活を知る彼らは、
名よりも実を望んで、褒賞として近くの玉蔵地区の山林が分与された…」
(以下は取材者が被差別民に思い入れた余計な感傷が入ってるので略)

で、結論としては文久の屠勇取立令は実態として成立していた様子がないから、
維新団は士分取立が事実上不可能であると言う実態を見透かされた上で、
代償として山林を要求したとみられる。

718 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:05:04.17 ID:9YHb1c5z0
>>714
そりゃ高杉の決起に立たないから罵倒されただけでしょ
高杉の立場からすれば損得成否で動かない土民と
忠死覚悟の自分は違うと言ってるわけで
それをさも忠義面して止めるからよけい腹立ったんだろな

719 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:05:09.91 ID:X+5i+LUd0
>>715
はあ?一般的な部落を語るのに。関東近辺のエタ頭で利権のドンの話がなんの参考になるというんだね?
サンプルとして非適当なんだよ。お前がやっているのは例外を見つけてきて、
ほら、こんなケースがあります。だから○○はこうなのです。
と言っているだけ、これはただの詭弁。

ちなみに俺にダブスタはありえないな。
どこでもやっている事ってなに?入会権のことか?
入会権を持ってないのに、木を取ればそれはどろぼーと変わらんよ。
その部落民が悪い。
山に入ってものを取るくらい、と簡単に言っているみたいだが。
戦前まではこれがとても重要な問題であるのに。それを理解していない輩がいるとはね。




720 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:16:04.08 ID:X+5i+LUd0
>>717
だから武士の名を得ても、土地もないなら武士としての対面を保とうと思ったら食べるものもない。
といっているでしょ。
だから実を得ようといっているわけ。身分上昇よりも、目先の金がほしかったってだけ、
そういう部落の心情があるわけ。これは別に悪い事ではない。
んで、武士の名をもっても対面が保てる、江戸のエタ頭のケースが当てはまるのかって事だよ。

江戸のエタ頭はこう言っている、
だから維新団のみなも身分がほしかったはずだ、差別はいやだったはずだ、
だが辞退したのは、差別を恐れてだ!
とか言っちゃうお前さんはおかしいんだよ。

721 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:16:44.35 ID:q4Rn2bHB0
と言うか、いま気づいたが長州オタ君は>>690に挙げられている奇兵隊の出自の内訳
559人分に関して、どこに「穢多」がいたのか指摘できてないね。
自分も大学で聞いてみたが「奇兵隊は出自まで書いてないでしょ?」と変な顔をされたよ。
「長藩奇兵隊名鑑」しか参照史料がないはずだと。

で、見てみたらこれ普通に頻繁に引用されてるんだが、どこにも穢多をその身分で入隊させていた
と思われるような記述はない。

長州オタ君は高杉は慶応元年に奇兵隊入隊に関して「エタの者を除くのほか」と言った発言の前に
「暫く」がついてないじゃないか、と反論するのだがそんなの研究者はみんな知っている。
なぜかと言えば奇兵隊に穢多身分を堂々と受け入れたと言う記録がないため、
実態として穢多がその身分のままで入隊を許可されたケースはないか、
ごく限定されたケースだったと見られる上に、
この「暫く」を「一時的」とかなり好意的に解釈するのは少数説なんだな。

文久の屠勇取立令の建前から言えば、奇兵隊にも屠勇の入隊を認めるのが当然であるにも関わらず、
高杉は「暫くは見合わせよう」と反対するベクトルで発言しているのは自明だから。
つまり正義派政権は被差別民の入隊と言う「公約」遵守を迫られる段階になって
「暫くエタの者を除くのほか」といきなりモラトリアムを付しているわけだ。

これを補強する証拠は他にもある。屠卒の隊は諸隊の反乱に対抗するため、
俗論党政府(彼らは自分のことを「正義党」と称していたが)の命令により設立が始まった。
これを正義派政権がそっくり引き継いだわけだ。
ところが正義派政権は被差別民の選抜徴兵制に際しての人数定員の条件を守っていない
(根こそぎ動員になっている)のであるから、いいかげん文久屠勇令の布告を守れよと言う圧力がかかっている。
高杉の慶応元年1月6日の書簡で反対していると見るのが通常である。

722 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:28:32.91 ID:q4Rn2bHB0
被差別民の話ばかりしていても仕方ないので、諸隊の性格や、
本当に志願兵である諸隊は強かったか、支持を得ていたか、民衆の支持は充分だったか、
と言う点についても論ずる。
馬関戦争の際に連合艦隊の集結地点の対岸の三田尻で数百人規模の打ちこわしが発生したこと、
さらに幕長戦争を控えて、石州口に当たる奥阿武宰判弥富村では2月中旬と下旬の2回にわたり、
やはり数百人規模が参加した打ちこわしが発生している。
注目すべきは、攘夷戦争、幕長戦争を控えて、周布らは恐らく敗戦を予想していたと見られる。
そのために民衆のアジテーションのために神風伝説を流布させたり、敵国撃退のためのお百度参りのようなことを銃後の領民に組織的に強いて、
一種の洗脳を徹底して行っていること。つまり尊攘思想、神国思想は藩上層部が意図的に刷り込んだ
戦時中の国定教科書みたいな教育をやりまくったわけだ。実際、木綿価格の上昇で長州藩領民がそれに共感しやすい要素は充分あった。

以下続く

723 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:40:34.64 ID:q4Rn2bHB0
もっとも長州藩領民がそこまで馬鹿だったわけじゃなく、
実際は一揆、打ちこわしの多発により、庄屋・豪農と言った富裕層が藩秩序防衛と一体化し、
兵を私に集めて徴集が出来たわけだが。現実に藩と彼らとの間で取引がなされている
例えば奇兵隊の会計方を務めた白石正一郎は有名な諸隊のスポンサーだが、
彼は支藩清末藩1万石の御用商人であり、荷受問屋を営んでいたが自前の船は持っていない。
よって長州藩の最大の財源である下関の北前船交易に参加できない程度の商人だった。
白石正一郎は「豪商」「スポンサー」と言われるような規模の商人ではない。
あわよくば長州本藩の人脈と結びついて北前船の交易利権を狙うと言う意図で正義派人脈に接近した
と推測される。
このように攘夷戦争の段階では正義派政権の政権掌握と相まって、藩の内部の豪商・豪農は
「出し抜かれる」危険性が高まっていたのであり、先手を打って自ら募集に応ずる例が多く見られた。
文久の攘夷戦争の段階で、長州は軍事国家的色彩を強めていたから、藩に逆らって特権を奪われることは致命的だったのである。
時政が三田尻打ちこわしの直後から隊の募集を始めていることは、文字通り豪商層が自力救済を求めていたことを物語る。

724 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:54:56.55 ID:q4Rn2bHB0
四ヵ国連合艦隊の襲来の後、講和が始まって上陸したサトウは面白い記述を残している。

(以下引用)
一般の人々はみな、外国人追放の命令を下したのは大君であると確信していた。
…私は、長州に行って砲台を破壊するよう幕府に頼まれたのではないかと聞かれた。
私は「いや、大君は海峡を開くことは自分には出来ないと言った」と答えた。
それから私は、その間の事情について自らの意見を述べ、大君は大名と大国の板挟みになって
両方に矛盾した言質を与えなければならなかったのだ、と言って聞かせた。
すると人々は異口同音に「ホンマダ」(本当だ)と叫んだ。

…ここからも、長州藩領民は「幕命による攘夷」であることを信じ切っていたこと、
サトウの説明によって初めて幕府の立場に得心が行ったことを物語る。
なお、中略した場面には「幕府は二股政策をやっている」と主張する男の存在も確認されており、
かなり多くの長州藩民衆は「攘夷は幕命である」と思い込まされて戦争に協力したものの、
その背景について何らかの疑念を抱き、サトウの説明にたちまち共感したと推論できる。

つまり長州藩の領民は、攘夷実行を「何か変だけど、幕府がそう命じているなら」
と言う心境で戦ったと推察される。藩は確実に「幕府も命令している」と言う点を強調したのである。
これは北前船交易で、諸藩との交易が幕府の保障なくしては行えなかった長州藩の実情
(たとえば家近は、村田失脚は、幕府の天保の改革の失敗に連動しているとする)
を反映したもので、サトウらに対する民衆の態度を見ても、「尊攘感情」と思われる要素はあまりうかがえないのである。

725 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 23:56:22.03 ID:X+5i+LUd0
>>721
それ結成時の自称身分の数字。
その後拡大していくわけ、一壊走信者はその程度の事も知らないの?
ちなみに屠勇取立て令は七月。

ついでに言っておくと高杉の発言だけおってもあまり意味ないな。
どうせこの人すぐ奇兵隊追われるんだし。どこまで影響力があったのやら。
あと北川が長州信者は悪い冗談だなwお前のような狂ったアンチにはそうみえるのかもしれんが。

まだまだ突っ込みたいところが山済みだが、明日は速いのでやめとこう。
まあ頑張って醜態をさらしてくれたまえ。

726 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 00:08:22.22 ID:znN1O2zO0
・また、民衆が「外国人追放=攘夷を命じたのは幕府である」と信じ切っていたこと、
・にも関わらず攘夷を実行した長州攻撃を幕府が外国と組んで行ったのではないかと問われていること

から、長州藩は領民に対して、幕命が決定された正確な経緯を伝えていないどころか、
幕府が外国艦隊に依頼して長州藩攻撃を行ったと言う噂まで流布していたことが窺える。

前述したように、周布は攘夷戦に際して「敗北」を予想しており、
しかしながら俗論党排斥後に政権を維持し、反発の強かった洋式軍制を導入するには、
臨戦態勢が必要であると認識して攘夷に踏み切ったと思われる。
つまり、攘夷戦争と馬関戦争の結果として周布・桂・高杉らが開国論に転換したと言うのは、
完全に間違った理解であり、当然、久坂もこれを認識していた。
吉田栄太郎が屠勇取立の献策で「農兵の募集が必ずしも満足が行く状況にない」
と指摘しているのも、民衆の募兵の動きは藩上層部の期待に沿わない程度には鈍かったことを物語る。

このこう着状況を一挙に変えたのが、外には外国との戦争、幕府との戦争、
内には俗論党とその支持者が存在し藩政府がいつ転覆するか分からない
と言う臨戦状況を作り出して、豪商豪農層からの献金、私募を強く促した上に、
民衆の危機感を直接的に煽ると言うチキンレース的な戦争状況の作出だったのは間違いない。

繰り返すが、長州は尊攘思想に燃えた民衆の協力を得て攘夷戦争に突入したのではなく、
民衆動員や豪商豪農層と藩の結びつきを強め、俗論党や穏健派を抑え込むために臨戦状況を選択している。
民衆にとっては現実に外国との戦争に入ったと言う否応ない実感が第一であり、
尊攘思想は後付であったのは疑いない。

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>>70ガガ・・・腕の替わりに足が・・・ヒデェ機体だなオイ・・・ 泣пAハレルヤに劣らず変態なのは確定的に明らか。

無機物と…チョメチョメしちゃうなんてw

さって…引っ掻き回したし天国に戻ります。
もう…回想でも出番ないんだろーな。 test/read.cgi/male/1011262171/9224" target="_blank">>>9224i>>3371>>5448>>9204>>5 Z/test/read.cgi/history2/1302410387/">★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50


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