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三島由紀夫の「豊饒の海」を語ろう★

1 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 20:34:18
『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の長編小説。
「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4部からなり、「浜松中納言物語」に題材をとる。
1965年から1970年にかけ、月刊の文芸雑誌『新潮』に連載された。
概要
「夢と転生」がテーマ。20歳で死ぬ青年が、次の巻の主人公に生まれ変わっていく。
仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬、など様々な東洋の伝統を踏まえて書かれている。
なお第一巻は和魂を、第二巻は荒魂、第三巻は奇魂、第四巻は幸魂を表すと三島は述べている。第四部「天人五衰」の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。
「豊饒の海」とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」の訳語。
創作ノートからは、当初とは全く違った構想だったことがうかがえる。

2 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 20:40:43
第一巻・春の雪
生まれたときから貴族であることが約束されている侯爵令息・松枝清顕は自尊心の強い繊細な人物であった。
何不自由ない生活を送っていたが、流れるままの生活に何か蟠りを抱えていた。
そんな彼にとって、幼馴染の伯爵令嬢・綾倉聡子は特別な存在であった。聡子もいつからか清顕を恋い慕うようになっていた。
が、些細なことで自尊心を傷つけられた清顕は突き放したような態度をとるようになる。聡子は失望して洞院宮治典王と婚約。
皇族の婚約者となったことで、聡子との恋が禁断と化したことから、日常生活からの脱却を夢見る清顕は、聡子に関係を迫り、聡子もこれを受け入れる。
しかし聡子の妊娠によって二人の仲は両家に知れ渡り、聡子は大阪の松枝侯爵の知り合いの医師の元で中絶をし、そのまま奈良の門跡寺院「月修寺」で出家する。
なおも清顕は聡子との面会を希望するが、聡子は拒絶。雪中で待ち続けたことが原因で肺炎をこじらせ、清顕は二十歳の若さで死ぬが、
死ぬ直前に親友・本多繁邦に転生しての再会を約束する。

3 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 20:50:11
『豊饒の海』の第一巻『春の雪』、第二巻『奔馬』を通読して、私は奇蹟に打たれたやうに感動し、驚喜した。
このやうな古今を貫く名作、比類を絶する傑作を成した三島君と私も同時代人である幸福を素直に祝福したい。
ああ、よかつたと、ただただ思ふ。この作は西洋古典の骨脈にも通じるが、日本にはこれまでなくて、しかも
深切な日本の作品で、日本語文の美彩も極致である。三島君の絢爛の才能は、この作で危険なまでの激情に
純粋昇華してゐる。この新しい運命的な古典はおそらく国と時代と評論を超えて生きるであらう。

川端康成

4 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 20:54:52
今日では、「豊饒の海」は彼の数多い作品の中で最高の地位に置かれている。
近代日本を一種のパノラマのように見せる点で、翻訳された他のどんな作品より優れているからである。
「春の雪」に明治末から大正にかけての日本を描き、「奔馬」の勲に激動の昭和初期を映し、「天人五衰」中に
復興した日本社会の醜さをあばく…
西洋人があまり知らない国・日本が、そこではみごとに語られている。

ヘンリー・スコット・ストークス「三島由紀夫 死と真実」より

5 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 20:57:20
読後のこころよい興奮のうちに、『源氏物語』をはじめて読んだ日々のことが、二重写しになって、おもむろに
浮かんできた。
…今になって『源氏』が読みたくなった…(中略)
『夕顔』にいたるや、小躍りして私は思った。これこそ『源氏』だ、と。ふたつのイメージが重なったばかりでなく、
重なると同時に、忽然、ひかりを発し、匂いを発し、小天地はおのずから展開してゆく。私は静かな熱狂を覚えた。
そのしずかな熱狂が、『春の雪』読後、私によみがえった。
それは、この国の暗い地下水、「優雅」に対する讃嘆であった。
(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めて
いなければならない。(中略)
優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に
対する精神の優位を示すものである。(中略)
まことの「優雅」は、現代人のいわゆる「優雅な生活」を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。
(中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。
三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、
ひとたびは回帰すべき、この国の「深い根」が描かれている。「優雅」が描かれている。だから私は『春の雪』を、
『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より

6 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:04:46
奔馬

 舞台設定は昭和7年6月16日。その2年前、昭和5年11月に右翼青年・佐郷屋留雄による浜口雄幸首相狙撃事件が起こり、
翌6年には陸軍中佐・橋本欣五郎や大川周明らによる三月事件(戦後発覚)と十月事件(未遂)、さらに物語が
動き出す7年には血盟団事件と五・一五事件が世間を震撼させた、いわゆる「テロリズムの時代」を背景としている。

「小説内小説」である『神風連史話』は、史実に基づいているだけに興味深いが、
「あれほどの敬虔な精神の集中、あれほどの純一無垢の志に、何故神助が添わなかったのか」
という一文は印象的であり、物語の末路を示唆してもいる。
 
 登場人物では、井筒や相良ら若い「同志」をはじめ、勲らを精神的に指導し最後には裏切りをみせる堀中尉、
あるいは『春の雪』の因縁から聯隊長として再登場する洞院宮らが物語に躍動感を与えているが、注目すべきは、
綾倉聡子とはまた違った形で結果的に勲を翻弄し、打ちのめすことにもなる鬼頭槙子、そしてその性格づけに作者が
最後まで決定的な結論を示さなかった佐和の存在だろう。
 物語は中盤、甲斐国北都留郡梁川に位置する真杉海堂の道場近くの山麓で、一つの劇的な展開を見せ、
「不発の結末」へと急激に進んでいく。そして暗黒の時刻の最中の、あまりにも唐突な終末。
それは、勲がかつて夢見ていたような「昇る日輪を拝しながら」の最期ではなかったのだが……

作者三島は飯沼勲に何を仮託し、読者に対してどのような「世界」を見せようとしていたのだろうか。
三島文学の中でも、あまりにも有名な最後の一文に向かって、この物語は荒れ狂う奔馬のように疾走するのだ。


7 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:13:47
暁の寺

 三島由紀夫『暁の寺』は「頓死」する小説である。
「豊饒の海」四部作のうち、唯一、章立てにより2部構成を採っており、その前半と後半とでは、文章、
内容の緊密度、構成、ボリュームともに著しい非対称ぶりを示している。そして、全編を貫いて、ついに
『春の雪』の松枝清顕や『奔馬』の飯沼勲の如き「ヒーロー」の登場しない、いわば“物語から遠く離れた”
「アンチ・ロマン」として、四部作の中でも異彩を放つ問題作となっている。

 第1章、冒頭の舞台は昭和16年のバンコック。日米戦の切迫が時局を大きくうねらせ、年末にはあの悲劇的な
太平洋戦争が勃発する年である。本多繁邦は五井物産の庇護のもと、47歳の名を遂げた弁護士として大名旅行の
途上にある。そして、自分は日本人の生まれ変わりだと言って泣き叫ぶ、満7歳になる「狂気の」月光姫との謁見。
 それは、『奔馬』結末部で深甚とした印象を読者に与える飯沼勲の叫び、
 
「ぼくは幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね。(略)大人になるより、…
そうだ、女に生れ変わったらいいかもしれません。女なら、幻など追わんで生きられるでしょう、母さん」
 という科白を直ちに想起させよう。そして、言うまでもなくこの預言は清顕の『夢日記』にも遡るものである。


8 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:16:20
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9 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:17:44
 ヒンズー教の聖地ベナレス、とりわけマニカルニカ・ガートの描写は、いわば前半部の圧巻というべきもので、
死者を焼き尽くす炎は、第2部結末部に直結している。そして、アジャンタの洞窟寺院の体験、西洋の輪廻転生説
(オルペウス教)、ミリンダ王のナーガセーナ長老との問答、マヌの法典、「唯識」論――。あたかも第1部は、
三島美学と鋭く対峙する輪廻哲学の絢爛な見本帖とでも言うべき観を呈している。そして昭和20年6月、蓼科との
思わぬ再開……。
 
 対して、第2章は昭和27年春に時を移し、58歳の本多は財をなした観念的な「俗物」として再び姿を現す。
 徹底したストイックな理知に前半生を生きた本多は、今や「覗く男」として私たちの前に出現する。
観念的な第1章と大きな対比を描くように、第2章はまるで大衆小説のような筆致のもと、輪廻の輪から
はみ出した登場人物たちが各々滑稽な猿芝居を演じているかのようだ。


10 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:20:49
 19歳になり、肉体的にも(後には性的にも)成熟したジン・ジャンとの再会。そして、あまりにも突飛な――
あたかも作者・三島によって物語の結末部を不意に断ち切られたかのようなカタストロフィー。
最後の1行を読み終わるまで、読者はこの大団円を信じることなどおよそ不可能であるに違いない。
 
 逆説的に言えば、この物語は結末を迎えることによってすべての読者を裏切り、取り返しのつかない破綻を
迎えてしまった絶望的な小説と言うこともできよう。森川達也は、文庫版の解説に三島の
「私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲って来たとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することが
ないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった」
という言葉(『小説とは何か』)を紹介しているが、さらに言うならば、三島の築きあげてきた文学的キャリアが、
この一作によって全否定されてもおかしくはない、それほどの不可逆的なまでの失敗作が、その破綻ぶりの天才的な
深さにより、却って文学作品が根源的に持つ魔術的リアリズムを我知らず露呈させているという――芸術の臨界を
超えた凄みをも呈しているように見えるのだ。

11 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:39:53
天人五衰

 『天人五衰』は、脱稿の日付に三島自決当日の「昭和四十五年十一月二十五日」の日付が刻まれているように、
文字通り小説家・三島由紀夫の「白鳥の歌」である(ただし、年譜によれば三島は最終稿を8月に伊豆下田東急ホテルで脱稿したらしい)。

 戦後の一時代の文学史を画した三島にふさわしい「問題作」であることは間違いないが、四部作としては
『春の雪』『奔馬』に比べ、その構想、完成度を比べると一歩も二歩も及ばない。『暁の寺』第二部以降連綿と続く
三島の見えない虚脱、「書き急ぎ」の観は本書でも明らかだ。論理展開のその気詰まりなまでの「強引さ」を、
三島らしい細部描写の過剰な超絶技巧によって韜晦しているといって過言ではない空虚な饒舌さ。
 半面、そうした構成力の投げやりな粗さや無関心なまでの切断、断絶も(例えば本作に登場する浜中百子の扱い。
紅一点のヒロインでありながら、透の『待った甲斐があって、やっと傷つける値打のある存在が現れたぞ』という
放恣な欲望を充足するためだけに描写される)、「肉をとおって聖性に達する、この暗い隘路」のような
「輪廻転生」という主題の難解さのもとでは、一種独特なリアリティーを獲得しているように読めなくもないだろう。
 


12 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:47:51
『豊饒の海』全四巻を貫いているのは、大乗仏教に現れる「唯識」哲学である。
それは、徹底した実在の「否定」であり、外部世界に実在すると思われていたものは、すべて自らの深層意識=
「阿頼耶識」の錯覚が描き出した影像に過ぎないという思想だ。



そこは三保の松原、空飛ぶ天人を謳った「羽衣伝説」の舞台でもある。本多繁邦は76歳になっていた。
「覗く少年」安永は、同じく「覗く老人」本多のカリカチュアでもある。「自分はいつも見ている。もっとも
神聖なものも、最も汚穢なものも、同じように。見ることがすべてを同じにしてしまう」と慨嘆する本多老人に対し、
「あそこからこそ自分は来たのだ、幻の国土から。夜明けの空がたまたま垣間見せるあの国から」と見得を切ってみせる透少年。
「見るがいい。この少年こそ純粋な悪だった!」という命題は、「人生をまじめに厳粛に考えたりする年齢を、
本多は夙うに通りすぎていた。どんな邪悪な戯れもゆるされる年齢である」という本多への修飾に精確に対応する。
まごうことなき「悪」の物語、それが『天人五衰』のもう一つの主題である。
 
 ひょっとすると、あの少年は、はじめて本多の前に現れた精巧な贋物なのではあるまいか。――そう嘯いてみせる作者・三島の声は、
本作品に周到に投げかけられた有毒な「罠」ではなかったか。果たして、安永透は本当に「贋物」だったのか。
その解釈をめぐって、本書は錯綜した複線的な「読み」に開かれるだろう。

13 :吾輩は名無しである:2011/01/18(火) 21:52:53
駄作な

14 :吾輩は名無しである:2011/01/19(水) 00:22:52
前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて
背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がつて、うなだれてゐる。わづかに左隅の
前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のやうに、こちらへ半ば暗い顔を向けてゐる。
そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をゑがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と
識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がつてつづいてゐる。
前景の兵士たちも、後景の兵士たちも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭を
しらじらと光らせ、うつむいた項や肩の線を光らせてゐる。画面いつぱいに、何とも云へない
沈痛の気が漲つてゐるのはそのためである。
すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向つて、波のやうに押し寄せる心を
捧げてゐるのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思ひが、
中央へ向つて、その重い鉄のやうな巨大な環を徐々にしめつけてゐる。……
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないやうに思はれた。

三島由紀夫「春の雪」より

15 :吾輩は名無しである:2011/01/19(水) 00:23:13
女がとんだあばずれと知つたのちに、そこで自分の純潔の心象が世界を好き勝手に描いて
ゐただけだと知つたのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋心を味はふことができるだらうか? 
できたら、すばらしいと思はんかね? 自分の心の本質と世界の本質を、そこまで鞏固に
結び合せることができたら、すばらしいと思はないか? それは世界の秘密の鍵を、
この手に握つたといふことぢやないだらうか?


歌留多(カルタ)の札の一枚がなくなつてさへ、この世界の秩序には、何かとりかへしの
つかない罅(ひび)が入る。とりわけ清顕は、或る秩序の一部の小さな喪失が、丁度時計の
小さな歯車が欠けたやうに、秩序全体を動かない靄のうちに閉じ込めてしまふのが怖ろしかつた。
なくなつた一枚の歌留多の探索が、どれほどわれわれの精力を費させ、つひには、
失はれた札ばかりか、歌留多そのものを、あたかも王冠の争奪のやうな世界の一大緊急事に
してしまふことだらう。彼の感情はどうしてもさういふ風に動き、彼にはそれに抵抗する術が
なかつたのである。

三島由紀夫「春の雪」より

16 :吾輩は名無しである:2011/01/19(水) 00:23:46
夢のふしぎで、そんなに遠く、しかも夜だといふのに、金と朱のこまかい浮彫の一つ一つまでが、
つぶさに目に泛ぶのです。
僕はクリにその話をして、お寺が日本まで追ひかけてくるのは別の思ひ出でせう、と笑ふのです。
そのたびに僕は怒りましたが、今では少しクリに同感する気になつてゐます。
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しい
ものになる。事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、
それは汚濁になつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを
涜(けが)し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。

三島由紀夫「春の雪」より

17 :吾輩は名無しである:2011/01/20(木) 13:02:14
夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。おぼろげに漂ふ感覚ではなくて、
一顆の黒い丸薬のやうな、小気味よく凝縮され、ただちに効力を発揮する、さういふ思考を
わがものにしなくてはならないのだ。


法律学とは、まことにふしぎな学問だつた! それは日常些末の行動まで、洩れなく
すくひ上げる細かい網目であると同時に、果ては星空や太陽の運行にまでむかしから
その大まかな網目をひろげてきた、考へられるかぎり貪欲な漁夫の仕事であつた。


何故時代は下つて今のやうになつたのでせう。何故力と若さと野心と素朴が衰へ、
このやうな情ない世になつたのでせう。


一瞬の躊躇が、人のその後の生き方をすつかり変へてしまふことがあるものだ。その一瞬は
多分白紙の鋭い折れ目のやうになつてゐて、躊躇が人を永久に包み込んで、今までの紙の表へ
出られぬやうになつてしまふのにちがひない。

三島由紀夫「春の雪」より

18 :吾輩は名無しである:2011/01/20(木) 13:02:34
あたかも俥は、邸の多い霞町の坂の上の、一つの崖ぞひの空地から、麻布三聨隊の営庭を
見渡すところへかかつてゐた。いちめんの白い営庭には兵隊の姿もなかつたが、突然、
清顕はそこに、例の日露戦没写真集の、得利寺附近の戦死者の弔辞の幻を見た。
数千の兵士がそこに群がり、白木の墓標と白布をひるがへした祭壇を遠巻きにして
うなだれてゐる。あの写真とはちがつて、兵士の肩にはことごとく雪が積み、軍帽の庇は
ことごとく白く染められてゐる。それは実は、みんな死んだ兵士たちなのだ、と幻を見た瞬間に
清顕は思つた。あそこに群がつた数千の兵士は、ただ戦友の弔辞のために集つたのではなくて、
自分たち自身を弔ふためにうなだれてゐるのだ。……
幻はたちまち消え、移る景色は、高い塀のうちに、大松の雪吊りの新しい縄の鮮やかな麦色に
雪が危ふく懸つてゐるさま、ひたと締めた総二階の磨硝子の窓がほのかに昼の灯火を
にじませてゐるさま、などを次々と雪ごしに示した。

三島由紀夫「春の雪」より

19 :吾輩は名無しである:2011/01/20(木) 16:59:41
で、聡子の忘れたフリは何なの?

>>6
その奔馬の中に違う本が出てくるところ、すごく面倒臭かったw
あれは読んでて苦痛だったね。
一番軽いのが暁だね。覗きとかアングラ要素を出してしまうのは何だか残念。
それは肉体の学校あたりの週刊誌小説に限定してほしかったなあ。
春の雪はすごく好き。盗賊と金閣寺の手に入れると滅んでしまう美みたいな感じで。
遅すぎたところに恋があるんだよね。
「清様遅いわ」まさに春の雪。季節に遅れた、遅い雪w
まあ三島の中で一番の作品は、美しい星かな。
凡人を皮肉ってるのがいいねえ。金閣寺はね、燃やさなければならない
っていう使命を無理やり思い込んでいる部分をカットしているのが残念。

まあ三島は固いのは限界があったと思う。
ドストエフスキーに比べたら温いし。


20 :吾輩は名無しである:2011/01/20(木) 21:47:23
聡子は痴呆症を患ってたんだお

21 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 11:17:47
(小論)
 改めて気がついた『春の雪』の日付の意味
   浅野正美

三島由紀夫氏没後40年という節目の年に、「豊穣の海」を通して読み返した。
前回読んだのは私の年齢が三島氏の生涯の年齢を超えた5年前、奇しくも三浦重周氏が自決した年であった。
 恥ずかしいことだが、今回の読書で初めて、春の雪というこの作品の題名を理解することができた。
初読以来30年が過ぎたが「豊穣の海」は私が今までの生涯で一番多く、繰り返し読んできた文学作品である。
にも関わらず私はずっと、春の雪とは清顯と聡子が雪の朝、車に乗って逢い引きをし、初めての接吻を交わしたあの美しくも印象的なシーンから取られたものとばかり思っていた。
この作品にはもう一つ印象的な雪のシーンがある。それは物語の終幕近くで、聡子会いたさに清顯が月修寺に通う場面である。



22 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 11:19:00
 この場面の前後を時系列に並べると、物語は次のように展開している。年号は大正3年。

2月21日    清顯東京を出発
2月22日    帯解着 宿屋から車を雇い月修寺へ
2月23日    午前と午後に月修寺へ 車は門前まで
2月24日    月修寺へ 宿屋から徒歩
2月25日    月修寺へ 発病
2月26日    月修寺へ 車は門前まで 雪(風花) 深夜本多合流 病悪化
2月27日    本多月修寺へ その日の夜行で帰京 意識混濁
2月28日    午前6時新橋駅到着
3月 2日    清顯死去

 お気づきの方もおられようが、2月26日!は清顯が月修寺から最後の否を宣告された日である。
病に蝕まれた体にはもう寺に通う体力は残されていない。そして雪。



23 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 11:20:09
この雪を三島氏は作品の中でこう描写している。
「この日大和平野には、黄ばんだ芝野に風花が舞ってゐた。春の雪といふにはあまりに淡くて羽虫が飛ぶやうな降りざまであったが・・・・」(単行本351頁)

 清顯は車を門前に待たせ、喘ぎながら参道を往く。
「命を賭けなくてはあの人に会へないといふ思ひが、あの人を美の絶頂へ押し上げるだらう。そのためにこそぼくはここまで来たのだ。」(同354頁)

 三島氏はここで初めて「春の雪」という言葉を使っている。この日付は偶然であろうか。
春の雪には、ここまではっきりと日付がわかる個所は他にはほとんどない。例えば先にあげた雪見のシーンでも、日付は明確にされていない。
前後の文章から、この日が正月から飯沼の卒業試験までの間ということがわかるので、おぼろげに、1月か2月であろうということくらいが読み取れるだけである。

 命を賭けるべき絶対の美(天皇 聡子)、そして絶対の美からの峻拒。この主題は三島氏が金閣寺や2.26事件に関する一連の発言の中で繰り返し訴えて来たことに繋がる。


24 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 11:21:33
 三島氏が2.26事件を意識してこの日付を設定したかどうかは、今となってはわからない。

ただし、先にも触れたように、絶対の美、雅からの拒絶、雪、主人公の死、と並べてみると、偶然とは思えない。
雪の2月26日に向けて、清顯は聡子に会いたいという執念を抱いて帯解に旅立つが、思いはかなわず19年の生涯を閉じる。
それから22年後の同じ日に、国を憂える青年将校、兵士達は昭和維新を志して決起するが、ここでも思いは届かない。

第二巻の奔馬では、この2.26事件とほぼ同時代を生きる主人公の飯沼勲が、昭和の神風連たらんとする。

 小説「春の雪」は、2.26事件へのオマージュであったというつもりはない。この二つの日付の一致はすでにだれかによって指摘されていることだと思う。
ただ、鈍感な私が最近初めて気が付いたというに過ぎない。
また、多くの読者にとって、題名の春の雪が、雪見の逢瀬からではなくて、帯解に舞った淡雪から取られていることも自明のことだろう。


25 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 17:04:21
永すぎた春から考えてみる。
あの作品は春つまり二人の婚約があり、結婚(春)までが永すぎたという作品。
三島は春を二人の結びつきとしている。
ならば冬はどうだろう。そして冬の季語でもある雪は。

春に雪、つまり春に訪れた冬。清様の死。
冬は死だ。

冬に降る雪に何の意味があるのだろうか。
まさにジッドの狭き門を思い起こさせる。
弊害のない恋に何の意味があるのだろう?
ただ結ばれることに何の意味があるのだろう?

肺炎を患った時についに ズレ が完成したのだ。

春 と 雪 という本来は交わるもののない二つのもの。
春の桜、冬の雪、こんなものは凡人にくれてやればいい。
清様は凡人ではなかった。

春の雪は積もることはない。
だが誰もが空を見上げるだろう。
冬の雪は当たり前なので空を見上げない。春の雪だからこそ意味があるのだ。

三島が滅びる不安のある金閣寺を愛したように、水と油が混ざるような季節に美を描いた。

26 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 17:24:16
仮面の告白から考えてみる。
女たちは清様を見て頬を赤く染めていた。
しかし聡子だけは・・・・。

仮面の告白には、ふんどしの男に視線をやるシーンがある。

聡子は清様の股間を知っている。
昔、聡子はオムツを変えていた。
つまり聡子は既に清様の股間を知っているので、頬を赤らめることもない。
他の女たちが清様と寝るとしたら、彼女たちは初めて見る彼の股間に頬を赤らめる。

しかし聡子は「清様の股間は子供の頃からずいぶんと成長して」と考えるだろう。

それが清様は許せなかった!!!!
だから冷たくした。

車の中で清様と聡子は 行為 をしようとした時、運転手は車を止める。
その時に清様は「車を止めるな」と叫ぶ。

聡子は外を見ていた。清様ではなく。

春の雪が降っていた窓の外。
窓じゃない方を見れば、子供の頃にはなかった清様の陰毛がある。つまり「黒」。
窓の外には「白」の雪。窓の中には「黒」の清様の陰毛。

聡子は外を見ることを選んだ。
二人の初めての春に、聡子は「白」つまり雪を選んだ。

27 :吾輩は名無しである:2011/01/21(金) 20:42:38
午後の曳航から春の雪論考おながいします。

28 :吾輩は名無しである:2011/01/22(土) 23:57:13
百年たつたらどうなんだ。われわれは否応なしに、一つの時代思潮の中へ組み込まれて、
眺められる他はないだらう。美術史の各時代の様式のちがひが、それを容赦なく証明してゐる。
一つの時代の様式の中に住んでゐるとき、誰もその様式をとほしてでなくては物を見ることが
できないんだ。


様式のなかに住んでゐる人間には、その様式が決して目に見えないんだ。だから俺たちも
何かの様式に包み込まれてゐるにちがひないんだよ。金魚が金魚鉢の中に住んでゐることを
自分でも知らないやうに。


貴様は感情の世界だけに生きてゐる。人から見れば変つてゐるし、貴様自身も自分の個性に
忠実に生きてゐると思つてゐるだらう。しかし貴様の個性を証明するものは何もない。
同時代人の証言はひとつもあてにならない。もしかすると貴様の感情の世界そのものが、
時代の様式の一番純粋な形をあらはしてゐるのかもしれないんだ。……でも、それを
証明するものも亦一つもない。

三島由紀夫「春の雪」より

29 :吾輩は名無しである:2011/01/22(土) 23:57:34
ナポレオンの意志が歴史を動かしたといふ風に、すぐに西洋人は考へたがる。貴様の
おぢいさんたちの意志が、明治維新をつくり出したといふ風に。
しかし果してさうだらうか? 歴史は一度でも人間の意志どほりに動いたらうか?


たとへば俺が意志を持つてゐるとする……それも歴史を変へようとする意志を持つてゐるとする。
俺の一生をかけて、全精力全財産を費して、自分の意志どほりに歴史をねぢ曲げようと努力する。
又、さうできるだけの地位や権力を得ようとし、それを手に入れたとする。それでも歴史は
思ふままの枝ぶりになつてくれるとは限らないんだ。
百年、二百年、あるひは三百年後に、急に歴史は、俺とは全く関係なく、正に俺の夢、理想、
意志どほりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとほりの形を
とるかもしれない。俺の目が美しいと思ふかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、
俺の意志を嘲るかのやうに。
それが歴史といふものだ、と人は言ふだらう。

三島由紀夫「春の雪」より

30 :吾輩は名無しである:2011/01/22(土) 23:57:53
俺が思ふには、歴史には意志がなく、俺の意志とは又全く関係がない。だから何の意志からも
生れ出たわけではないさういふ結果は、決して『成就』とは言へないんだ。それが証拠に、
歴史のみせかけの成就は、次の瞬間からもう崩壊しはじめる。
歴史はいつも崩壊する。又次の徒(あだ)な結晶を準備するために。歴史の形成と崩壊とは
同じ意味をしか持たないかのやうだ。
俺にはそんなことはよくわかつてゐる。わかつてゐるけれど、俺は貴様とちがつて、
意志の人間であることをやめられないんだ。意志と云つたつて、それはあるひは俺の
強ひられた性格の一部かもしれない。確としたことは誰にも言へない。しかし人間の意志が、
本質的に『歴史に関はらうとする意志』だといふことは云へさうだ。俺はそれが『歴史に
関はる意志』だと云つてゐるのではない。意志が歴史に関はるといふことは、ほとんど
不可能だし、ただ『関はらうとする』だけなんだ。それが又、あらゆる意志にそなはる
宿命なのだ。意志はもちろん、一切の宿命をみとめようとはしないけれども。

三島由紀夫「春の雪」より

31 :吾輩は名無しである:2011/01/23(日) 06:43:51
偏差値低そw

32 :吾輩は名無しである:2011/01/23(日) 16:14:51
聡子と自分が、これ以上何もねがはないやうな一瞬の至福の裡にあることを確かめたかつた。
少しでも聡子が気乗りのしない様子を見せれば、それは叶はなかつた。彼は妻が自分と同じ夢を
見なかつたと云つて咎め立てする、嫉妬深い良人のやうだつた。
拒みながら彼の腕のなかで目を閉ぢる聡子の美しさは喩へん方なかつた。微妙な線ばかりで
形づくられたその顔は、端正でゐながら何かしら放恣なものに充ちてゐた。その唇の片端が、
こころもち持ち上つたのが、歔欷(きよき)のためか微笑のためか、彼は夕明りの中に
たしかめようと焦つたが、今は彼女の鼻翼のかげりまでが、夕闇のすばやい兆のやうに
思はれた。清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。耳朶にはほのかな紅があつたが、
耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の
龕のやうだつた。すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか? 心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、潤んで
きらめく歯の奥にあるのだらうか?

三島由紀夫「春の雪」より

33 :吾輩は名無しである:2011/01/23(日) 16:15:21
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。聡子はそれ以上自分の顔が
見られることを避けるやうに、顔を自分のはうから急激に寄せてきて接吻した。清顕は
片手をまはしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも花々が腐つてゐる
室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、窒息してしまつたらどんなに
よからうと想像した。聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、
完全な美の均整へ達しようとしてゐるのをつぶさに見てゐた。
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその髪油の香りの
立ち迷ふなかに、幕の彼方にみえる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、憂はしい髪油の匂ひと
夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。夕あかりの前に、こまかく重なり、けば立つた
羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、底深く
ほのかな不吉な紅、あたかも死化粧のやうな紅を蔵(かく)してゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

34 :吾輩は名無しである:2011/01/23(日) 20:22:08
・今西が拾う黒いブラジャー

・黒いベレー帽の老人が拾う黒い鴉(鬘)

35 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 14:20:26
滝に落ちてた黒い犬

36 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 15:59:50
>ただ感情のために生きるという生き方は、ふしぎにも、自然な成行を
忌避させがちなものである。なぜなら自然な成行は自然に強いられてそうなるという
感じを与え、何事につけて強いられることのきらいな感情はこれから抜け出して、
今度は却って自分の本能的な自由を縛ろうとさえするからである。(春の雪・新潮文庫140頁より)


「春」の「桜」は自然な成行だ。
つまり清様が聡子に会いに行く行為は自然の成行だ。
しかし会いに行こうとする刹那、あの右足を無理に出そうとする力がある。
それは歩くために必要な身体の力である。しかし脳から右足への指令が行く刹那、そこに

力を出す意図

が生じる。脳が右足を前に出す 力を出す意図 は果たして自然の成行だろうか。
確かに好きな聡子に会いたいという本能は自然の成行であるが、同時に
好きな聡子を思い、口角を少し上げる、頬の筋肉は 意図的 だ。自然の成行ではない。
脳が指令しているのだ。

「冬」の雪(聡子を思う気持ち)は自然の成行であるが、右足を出した刹那、それは「春」の雪に変わる。

自然になろうと心がけようと 右足を出す意図 に瞼を閉じようとしても、それはもう
冬の雪を感じようとする、冬の桜もしくは春の雪となってしまう。

聡子は優雅だった。清顕よりも優雅すぎた。年上で、彼の股間を知っている。


37 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 16:12:58
聡子の優雅は決して超えることは出来ないだろう。
その知らばっくれた態度の聡子!!
何も知らないと言った顔をして全部お見通しの女!聡子!
聡子より優雅の上にいくために、清顕は苦悩する。

>ふつうの少年だったら己惚れで有頂天になるほどのあの接吻の思い出も、
この己惚れに親しみすぎた少年にとっては、日ましに心を傷つける事件になった。

春の桜(普通の季節の普通の花=普通の少年の恋)ならば良かった。
しかし清顕にとっては唇が触れた時(冬の雪または春の桜)ではなく、
もっと奥(冬の次の季節→春)、あるいはもっと前(春の前の季節→冬)
つまり「奥」は「聡子の接吻をする後の心」、「前」は「聡子の接吻をした前の心」
聡子の心には分からない。
だが、清顕は「春」=「接吻」をしていても「冬」=「聡子の心」が気になる。
その戸惑いは唇にも出ていただろう。それは接吻の幼さ。身体の幼さ。オムツを替えられた時に見られた股間の幼さ。
聡子は全てを知っている。
全てを知っているものの優雅。余裕。そして何も考えていないような「無知を装う余裕」

何一つ答えを出せていない清顕には、その余裕は持てない。
悔しい。あの女!!!!
どうしたら、どの局面になれば本性をだす!

・・・・死を持って望むしか、あの女の優雅にはたどり着けない。
それか清顕が、春の雪を追わず、本物の無知(聡子は無知の演技)を得て

春の桜のように、そこらへんの男たちのように彼女の肉を愛するか。
清顕は死を持って彼女に挑んだのだ。

38 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 16:25:33
「聡子、貴様は全て知っているんだろう」
と清顕が聞けば、彼女は眉一つ動かさずに首をかしげるだろう。

その優雅!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

しかしそんなことを聞く時点で、清顕の優雅は不粋に代わる。
手紙を燃やした、という報告に喜んだ 刹那 、、、、清顕はまた自分の負けを認めざるをえなかった。

聡子の単純な表情、言動は何一つと信じられない。

この女は 春の雪 だ。

笑顔の青空に雪を含んでいる。
しかしその雪は、春の温かさで地上までは降りてこない。

下にいる(聡子より下)清顕にとって、その雪は見えない。

どうしたあの女よりも優雅に!
結婚が決まったあと、取り返しがつかない行為をした時、あの女はよろめくはずだ。

聡子「清顕、遅いわ。もう無理よ」

清顕「(こうなることを知っていたくせにこの女!)・・・・」

どうすれば!!!死しかない。
この女だって、俺が死ぬことが分かれば、きっと本性を出す。
さあ春の雪だ。雪を見せろ!お前が望んでいたのは春の雪だ。

39 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 16:30:54
「清様? 何のことですか?」

>>20
レスありがとう。答えが出た。
無知の最高地点は痴呆なんだな。
聡子の忘れたフリは、最高地点である痴呆へ昇華した。

だけど夢で思い出す。朝には忘れる。起きた時には忘れる。
春の夜に積もった雪は、朝の温かさに消えてなくなっているだろう。

夢日記は、春に積もった雪を保存させる唯一の方法だった。


40 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 16:54:51
ジン・ジャンの黒子が出たり消えたりするのは何故なんだろう?

41 :吾輩は名無しである:2011/01/24(月) 17:32:35
気まぐれな子なんだお

42 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 00:14:57
襖の奥で「忍び泣き」は本当は「忍び笑い」だったら、そのときすでに聡子は痴呆段階だったのかも。

43 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 01:34:41
痴呆っていう描写自体はどこにあるの?

44 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 10:29:44
描写自体はないけど。

45 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 10:45:22
聡子痴呆説にはワロタ。
まあ、最後のシーンは山門にたどりつくまでに、もう体力がなくなって、
座ったまま死にかかっている本多の幻想だろう。

ちなみに、松枝清顕の存在を否定される伏線としては、最後に休憩する直前に、
『道幅半ばで松の枝先の影が途絶えているのを……』がそうだな。
いずれにしても、三島の作品は描写を楽しむのが一番だと、俺などは思う。

46 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 10:52:33
貧しい想像力の持主は、現実の事象から素直に自分の判断の糧を引出すものであるが、
却つて想像力のゆたかな人ほど、そこにたちまち想像の城を築いて立てこもり、窓といふ窓を
閉めてしまふやうになる傾きを、清顕も亦持つてゐた。


聡子はそのころふさふさと長い黒いお河童頭にしてゐた。かがみ込んで巻物を書いてゐるとき、
熱心のあまり、肩から前へ雪崩れ落ちる夥しい黒髪にもかまはず、その小さな細い指を
しつかりと筆にからませてゐたが、その髪の割れ目からのぞかれる、愛らしい一心不乱の横顔、
下唇をむざんに噛みしめた小さく光る怜悧な前歯、幼女ながらにすでにくつきりと遠つた
鼻筋などを、清顕は飽かず眺めてゐたものだ。それから憂はしい暗い墨の匂ひ、紙を走る筆が
かすれるときの笹の葉裏を通ふ風のやうなその音、硯(すずり)の海と岡といふふしぎな名称、
波一つ立たないその汀から急速に深まる海底は見えず、黒く澱んで、墨の金箔が剥がれて
散らばつたのが、月影の散光のやうに見える永遠の夜の海……。

三島由紀夫「春の雪」より

47 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 10:52:47
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど愚かなのだから、
今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて一つの結晶を成した月光姫を
見てゐるのかもしれないのだ。別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、
逢つてゐることが歓びならば、別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。
さうでせう? 松枝君。僕は、恋するといふことが時間と空間を魔術のやうにくぐり抜ける秘密が
どこにあるか探つてみたいんです。その人を前にしてさへ、その人の実在を恋してゐるとは
限らないのですから、しかも、その人の美しい姿形は、実在の不可欠の形式のやうに
思はれるのですから、時間と空間を隔てれば、二重に惑はされることにもなりうる代りに、
二倍も実在に近づくことにもなりうる。……


優雅といふものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を。

三島由紀夫「春の雪」より

48 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 11:21:19
>三島の作品は描写を楽しむ

三島は文字で書かれた描写。
聡子の描写があっても、聡子の顔は一切読者には伝わらない。
しかし聡子の顔はどんなものか?と聞かれた時、3分説明をしたところで
「もういいからw」
と止められてしまうだろう。
つまり言葉では説明できるけど、映像的には説明できない。

珍説か?僕の想像力が弱いのか?
それとも・・・・一冊読み終えることに目的を持った浅学の僕の、粗い読み方のせいか。
速く読むことは何かを見落としている。
遅く読むことは左の親指の汚れを本に多くつけることになる。
作業着を着た職場の場合。

49 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 22:04:47
本の読み方が浅い、というか読み方を知らないからだろうな、オマエの場合。

50 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 22:59:31
>>48
聡子の顔はあなたの理想の顔で想像してください。

by 三島由紀夫

51 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 23:12:16
彼はまぎれもなく恋してゐた。だから膝を進めて聡子の肩へ手をかけた。その肩は頑なに拒んだ。
この拒絶の手ごたへを、彼はどんなに愛したらう。大がかりな、式典風な、われわれの
住んでゐる世界と大きさを等しくするやうなその壮大な拒絶。このやさしい肉慾にみちた肩に
のしかかる、勅許の重みをかけて抗(はむか)つてくる拒絶。これこそ彼の手に熱を与へ、
彼の心を焼き滅ぼすあらたかな拒絶だつた。聡子の庇髪の正しい櫛目のなかには、香気に
みちた漆黒の照りが、髪の根にまで届いてゐて、彼はちらとそれをのぞいたとき、月夜の森へ
迷ひ込むやうな心地がした。
清顕は手巾から洩れてゐる濡れた頬に顔を近づけた。無言で拒む頬は左右に揺れたが、
その揺れ方はあまりに無心で、拒みは彼女の心よりもずつと遠いところから来るのが知れた。
清顕は手巾を押しのけて接吻しようとしたが、かつて雪の朝あのやうに求めてゐた唇は、
今は一途に拒み、拒んだ末に、首をそむけて、小鳥が眠る姿のやうに、自分の着物の襟に
しつかりと唇を押しつけて動かなくなつた。

三島由紀夫「春の雪」より

52 :吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 23:12:53
雨の音がきびしくなつた。清顕は女の体を抱きながら、その堅固を目で測つた。夏薊の
縫取のある半襟の、きちんとした襟の合せ目は、肌のわづかな逆山形をのこして、神殿の
扉のやうに正しく閉ざされ、胸高に〆めた冷たく固い丸帯の中央に、金の帯留を釘隠しの
鋲のやうに光らせてゐた。しかし彼女の八つ口や袖口からは、肉の熱い微風がさまよひ出て
ゐるのが感じられた。その微風は清顕の頬にかかつた。
彼は片手を聡子の背から外し、彼女の顎をしつかりとつかんだ。顎は清顕の指のなかに
小さな象牙の駒のやうに納まつた。涙に濡れたまま、美しい鼻翼は羽搏いてゐた。そして
清顕は、したたかに唇を重ねることができた。
急に聡子の中で、炉の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、双の手が
自由になつて、清顕の頬を押へた。その手は清顕の頬を押し戻さうとし、その唇は押し
戻される清顕の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの余波で左右に動き、清顕の唇は
その絶妙のなめらかさに酔うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の
角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。

三島由紀夫「春の雪」より

53 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 15:43:35
あの花々しい戦争の時代は終つてしまつた。戦争の昔話は、監武課の生き残りの功名話や、
田舎の炉端の自慢話に墜してしまつた。もう若い者が戦場へ行つて戦死することは
たんとはあるまい。
しかし行為の戦争がをはつてから、その代りに、今、感情の戦争の時代がはじまつたんだ。
この見えない戦争は、鈍感な奴にはまるで感じられないし、そんなものがあることさへ
信じられないだらうと思ふ。だが、たしかに、この戦争がはじまつてをり、この戦争のために
特に選ばれた若者たちが、戦ひはじめてゐるにちがひない。貴様はたしかにその一人だ。
行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。
それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ。……それで貴様は、
その新らしい戦争で戦死する覚悟を固めたわけだ。さうだらう?

三島由紀夫「春の雪」より

54 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 15:44:04
繁邦は思つてゐた。人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを
止めることはできない、と。それは人間の理性と良心を自明の前提としてゐる近代法では、
決して受け入れられぬ理論だつた。
一方、繁邦はかうも思つてゐた。はじめ自分に無縁なものと考へて傍聴しはじめた裁判が、
今はたしかに無縁なものではなくなつた代りに、増田とみが目の前で吹き上げた赤い
熔岩のやうな情念とは、つひに触れ合はない自分を、発見するよすがにもなつた、と。
雨のまま明るくなつた空は、雲が一部分だけ切れて、なほふりつづく雨を、つかのまの
孤雨に変へてゐた。窓硝子の雨滴を一せいにかがやかす光りが、幻のやうにさした。
本多は自分の理性がいつもそのやうな光りであることを望んだが、熱い闇にいつも
惹かれがちな心性をも、捨てることはできなかつた。しかしその熱い闇はただ魅惑だつた。
他の何ものでもない、魅惑だつた。清顕も魅惑だつた。そしてこの生を奥底のはうから
ゆるがす魅惑は、実は必ず、生ではなく、運命につながつてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

55 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 18:03:08
模写してる人って、横書きでキーボードで打っても意味ないのに・・・。

56 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 21:57:46
模写しているバアサンは、携帯でやっているから、ある意味スゴい。
模写なんて、文学板の三島スレでやる意味がないのは明らかなんだが、
本人は、それが自分の仕事だと思っているらしい。
多分、論ずること自体ができないのだろうな。

57 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 22:33:28
海はすぐそこで終る。これほど遍満した海、これほど力にあふれた海が、すぐ目の前で
をはるのだ。時間にとつても、空間にとつても、境界に立つてゐることほど、神秘な感じの
するものはない。海と陸とのこれほど壮大な境界に身を置く思ひは、あたかも一つの時代から
一つの時代へ移る、巨きな歴史的瞬間に立会つてゐるやうな気がするではないか。そして本多と
清顕が生きてゐる現代も、一つの潮の退き際、一つの波打際、一つの境界に他ならなかつた。
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に
終るのだ。
……しかし、それにしても、何となごやかな、心やさしい挫折だらう。波の最後の
余波(なごり)の小さな笹縁は、たちまちその感情の乱れを失つて、濡れた平らな砂の鏡面と
一体化して、淡い泡沫ばかりになるころには、身はあらかた海の裡へ退いてゐる。

三島由紀夫「春の雪」より

58 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 22:33:52
あの橄欖(オリーブ)いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり、怒号で
あつたものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいづれ囁きに変つてしまふ。大きな
白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去つて、最後に
蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。


退いてゆく波の彼方、幾重にもこちらへこちらへと折り重つてくる波の一つとして、白い
なめらかな背(せびら)を向けてゐるものはない。みんなが一せいにこちらを目ざし、
一せいに歯噛みをしてゐる。しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力づよく見えてゐた渚の
波も、実は稀薄な衰へた拡がりの末としか思はれなくなる。次第次第に、沖へ向つて、
海は濃厚になり、波打際の海の稀薄な成分は濃縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の
水平線にいたつて、無限に煮つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達してゐる。距離と
ひろがりを装ひながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この稀いあわただしい波の重複の
はてに、かの青く凝結したもの、それこそは海なのだ。……

三島由紀夫「春の雪」より

59 :吾輩は名無しである:2011/01/26(水) 22:36:39
本多は、頭のよい青年の逸り気から、やや軽んずるやうな口調で断定した。
「それは生れ変りの問題とはちがひます」
「なぜちがふ」とジャオ・ピーは穏やかに言つた。「一つの思想が、ちがふ個体の中へ、
時を隔てて受け継がれてゆくのは、君も認めるでせう。それなら又、同じ個体が、別々の
思想の中へ時を隔てて受け継がれてゆくとしても、ふしぎではないでせう」
「猫と人間が同じ個体ですか? さつきのお話の、人間と白鳥と鶉と鹿が」
「生れ変りの考へは、それを同じ個体と呼ぶんです。肉体が連続しなくても、妄念が
連続するなら、同じ個体と考へて差支へがありません。個体と云はずに、『一つの生の流れ』と
呼んだらいいかもしれない。
僕はあの思ひ出深いエメラルドの指環を失つた。指環は生き物ではないから、生れ変りはすまい。
でも、喪失といふことは何かですよ。それが僕には、出現のそもそもの根拠のやうに思へるのだ。
指環はいつか又、緑いろの星のやうに、夜空のどこかに現はれるだらう」

三島由紀夫「春の雪」より

60 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 14:02:23
>>50
竹内結子は骨太すぎた。
沢尻エリカあたりなら良かっただろう。


61 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 21:23:41
三島はオカルティスト

62 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 21:41:45
せめて現代語訳してくれないと読む気がしない

63 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 23:35:27
本多はその言葉を聴き流しながら、さつきジャオ・ピーが言つたふしぎな逆説について思ひに
耽つてゐた。たしかに人間を個体と考へず、一つの生の流れととらへる考へ方はありうる。
静的な存在として考へず、流動する存在としてつかまへる考へ方はありうる。そのとき
王子が言つたやうに、一つの思想が別々の「生の流れ」の中に受けつがれるのと、一つの「生の流れ」が別々の
思想の中に受けつがれるのとは、同じことになつてしまふ。生と思想とは同一化されてしまふ
からだ。そしてそのやうな、生と思想が同一のものであるやうな哲学をおしひろげれば、
無数の生の流れを統括する生の大きな潮の連鎖、人が「輪廻」と呼ぶものも、一つの思想で
ありうるかもしれないのだ。……


それは正しく琴だつた! かれらは槽の中へまぎれ込んだ四粒の砂であり、そこは
果てしのない闇の世界であつたが、槽の外には光りかがやく世界があつて、竜角から雲角まで
十三弦の弦が張られ、たとしへもなく白い指が来てこれに触れると、星の悠々たる運行の音楽が、
琴をとどろかして、底の四粒の砂をゆすぶるのだつた。

三島由紀夫「春の雪」より

64 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 23:36:05
……いつか時期がまゐります。それもそんなに遠くはないいつか。そのとき、お約束しても
よろしいけれど、私は未練を見せないつもりでをります。こんなに生きることの有難さを
知つた以上、それをいつまでも貪るつもりはございません。どんな夢にもをはりがあり、
永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし永遠があるとすれば、それは
今だけなのでございますわ。


清顕は皆に背を向けて、夕空にゆらめき出す煙のあとを追ひながら、沖の雲の形が崩れて
おぼろげなのが、なほ一面ほのかな黄薔薇の色に染つてゐるのを見た。そこにも彼は聡子の影を
感じた。聡子の影と匂ひはあらゆるものにしみ入り、自然のどんな微妙な変様も聡子と
無縁ではなかつた。ふと風が止んで、なまあたたかい夏の夕方の大気が肌に触れると、
そのとき裸の聡子の肌がそこに立ち迷つて、ぢかに清顕の肌に触れるやうな気がした。
少しづつ暮れてゆく合歓(ねむ)の樹の、緑の羽毛を重ねたやうな木蔭にさへ、聡子の断片が
漂つてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

65 :吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 23:36:32
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついてゐるんだね」
「ええ。どういふ形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いてゐる道は、
道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終つて、海がはじめるのは仕方がございませんわ」


彼はかねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐるのを知りつつあつた。いちばんたやすい
解決は二人の相対の死にちがひないが、それにはもつと苦悩が要る筈で、かういふ忍び逢ひの、
すぎ去つてゆく一瞬一瞬にすら、清顕は、犯せば犯すほど無限に深まつてゆく禁忌の、
決して到達することのない遠い金鈴の音のやうなものに聞き惚れてゐた。罪を犯せば犯すほど、
罪から遠ざかつてゆくやうな心地がする。……最後にはすべてが、大がかりな欺瞞で終る。
それを思ふと彼は慄然とした。
「かうして御一緒に歩いてゐても、お仕合せさうには見えないのね。私は今の刹那刹那の
仕合せを大事に味はつてをりますのに。……もうお飽きになつたのではなくて?」
と聡子はいつものさはやかな声で、平静に怨じた。
「あんまり好きだから、仕合せを通り過ぎてしまつたのだ」
と清顕は重々しく言つた。

三島由紀夫「春の雪」より

66 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 13:41:39
しかし、コピペもここまでやると、著作権侵害だろう。
そんなことも分からずにいるのか?

67 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 14:34:41
没50年で著作権は消えるのでは?

68 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 15:12:16
三島が死んだのは、1970年の11月だぞ。

69 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 15:15:46
バカな自演

70 ::2011/01/28(金) 15:32:01
バカはオマエ

71 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 17:36:10
今って2023でしょ。
分かりづらいから三島が数えやすいように昭和で数えてくれないかな。
コンビニバイトで宅配伝票に22年と書いてしまうよ。
三島92年くらいか。昭和92年か。

72 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 18:06:30
生きていたら86歳で、昭和86年

73 :吾輩は名無しである:2011/01/28(金) 19:41:23
梶井基次郎でも読んでたほうが面白い。

74 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 13:46:12
それはクレヨンしんちゃんと三島文学を比較したら
前者は下ネタで優位だけど
後者は耽美が優位。
何と比べて面白いか書いてくれないと困る。
総合的に、ならあなたの感性は低いよね。世間の標準だと。

75 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 16:53:21
世間の標準だと逆だよね。梶井の方が評価高いよ。

76 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 19:13:59
>>75
「世間」は梶井のかの字も知らない人が大半だよ。
ちなみに三島由紀夫は梶井が大好きで賞賛してるけど、少なくとも文芸評論するときは、あんたみたいに「世間の基準が」とか間抜けな語りはしてないよ。

77 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 19:22:09
しつこいね、小谷野とかいうバカかな、粘着アンチは。

78 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 19:37:26
被害妄想まで入ってら
お前みたいなゴミ小谷野だって相手にしないよ

79 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 19:58:59
>>78
やっぱり小谷野か。キチガイ自画自賛の自演してるし、気持ち悪いね。

80 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 20:03:57
>文芸評論するときは

強弁きた〜って感じ。

81 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 20:08:38
落着き払つたこの老女の、この世に安全なものなどはないといふ哲学は、そもそも保身の
自戒であつた筈が、それがそのまま自分の身の安全をも捨てさせ、その哲学自体を、冒険の
口実にしてしまつたのは、何に拠るのだらう。蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの
虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの
望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらず、どんな危険と
引きかへにしてもよい痛烈な快さになつてゐた。
この快さの中では、美しい若い肉の融和そのものが、何か神聖で、何か途方もない正義に
叶つてゐるやうに感じられた。
二人が相会ふときの目のかがやき、二人が近づくときの胸のときめき、それらは蓼科の
冷え切つた心を温めるための煖炉であるから、彼女は自分のために火種を絶やさぬやうになつた。
相見る寸前までの憂ひにやつれた頬が、相手の姿をみとめるやいなや、六月の麦の穂よりも
輝やかしくなる。……その瞬間は、足萎えも立ち、盲らも目をひらくやうな奇蹟に充ちてゐた。

三島由紀夫「春の雪」より

82 :吾輩は名無しである:2011/01/29(土) 20:08:57
実際蓼科の役目は聡子を悪から護ることにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、
歌になるものは悪ではない、といふ訓(をし)へは綾倉家の伝承する遠い優雅のなかに
ほのめかされてゐたのではなかつたか?
それでゐて蓼科は、何事かをじつと待つてゐた。放し飼の小鳥を捕へて籠へ戻す機会を
待つてゐたとも云へようが、この期待には何か不吉で血みどろなものがあつた。蓼科は毎朝
念入りに京風の厚化粧をし、目の下の波立つ皺を白粉に隠し、唇の皺を玉虫色の京紅の照りで
隠した。さうしてゐながら、鏡の中のわが顔を避け、中空へ問ふやうなどす黒い視線を放つた。
秋の遠い空の光りは、その目に澄んだ点滴を落した。しかも未来はその奥から何ものかに
渇いてゐる顔をのぞかせてゐた。……蓼科は出来上つた自分の化粧をしらべ直すために、
ふだんは使はない老眼鏡をとりだして、そのかぼそい金の蔓を耳にかけた。すると老いた
真白な耳朶が、たちまち蔓の突端に刺されて火照つた。……

三島由紀夫「春の雪」より

83 :吾輩は名無しである:2011/01/31(月) 11:18:26
  三島由紀夫研究会『公開講座』のお知らせ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
         本会の公開講座はどなたでも参加できます
      記
とき   平成23年2月25日(金曜日) 午後六時半
ところ  アルカディア市ヶ谷 五階会議室
     (JR、地下鉄「市ヶ谷」駅下車徒歩3分)
講師   井上隆史(白百合大学教授)
演題   「もう一つあった『豊饒の海』のストーリー」
会費     おひとり 2000円(賛助会員は1000円)
      参加される方はなるべく下記の書籍を前もってお読み下さい。
************************
<井上隆史『三島由紀夫 幻の遺作を読む』(光文社新書)の内容>
三島由紀夫文学研究の第一線にたつ筆者は山中湖の三島文学館で遺族から託され、残された創作ノートや膨大な資料のなかから、
ひとつひとつを丹念に時間をかけて丁寧に掘り起こし、時代の背景をも複合的資料との整合性を追いかけ、研究を積み重ねてきた。
過去にも通説とはことなる三島の処女作を発見され、新しい全集にも収録された。
井上氏は、「豊穣の海・創作ノート」(全十八冊)を克明に調べられた結果、最後の四部作『豊穣の海』は、じつは五部作の予定であり、結末は、実際の小説とはまったく違うストーリーだったという結論に達した。
『天人五衰』も題名が決まったのは土壇場のことだったうえ、唯識、阿羅耶識の研究文献で三島がもっとも依拠した三冊の本の存在など興味津々の研究成果が披露される。未踏の世界へ大胆な船出をされたような労作であり、三島ファン必読!

今月号『WILL』でも、堤堯氏が、本書を絶賛しています!

84 :吾輩は名無しである:2011/01/31(月) 14:32:09
何人くらいくるんだろう?
前に人間不平等期限論の公開講座に行こうとしたら満員で断られたな。
確か40人くらいだったけど。
無料だったからかな

85 :吾輩は名無しである:2011/01/31(月) 15:22:32
50人位までかもね

86 :吾輩は名無しである:2011/02/01(火) 00:07:15
聡子は意外なことを言つた。
「私は牢に入りたいのです」
蓼科は緊張が解けて、笑ひだした。
「お子達のやうなことを仰言つて! それは又何故でございます」
「女の囚人はどんな着物を着るのでせうか。さうなつても清様が好いて下さるかどうかを
知りたいの」
――聡子がこんな理不尽なことを言ひ出したとき、涙どころか、その目を激しい喜びが
横切るのを見て、蓼科は戦慄した。
この二人の女が、身分のちがひもものかは、心に強く念じてゐたのは、同じ力の、同じたぐひの
勇気だつたにちがひない。欺瞞のためにも、真実のためにも、これほど等量等質の勇気が
求められてゐる時はなかつた。
蓼科は自分と聡子が、流れを遡らうとする舟と流れとの力が丁度拮抗して、舟がしばらく
一つところにとどまつてゐるやうに、現在の瞬間瞬間、もどかしいほど親密に結びつけられて
ゐるのを感じた。又、二人は同じ歓びをお互ひに理解してゐた。近づく嵐をのがれて頭上に
迫つてくる群鳥の羽搏きにも似た歓びの羽音を。

三島由紀夫「春の雪」より

87 :吾輩は名無しである:2011/02/01(火) 00:07:32
「ぢやあ、気をつけて」
と言つた。言葉にも軽い弾みを持たせ、その弾みを動作にも移して、聡子の肩に手を置かうと
思へば置くこともできさうだつた。しかし、彼の手は痺れたやうになつて動かなかつた。
そのとき正(まさ)しく清顕を見つめてゐる聡子の目に出会つたからである。
その美しい大きい目はたしかに潤んでゐたが、清顕がそれまで怖れてゐた涙はその潤みから
遠かつた。涙は、生きたまま寸断されてゐた。溺れる人が救ひを求めるやうに、まつしぐらに
襲ひかかつて来るその目である。清顕は思はずひるんだ。聡子の長い美しい睫は、植物が
苞をひらくやうに、みな外側へ弾け出て見えた。
「清様もお元気で。……ごきげんよう」
と聡子は端正な口調で一気に言つた。
清顕は追はれるやうに汽車を降りた。折しも腰に短剣を吊り五つ釦の黒い制服を着た駅長が、
手をあげるのを合図にして、ふたたび車掌の吹き鳴らす呼笛がきこえた。
かたはらに立つ山田を憚りながら、清顕は心に聡子の名を呼びつづけた。汽車が軽い
身じろぎをして、目の前の糸巻の糸が解(ほど)けたやうに動きだした。

三島由紀夫「春の雪」より

88 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 15:44:52
 ▼感情の源泉

 満洲得利寺の戦い(明治37年6月14、15日)は日露戦争最初の大規模な会戦だった。奥保鞏(やすかた)率いる第二軍は、ロシア軍の左翼に第三師団を、中央に第五師団を据えて戦端を開こうとした。
しかし後発の第五師団は塩大澳(えんたいおう)に上陸したばかりで合流が遅れ会戦に加われない事態となり、第四師団は左翼縦隊で北進し連絡が途絶えてしまった。ロシアの大軍に第三師団のみで当たる状況になり苦戦をしいられた。
劣勢を盛り返すには、第四師団と連絡をとり、転回させ敵の右翼に当たらせるしかない。だがその任を帯びた連絡斥候を次々送りだしても、コサック遊撃隊に捕まり、殺されてしまう。
そこで最後に白羽の矢が立ったのが副官の石光真清だった。

石光は田中義一に命じられ、諜報員として満洲・極東シベリアに渡り、時に馬賊になりすまし、ロシア軍の兵站線をさぐった実績があった。
石光は曹長他部下三名とともに闇夜の中磁石を便りに、馬を駆って北に向かった。部下を一人殺られながらこの大任を全うし、第二軍は激戦の末ロシア軍を撃退した。

三島が『春の雪』でセピアインク写真の弔祭の情景を詳述したのは、遥か三十年前に喪った友・東文彦への「悲哀は、限りがない」弔意を塗りこめたからである。
 
 小論「三島由紀夫と神風連」ですでに触れたが、石光真清は『城下の人』を昭和18年に出版している。実際にはその子・真臣の手になる遺稿集であった。
真臣の1才年上の姉菊枝は、東季彦という学者に嫁いだが、このふたりの間にできたのが東文彦であった。つまり文彦は真清の孫になる。
 三島は、学習院の5年先輩にあたる東文彦と、昭和15年末から18年10月まで百通以上の手紙を交わした。
 その大部分は『三島由紀夫 十代書簡集』に収められている。

文彦は結核に罹って自宅療養していたので、三島が会えたのは一回だけだったようだ。三島は東邸を頻繁に訪れたが、コミュニケーションは文彦の母菊枝を介しての手紙の授受だった。
息子の文学活動を喜ばない父梓(あずさ)に自分ひとりで抗することが難かった三島にとって、文彦や文彦の執筆を支える東家は助け舟となり、文彦と東家が十代の三島の至福の在り処となった。



89 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 15:48:29
文彦の「幼い詩人」という作品に“悠紀子”という登場人物がいて、三島はこれからとって悠紀夫と称したりした。これがペンネイムの由紀夫になったとも云われている。
三島、文彦、それに徳川義恭の三人は、季彦の援助で同人誌『赤絵』を出した。 しかし二号を出したところで、文彦が死んで潰えた。 


▼親友の急逝と春の雪とのあいだ

三島の文彦との再会は彼の死の床となった。その枕元で深夜まで徳川と文彦を弔い、徳川は死顔をデッサンし、三島は「東健兄を哭す」を書き上げた。健(たかし)は文彦の本名である。

文彦の急死により、三島は文学についての思いを通わせる友を失い、その心裡は暗転し至福の時は畢わった。そして至福は悲しみとともに三島の心の奥底に沈んでいった。 
自裁の直前まで三島の発言、書き物に!)東文彦!)は一切あらわれなくなったが、これが三島の書くこと=生きてゆくことの秘泉、「源泉の感情」となった。

 三島が文彦と文通し、東邸を頻繁に訪れていた昭和17年に文彦の祖父真清が没する。
そして文彦は亡くなる直前の昭和18年夏に出された祖父の遺稿集『城下の人』の表紙絵(墨絵の熊本城)と5枚の挿絵を描く。 
この『城下の人』は昭和33年復刻出版され毎日出版文化賞を受賞するが、三島はこの『城下の人』を蔵書の中に有していた。 
真清の自伝は4冊に渡るが、文彦が関わったのは『城下の人』だけで、他の3冊は『廣野の花』(旧書名、諜報記)、『誰のために』(旧書名、続諜報記)、『望郷の歌』として親族の手で出された。

石光真清は、明治元年現在の熊本市内の藩士の家に生まれ、商法講習所(現一橋大学)を経て職業軍人になるべく陸軍幼年学校・陸軍士官学校に進学し、卒業して近衛師団に配属され、日清戦争では満洲そして占領した台湾に渡る。
帰国後、露語の習得を開始し、シベリアへ渡り、ハルビンで写真館を開業するが、日露戦役に出征し、金州城、遼陽・奉天会戦に参戦する。
戦後、田中義一参謀の要請で使命を帯びて再び渡満するが、事業を興して失敗し、帰国し郵便局を開く。再再度、渡満して貿易会社を興し、諜報活動にも従事するという波乱の人生を送った。


90 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 15:57:01
三島が「東健兄を哭す」と題する追悼文を寄せた、文彦の遺稿集『浅間』の巻末年譜に、“外祖父 石光真清”の名がみえる。 
三島の頻繁な東邸訪問の際、真清の娘にあたる文彦の母菊枝との間で真清のことが話題に上ったこともあったろう。 


▼欧米化に抗して

三島と文彦の文通の最中に真清は亡くなり、文彦は祖父の遺稿集の製作に、表紙絵や挿絵を描くことで深く関わったから、三島は『城下の人』初版を手にとっていたろう。
そこから真清と出会った加屋霽堅を知り、真清が父真民から教え諭された神風連の次の件を目にしただろう。  

・・・おまえたちは、神風連、神風連とあの方々を、天下の大勢に暗い頑迷な人のように言うが、それは大変な誤りだ。あの方たちは、ご一新前は熊本藩の中枢にあって、藩政に大きな功労のあった方々だ。学識もあり、勤皇の志も篤い。 
 ところがご一新後の世の動きは、目まぐるしく総じて欧米化して、日本古来の美点が崩れていくので、これでは国家の前途が危ういと心配し、明治五年、大田黒伴雄氏、加屋霽堅氏等をはじめ国学の林櫻園先生の感化を受けた百七十余名の方々が会合して今後の方針を協議された。
 この会合で日本古来の伝統は必ず護る、外国に対しては強く正しく国の体面を保つことを申し合わせた。この人々を進歩派の人々が神風連と呼ぶようになった・・・

 三島は昭和18年『城下の人』を、昭和33年その復刻版を手にして、加屋霽堅と真清との出会いを胸にしっかり刻しただろう。 
三島が『城下の人』を大切に所蔵していたのは、文彦がこれに関わり、文彦の手になる表紙絵と挿絵があったからだ。そして加屋の名が刻まれていたからだ。三島は、文彦と真清を通じて、神風連の加屋霽堅につながったのだ。

91 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 22:05:26
「放尿の海」は、日本の夏。

92 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 23:20:24
「お髪を下ろしたのね」
と夫人は、娘の体を掻き抱くやうにして言つた。
「お母さん、他に仕様はございませんでした」
とはじめて母へ目を向けて聡子は言つたが、その瞳には小さく蝋燭の焔が揺れてゐるのに、
その目の白いところには、暁の白光がすでに映つてゐた。夫人は娘の目の中から射し出た
このやうな怖ろしい曙を見たことはない。聡子が指にからませてゐる水晶の数珠の一顆一顆も、
聡子の目の裡と同じ白みゆく光りを宿し、これらの、意志の極みに意志を喪つたやうな幾多の
すずしい顆粒の一つ一つから、一せいに曙がにじみ出してゐた。


聡子は目を閉ぢつづけてゐる。朝の御堂の冷たさは氷室のやうである。自分は漂つてゆくが、
自分の身のまはりには清らかな氷が張りつめてゐる。たちまち庭の百舌がけたたましく啼き、
この氷には稲妻のやうな亀裂が走つたが、次には又その亀裂は合して、無瑕になつた。
剃刀は聡子の頭を綿密に動いてゐる。ある時は、小動物の鋭い小さな白い門歯が齧るやうに、
ある時はのどかな草食獣のおとなしい臼歯の咀嚼のやうに。

三島由紀夫「春の雪」より

93 :吾輩は名無しである:2011/02/02(水) 23:20:46
髪の一束一束が落ちるにつれ、頭部には聡子が生れてこのかた一度も知らない澄みやかな
冷たさがしみ入つた。自分と宇宙との間を隔ててゐたあの熱い、煩悩の鬱気に充ちた黒髪が
剃り取られるにつれて、頭蓋のまはりには、誰も指一つ触れたことのない、新鮮で冷たい
清浄の世界がひらけた。剃られた肌がひろがり、あたかも薄荷を塗つたやうな鋭い寒さの
部分がひろがるほどに。
頭の冷気は、たとへば月のやうな死んだ天体の肌が、ぢかに宇宙のかう気に接してゐる感じは
かうもあらうかと思はれた。髪は現世そのもののやうに、次々と頽落した。頽落して無限に
遠くなつた。
髪は何ものかにとつての収穫(とりいれ)だつた。むせるやうな夏の光りを、いつぱい
その中に含んでゐた黒髪は、刈り取られて聡子の外側へ落ちた。しかしそれは無駄な収穫だつた。
あれほど艶やかだつた黒髪も、身から離れた刹那に、醜い髪の骸(むくろ)になつたからだ。
かつて彼女の肉に属し、彼女の内部と美的な関はりがあつたものが残らず外側へ捨て去られ、
人間の体から手が落ち足が落ちてゆくやうに、聡子の現世は剥離してゆく。……

三島由紀夫「春の雪」より

94 :吾輩は名無しである:2011/02/04(金) 19:50:14
ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に。


すべてが辛く当る。僕はもう陶酔の道具を失くしてしまつた。物凄い明晰さ、爪先で弾けば
全天空が繊細な玻璃質の共鳴で応じるやうな、物凄い明晰さが、今世界を支配してゐる。
……しかも、寂寥は熱い。何度も吹かなければ口へ入れられない熱い澱んだスープのやうに熱く、
いつも僕の目の前に置かれてゐる。その厚手の白いスープ皿の、蒲団のやうな汚れた鈍感な
厚味と来たら! 誰が僕のためにこんなスープを注文したのか?
僕は一人取り残されてゐる。愛慾の渇き。運命への呪ひ。はてしれない心の彷徨。あてどない
心の願望。……小さな自己陶酔。小さな自己弁護。小さな自己偽瞞。……失はれた時と、
失はれた物への、炎のやうに身を灼く未練。年齢の空しい推移。青春の情ない閑日月。
人生から何の結実も得ないこの憤ろしさ。……一人の部屋。一人の夜々。……世界と
人間とからのこの絶望的な隔たり。……叫び。きかれない叫び。……外面の花やかさ。
……空つぽの高貴。……
……それが僕だ!

三島由紀夫「春の雪」より

95 :吾輩は名無しである:2011/02/04(金) 19:51:40
――さうして、寝苦しい夜をすごして、二十六日の朝になつた。
この日、大和平野には、黄ばんだ芒野に風花が舞つてゐた。春の雪といふにはあまりに淡くて、
羽虫が飛ぶやうな降りざまであつたが、空が曇つてゐるあひだは空の色に紛れ、かすかに
弱日が射すと、却つてそれがちらつく粉雪であることがわかつた。寒気は、まともに雪の
降る日よりもはるかに厳しかつた。
清顕は枕に頭を委ねたまま、聡子に示すことのできる自分の至上の誠について考へてゐた。


本多は、決して襖一重といふほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅から一間を
隔てた部屋かと思はれるあたりで、幽かに紅梅の花のひらくやうな忍び笑ひをきいたと思つた。
しかしすぐそれは思ひ返されて、若い女の忍び笑ひときかれたものは、もし本多の耳の迷ひで
なければ、たしかにこの春寒の空気を伝はる忍び泣きにちがひないと思はれた。強ひて抑へた
嗚咽の伝はるより早く、弦が断たれたやうに、嗚咽の絶たれた余韻がほの暗く伝はつた。

今、夢を見てゐた。又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で。

三島由紀夫「春の雪」より

96 :吾輩は名無しである:2011/02/05(土) 12:07:12
僕は滝の下の犬のようだ。
犬は誰にも見られない。
聡子は俺を見てくれない。まるで俺は犬だ。
犬が見てもらうようになるにはどうしたらいいと思う?なあ本多。
それはな、相応しくない場所で、相応しくないことをすることだ。
華やかな庭園の滝の下で、華やかでない状態でいることだ。
死体でいることで、聡子は俺を見てくれるだろう。

又、会うぜ。
きっと会う。
醜いものを見た時に、誰かが死んだ時、きっと俺を思い出すだろう。

なあ本多、俺は死ということでしか聡子に近づけない。
生のままでは、聡子とは結ばれない。
春の死。本多、夢日記はお前に渡す。
意味のないものほど、色々な・・・・・・じゃあな

97 :吾輩は名無しである:2011/02/05(土) 12:13:47
>>94素敵すぎて泣いてしまいそうな文章だな。大好きだな三島は。


98 :吾輩は名無しである:2011/02/05(土) 21:55:46
ほんに。

99 :吾輩は名無しである:2011/02/06(日) 22:59:24
聡子のモデルとされた女性の伝記が最近出てた。
元本を昔読んで結構面白かったけど、筆者の想像が多い。

100 :吾輩は名無しである:2011/02/06(日) 23:46:00
>>99
本のタイトル教えて。

101 :吾輩は名無しである:2011/02/07(月) 07:50:14
「天皇家の隠し子」
双子だから隠されて尼にされ、皇室の寺の門跡になったという筋書き。
本当かは誰にもわからない。本人は否定した。
だがこの尼僧に三島が会って絶賛し、聡子のモデルにしたのは本当らしい。

102 :吾輩は名無しである:2011/02/07(月) 17:01:07
>>101
ありがとう。読んでみます。

103 :吾輩は名無しである:2011/02/07(月) 18:38:29
>>100
わたしの頭の中の消しゴム

104 :吾輩は名無しである:2011/02/08(火) 12:27:01
本多にとつて青春とは、松枝清顕の死と共に終つてしまつたやうに思はれた。あそこで
凝結して、結晶して、燃え上つたものが尽きてしまつた。


もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになつてゆく。
かつてあつた、といふことと、かくもありえた、といふことの境界は薄れてゆく。夢が現実を
迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似してゐた。
ずつと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、
年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして
過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついてゐるやうに思はれるので、夢との堺目は
一そうおぼろげになつてしまふ。それほどうつろひやすい現実の記憶とは、もはや夢と
次元の異ならぬものになつたからだ。
きのふ逢つた人の名さへ定かに憶えてゐない一方では、清顕の記憶がいつも鮮明に呼び
起されるさまは、今朝通つた見馴れた町角の眺めよりも、ゆうべ見た怖ろしい夢の記憶のはうが
あざやかなことにも似てゐた。

三島由紀夫「奔馬」より

105 :吾輩は名無しである:2011/02/08(火) 12:28:10
そこでは、本多の耳朶を搏つ「裂帛の」気合は、わづかな裂け目から迸つた少年の魂の
火のやうにきこえてきた。(中略)
それは時といふものが人の心に演じさせるふしぎな真剣な演技だつた。過去の銀にかけた
記憶の微妙な嘘の銹を強ひて剥がさずに、夢や願望の入りまじつた全体の姿を演じ直して、
その演技をたよりに、むかしの自分も意識してゐなかつたもつと深い本質的な自分の姿へ
到達しようとする試みだつた。かつて住んでゐた村を、遠い峠から望み見るやうに、そこに
住んだ経験の細部は犠牲にされても、そこに住んだことの意味は明らかになり、住んでゐた間は
重要なことに思はれた広場の甃の凹みも、遠目にはそこの水たまりの一点の煌きだけに
よつて美しい、何らこだはりのない美になるのであつた。
飯沼少年が最初の雄叫びをあげた瞬間に、かうして三十八歳の裁判官は、その叫び自体が
矢尻のやうに少年の胸深く刺つて残つてゐる、鋭いささくれた痛みにまですぐに思ひ至つた。

三島由紀夫「奔馬」より

106 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 11:44:29
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから
立ち現はれ、手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に
揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、会ひ、
又、離れて、空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに見えるのだつた。
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことが
なかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の頬の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……

三島由紀夫「奔馬」より

107 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 11:45:41
水平線上で海と空とが融け合ふやうに、たしかに夢と現実とは、はるか彼方では融け合つて
ゐることもあらうが、ここでは、少なくとも本多その人の身のまはりでは、人々はみんな
法の下にをり、又、法に護られてゐるにすぎなかつた。本多はこの世の実定法的秩序の
護り手であり、実定法はあたかも重い鉄の鍋蓋のやうに、現世のごつた煮の上に押しかぶさつて
ゐたのである。
『喰べる人間……消化する人間……排泄する人間……生殖する人間……愛したり憎んだり
する人間』
と本多は考へてゐた。それこそ裁判所の支配下にある人間だつた。まかりまちがへばいつでも
被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。嚏をし、笑ひ、
生殖器をぶらぶらさせてゐる人間、……これらが一つの例外もなしにさういふ人間であるならば、
彼が畏れる神秘はどこにもない筈だつた。よしんばその中に一人ぐらゐ、清顕の生れ変りが
隠れてゐても。

三島由紀夫「奔馬」より

108 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 19:42:51
三島はアスペルガーっぽいな

109 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 20:16:46
確かに。どっか平坦なんだよな。

110 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 20:21:25
読点なしと読点ありの連投自演。

111 :吾輩は名無しである:2011/02/11(金) 20:26:38
吊られて間抜けが↓

112 :佃煮マニア:2011/02/11(金) 20:57:47
自演してました。

113 :吾輩は名無しである:2011/02/12(土) 06:38:19
>>109
譲歩の後に自分の意見をいいなさい。
確かに〜、だが〜

114 :吾輩は名無しである:2011/02/13(日) 00:14:15
それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取つてそれを静止させ、すべてを
一枚の地図に変へてしまつたことだらう。それが裁判官といふものであらうか。彼が
「全体像」といふときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物に
すぎぬではないか。『この人は、日本人の血といふことも、道統といふことも、志といふことも、
何もわかりはしないんだ』と少年は思つた。


『全体像だつて』勲は先程の手紙の文句を思ひ出して、ちよつと微笑した。『あの人は
火箸が熱くて触れないといふので、火鉢だけに触らうとしてゐるんだ。しかし火箸と火鉢とは
どこまでもちがふんだがなあ。火箸は金、火鉢は瀬戸物。あの人は純粋だけど、瀬戸物派なんだ』
純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲は
スローガンを拵へた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。

三島由紀夫「奔馬」より

115 :吾輩は名無しである:2011/02/13(日) 00:16:00
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、
正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。


すべての屈折した物言ひ、註釈、「しかしながら」といふ考へ、……さういふものは勲の
理解の外にあつた。思想はまつ白な紙に鮮やかに落された墨痕であり、謎のやうな原典であつて、
飜訳はおろか、批評も註釈もつきやうのないものだつた。


爆弾は一つの譬(たと)へさ。神風連の上野堅吾が、主張して容れられなかつた小銃と
同じことだ。最後は剣だけだよ。それを忘れてはいけない。肉弾と剣だけだよ。

三島由紀夫「奔馬」より

116 :吾輩は名無しである:2011/02/13(日) 23:32:57
オレは日本文学では「豊穣の海」がいちばん好きだ。
でも三島由紀夫のイメージは右翼。
三島は国家なんてものにこだわってないのに。
日本にこだわったのは国家のためじゃなくて自分の世界構築のためだったのに。

117 :吾輩は名無しである:2011/02/14(月) 00:54:03
『春の雪』はともかく『奔馬』『暁の寺』は実に虚しい作品だ。
その格調高い文体には何ら豊潤な感覚が盛られておらず、
世界認識の子供っぽい追求が展開されるばかりである。
『天人五衰』で少し持ち直すが、「豊饒の海」4部作としては
失敗作というよりない。

118 :吾輩は名無しである:2011/02/14(月) 10:18:30
ひたすら明治百年の日本、そして日本語が解体していく三十年間だった、そして現在はその最終段階にある、と思う。
遠からず三島文芸は古典という名の異文化として読まれるだろう。いや、すでに読まれているか。

(三島作品のベストワンは)『豊饒の海』とくに最終巻「天人五衰」。
もしそれを破綻というなら、明治百年の日本の破綻を先取りし、予告している、と考えるべきだろう。

高橋睦郎「アンケート 三島由紀夫と私」より

119 :吾輩は名無しである:2011/02/14(月) 10:41:34
>>116
三島の世界構築は理想の国家観、日本の雅と切り離せないから、こだわってないってことはあり得ないよ。

120 :吾輩は名無しである:2011/02/14(月) 11:26:52
肉体の学校が一番の傑作。

121 :吾輩は名無しである:2011/02/14(月) 17:39:40
>>119
もちろんこだわってたけど、人間の個、「私」の問題を解決の方がはるかに重要。
世界論や国家観があって自分と日本を結びつけたのではなく、個から世界形成して国家に辿りついた。
『豊穣の海』に出てくる仏教哲学を読めばそれがよくわかる。

122 :119:2011/02/14(月) 20:29:54
>>121
そうですね。

123 :吾輩は名無しである:2011/02/16(水) 13:31:41
勲のはうへ向けた目は、やさしく、母性的な慈愛に潤んで、夜の庭の濡れた草木のどこかに
潜んでゐる血の夕映えの残滓を探るやうに、彼を見るとも、彼の背後の庭を見るともない
遠い視線になつた。
「悪い血は瀉血(しやけつ)したらいいんだわ。それでお国の病気が治るかもしれない。
勇気のない人たちは、重い病気にかかつたお国のまはりを、ただうろうろしてゐるだけなのね。
このままではお国が死んでしまふわ」


神風連が戦つたのは、ただ軍隊を相手といふわけではありません。鎮台兵の背後にあつたものは、
軍閥の芽だつたんです。かれらは軍閥を敵として戦つたんです。軍閥は神の軍隊ではなく、
神風連こそ陛下の軍隊だといふ自信を持つてゐたからです。


勲は自分の言葉が未熟なことをよく承知してゐたが、志がその未熟を補つて、焔のやうに
相手の焔と感応することをも信じてゐた。とりわけ今は夏だつた。毛織物のやうな厚い重い
息苦しい熱気の裡に対坐してゐて、何かが爆ければ忽ち火が移り、何もはじまらなければ
そのまま熔けた金属のように、あへなく融け消えてしまひさうに思はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

124 :吾輩は名無しである:2011/02/16(水) 13:32:49
涙は危険な素質である。もしそれが必ずしも理智の衰へと結びついてゐないとしたら。


壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、
褪色して、小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。血も花も、
枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。だからこそ、血と花は名誉へ
転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。


その御目と勲の目が、一瞬、ごく古い鉄の鈴が永らく鳴らずに錆びついてゐたものが、
何かの震動によつて舌がほぐれて、正に鳴らんとして鈴の内側に触れるやうに、触れ合つた。
そのとき宮の御目が何を語つたか勲にもわからなかつたし、宮御自身も御存知ではなかつたで
あらう。しかしその一瞬に交はされたものは、並の愛情を超えたふしぎな結びつきの感情で、
宮の動かぬおん瞳には、何か遠来の悲しみが刹那に迸つて、勲の火のやうな注視を、宮は
その悲しみの水で忽ち消されたやうに思はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

125 :吾輩は名無しである:2011/02/17(木) 22:14:45
「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に
差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が
御空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と
仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒を
つけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が
御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を
切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は
万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに
置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決まつてゐます。これも忠義ではありませうが、
私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に
作つた握り飯を献上することであります」

三島由紀夫「奔馬」より

126 :吾輩は名無しである:2011/02/17(木) 22:18:21
「罪と知りつつ、さうするのか」
「はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合せです。陛下の御命令に従つて命を捨てるのが、
すなはち軍人の忠義だからであります。しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも
罪となることを覚悟せねばなりません」
「法に従へ、といふことは陛下の御命令ではないのか。裁判所といへども、陛下の裁判所である」
「私の申し上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に
生きてゐながら、何もせずに生き永らへてゐることがまづ第一の罪であります。その大罪を
祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵へて献上して、自らの忠心を
行為にあらはして、即刻腹を切ることです。死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、
右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯してゐることに変りはありません」

三島由紀夫「奔馬」より

127 :吾輩は名無しである:2011/02/20(日) 00:07:53.95
同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。思想などではなく、もつと遠いところから来る或るもの、又、もつと明確な
外面的な表徴であつて、しかもこちらにその志がなければ決して見分けられぬ或るもの、
それこそが同志を作る因に相違ない。


寡黙と素朴と明快な笑顔は、多くの場合、信頼のおける性格と、敢為の気性と、それから
死を軽んずる意気とのあらはれであり、弁舌、大言壮語、皮肉な微笑などはしばしば怯惰を
あらはしてゐた。蒼白や病身は、或る場合には、人を凌ぐ狂ほしい精力の源泉だつた。
概して肥つた男は臆病でゐながら慎重を欠き、痩せて論理的な男は直観を欠いてゐた。
顔や外見が実に多くのことを語るのに勲は気づいた。


勲は綱領を作らなかつた。あらゆる悪がわれわれの無力と無為を是認するやうに働らいて
ゐる世なのであるから、どんな行為であれ、行為の決意が、われわれの綱領となるであらう。

三島由紀夫「奔馬」より

128 :吾輩は名無しである:2011/02/20(日) 00:10:35.29
「どうしてみんな帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか」
と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかに
ちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起したやうな感じのする沈黙だつた。
勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、
脈打つてゐた。
「よし。それぢや、のこつた君らは、何の期待も希望も持たずに、何もないかもしれない
ところへ命を賭けようにいふんだな」
「さうです」
と一人の凛々しい声がひびいた。
芦川は立上つて、勲へ一歩歩み寄つた。ずつと顔を寄せなくては見えないほどの闇の中で、
芦川の涙に濡れた目が迫つて来て、涙が咽喉に詰つた、ひどく低い野太い声でかう言つた。
「僕も残ります。どこへでも黙つてついて行きます」
「よし、では神前に誓ひ合はう。二拝二拍手。それから俺が誓ひの言葉をのべる。一つづつ
みんなで唱和してくれ」
勲、井筒、相良とのこる十七人の柏手が、闇の海に白木の船端を叩くやうにあざやかに
整然と響いた。

三島由紀夫「奔馬」より

129 :吾輩は名無しである:2011/02/20(日) 00:11:59.80
勲がかう唱へた。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘(はら)はん」
一同の若々しい声が唱和した。
「ひとつ、われらは神風連の純粋に学び、身を挺して邪神姦鬼を攘はん」
勲の声は、おぼろげな白い社の御扉にぶつかつて反響し、強い深い、悲壮な胸腔から、
若さの夢幻的な霧が噴き上げられるやうに聴かれた。空にはすでに星があつた。市電の響きが
遠く揺れた。彼は重ねて唱へた。
「ひとつ、われらは莫逆の交はりをなし、同志相扶(あひたす)けて国難に赴かん」
「ひとつ、われらは権力をねがはず立身をかへりみず、万死以て維新の礎とならん」
――誓がすむとすぐ、一人が勲の手を握つた。双の手を重ねて握つたのである。それから
二十人がこもごもに手を握り合ひ、又、争つて勲の手を握つた。
目が馴れて、ものの文目が明らかになりかけた星空の下で、手は次々とまだ握らぬ手を求めて、
あちこちでひらめいた。誰も口をきかない。何か言へば軽薄になるからである。

三島由紀夫「奔馬」より

130 :吾輩は名無しである:2011/02/21(月) 11:26:37.94
心の一部はすでにそれが誰であるかを認めてゐる。しかし心の大部分が、今しばしそれが
誰であるかを認めぬままに、保つておきたいと望んでゐる。幽暗に泛ぶ女の顔にはまだ名が
つけられず、名に先立つ匂ひやかな現前がある。それは夜の小径をゆくときに、花を見るより
前(さき)に聞く木犀の香りのやうなものである。勲はさういふものをこそ、一瞬でも永く
とどめておきたい心地がしてゐる。そのときこそ、女は女であり、名づけられた或る人では
ないからだ。
そればかりではない。それは、秘し匿された名によつて、その名を言はぬといふ約束によつて、
あたかも隠された支柱で闇に高く泛んだ夕顔の花のやうに、一そうみごとな精髄に化してゐる。
存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、現はれ漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。
勲はまだ女を抱いたことがなかつたけれども、かうして、いはば、「女に先立つ女」を
ありありと感じるときほど、自分も亦、陶酔の何たるかを確かに知つてゐると強く感じる
ことはなかつた。

三島由紀夫「奔馬」より

131 :吾輩は名無しである:2011/02/21(月) 11:27:40.20
大正初年の、思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の
「英姿」は、今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、
今では、個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくづしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内奥の核をなしてゐたのだらうか。あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の塵が
降り積つたにすぎぬのだらうか。


清顕において、本当に一回的(アインマーリヒ)なものは、美だけだつたのだ。その余のものは、
たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求(ききう)したのだ。清顕において叶へられなかつたもの、
彼にすべて負数の形でしか賦与されてゐなかつたもの……
もう一人の若者の顔は、夏の日にきらめく剣道の面金を脱ぎ去つて、汗に濡れ、烈しく息づく
鼻翼を怒らせ、刃を横に含んだやうな唇の一線を示して現はれた。

三島由紀夫「奔馬」より

132 :吾輩は名無しである:2011/02/23(水) 23:18:11.78
蔵原は何かこの国の土や血と関はりのない理智によつて悪なのであつた。それかあらぬか、
勲は蔵原についてほとんど知らないのに、その悪だけははつきりと感じることができた。
ひたすらイギリスとアメリカに気を兼ねて、一挙手一投足に色気をにじませて、柳腰で歩く
ほかに能のない外務官僚。私利私慾の悪臭を立て、地べたを嗅ぎ廻つて餌物をあさる巨大な
蟻喰ひのやうな財界人。それ自ら腐肉のかたまりになつた政治家たち。出世主義の鎧で
兜虫のやうに身動きならなくなつた軍閥。眼鏡をかけたふやけた白い蛆虫のやうな学者たち。
満州国を妾の子同然に眺めながら、早くも利権あさりに手をのばしかけてゐる人々。……
そして広大な貧窮は地平の朝焼けのやうに空に反映してゐた。
蔵原はかういふ惨澹たる風景画の只中に、冷然と置かれた一個の黒い絹帽(シルク・ハット)だつた。
彼は無言で人々の死を望み、これを嘉してゐた。
悲しめる日、白く冷え冷えとした日輪は、いささかの光りの恵みも与へることができず、
それでも、朝毎に憂はしげに昇つて空をめぐつた。それこそは陛下の御姿だつた。誰が再び、
太陽の喜色を仰がうと望まぬ筈があらうか?

三島由紀夫「奔馬」より

133 :吾輩は名無しである:2011/02/23(水) 23:20:05.47
勲の百合は?
留守中に捨てられたりせぬやうに、彼はそれを一輪差に活けて、硝子の戸のついた本棚の中に
納めてゐた。はじめは毎日水を換へてゐたのが、このごろは忘れて、水換へを怠つてゐることを
勲は愧(は)ぢた。観音開きの硝子戸をあけ、数冊の本を引き出して覗き込んだ。百合は
闇のなかにうなだれてゐる。
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。そつと指を
触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに青みを残してゐる茎を
離れるにちがひない。それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、不朽の
つややかな百合がそこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。
しかし依然として、そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。
かつてここに注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。唇と百合とが、まるで黎明と尾根とが触れるやうに
触れ合はねばならない。

三島由紀夫「奔馬」より

134 :吾輩は名無しである:2011/02/23(水) 23:21:03.51
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思つた。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。俺が自刃するときには、
昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、俺の血の匂ひを百合の薫で
浄めてくれるにちがひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあらうか』


神が辞(いな)んでをられるのではない。拒否も亦、明瞭ではないのである。
それは何を意味するのだらうと勲は考へた。今ここに、いづれも廿歳に充たない若さに
溢れた者どもが、熱烈にきらめく注視を勲の一身に鍾(あつ)め、その勲は高い絶壁の上の
神聖な光りを見上げてゐる。事態はここまで迫り、機はここまで熟してゐる。何かが
現はれねばならぬ。しかも、神は肯ふとも辞むともなく、この地上の不決断と不如意を
そのまま模したやうに、高空の光りのなかで、神の御御足(おみあし)からなほざりに
脱げた沓のやうに、決定は放棄されてゐるのである。

三島由紀夫「奔馬」より

135 :吾輩は名無しである:2011/02/24(木) 10:09:20.30
読みたい

136 :吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 12:03:42.79
「豊饒の海」は、いわば本質的に強烈な挑戦をふくんだ作品であり、今なお解きほごしがたい数々の謎と
問題をはらんで、ぼくらの前に屹立している。

佐伯彰一

137 :吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 17:21:23.65
勲の心には暗い滝が落ちた。自尊心がゆつくりと切り刻まれてゐた。彼が今差当つて大切にして
ゐるのは自尊心ではなかつたから、それだけに見捨てられてゐる自尊心が、紛らしやうのない
痛みで報いた。その痛みの彼方に、雲間の清澄な夕空のやうな「純粋」が泛んでゐた。
彼は祈るやうに、暗殺されるべき国賊どもの顔を夢みた。彼が孤立無援に陥れば陥るほど、
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。こちらは
いよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)のやうになつた。
それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど信じがたいものに
してしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向う側のグロテスクな現実性に源してゐた。
奴らを殺すとき、奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、そのとき
はじめて世界の修理固成が可能になるだらう。それまでは……。

三島由紀夫「奔馬」より

138 :吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 17:21:53.58
明るい軽信の井筒、小柄で眼鏡をかけた機敏な相良、東北の神官の息子でいかにも少年らしい芦川、
寡黙でしかも剽軽なところのある長谷川、律儀で絶壁頭の三宅、昆虫のやうな暗い固い乾いた
顔つきの宮原、文学好きで天皇崇敬家の木村、いつも激してゐながら黙りこくつてゐる藤田、
肺疾ながら岩乗な肩幅を持つた高瀬、柔道二段で柔和に見える大男の井上、……これが
選り抜かれた本当の同志だつた。死を賭するといふことが何を意味するか知つてゐる若者たち
だけが残つたのだ。
勲はそこに、この薄暗い電灯の下、黴くさい畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽(くづ)れ
かけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。
この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を
倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。

三島由紀夫「奔馬」より

139 :吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 11:27:38.71
佐和は壁に向つて、猫のやうに背を丸めて身構へた。
見てゐる勲は、さうして体ごとぶつかる前には、いくつもの川を飛び越えて行く必要があらうと
察した。人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。あの工場の廃液が、
崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。
さうだ。跳込み面だ。竹刀をかざした体が、見えない壁をしらぬ間につきぬけて、向う側へ
出てゐるあれだ。感情のすばらしい迅速な磨滅が火花を放つ。敵は当然のやうに、刃の先に、
重たく、自分から喰ひついて来る筈だ。藪を抜けておのづから袂についたゐのこづちのやうに、
暗殺者の着物にはいつのまにか血が点々とついてゐる筈だ。……


左翼の奴らは、弾圧すればするほど勢ひを増して来てゐます。日本はやつらの黴菌に蝕まれ、
また蝕まれるほど弱い体質に日本をしてしまつたのは、政治家や実業家です。


恋も忠も源は同じであつた。

三島由紀夫「奔馬」より

140 :吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 11:27:58.76
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。野蛮人が
病気よりも医薬を怖れるやうに。


『何故なんだ、何故なんだ』と勲は歯噛みをして思つた。『人間にはどうしてもつとも
美しい行為が許されてゐないんだ。醜い行為や、薄汚れた行為や、利のためにする行為なら、
いくらでも許されてゐるといふのに。
殺意の中にしか最高の道徳的なものがひそんでゐないことが明らかな時、その殺意を
罪とする法律が、あの無染の太陽、あの天皇の御名によつて施行されてゐるといふことは、
(最高の道徳的なもの自体が最高の道徳的存在によつて罰せられるといふことは、)一体
誰がことさら仕組んだ矛盾だらうか。陛下は果してこんな怖ろしい仕組を御存知だらうか。
これこそは精巧な《不忠》が手間暇かけて作り上げた涜神の機構ではないだらうか。

三島由紀夫「奔馬」より

141 :吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 11:28:24.50
俺にはわからない。俺にはわからない。どうしてもわからない。しかも殺戮のあと、直ちに
自刃する誓にそむく者は、誰一人ゐなかつた筈だ。さうなつてゐれば、われらは裾の端、
袖の片端でも、あの煩瑣な法律の藪の、下枝の一葉にさへ触れることなく、みごとに藪を
すり抜けて、まつしぐらにかがやく天空へ馳せのぼることができた筈だ。神風連の人々は
さうだつた。もつとも明治六年の法律の藪はまだ疎らだつたにちがひないが……。
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに
穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで人生を
送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。ごく少数の異常な純粋、
この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の《悪》へ
おとしめようとする機構なのだ。その巧妙な罠へ俺は落ちた。他ならぬ誰かの裏切りによつて!』

三島由紀夫「奔馬」より

142 :吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 00:27:45.26
しかし、よくこれだけ飽きもせず、引用できるよなあ。
よっぽど三島の文体に惚れこんでいるんだなあ。
なにか哀れを感じるなあ。

143 :吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 11:00:54.66
↑と、三島コンプレックスの哀れなやつが三島に嫉妬して

144 :吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 11:05:09.42
香煙が流れてきた。鉦や笛のひびきがして、窓外を葬列が通るらしかつた。人々の忍び泣きの
声が洩れた。しかし、夏の午睡の女の喜びは曇らなかつた。肌の上にあまねく細かい汗を
にじませ、さまざな官能の記憶を蓄へ、寝息につれてかすかにふくらむ腹は、肉のみごとな
盈溢を孕んだ帆のやうである。その帆を内から引きしめる臍には、山桜の蕾のやうなやや
鄙びた赤らみが射して、汗の露の溜つた底に小さくひそかに籠り居をしてゐる。美しく
はりつめた双の乳房は、その威丈高な姿に、却つて肉のメランコリーが漂つてみえるのだが、
はりつめて薄くなつた肌が、内側の灯を透かしてゐるかのやうに、照り映えてゐる。
肌理のこまやかさが絶頂に達すると、環礁のまはりに寄せる波のやうに、けば立つて来るのは
乳暈のすぐかたはらだった。乳暈は、静かな行き届いた悪意に充ちた蘭科植物の色、人々の口に
含ませるための毒素の色で彩られてゐた。その暗い紫から、乳頭はめづらかに、栗鼠のやうに
小賢しく頭をもたげてゐた。それ自体が何か小さな悪戯のやうに。

三島由紀夫「奔馬」より

145 :吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 11:05:40.22
一寸やはらげれば別物になつてしまひます。その『一寸』が問題なんです。純粋性には、
一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、
もはや私たちの思想ではなくなるのです。


居並ぶ若い被告たちの中でも、とりわけ美しく凛々しく澄んだ勲の目へ、本多は心で呼びかけた。
事件を知つたとき、こよなくふさはしく思はれたその眥(まなじり)を決した目は、ふたたび
この場に不釣合な、ふさはしからぬものに思はれた。
『美しい目よ』と本多は呼んだ。『澄んで光つて、いつも人をたぢろがせ、丁度あの
三光の滝の水をいきなり浴びせられるやうに、この世のものならぬ咎めを感じさせる若者の
無双の目よ。何もかも言ふがよい。何もかも正直に言つて、そして思ふさま傷つくがいい。
お前もそろそろ身を守る術を知るべき年齢だ。何もかも言ふことによつて、最後にお前は、
《真実が誰によつても信じてもらへない》といふ、人生にとつてもつとも大切な教訓を
知るだらう。そんな美しい目に対して、それが私の施すことのできる唯一の教育だ』

三島由紀夫「奔馬」より

146 :吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 11:33:28.87
事故マンきもい

147 :吾輩は名無しである:2011/03/02(水) 00:27:39.50
三島厨って、ホントあほだな。

148 :吾輩は名無しである:2011/03/02(水) 13:33:06.34
現在の日本をここまでおとしめたのは、政治家の罪ばかりでなく、その政治家を私利私慾のために
操つてゐる財閥の首脳に責任があると、深く考へるやうになりました。
しかし、私は決して左翼運動に加はらうとは思ひませんでした。左翼は畏れ多くも陛下に
敵対し奉らうとする思想であります。古来日本は、すめらみことをあがめ奉り、陛下を
日本人といふ一大家族の家長に戴いて相和してきた国柄であり、ここにこそ皇国の真姿があり、
天壌無窮の国体があることは申すまでもありません。
では、このやうに荒廃し、民は飢ゑに泣く日本とは、いかなる日本でありませいか。
天皇陛下がおいでになるのに、かくまで澆季末世になつたのは何故でありませうか。君側に
侍する高位高官も、東北の寒村で飢ゑに泣く農民も、天皇の赤子たることには何ら渝(かは)りが
ないといふのが、すめらみくにの世界に誇るべき特色ではないでせうか。陛下の大御心によつて、
必ず窮乏の民も救はれる日が来るといふのが、私のかつての確信でありました。

三島由紀夫「奔馬」より

149 :吾輩は名無しである:2011/03/02(水) 13:33:32.98
日本および日本人は、今やや道に外れてゐるだけだ。時いたれば、大和心にめざめて、
忠良なる臣民として、挙国一致、皇国を本来の姿に戻すことができる、といふのが、私の
かつての希望でありました。天日をおほふ暗雲も、いつか吹き払はれて、晴れやかな
明るい日本が来る筈だ、と信じてをりました。
が、それはいつまで待つても来ません。待てば待つほど、暗雲は濃くなるばかりです。
そのころのことです、私が或る本を読んで啓示に打たれたやうに感じたのは。
それこそ山尾綱紀先生の「神風連史話」であります。これを読んでのちの私は、以前の私と
別人のやうになりました。今までのやうな、ただ座して待つだけの態度は、誠忠の士の
とるべき態度ではないと知つたのです。私はそれまで、「必死の忠」といふことがわかつて
ゐなかつたのです。忠義の焔が心に点火された以上、必ず死なねばならぬといふ消息が
わからなかつたのです。

三島由紀夫「奔馬」より

150 :吾輩は名無しである:2011/03/07(月) 19:51:46.32
あそこに太陽が輝いてゐます。ここからは見えませんが、身のまはりの澱んだ灰色の光りも、
太陽に源してゐることは明らかですから、たしかに天空の一角に太陽は輝いてゐる筈です。
その太陽こそ、陛下のまことのお姿であり、その光りを直に身に浴びれば、民草は歓喜の
声をあげ、荒蕪の地は忽ち潤うて、豊葦原瑞穂国の昔にかへることは必定なのです。
けれど、低い暗い雲が地をおほうて、その光りを遮つてゐます。天と地はむざんに分け
隔てられ、会へば忽ち笑み交はして相擁する筈の天と地とは、お互ひの悲しみの顔をさへ
相見ることができません。地をおほふ民草の嗟嘆の声も、天の耳に届くことがありません。
叫んでも無駄、泣いても無駄、訴へても無駄なのです。もしその声が耳に届けば、天は
小指一つ動かすだけでその暗雲を払ひ、荒れた沼地をかがやく田園に変へることができるのです。

三島由紀夫「奔馬」より

151 :吾輩は名無しである:2011/03/07(月) 19:52:05.49
誰が天へ告げに行くのか? 誰が使者の大役を身に引受けて、死を以て天へ昇るのか? 
それが神風連の志士たちの信じた宇気比(うけひ)であると私は解しました。
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、何か
決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、
身命を賭さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。
もちろん大ぜいの人手と武力を借りて、暗雲の大掃除をしてから天へ昇るといふことも
考へました。が、さうしなくてもよいといふことが次第にわかりました。神風連の志士たちは、
日本刀だけで近代的な歩兵営に斬り込んだのです。雲のもつとも暗いところ、汚れた色の
もつとも色濃く群がり集まつた一点を狙へばよいのです。力をつくして、そこに穴をうがち、
身一つで天に昇ればよいのです。

三島由紀夫「奔馬」より

152 :吾輩は名無しである:2011/03/09(水) 00:20:05.40
私は人を殺すといふことは考へませんでした。ただ、日本を毒してゐる凶々しい精神を
討ち滅ぼすには、それらの精神が身にまとうてゐる肉体の衣を引き裂いてやらねばなりません。
さうしてやることによつて、かれらの魂も亦浄化され、明く直き大和心に還つて、私共と
一緒に天へ昇るでせう。その代り、私共も、かれらの肉体を破壊したあとで、ただちに
いさぎよく腹を切つて、死ななければ間に合はない。なぜなら、一刻も早く肉体を捨てなければ、
魂の、天への火急のお使ひの任務が果せぬからです。
大御心を揣摩することはすでに不忠です。忠とはただ、命を捨てて、大御心に添はんと
することだと思ひます。暗雲をつんざいて、昇天して、太陽の只中へ、大御心の只中へ
入るのです。
……以上が、私や同志の心に誓つてゐたことのすべてであります。

三島由紀夫「奔馬」より

153 :吾輩は名無しである:2011/03/09(水) 00:20:30.58
「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によつて罰せられたわけですね。……どうか
幻でないものがほしいと思ひます」
「大人になればそれが手に入るのだよ」
「大人になるより、……さうだ、女に生れ変つたらいいかもしれません。女なら、幻など
追はんで生きられるでせう、母さん」
勲は亀裂が生じたやうに笑つた。
「何を言ふんです。女なんかつまりませんよ。莫迦だね。酔つたんだね、そんなこと言つて」
みねは怒つたやうにさう答へた。


酔ひに赤らんだ勲の寝顔は苦しげに荒々しく息づいてゐたが、眠つてゐるあひだも、眉は
凛々しく引締めてゐた。突然、寝返りを打ちながら、勲が大声で、しかし不明瞭に言ふ寝言を
本多は聴いた。
「ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……」

三島由紀夫「奔馬」より

154 :吾輩は名無しである:2011/03/09(水) 00:20:53.14
勲は湿つた土の上に正座して、学生服の上着を脱いだ。内かくしから白鞘の小刀をとり出した。
それが確かに在つたといふことに、全身がずり落ちるやうな安堵を感じた。
学生服の下には毛のシャツとアンダー・シャツを着てゐたが、海風の寒さが、上着を
脱ぐやいなや、身を慄はせた。
『日の出には遠い。それまで待つことはできない。昇る日輪はなく、けだかい松の樹蔭もなく、
かがやく海もない』
と勲は思つた。
シャツを悉く脱いで半裸になると、却つて身がひきしまつて、寒さは去つた。ズボンを寛げて、
腹を出した。小刀を抜いたとき、蜜柑畑のはうで、乱れた足音と叫び声がした。
「海だ。舟で逃げたにちがひない」
といふ甲走る声がきこえた。
勲は深く呼吸して、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、
左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。

三島由紀夫「奔馬」より

155 :吾輩は名無しである:2011/03/16(水) 11:29:48.68
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。あの夕焼の
花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふたはごとも
忽ち色褪せてしまひます。現前するものがすべてであり、空気は色彩の毒に充ちてゐます。
何がはじまつたのか? 何もはじまりはしない。ただ、終るだけです。
そこには本質的なものは何一つありません。なるほど夜には本質がある。それは宇宙的な本質で、
死と無機的な存在そのものだ。昼にも本質がある。人間的なものすべては昼に属してゐるのです。
夕焼の本質などといふものはありはしません。ただそれは戯れだ。あらゆる形態と光りと色との、
無目的な、しかし厳粛な戯れだ。ごらんなさい、あの紫の雲を。自然は紫などといふ色の
椀飯振舞をすることはめつたにないのです。

三島由紀夫「暁の寺」より

156 :吾輩は名無しである:2011/03/16(水) 11:30:18.15
社会正義を自ら代表してゐるやうな顔をしながら、それ自体が売名であるところの、
貧しい弁護士などといふのは滑稽な代物だつた。本多は法の救済の限度をよく心得てゐた。
本当のことをいへば、弁護士に報酬も払へないやうな人間に法を犯す資格はない筈なのに、
多くの人々はあやまつて必要から或ひは愚かしさから法を犯すのであつた。
時として、広大な人間性に、法といふ規矩を与へることほど、人間の思ひついたもつとも
不遜な戯れはない、と思はれることもあつた。犯罪が必要や愚かしさから生れがちなら、
法の基礎をなす習俗(ジッテ)もさうだとは云へないだらうか?


時代が驟雨のやうにざわめき立つて、数ならぬ一人一人をも雨滴で打ち、個々の運命の小石を
万遍なく濡らしてゆくのを、本多はどこにも押しとどめる力のないことを知つてゐた。が、
どんな運命も終局的に悲惨であるかどうかは定かではなかつた。歴史は、つねに、ある人々の
願望にこたへつつ、別のある人々の願望にそむきつつ、進行する。いかなる悲惨な未来と
いへども、万人の願ひを裏切るわけではない。

三島由紀夫「暁の寺」より

157 :吾輩は名無しである:2011/03/16(水) 21:55:43.54
きもいきもいきもい

158 :吾輩は名無しである:2011/03/19(土) 21:06:00.09
母親がこれの初版を持っているらしいのですが、
これって売ったらいくらぐらいになりますか?
プレミアが付くなら売ろうかと言っていたので、
相場を知っている方がいらっしゃいましたら宜しくお願いします。

159 :吾輩は名無しである:2011/03/22(火) 12:09:24.85
本多は自分が決して美しい青年ではなかつたことを知つてゐたから、こんな不透明な年齢の
外被が満更ではなかつた。
それに現在の彼は、青年に比べれば、はるかに確実に未来を所有してゐた。何かにつけて
青年が未来を喋々するのは、ただ単に彼らがまだ未来をわがものにしてゐないからにすぎない。
何事かの放棄による所有、それこそは青年の知らぬ所有の秘訣だ。


天変地異は別として、歴史的生起といふものは、どんなに不意打ちに見える事柄であつても、
実はその前に永い逡巡、いはば愛を受け容れる前の娘のやうな、気の進まぬ気配を伴ふのである。
こちらの望みにすぐさま応へ、こちらの好みの速度で近づいてくる事柄には、必ず作り物の
匂ひがあつたから、自分の行動を歴史的法則に委ねようとするなら、よろづに気の進まぬ態度を
持するのが一番だつた。欲するものが何一つ手に入らず、意志が悉く無効にをはる例を、
本多はたくさん見すぎてゐた。ほしがらなければ手に入るものが、欲するが為に手に入らなく
なつてしまふのだ。

三島由紀夫「暁の寺」より

160 :吾輩は名無しである:2011/03/22(火) 12:09:47.25
日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを
怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風な
アジア主義たちからも喜ばれてゐた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニと
ではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話と古事記との
同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だつたのである。
本多はもちろんさういふロマンティックな偏見には服しなかつたが、時代が身も慄へるほど
何かに熱して、何かを夢見てゐることは明らかだつた。


十九歳の少年が自分の性格に対して抱く本能的な危惧は、場合によつてはおそろしく正確な
予見になる。


狷介な日本、緋縅(ひをどし)の若武者そのままに矜り高く、しかも少年のやうに
傷つきやすい日本は、人に嘲笑されるより先に自ら進んで挑み、人に蔑されるより先に自ら
進んで死んだ。勲は、清顕とはちがつて、正にこのやうな世界の核心に生き、かつ、霊魂を
信じてゐた。

三島由紀夫「暁の寺」より

161 :吾輩は名無しである:2011/03/22(火) 12:10:25.73
もし生きようと思へば、勲のやうに純粋を固執してはならなかつた。あらゆる退路を自ら絶ち、
すべてを拒否してはならなかつた。
勲の死ほど、純粋な日本とは何だらうといふ省察を、本多に強ひたものはなかつた。すべてを
拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもつとも
生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に
「日本」と共に生きる道はないのではなからうか? 誰もが怖れてそれを言はないが、
勲が身を以て、これを証明したのではなからうか?
思へば民族のもつとも純粋な要素には必ず血の匂ひがし、野蛮の影が射してゐる筈だつた。
世界中の動物愛護家の非難をものともせず、国技の闘牛を保存したスペインとちがつて、
日本は明治の文明開化で、あらゆる「蛮風」を払拭しようと望んだのである。その結果、
民族のもつとも生々しい純粋な魂は地下に隠れ、折々の噴火にその兇暴な力を揮つて、
ますます人の忌み怖れるところとなつた。
いかに怖ろしい面貌であらはれようと、それはもともと純白な魂であつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

162 :吾輩は名無しである:2011/03/22(火) 12:10:51.99
しかし霊魂を信じた勲が一旦昇天して、それが又、善因善果にはちがひないが、人間に
生れかはつて輪廻に入つたとすると、それは一体何事だらう。
さう思へばさう思ひなされる兆もあるが、死を決したころの勲は、ひそかに「別の人生」の
暗示に目ざめてゐたのではないだらうか。一つの生をあまりにも純粋に究極的に生きようと
すると、人はおのづから、別の生の存在の予感に到達するのではなからうか。


死にぎはの勲の心が、いかに仏教から遠からうと、このやうな関はり方こそ、日本人の
仏教との関はり方を暗示してゐると本多には思はれた。それはいはばメナムの濁水を、
白絹の漉袋(こしぶくろ)で漉したのである。


清顕や勲の生涯が示した未成熟の美しさに比べれば、芸術や芸術家の露呈する未成熟、それを
以てかれらの仕事の本質としてゐる未成熟ほど、醜いものはないといふのが本多の考へだつた。
かれらは八十歳までそれを引きずつて歩くのだ。いはば引きずつてゐる襁褓(むつき)を
売物にして。
さらに厄介なのは贋物の芸術家で、えもいはれぬ昂然としたところが、独特の卑屈さと
入りまじつて、怠け者特有の臭気があつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

163 :吾輩は名無しである:2011/03/27(日) 19:17:32.18
>>158
直筆サインなどの付加価値がないとプレミアはつかないと思います。

164 :吾輩は名無しである:2011/03/30(水) 19:37:20.43
酒がすこしづつ酢に、牛乳がすこしづつヨーグルトに変つてゆくやうに、或る放置されすぎた
ものが飽和に達して、自然の諸力によつて変質してゆく。人々は永いこと自由と肉慾の過剰を
怖れて暮してゐた。はじめて酒を抜いた翌朝のさはやかさ、自分にはもう水だけしか要らないと
感じることの誇らしさ。……さういふ新らしい快楽が人々を犯しはじめてゐた。さういふものが
人々をどこへ連れて行くかは、本多にはおよそのところがつかめてゐた。それはあの勲の
死によつて生れた確信であつた。純粋なものはしばしば邪悪なものを誘発するのだ。


インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦に
つながつてゐた! 本多はこのやうな喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、
究極のものを見てしまつた以上、それから二度と癒やされないだらうと感じられた。
あたかもベナレス全体が神聖な癩にかかつてゐて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に
犯されたかのやうに。

三島由紀夫「暁の寺」より

165 :吾輩は名無しである:2011/03/30(水) 19:37:51.96
成功にあれ失敗にあれ、遅かれ早かれ、時がいづれは与へずにはおかぬ幻滅に対する先見は、
ただそのままでは何ら先見ではない。それはありふれたペシミズムの見地にすぎぬからだ。
重要なのは、ただ一つ、行動を以てする、死を以てする先見なのだ。勲はみごとにこれを果した。
そのやうな行為によつてのみ、時のそこかしこに立てられた硝子の障壁、人の力では決して
のりこえられぬその障壁の、向う側からはこちら側を、こちら側からは向う側を、等分に
透かし見ることが可能になるのだ。渇望において、憧憬において、夢において、理想において、
過去と未来とが等価になり同質になり、要するに平等になるのである。


歴史は決して人間意志によつては動かされぬが、しかも人間意志の本質は、歴史に敢て
関はらうとする意志だ、といふ考へこそ、少年時代以来一貫して渝らぬ本多の持説であつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

166 :吾輩は名無しである:2011/03/30(水) 23:54:12.93
天皇って意味なくね?

167 :吾輩は名無しである:2011/03/31(木) 01:59:34.44
>>166 頼まれれば誰でも大臣を認証しちゃう潔さは
国民みんなが学ぶべき姿勢だね。

おじいさんが福島県知事だったんだな。

168 :吾輩は名無しである:2011/04/11(月) 10:53:00.56
本多は、輪廻転生を、一つの灯明の譬を以て説き、その夕べの焔、夜ふけの焔、夜の
ひきあけに近い時刻の焔は、いづれもまつたく同じ焔でもなければ、さうかと云つて別の
焔でもなく、同じ灯明に依存して、夜もすがら燃えつづけるのだ、といふナーガセーナの説明に
えもいはれぬ美しさを感じた。緑生としての個人の存在は、実体的存在ではなく、この
焔のやうな「事象の連続」に他ならない。
そして又、ナーガセーナは、はるかはるか後世になつてイタリアの哲学者が説いたのと
ほとんど等しく、
「時間とは輪廻の生存そのものである」
と教へるのであつた。


生は活動してゐる。阿頼耶識が動いてゐる。この識は総報の果体であり、一切の活動の
結果である種子(しゆうじ)を蔵(をさ)めてゐるから、われわれが生きてゐるといふことは、
畢竟、阿頼耶識が活動してゐることに他ならぬのであつた。
その識は滝のやうに絶えることなく白い飛沫を散らして流れてゐる。つねに滝は目前に見えるが、
一瞬一瞬の水は同じではない。水はたえず相続転起して、流動し、繁吹を上げてゐるのである。

三島由紀夫「暁の寺」より

169 :吾輩は名無しである:2011/04/11(月) 10:53:23.22
阿頼耶識はかくて有情総報の果体であり、存在の根本原因なのであつた。たとへば人間としての
阿頼耶識が現行するといふことは、人間が現に存在するといふことにほかならない。
阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識の根が、
すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐるのだ。その世界は、肉体(五根)と
自然界(器世界)と種子(物質・精神あらゆるものを現行させるべき潜勢力)とから
成立つてゐる。われわれが我執にとらはれて考へる実体としての自我も、われわれが死後に
つづくと考へる霊魂も、一切諸法を生ずる阿頼耶識から生じたものであれば、一切は
阿頼耶識に帰し、一切は識に帰するのだ。
しかるに、唯識の語から、何かわれわれが、こちら側に一つの実体としての主観を考へ、
そこに映ずる世界をすべてその所産と見なす唯心論を考へるならば、それはわれわれが、
我と阿頼耶識を混同したのだと言はねばならない。なぜなら、常数としての我は一つの不変の
実在であらうが、阿頼耶識は一瞬もとどまらない「無我の流れ」だからである。

三島由紀夫「暁の寺」より

170 :吾輩は名無しである:2011/04/11(月) 11:03:53.85
第七識までがすべて世界を無であると云ひ、あるひは五蘊悉く滅して死が訪れても、
阿頼耶識があるかぎり、これによつて世界は存在する。一切のものは阿頼耶識によつて存し、
阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
しかし世界は存在しなければならないのだ!
従つて、阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、
不断に奔逸し激動してゐるのである。
世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。
世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
しかし、なぜ?
なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされる
からである。
世界が存在しなければならぬ、といふことは、かくて、究極の道徳的要請であつたのだ。
それが、なぜ世界は存在する必要があるのだ、といふ問に対する、阿頼耶識の側からの
最終の答である。

三島由紀夫「暁の寺」より

171 :吾輩は名無しである:2011/04/11(月) 11:04:14.30
もし迷界としての世界の実有が、究極の道徳的要請であるならば、一切諸法を生ずる
阿頼耶識こそ、その道徳的要請の源なのであるが、そのとき、阿頼耶識と世界は、すなはち、
阿頼耶識と、染汚法の形づくる迷界は、相互に依拠してゐると云はなければならない。
なぜなら、阿頼耶識がなければ世界は存在しないが、世界が存在しなければ阿頼耶識は自ら
主体となつて輪廻転生をするべき場を持たず、従つて悟達への道は永久に閉ざされることに
なるからである。
最高の道徳的要請によつて、阿頼耶識と世界は相互に依為し、世界の存在の必要性に、
阿頼耶識も亦、依拠してゐるのであつた。
しかも現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識で
あるならば、同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の
交はる一点に存在するのである。
ここに、唯識論独特の同時更互因果の理が生ずる、と本多は辛うじて理解した。

三島由紀夫「暁の寺」より

172 :吾輩は名無しである:2011/04/11(月) 11:04:31.44
われわれの世界構造は、いはば阿頼耶識の種子を串にして、そこに無限の数の刹那の横断面を、
すなはち輪切りにされた胡瓜の薄片を、たえずいそがしく貫ぬいては捨て、貫ぬいては
捨てるやうな形になつてゐるのである。
輪廻転生は人の生涯の永きにわたつて準備されて、死によつて動きだすものではなくて、
世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであつた。
かくて種子は一瞬一瞬、この世界といふ、巨大な迷ひの華を咲かせ、かつ華を捨てつつ
相続されるのであるが、種子が種子を生ずるといふ相続には、前にも述べたやうに、業種子の
助縁が要る。この助縁をどこから得るかといふのに、一瞬間の現行の熏に依るのである。
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……

三島由紀夫「暁の寺」より

173 :吾輩は名無しである:2011/04/15(金) 10:48:26.25
生きてゐる人間が純粋な感情を持続したり代表したりするなんて冒涜的なことです。


彼女は本多の物語を聴くときと同様、自分の肉体がたえず語りかける言葉を、いい加減に
聞き流してゐるやうに見えた。あまり大きくてあまり黒い瞳が、知的なものを通りすぎ、
何だか盲目のやうに見える。形態のふしぎ。ジン・ジャンが本多の前で、さうした、いくらか
強すぎる芳香を放つやうな感じのする肉を保つてゐるのは、ここ日本までたえず影響を
及ぼしてくる遠い密林の暈気のおかげであり、人が血筋と呼んでゐるものは、どこまでも
追ひかけてくる深い無形の声のやうな気がする。ある場合は熱い囁きになり、ある場合は
嗄れた叫びになるその声こそは、あらゆる美しい肉の形態の原因であり、又、その形が
惹き起す魅惑の源泉なのだ。


この世には道徳よりもきびしい掟がある、と本多が感じるのはその時だつた。ふさはしく
ないものは、決して人の夢を誘はず、人の嫌悪をそそるといふだけで、すでに罰せられてゐた。

三島由紀夫「暁の寺」より

174 :吾輩は名無しである:2011/04/15(金) 10:48:46.21
ただ自足してゐなくて、不安に充ち、さりとてすでに無知ではない。知りうることと
知りえないこととの境界を垣間見たといふだけで、すでに無知ではない。そして不安こそ、
われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。本多はすでに清顕と勲の人生に立会ひ、
手をさしのべることの全く無意味な、運命の形姿をこの目で見たのだつた。それは全く、
欺されてゐるやうなものだつた。生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺に
かけられてゐるやうなものだつた。そして人間存在とは? 人間存在とは不如意だ、
といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。
さるにても、生の絶対の受身の姿、尋常では見られない生のごく存在論的な姿、さういふものに
本多は魅せられすぎ、又さういふものでなくては生ではないといふ、贅沢な認識に染まり
すぎてゐた。彼は誘惑者の資格を徹底的に欠いてゐた。なぜなら、誘惑し欺すといふことは、
運命の見地からは徒爾だつたし、誘惑するといふ意志そのものが徒爾だつたからである。

三島由紀夫「暁の寺」より

175 :吾輩は名無しである:2011/04/15(金) 10:49:08.53
純粋に運命自体によつてだけ欺されてゐる生の姿以外に、生はない、と考へるとき、どうして
われわれの介入が可能であらう。そのやうな存在の純粋なすがたを、見ることさへどうして
できよう。さしあたつては、その不在においてだけ、想像力で相渉るほかはない。一つの
宇宙の中に自足してゐるジン・ジャン、それ自体が一つの宇宙であるジン・ジャンは、
あくまでも本多と隔絶してゐなければならない。彼女はともすると一種の光学的存在であり、
肉体の虹なのであつた。顔は赤、首筋は橙いろ、胸は黄、腹は緑、太腿は青、脛は藍、
足の指は菫いろ、そして顔の上部には見えない赤外線の心と、足の蹈まへる下には見えない
紫外線の記憶の足跡と。……そしてその虹の端は、死の天空へ融け入つてゐる。死の空へ
架ける虹。知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、
エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫「暁の寺」より

176 :吾輩は名無しである:2011/04/15(金) 10:49:48.23
自分の中ですでに公然と理性を汚辱してゐた彼が、危険をかへりみない、といふことは
ありえない。なぜなら、真の危険を犯すものは理性であり、その勇気も理性からだけ
生れるからだ。


慶子は急に何か思ひついたやうに、手提から固形香水をとりだして、翡翠の耳飾りを
垂らした耳朶にこすりつけた。
これが何かの合図になつたみたいに、ロビーの灯火がのこらず消えた。
「ちえつ、停電だ」
と克己の声が言つた。停電のときに、停電だと言つて、一体それが何になるのだらう、
と本多は思つた。怠惰の言訳としてしか言葉を使はぬ人間がゐるものだ。


あの目なしには、今西と椿原夫人の結びつきには、贋物の匂ひが拭はれず、野合の負け目が
除かれぬ。あれこそはもつとも威ある媒酌人の目だつたからだ。寝室の薄闇の一隅に
光つてゐたあの女神のやうな犀利な瞳こそ、結びつけながら拒絶し、ゆるしながら蔑む
証人の目、この世のどこかに安置されてゐる或る神秘な正義の、いやいやながらの承認を
司る目なのであつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

177 :吾輩は名無しである:2011/04/17(日) 11:22:44.17
必要から生れたものには、必要の苦さが伴ふ。この想像力には甘美なところがみぢんもなかつた。
もし事実の上に立つて羽搏く想像力なら、心をのびやかにひろげることもあらうに、事実へ
無限に迫らうとする想像力は、心を卑しくさせ、涸渇させる。ましてその「事実」が
なかつたとしたら、その瞬間にすべては徒労になるのだ。
しかし、事実はたしかにどこかにある、といふ刑事の想像力ならば、わが身を蝕むことは
あるまい。梨枝の想像力は二つのものを兼ねてゐた、すなはち、事実がたしかにどこかにある、
といふ気持と、その事実がなくてくれればいい、といふ気持と。かうして嫉妬の想像力は
自己否定に陥るのだ。想像力が一方では、決して想像力を容認しないのである。丁度過剰な
胃酸が徐々に自らの胃を蝕むやうに、想像力がその想像力の根源を蝕んでゆくうちに、
悲鳴に似た救済の願望があらはれる。事実があれば、事実さへあれば、自分は助かるのだ! 
攻めの一手の探究の果てに、かうしてあらはれる救済の願望は、自己処罰の欲望に似て来てしまふ。
なぜならその事実は、(もしあるとすれば)、自分を打ちのめす事実に他ならないからだ。

三島由紀夫「暁の寺」より

178 :吾輩は名無しである:2011/04/17(日) 11:23:35.07
無知によつて歴史に与り、意志によつて歴史から辷り落ちる人間の不如意を、隈なく
眺めてきた本多は、ほしいものが手に入らないといふ最大の理由は、それを手に入れたいと
望んだからだ、といふ風に考へる。一度も望まなかつたので、三億六千万円は彼のものに
なつたのである。
それが彼の考へ方だつた。ほしいものが手に入らない、といふことを、自分の至らぬためとか、
生れつきの欠点のためとか、乃至は、自分が身に負うてゐる悲運のためとか決して考へる
ことがなく、それをすぐ法則化し普遍化するのが本多の持ち前だつたから、彼がやがて
その法則の裏を掻かうと試みはじめたのにふしぎはない。何でも一人でやる人間だつたから、
立法者と脱法者を兼ねることなぞ楽にできた。すなはち、自分が望むものは決して手に
入らぬものに限局すること、もし手に入つたら瓦礫と化するに決つてゐるから、望む対象に
できうるかぎり不可能性を賦与し、少しでも自分との間の距離を遠くに保つやうに努力すること、
……いはば熱烈なアパシーとでも謂ふべきものを心に持すること。

三島由紀夫「暁の寺」より

179 :吾輩は名無しである:2011/04/19(火) 17:18:51.11
身の毛もよだつほどの自己嫌悪が、もつとも甘い誘惑と一つになり、自分の存在の否定自体が、
決して癒されぬといふことの不死の観念と一緒になるのだ。存在の不治こそは不死の感覚の
唯一の実質だつた。


自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら
思はれる。お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺が
たのみもしないのに、その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない
綱渡りを強ひたのだ。陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を家財道具に
換価させ、美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を流刑に処し、
異端を病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。それは、膿盆の上の、
血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、そのたびごとに、
老いも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。

三島由紀夫「暁の寺」より

180 :吾輩は名無しである:2011/04/19(火) 17:19:12.52
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。乙女峠の
空にかかる白い雲は、偽善的なほど衛生的な、白い新らしいまばゆい繃帯の散乱であつた。


甚だゆつくりした物腰、やや尊大な物の言ひつぷり、日常生活にまで安全運転のしみ込んだ
この男の、決して動じない態度には苛立たされる。人生が車の運転と同様に、慎重一点張りで
成功するなどと思はれてたまるものか。


或る感情の量を極度まで増してゆくとおのづから質が変つて、わが身を滅ぼすかと思はれた
悩みの蓄積が、ふいに生きる力に変るのだ。はなはだ苦い、はなはだ苛烈な、しかし俄かに
展望のひらける青い力、すなはち海に。
本多は妻がそのとき、曾て見も知らぬ苦いしたたかな女に変りつつあるのに気づいてゐなかつた。
不機嫌や黙りがちの探索で彼を苦しめてゐた間の梨枝は、実はまだその蛹にすぎなかつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

181 :吾輩は名無しである:2011/04/22(金) 19:46:18.97
飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。
本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは
叶はぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗つて飛翔する世界は、
もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極微の歯車の
故障になつて、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を
取り換へたらどうだらうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、
すなはち本多の死に他ならない。
今にして明らかなことは、本多の欲望がのぞむ最終のもの、彼の本当に本当に本当に
見たいものは、彼のゐない世界にしか存在しえない、といふことだつた。真に見たいものを
見るためには、死なねばならないのである。
覗く者が、いつか、覗くといふ行為の根源の抹殺によつてしか、光明に触れえぬことを
認識したとき、それは、覗く者が死ぬことである。
認識者の自殺といふものの意味が、本多の心の中で重みを持つたのは、生れてはじめてだと
云つてよかつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

182 :吾輩は名無しである:2011/04/22(金) 19:46:47.15
「今夜が最後と思へば、話なんていくらだつてあります。この世のありとあらゆることを
話し合ふんですね。自分のやつたこと、人のやつたこと、世界が体験したこと、人類が今まで
やつてきたこと、あるひは置きざりにされた一つの大陸が何千年ものあひだじつと夢み
つづけてきたこと、何でもいいのです。話の種子はいつぱいあります。今夜限りで世界は
終るのですからね」


「信心をお持ちになつたらどうなんです」
「信心なんて。裏切る心配のない見えない神様などを信じてもつまりませんわ。私一人を
いつもじつと見つづけて、あれはいけない、これはいけない、とたえず手取り足取り指図して
下さる神様でなければ。その前では何一つ隠し立てのできない、その前ではこちらも浄化されて、
何一つ羞恥心を持つことさへ要らない、さういふ神様でなければ、何になるでせう」


「おたのしさうね、皆さん。こんな時代が来るなんて、戦争中に誰が想像したでせう。
一度でもいいから、暁雄にこんな思ひをさせてやりたかつた」

三島由紀夫「暁の寺」より

183 :吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 17:32:46.36
かういふ動悸には馴染がある。夜の公園に身をひそめてゐる折、目の前に待ちかねてゐたものが
いよいよはじまるといふ時に、赤い蟻が一せいに心臓にたかつて、同じ動悸を惹き起す。
それは一種の雪崩だ。この暗い蜜の雪崩が、世界を目のくらむやうな甘さで押し包み、
理智の柱をへし折り、あらゆる感情を機械的な早い鼓動だけで刻んでしまふ。何もかも
融けてしまふ。これに抗はうとしても無駄なことだ。
それはどこから襲つて来るのだらう。どこかに官能の深い棲家があつて、それが遠くから指令を
及ぼすと、どんな貧しい触角も敏感にそよぎ、何もかも打ち捨てて、走り出さなければならない。
快楽の呼ぶ声と死の呼ぶ声は何と似てゐることか。ひとたび呼ばれれば、どんな目前の仕事も
重要でなくなり、つけかけの航海日誌や、喰べかけの食事や、片方だけ磨いた靴や、鏡の前に
今置いたばかりの櫛や、繋ぎかけたロープもそのままに、全乗組員が消え去つたあとを
とどめてゐる幽霊船のやうに、すべてをやりかけのまま見捨てて出て行かねばならない。

三島由紀夫「暁の寺」より

184 :吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 17:33:08.15
動悸はこのことの起る予兆なのだ。そこからはじまることはみつともなさと醜悪だけと
知れてゐるのに、この動悸には必ず虹のやうな豊麗さが含まれ、崇高と見分けのつかないものが
ひらめいてゐた。
崇高と見分けのつかないもの。それこそは曲者だつた。どんな高尚な事業どんな義烈の行為へ
人を促す力も、どんな卑猥な快楽どんな醜怪な夢へそそのかす力も、全く同じ源から出、
同じ予兆の動悸を伴ふといふことほど、見たくない真実はなかつた。もし下劣な欲望は
下劣な影をちらつかせるにすぎず、そもそもこの最初の動悸に崇高さの誘惑がひらめかなければ、
人はまだしも平静な矜りを持して生きることができるのだ。ともすると誘惑の根源は
肉慾ではなくて、この思はせぶりな、このおぼろげな、この雲間に隠見する峯のやうな銀の
崇高さの幻影なのだつた。それは一先づ人をとりこにし、次いで耐へきれぬ焦燥から広大な
光りへあこがれさせる、「崇高」の鳥黐だつた。

三島由紀夫「暁の寺」より

185 :吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 17:33:42.81
うすくにじみ出す煙のなかから、火が兇暴な拳をつき出して、焔の吹き出す口をあける
移りゆきの、ほとんど滑らかな速度には、夢よりも巧妙なものがあつた。
本多は肩や袖にふりかかる火の粉を払ひ、プールの水面は、燃え尽きた木片や、藻のやうに
蝟集した灰におほはれてゐた。しかし火の輝やきはすべてを射貫いて、マニカルニカ・ガートの
焔の浄化は、この小さな限られた水域、ジン・ジャンが水を浴びるために造られた神聖な
プールに逆しまに映つてゐた。ガンジスに映つてゐたあの葬りの火とどこが違つたらう。
ここでも亦、火は薪と、それから焼くのに難儀な、おそらく火中に何度か身を反らし、
腕をもたげたりした、もはや苦痛はないのに肉がただ苦しみの形をなぞり反復して滅びに抗ふ、
二つの屍から作られたのである。それは夕闇に浮んだガートのあの鮮明な火と、正確に同質の
火であつた。すべては迅速に四大へ還りつつあつた。煙は高く天空を充たしてゐた。
ただ一つここにないものは、焔のかなたからこちらを振り向いて、本多の顔をひたと見据ゑた
あの白い聖牛の顔だけである。……

三島由紀夫「暁の寺」より

186 :吾輩は名無しである:2011/04/26(火) 10:59:17.48
乳海攪拌のインド神話を、毎日毎日、ごく日常的にくりかへしてゐる海の攪拌作用。たぶん
世界はじつとさせておいてはいけないのだらう。じつとしてゐることには、自然の悪を
よびさます何かがあるのだらう。
五月の海のふくらみは、しかしたえずいらいらと光りの点描を移してをり、繊細な突起に
充たされてゐる。
三羽の鳥が空の高みを、ずつと近づき合つたかと思ふと、また不規則に隔たつて飛んでゆく。
その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、
その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、
われわれの心の中に時たま現はれる似たような三つの思念も?


海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようの
ないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、
絶対の無政府主義(アナーキー)。

三島由紀夫「天人五衰」より

187 :吾輩は名無しである:2011/04/26(火) 10:59:39.16
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。雲の変化。そして船の出現。
……そのたびに一体何が起るのだらう。生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、
人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。世界が存在してゐるなどと
いふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。たちまち鐘の音はひびきわたり、
すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。
一つの存在。
船でなくともよい。いつ現はれたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに
足りる。
午後三時半、駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だつた。
波に隠れすぐ現はれ、浮いつ沈みつして、またたきやめぬ目のやうに、その鮮明な
オレンヂいろは、波打際から程遠からぬあたりを、みるみる東のはうへ遠ざかる。

三島由紀夫「天人五衰」より

188 :吾輩は名無しである:2011/04/28(木) 20:03:21.49
私は一番春の雪が好きだ。
だが、あれって一応恋愛小説だったんだな。
読んでいる時はただ、清様の美しさを書いた小説だと思って読んでいた。
ヒロインの存在が薄すぎる。
ツタヤで映画になっているdvdのパッケージを見て初めて、恋愛小説だと
気づいた。
みなそうか??

189 :吾輩は名無しである:2011/04/29(金) 13:11:16.34
>>188
映画は恋愛の部分だけ取り上げただけで、原作の空気感とは違うよね。

190 :吾輩は名無しである:2011/05/01(日) 12:34:05.33
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、
家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。今まで一度も
出会はなかつた永遠、すなはち海に。もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、つひに人が
死に直面することができないやうに。


見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になつて、誰も見たことのない領域へ
まで透を連れてゆく筈だ。そこでは美でさへも、引きずり朽され使ひ古された裳裾のやうに、
ぼろぼろになつてしまふ筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものが
ある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又
確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや
見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。

三島由紀夫「天人五衰」より

191 :吾輩は名無しである:2011/05/01(日) 12:34:24.26
微笑は同情とは無縁だつた。微笑とは、決して人間を容認しないといふ最後のしるし、
弓なりの唇が放つ見えない吹矢だ。


どんな男だつて、私を見たとたんに、獣になつてしまふんだもの、尊敬しやうがないぢや
ありませんか。女の美しさが、男の一番醜い欲望とぢかにつながつてゐる、といふことほど、
女にとつて侮辱はないわ。


おそらく絹江の発狂のきつかけは、失恋させた男が彼女の醜い顔を露骨に嘲つたことにあるので
あらう。その刹那に、絹江は自分の生きる道を、その唯一の隘路の光明を認めたのであつた。
自分の顔が変らなければ、世界のはうを変貌させればそれですむ。誰もその秘密を知らぬ
美容整形の自己手術を施し、魂を裏返しにしさへすれば、かくも醜い灰色の牡蠣殻の内側から、
燦然たる真珠母があらはれるのだつた。
追ひつめられた兵士が活路をひらくやうに、絹江はこの世界の根本的な不如意の結び目を
発見して、それを要に、世界を裏返しにしてしまつた。何といふ革命だつたらう。
内心もつとも望んでゐたものを、悲運の形で受け入れたその狡智。……

三島由紀夫「天人五衰」より

192 :吾輩は名無しである:2011/05/02(月) 07:20:31.44
【映画】三島由紀夫の割腹自決、ARATA主演で映画化・・・若松孝二監督の新作「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1304284288/

193 :吾輩は名無しである:2011/05/03(火) 18:04:23.76
一応見るけど、三島自身にはあまり興味ないな。
とりあえず中学の時に長編はほとんど読んだけど漢字が難しかったな。

194 :吾輩は名無しである:2011/05/06(金) 18:28:44.44
三島の直筆サイン入り「天人五衰」持ってるけど高く売れるかな?

195 :吾輩は名無しである:2011/05/06(金) 22:20:43.61
死後に刷った本なのにサインがあったら高く売れるんじゃないか
よく知らないけど

196 :吾輩は名無しである:2011/05/07(土) 16:42:58.61
自分はいつも見てゐる。もつとも神聖なものも、もつとも汚穢なものも、同じやうに。
見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。
……いひしれぬ暗い心持に沈んで、本多は、あたかも海を泳いで来た人が、身にまとひつく
海藻を引きちぎつて陸に上るやうに、夢を剥ぎ落して、目をさました。


日はまだ現はれないが、現はれるべきところのすぐ上方に、肌理のこまかい雲が、あたかも
低い山脈の連なりのやうな、山襞の褶曲そつくりの形を高肉浮彫にしてゐる。この山脈の上には
ところどころに仄青い間隙のある薔薇いろの横雲が一面に流れ、この山脈の下には薄鼠いろの
雲が海のやうに堆積してゐる。そして山脈の浮彫は、薔薇いろの雲の反映を山裾にまで受けて、
匂うてゐる。その山裾には人家の点在まで想ひ見られ、そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の
出現を透は見た。
あそこからこそ自分は来たのだ、と透は思つた。幻の国土から。夜明けの空がたまたま
垣間見せるあの国から。

三島由紀夫「天人五衰」より

197 :吾輩は名無しである:2011/05/07(土) 16:43:22.86
だんだん幼時の夢や少年時代の夢を見ることが多くなつた。若かつたころの母が、或る雪の日に、
作つてくれたホット・ケーキの味をも、夢が思ひ出させた。
あんなつまらない挿話がどうしてこんなに執拗に思ひ出されるのだらう。思へばこの記憶は、
半世紀もの間、何百回となく折に触れて思ひ出され、何の意味もない挿話であるだけに、
その想起の深い力が本多自身にもつかめないのである。
(中略)
本多が夢にたびたび想起するのは、そのときのホット・ケーキの忘れられぬ旨さである。
雪の中をかへつてきて、炬燵にあたたまりながら喰べたその蜜とバターが融け込んだ美味である。
生涯本多はあんな美味しいものを喰べた記憶がない。
しかし何故そんな詰らぬことが、一生を貫ぬく夢の酵母になつたのであらう。(中略)
それにしてもその日から六十年が経つた。何といふ須臾の間であらう。或る感覚が胸中に
湧き起つて、自分が老爺であることも忘れて、母の温かい胸に顔を埋めて訴へたいやうな
気持が切にする。

三島由紀夫「天人五衰」より

198 :吾輩は名無しである:2011/05/07(土) 16:43:44.49
六十年を貫ぬいてきた何かが、雪の日のホット・ケーキの味といふ形で、本多に思ひ知らせる
ものは、人生が認識からは何ものをも得させず、遠いつかのまの感覚の喜びによつて、
あたかも夜の広野の一点の焚火の火明りが、万斛の闇を打ち砕くやうに、少くとも火の
あるあひだ、生きることの闇を崩壊させるといふことなのだ。
何といふ須臾だらう。十六歳の本多と、七十六歳の本多との間には、何事も起らなかつたと
しか感じられない。それはほんの一またぎで、石蹴り遊びをしてゐる子供が小さな溝を
跳び越すほどのつかのまだつた。
そして、清顕があれほど詳(つぶ)さにしたためた夢日記が、その後効験をあらはすのを見て、
たしかに本多は夢の生に対する優位を認識したけれども、自分の人生がかうまで夢に
犯されるとは想像もしてゐなかつた。タイの出水に涵される田園のやうに、夢の氾濫が
自分にも起つたといふふしぎな喜びはあつたが、清顕の夢の芳醇に比べると、本多の夢は
ただ返らぬ昔のなつかしい喚起にすぎなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

199 :吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 10:53:02.35
なるほど空襲下の渋谷の焼址で蓼科が語つたところによれば、聡子は泉が澄むやうにますます
美しくなつたといふが、さういふ無漏の老尼の美もわからぬでもなく、事実、大阪の人から
輓近の聡子の美しさを感嘆を以て語る声をもきいた。それでもなほ本多は怖い。美の廃址を
見るのも怖いが、廃址にありありと残る美を見るのも怖いのである。


それはあたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に
他ならなかつた。
そこに聡子のゐることが確実であるなら、聡子は不死で永久にそこにゐることも確実のやうに
思はれる。本多が認識によつて不死であるなら、この地獄から仰ぎ見る聡子は、無限大の
距離にゐた。会ふなり聡子が本多の地獄を看破ることは確実なのである。又、本多の不如意と
恐怖に充ちた認識の地獄の不死と、聡子の天上の不死とは、いつも見合つてをり、均衡を
保つやうに仕組まれてゐると感じられる。それなら今いそいで会はなくても、三百年後でも、
よしんば千年後でも、会ひたいときには随時に会へるではないか。

三島由紀夫「天人五衰」より

200 :吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 10:53:34.91
いつ降るともしれぬ梅雨空の下を、車は金融関係の新らしいビルが櫛比する迂路を
八〇キロほどの速度で走つた。ビルといふビルは頑なで、正確で、威嚇的で、鉄とガラスの
長大な翼をひろげて、次々と襲ひかかつた。本多はいづれ自分が死ぬときには、これらのビルは
全部なくなるのだ、といふ想ひに、一種の復讐の喜びを味はつた、その瞬間の感覚を思ひ出した。
この世界を根こそぎ破壊して、無に帰せしめることは造作もなかつた。自分が死ねば確実に
さうなるのだ。世間から忘れられた老人でも、死といふ無上の破壊力をなほ持ち合せて
ゐることが、少し得意だつたのである。本多はいささかも五衰を怖れてゐなかつた。


ベナレスでは神聖が汚穢だつた。又汚穢が神聖だつた。それこそは印度だつた。
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのでは
なかつた。これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、
しかし石鹸でよく洗つた、小ぎれいな手をしてゐたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より

201 :吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 12:28:40.21
何で三島のスレって引用バカが必ず現れるのかなあ?

202 :吾輩は名無しである:2011/05/12(木) 19:13:12.79
祈りの手ほど謙虚ではなく、見えないものを愛撫しようと志してゐる手。宇宙を愛撫するために
だけ使はれる手があるとすれば、それは自涜者の手だ。『俺は見抜いたぞ』と本多は思つた。
(中略)
見るがいい。この少年こそ純粋な悪だつた! その理由は簡単だつた。この少年の内面は
能ふかぎり本多に似てゐたからである。


これはすべて本多の幻想だつたかもしれない。が、一目で見抜く認識能力にかけては、
幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあつた。欲望を抱かない限り、
この目の透徹と澄明は、あやまつことがなかつた。まして自分にとつて不本意なことを
見抜くことにかけては。
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。
この少年は美しかつた。そのとき本多は、ともすると我人共に認めようとしてゐなかつた自分の
自意識の美しさに、目ざめ、魅せられてゐたのかもしれない。……

三島由紀夫「天人五衰」より

203 :吾輩は名無しである:2011/05/12(木) 19:13:37.16
あなたのお話は、私も癒(なほ)したわ。私はこれでもせい一杯戦つてきたつもりだけれど、
戦ふ必要もないことだつた。私たちは一人のこらず、同じ投網の中に捕へられた魚なのですね。


それを知つた人の顔には、一種の見えない癩病の兆候があらはれるのだ。神経癩や結節癩が
『見える癩病』なら、それは透明癩とでもいふのだらうか。それを知つたが最後、誰でも
ただちに癩者になる。印度へ行つたときから、(それまでにも病気は何十年も潜伏して
ゐたのだが)、私はまぎれもない『精神の癩者』になつたのだ。


人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷蒙なら、
それを隠すのに何ものも持たない精神と、それを隠すのに輝やかしい肉を以てする肉体とでは、
勝負にならない。人間にとつて本筋の美しさは、肉体美にしかないわけさ。

三島由紀夫「天人五衰」より

204 :吾輩は名無しである:2011/05/14(土) 11:17:37.08
しかし何者が本多にこんな夢を見せたのであらう。
慶子との会話を知つてゐるのは、慶子と本多の二人しかゐないのであるから、その「何者」は、
慶子でなければ本多にちがひない。が、本多は自分でそんな夢を見たいと決して望んだ
わけではない。本多に何のことわりもなく、その希望を一向参酌せずに、勝手な夢を見させたものが、本多自身であつてよい筈はない。
もちろん本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうな
ものが実は自分の願望だ、といふ説には、首肯しかねるものがあつた。それより自分以外の
何者かが、いつも自分を見張つてゐて、何事かを強ひてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。しかし自分の
意志にかかはりなく、夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

205 :吾輩は名無しである:2011/05/14(土) 11:21:38.45
「…僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。この世の中には、
どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言ひなりになつてやるんだ。さうして
ゆつくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に出るためには、
こちらも十分力を蓄へ、敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。奴らの戦ひが
有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

206 :吾輩は名無しである:2011/05/14(土) 11:22:28.65
奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手を
ゆるめないだらう。だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければ
ならない。むやみに突張つて、踏絵を踏まなければ、殺されてしまふんだからね。さうして
一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。
でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね」「わかつたわ、透さん。私、何でもあなたの言ふなりになる。その代りしつかり私を支へてね。
美しさの毒でいつも私の足はふらふらしてゐるんだから。あなたと私が手をつなげば、
人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすつかり晒して漂白してしまへる
かもしれなくつてよ。さうなつたときは、この地上が天国になり、私も何ものにも脅えないで、
生きてゆくことができるんだわね」

三島由紀夫「天人五衰」より

207 :吾輩は名無しである:2011/05/14(土) 11:24:24.26
――絹江が去つたあとでは、透はいつもその不在をたのしんだ。
あれだけの醜さも、ひとたび不在になれば、美しさとどこに変りがあるだらう。すべて
絹江の美しさを前提にして交はされたあの会話は、その美しさ自体が非在のものだつたから、
絹江がこの場を去つた今も、少しも変らずに馥郁と薫つてゐた。

……遠いところで美は哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向うで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。人間の肉体にそれが
宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。絹江だけが醜さの罠で、その鶴をつかまへることに
成功したのだつた。そして又、たえまない自意識の餌で、末永く飼育することにも。

三島由紀夫「天人五衰」より

208 :吾輩は名無しである:2011/05/19(木) 17:51:19.13
競技を終つた競技者の背中から急速に退いてゆく汗のやうに、黒い砂利のあひだを退いてゆく
白い飛沫。
無量の一枚の青い石板のやうな海水が、波打際へ来て砕けるときには、何といふ繊細な変身を
見せることだらう。千々にみだれる細かい波頭と、こまごまと別れる白い飛沫は、苦しまぎれに
かくも夥しい糸を吐く、海の蚕のやうな性質をあらはしてゐる。白い繊細な性質を内に
ひそめながら、力で圧伏するといふことは、何といふ微妙な悪だらう。


一瞬レンズの中に現はれた、天にも届かんばかりの一滴の白い波の飛沫があつた。
これほどまでに一滴だけ高く離れた波しぶきは、何を目ざしたのか。この至高の断片は、
何のためにさうして選ばれたのか。彼一滴だけ?
自然は全体から断片へと、又、断片から全体へと、たえずくりかへし循環してゐた。
断片の形をとつたときのはかない清洌さに比べれば、全体としての自然は、つねに不機嫌で
暗鬱だつた。
悪は全体としての自然に属するのだらうか?
それとも断片のはうに?

三島由紀夫「天人五衰」より

209 :吾輩は名無しである:2011/05/19(木) 17:51:43.32
波は少しづつ夕影を帯びると共に、険のある硬質のものになつた。光りはますます悪意に
染まり、波の腹の色は陰惨味を増した。
さうだ。砕けるときの波は、死のそのままのあらはな具現だ、と透は思つた。さう思ふと、
どうしてもさう見えて来る。それは断末魔の、大きくあいた口だつた。
白いむきだしの歯列から、無数の白い涎の糸を引き、あんぐりあいた苦しみの口が、
下顎呼吸をはじめてゐる。夕光に染つた紫いろの土は、チアノーゼの唇だ。
臨終の海が大きくあけた口の中へ、死が急速に飛び込んでくる。かう無数の死を露骨に
見せることをくりかへしながら、そのたびに海は警察のやうに大いそぎで死体を収容して、
人目から隠してしまふのだつた。
そのとき透の望遠鏡からは、見るべからざるものを見た。
顎をひらいて苦しむ波の大きな口腔の裡に、ふと別な世界が揺曳したやうな気がしたのである。
透の目が幻影を見る筈はないから、見たものは実在でなければならない。しかしそれが
何であるかはわからない。

三島由紀夫「天人五衰」より

210 :吾輩は名無しである:2011/05/19(木) 17:52:08.69
海中の微生物がたまたま描いた模様のやうなものかもしれない。暗い奧処にひらめいた光彩が、
別の世界を開顕したのだが、たしかに一度見た場所だといふおぼえがあるのは、測り知られぬ
ほど遠い記憶と関はりがあるのかもしれない。過去世といふものがあれば、それかもしれない。
ともあれそれが、明快な水平線の一歩先に、たえず透が見通さうと思つて来たものと、
どういふつながりがあるのかわからない。砕けようとする波の腹に、幾多の海藻が纏綿して、
巻き込まれながら躍つてゐたとすれば、つかのまに描かれた世界は、嘔気を催ほすやうな
いやらしい海底の、粘着質の紫や桃いろの襞と凹凸の微細画であつたかもしれない。が、
そこに光明があり、閃光が走つたのは、稲妻に貫かれた海中の光景だつたのだらうか。
そんなものが、このおだやかな西日の汀に見られよう筈はない。第一、その世界がこの世界と
同時に共在してゐなければならぬといふ法はない。そこに仄見えたのは、別の時間なので
あらうか。今透の腕時計が刻んでゐるものとは、別の時間の下にある何かなのであらうか。

三島由紀夫「天人五衰」より

211 :吾輩は名無しである:2011/05/21(土) 11:18:22.55
自分に向けられる他人の善意や悪意が、悉く誤解に基づくと考へる考へ方には、懐疑主義の
行き着く果ての自己否定があり、自尊心の盲目があつた。
透は必然を軽蔑し、意志を蔑してゐた。


時折鏡を見て、自分の微笑の漂ひをよく調べると、鏡にさしかかる光りの加減で、少女の微笑に
似てゐると感じられることがあつた。どこか遠い国の、言葉の通じない少女は、こんな微笑を、
他人との唯一の通ひ路にしてゐることがあるかもしれない。自分の微笑が女らしいといふ
のではない。しかし媚態でもなければ羞らひでもない、夜と朝との間の薄明に、白みかかる道と
川との見分けのつかない、一つへ足を踏み出せば溺れるかもしれない、さういふ危難を
相手のためにしつらへて、ためらひと決断の間のもつとも微妙な巣の中で待つてゐる鳥のやうな
微笑は、ちやんとした男の微笑とは云へない。透は、ふとして、この微笑を父親からでも
母親からでもない、幼時にどこかで会つた見知らぬ女から受け継いだのではないかと
思ふことがある。

三島由紀夫「天人五衰」より

212 :吾輩は名無しである:2011/05/21(土) 11:18:44.77
それにしても相手の動機は、一体それほど不可解だつたらうか? これにも何ら不可解な
ものはない。透は知つてゐた、退屈な人間は地球を屑屋に売り払ふことだつて平気でするのだと。


自由主義の経済学から美しい予定調和の夢が崩れたのはずいぶん昔だつたが、マルクス主義
経済学の弁証法的必然性もとつくに怪しげなものになつてゐた。滅亡を予言されたものが
生きのび、発展を予言されたものが、(たしかに発展はしたけれども)、別のものに
変質してゐた。純粋な理念の生きる余地はどこにもなかつた。


世界が崩壊に向つてゆくと信ずることは簡単であり、本多が二十歳ならそれを信じもしたらうが、
世界がなかなか崩壊しないといふことこそ、その表面をスケーターのやうに滑走して生きては
死んでゆく人間にとつては、ゆるがせにできない問題だつた。氷が割れるとわかつてゐたら、
誰が滑るだらう。また絶対に割れないとわかつてゐたら、他人が失墜することのたのしみは
失はれるだらう。問題は自分が滑つてゐるあひだ、割れるか割れないかといふだけのことであり、
本多の滑走時間はすでに限られてゐた。

三島由紀夫「天人五衰」より

213 :吾輩は名無しである:2011/05/21(土) 11:19:29.41
人々はさうやつて財産が少しづつふえてゆくと思つてゐる。物価の上昇率を追ひ越すことが
できれば、事実それはふえてゐるにちがひない。しかしもともと生命と反対の原理に立つものの
そのやうな増加は、生命の側に立つものへの少しづつの浸蝕によつてしかありえない。
利子の増殖は、時の白蟻の浸蝕と同じことだつた。どこかで少しづつ利得がふえてゆくことは、
時の白蟻が少しづつ着実に噛んでゆく歯音を伴ふのだ。
そのとき人は、利子を生んでゆく時間と、自分の生きてゆく時間との、性質のちがひに
気づく。……


自意識が、自我だけに関はつてゐる、と考へてゐたあひだの本多はまだ若かつたのだ。
自分といふ透明な水槽の中に黒い棘だらけの雲丹のやうな実質が泛んでゐて、それのみに
関はる意識を、自意識と呼んでゐた本多は若かつた。「恒に転ずること暴流のごとし」。
印度でそれを知得しながら、日々のくらしに体得するまでには三十年もかかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

214 :吾輩は名無しである:2011/05/22(日) 20:59:04.23
老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。本多の耳は骨を蝕む白蟻の歯音を
聞き分けるやうになつた。一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ
稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ
具はつてゐることを学ぶのだ。稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。
……さうして血が失はれるやうに時が失はれてゆく。あらゆる老人は、からからに枯渇して死ぬ。
ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全く無意識のうちに、湧き立たせてゐた
すばらしい時期に、時を止めることを怠つたその報いに。
さうだ。老人は時が酩酊を含むことを学ぶ。学んだときはすでに、酩酊に足るほどの酒は
失はれてゐる。


絶頂を見究める目が認識の目だといふなら、俺には少し異論がある。俺ほど認識の目を休みなく
働らかせ、俺ほど意識の寸刻の眠りをも妨げて生きてきた男は、他にゐる筈もないからだ。
絶頂を見究める目は認識の目だけでは足りない。それには宿命の援けが要る。

三島由紀夫「天人五衰」より

215 :吾輩は名無しである:2011/05/22(日) 20:59:27.18
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではなからうか。もちろん賤しいのは
意志のはうだ。


……それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるといふ天賦に恵まれてゐる。
俺はこの目でさういふ人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。
何といふ能力、何といふ詩、何といふ至福だらう。登りつめた山巓の白雪の輝きが目に
触れたとたんに、そこで時を止めてしまふことができるとは! そのとき、山の微妙な心を
そそり立てるやうな傾斜や、高山植物の分布が、すでに彼に予感を与へてをり、時間の
分水嶺ははつきりと予覚されてゐた。


……詩もなく、至福もなしに! これがもつとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしか
ないことを俺は知つてゐる。
時間を止めても輪廻が待つてゐる。それをも俺はすでに知つてゐる。
透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これが
あの少年に対する俺の教育方針だ。

三島由紀夫「天人五衰」より

216 :ストーカー姥鼠変態盗作作家川上弘美の盗作人肉パイ虐待物語:2011/05/22(日) 21:05:31.15
ストーカー七夜盗作作家川上弘美はマジキチ
944 :ストーカー姥鼠変態盗作作家川上弘美の盗作人肉パイ虐待物語:2011/05/22(日) 20:02:56.77
942お前が俺のストーカーなんだよ。
川上ミエコが憎いのはバアさんだからだろ?
で川上という単語だけで盗作問題を押しつけようとしてる、
あんたがな。警察の首切るってところは読めたくせに
なぜ通報できない?答え、あんたが盗作作家の
HN泥のストーカー恐喝魔2ちゃん名無し川上弘美だから

945 : 忍法帖【Lv=9,xxxP】 v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ :2011/05/22(日) 20:04:05.77
>>944
窓を開けてみな。今きみんちの外で携帯いじってる男が俺だよw

952 :ストーカー姥鼠変態盗作作家川上弘美の盗作人肉パイ虐待物語:2011/05/22(日) 20:08:34.05
2ちゃんねらー全員アスペなんだよ。
自分が無い非モテのブスのストーカー殺人鬼
なぜ警察に通報しない?お前がストーカーしてるんだよ、
家まできてるとか公然とストーカー発言しやがって!!!!!!!
このブス!!!!!

956 : 忍法帖【Lv=9,xxxP】 v(・x・)v鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ :2011/05/22(日) 20:11:22.35
>>952
いつも君を見てるよ。ケケケケケ…


217 :ストーカー姥鼠変態盗作作家川上弘美の盗作人肉パイ虐待物語:2011/05/22(日) 22:33:51.96
俺におくってきたペドのふられストーカー盗作オナニスト婆川上弘美の
ストーカー恐喝文 
2011/04/10(日) 12:10:25.63
無名草子さん:うっひっひっ。実はおまえの部屋は前からずっと監視されてるんだよ。
ここでは書けないが、某組織から金で頼まれてだな、 しっかりと見えちゃっているわけさ。
630 :無名草子さん:2011/04/10(日) 12:14:36.33
徹底的に追い込むよ〜。 部屋に目張りしても君がPCの前で必死なのは見えてるよ〜。 腹いてぇ。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1300252611/

★ストーカー川上弘美ババ(極道文学でも崇拝者多く
あちこちでおばさんからモテた俺をうらんでる婆の心理)
以下のサイトには「境界例」について書いています。
http://www.deborder.com/pa.html
欲求不満を起こさせる=(わるい)対象を極端におとしめ、価値のないものとみなす防衛。
一時は理想化された対象であっても、自分の期待どおりの保護や充足を与えないとその価値は一挙に引き下げられる。
〜その迫力を弱めようとする目的、理想化した相手が期待どおりでなかったという残念さやさびしさを感じないようにする目的、
などがある。理想化も脱価値化もともに、分裂を強化し維持する役割を果たしている。
187: 名無しさん@組織ストーカー被害は現実です :07/12/22 19:50 ID:QM
理想化された「対象を取り入れ」て、何事も思いのままになる、
すべてを支配できるといった万能感が形成され〜
対象を脱価値化する場合にも、自分はそうする権利や力があるという万能感を維持している。
189: 名無しさん@組織ストーカー被害は現実です :07/12/22 19:53 ID:QM
投影性同一視(投影同一化)

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1300252611/l50

218 :吾輩は名無しである:2011/05/27(金) 11:36:47.06
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。「きちんとした作法で
自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちが
いいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』と
いふことは、つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふだけのことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、
そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の
口にも合ふ嗜好品になつたのだ」
さう言ひながら、本多が勲を思ひうかべてゐたことは疑ふべくもない。勲はおそらく
洋食の作法などは知らなかつた。勲の高貴はそんなこととは関はりがなかつた。だからこそ、
透は十六歳から洋食の作法に習熟すべきだつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

219 :吾輩は名無しである:2011/05/27(金) 11:37:16.54
世間が若い者に求める役割は、欺され易い誠実な聴き手といふことで、それ以上の
何ものでもない。相手に思ひきり喋らせることができればお前の勝ちなのだ。それを片時も
忘れてはいけない。
世間は決して若者に才智を求めはしないが、同時に、あんまり均衡のとれた若さといふものに
出会ふと、頭から疑つてかかる傾きがある。お前は先輩を興がらせるやうな或る無害な偏執を
持つべきだ。機械いぢりとか。野球とか、トランペットとか、なるたけ平均的抽象的で、
精神とは何ら縁のない、いはんや政治とは縁のない、それもあんまり金のかからない道楽をね。
それを発見すると、先輩たちは、お前の余剰エネルギーのはけ口が確認できて、安心するのだ。
それについては多少大袈裟に自負心を示してもいい。
高校に入つたら、勉強の邪魔にならぬ程度のスポーツもやるべきで、それも健康が表面に浮いて
見えるやうなスポーツがいい。スポーツマンだといふと、莫迦だと人に思はれる利得がある。
政治には盲目で、先輩には忠実だといふことぐらゐ、今の日本で求められてゐる美徳は
ないのだからね。

三島由紀夫「天人五衰」より

220 :吾輩は名無しである:2011/05/27(金) 11:37:43.34
――大人しい透に向つて、かうして執拗に説き進めながら、いつしか本多は、目の前に
清顕と勲と月光姫を置いて、返らぬ繰り言を並べてゐるような心地にもなつた。
彼らもさうすればよかつたのだ。自分の宿命をまつしぐらに完成しようなどとはせず、
世間の人と足並を合せ、飛翔の能力を人目から隠すだけの知恵に恵まれてゐればよかつたのだ。
飛ぶ人間を世間はゆるすことができない。翼は危険な器官だつた。飛翔する前に自滅へ誘ふ。
あの莫迦どもとうまく折合つておきさへすれば、翼なんかには見て見ぬふりをして貰へるのだ。
のみならず、
『あの人の翼はあれはただのアクセサリーですよ。気にすることはありません。附合つてみれば、
ごくふつうの、常識的な、信頼できる人ですからね』
とあちこちへ宣伝してくれるのだ。かういふ口伝ての保証はなかなか莫迦にならない。
清顕も勲も月光姫も、一切この労をとらなかつた。それは人間どもの社会に対する侮蔑でもあり
傲慢でもあつて、早晩罰せられなければならない。かれらは、苦悩に於てさへ特権的に
振舞ひすぎたのだつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

221 :吾輩は名無しである:2011/05/31(火) 11:51:28.38
しかし自殺によつて別段、自分を猫に猫と認識させることに成功したわけぢやなかつたし、
自殺するときの鼠にも、それくらゐのことはわかつてゐたにちがひない。が、鼠は勇敢で
自尊心に充ちてゐた。彼は鼠に二つの属性があることを見抜いた。一次的にはあらゆる点で
肉体的に鼠であること、二次的には従つて猫にとつて喰ふに値ひするものであること、
この二つだ。この一次的な属性については彼はすぐ諦めた。思想が肉体を軽視した報いが
来たのだ。しかし二次的な属性については希望があつた。第一に、自分が猫の前で猫に
喰はれないで死んだといふこと、第二に、自分を『とても喰へたものぢやない』存在に
仕立て上げたこと、この二点で、少くとも彼は、自分を『鼠ではなかつた』と証明することが
できる。『鼠ではなかつた』以上、『猫だつた』と証明することはずつと容易になる。
なぜなら鼠の形をしてゐるものがもし鼠でなかつたとなつたら、もう他の何者でもありうる
からだ。かうしてこの鼠の自殺は成功し、彼は自己正当化を成し遂げたんだ。……どう思ふ?

三島由紀夫「天人五衰」より

222 :吾輩は名無しである:2011/05/31(火) 11:52:02.82
「ところで鼠の死は世界を震撼させたらうか?」と、彼はもう透といふ聴手の所在も問はず、
のめり込むやうな口調で言つた。独り言と思つて聴けばいいのだと透は思つた。声はものうい
苔だらけの苦悩を覗かせ、こんな古沢の声ははじめて聴く。「そのために鼠に対する世間の
認識は少しでも革まつたらうか? この世には鼠の形をしてゐながら実は鼠でない者が
ゐるといふ正しい噂は流布されたらうか? 猫たちの確信には多少とも罅が入つたらうか? 
それとも噂の流布を意識的に妨げるほど、猫は神経質になつたらうか?
ところが愕く勿れ、猫は何もしなかつたのだ。すぐ忘れてしまつて、顔を洗ひはじめ、それから
寝ころんで、眠りに落ちた。彼は猫であることに充ち足り、しかも猫であることを意識さへして
ゐなかつた。そしてこの完全にだらけた昼寝の怠惰のなかで、猫は、鼠があれほどまでに熱烈に
夢みた他者にらくらくとなつた。猫は何でもありえた、すなはち偸安により自己満足により
無意識によつて、眠つてゐる猫の上には、青空がひらけ、美しい雲が流れた。風が猫の香気を
世界に伝へ、なまぐさい寝息が音楽のやうに瀰漫した……」

三島由紀夫「天人五衰」より

223 :吾輩は名無しである:2011/06/03(金) 00:18:35.61
老人はいやでも政治的であることを強ひられる。七十八歳はたとへ体のふしぶしが痛くても、
愛嬌を見せ、上機嫌であることによつてしか、無関心を隠すことができない。本当の大前提は
無関心だつた。この世界の莫迦らしさに打ち克つて生きのびるには、それしかなかつた。
それは終日波と雑多な漂流物とを受け入れる汀の無関心だつた。
お追従とおちよぼ口に囲まれて生きるには、まだ自分にすりへつた圭角が残つてゐて、些かの
邪魔をする、と本多に感じられることもあつたが、それも徐々になくなつた。あるのは圧倒的な
莫迦らしさだけで、卑俗が放つ匂ひは混和されて、すべて一ト色になつてゐた。この世には実に
千差万別な卑俗があつた。気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識に
あふれた卑俗、学者犬の卑俗、媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、
狂人の卑俗、蝶の卑俗、斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。そして卑俗の
最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。本多もその一人にはちがひなかつたが、
人とちがつてゐるのは自他に対する異様に鋭い嗅覚だけだつたらう。

三島由紀夫「天人五衰」より


224 :吾輩は名無しである:2011/06/03(金) 00:19:10.72
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。僕は愕かない。


ところでこの世は不完全な人間の陽画(ポジティブ)に充ちてゐる。


百子は、急に食欲を失くした飼禽を見るやうに、心配さうに僕を見つめてゐた。彼女は幸福は
大きなフランス・パンのやうにみんなで頒つことができるといふ、低俗な思想に染つてゐたので、
この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だといふ数学的法則を
理解しなかつた。


僕は人の行かぬ一角を求めて、寝覚め滝のそばへ下りた。小滝は涸れ、滝の落ちる池は澱んで
ゐるのに、水面がたえずちり毛立つてゐるのは、無数のあめんばうが水面を縫つて、あたかも
糸の引きつれのやうな紋様を描いてゐるからだつた。


感情さへ持たなければ、人間はどんな風にでも繋り合ふことができるのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

225 :吾輩は名無しである:2011/06/06(月) 13:46:00.84
僕は雪崩る。
雪が僕の危険な断面を、あまりに穏和なふりをして覆つてゐるのに、いや気がさすから。
しかし僕は自己破壊とも破滅とも縁がない。僕がこの身から振ひ落し、家を壊し、人を傷つけ、
人々に地獄の叫喚を上げさせるその雪崩は、ただ冬空がかるがると僕の上へ齎らしたもの、
僕の本質とは何の関はりもないものだからだ。しかし雪崩の瞬間に、雪のやさしさと、僕の
断崖の苛烈さとが入れかはる。災ひを与へるのは、雪であつて、僕ではない。やさしさであつて、
苛烈さではない。
ずつと昔から、自然の歴史のもつとも古い時点から、僕のやうな無答責の苛酷な心が
用意されてゐたのにちがひない。多くの場合は、岩石といふ形で、その至純なものが
すなはちダイアモンドだ。
しかし冬の明るすぎる日は、僕の透明な心にさへしみ入る。何ものも遮るもののない翼を
わが身に夢みながら、僕の人生では何事も成就するまいといふ予感にとらはれるのは
かういふ時だ。
僕は自由を得るだらう。が、それは死とよく似た自由にすぎない。この世で僕が夢みたものは
何一つ手に入るまい。

三島由紀夫「天人五衰」より

226 :吾輩は名無しである:2011/06/06(月) 13:46:32.31
僕の明晰を見ると、すべての人間が裏切りの欲望を感じるだらう。僕ほどの明晰を
裏切ることぐらゐ、裏切りの勝利はないからだ。僕に愛されてゐないすべての人間が、
僕に愛されてゐると信じ切つてゐるだらう。僕に愛された者は、美しい沈黙を守るだらう。
世界のすべてが僕の死を望むだらう。同時にわれがちに、僕の死を妨げようと手をさしのべる
だらう。
僕の純粋はやがて水平線をこえ、不可視の領域へさまよひ込むだらう。僕は人の耐へえぬ苦痛の
果てに、自ら神となることを望むだらう。何といふ苦痛! この世に何もないといふことの
絶対の静けさの苦痛を僕は味はいつくすだらう。病気の犬のやうに、ひとりで、体を慄はせて、
片隅にうづくまつて、僕は耐へるだらう。陽気な人間たちは、僕の苦痛のまはりで、
たのしげに歌ふだらう。
僕を癒す薬はこの世にはなく、僕を収容する病院は地上にはないだらう。僕が邪悪であつたと
いふことは、結局人間の歴史の一個所に、小さな金色の文字で誌されるだらう。

三島由紀夫「天人五衰」より

227 :吾輩は名無しである:2011/06/06(月) 13:47:07.99
そのまま老人は同じ歩度で遠ざかつた。老人自身は気がつかなかつたのではないかと思ふが、
家の門をすぎて五米ほど行つてから、大きな墨滴を落したやうに、外套の裾から何かが
雪の上に落ちた。
黒い、鴉らしい鳥の屍骸が落ちてゐた。九官鳥だつたかもしれない。僕の耳にさへ、瞬間、
ばさつと、落ちた翼が雪を搏つやうな音がきこえる錯覚さへあつたのに、老人はそのまま去つた。
そこで永いこと、まつ黒な鳥の屍が僕の難問になつた。その位置はかなり遠く、前庭の梢に
遮られ、しかもふりしきる雪がものの影を歪めてゐるので、いくら瞳を凝らしても、目が
確かめる力には限りがあつた。双眼鏡でも持つて来ようか、それとも外へ出て行つて
確かめようか、といふ考へにとらはれながら、何か圧倒的な億劫さに制せられてゐて、それが
できなかつた。
何の鳥だつたらう。あまり永く見詰めてゐるうちに、その黒い羽根の固まりは、鳥ではなくて、
女の鬘のやうにも思はれだした。

三島由紀夫「天人五衰」より

228 :吾輩は名無しである:2011/06/06(月) 13:47:41.18
美女だと信じてゐる絹江も、愛されてゐると信じてゐる百子も、現実を否定してゐる点では
同じだつたが、他人の助力が要る百子に引きかへて、絹江にはもう他人の言葉さへ要らなかつた。
百子をあそこまで高めてやることができたら! それが僕の教育的情熱、いはば愛だつたから、
「愛してゐる」といふことはまんざら嘘でもなかつた。しかし百子のやうに、現実肯定の魂が
現実を否定したがるのは方法的矛盾ではないだらうか。彼女を絹江のやうな、全世界を相手に
闘ふ女にしてやるには、並大抵のことでは行くまい。
しかし「愛してゐる」といふ経文の読誦は、無限の繰り返しのうちに、読み手自身の心に
何かの変質をもたらすものだ。僕はほとんど愛してゐるかのやうに感じ、愛といふ禁句の
この突然の放埒な解放に、心の中の何ものかが酔つてゐるやうにも感じた。下手な初心者の
操縦に同乗して、万一の場合を覚悟せねばならぬ飛行機訓練士に、誘惑者といふものは
いかに似てゐることか。

三島由紀夫「天人五衰」より

229 :吾輩は名無しである:2011/06/08(水) 20:45:44.41
九月のはじめ家へかへつたとき、百日紅の満開の花が、そのあたかも白癩の肌のやうに円滑に
磨き上げた幹に映じたのを見るのを、たのしみにしてゐたのに、いざかへつてみると、
百日紅のない庭があつた。前の庭とはまるでちがつてしまつたその新らしい庭を作つたのは、
他ならぬ阿頼耶識にちがひない。庭も変転する、と感じた瞬間に、別のところからどうしても
制御できない怒りが生じて、本多を叫ばせたのだが、叫んだときから本多は怖れてゐた。
(中略)
「あの木はもう年寄になつたから、要らないんだ」
透は美しい微笑をうかべた。
かういふとき、透は厚い硝子の壁をするすると目の前に下ろすのである。天から下りてくる硝子。
朝の澄み切つた天空と全く同じ材質でできた硝子。本多はもうその瞬間に、どんな叫びも、
どんな言葉も、透の耳には届かないことを確信する。むかうからは開け閉てする本多の
総入歯の歯列が見えるだけだらう。すでに本多の口は、有機体とは何の関はりもない無機質の
入歯を受け入れてゐた。とつくに部分的な死ははじまつてゐた。

三島由紀夫「天人五衰」より

230 :吾輩は名無しである:2011/06/08(水) 20:46:07.73
何もかも知つてゐる者の、甘い毒のにじんだ静かな愛で、透の死を予見しつつその横暴に
耐へることには、或る種の快楽がなかつたとはいへない。その時間の見通しの先では、
蜉蝣の羽根のやうに愛らしく透いて見える透の暴虐。人間は自分より永生きする家畜は
愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短かさだつた。


「…でも本当のところ何と思つて?……己惚れていらしたんでせう? 人間つて、自分にも
何かの取柄があるといふことは、すぐ信じたがるものですからね。それまであなたが心に
抱いてゐた子供らしい夢と、私たちの申し出とが、うまい具合に符合したやうな気が
したんでせう? あなたが子供のときから守つてゐたふしぎな確信が、いよいよ証拠を
見せたやうな気がしたんでせう? さうでせう?」
透ははじめて慶子といふ女に恐怖を抱いた。階級的圧迫などはみぢんもなかつたが、多分
世の中には、何か或る神秘的な価値といふものに鼻の利く俗物がをり、さういふ人間こそ
正真正銘の「天使殺し」なのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

231 :吾輩は名無しである:2011/06/08(水) 20:46:32.63
人はそれぞれ目的を持つて生きてゐて、自分のことしか考へないのですよ。尤も、一番自分の
ことしか考へないあなたが、ついその点で行きすぎて、盲らになつてゐたのでせうが。
あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。
例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に
美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。
そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は
『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んで
くれる筈ですわ。
あなたはそんな償ひの要らない天才だと、自分を思つて来たんでせうね。何か人間世界の上に
泛んでゐる一片の、悪意を含んだ美しい雲のやうに、自分を想像して来たんでせうね。

三島由紀夫「天人五衰」より

232 :吾輩は名無しである:2011/06/13(月) 10:46:50.59
精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に
何のちがひがあらう。老いは正しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の
病だといふことは、人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な
病ではなくて、われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。肉髄の本質は
滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、滅びの証明に使はれて
ゐることに他ならなかつた。
人はどうして老い衰へてからはじめてそのことを覚るのであらう。肉体の短い真昼に、耳もとを
すぎる蜂の唸りのやうに、そのことをよしほのかながら心に聴いても、なぜ忽ち忘れて
しまふのであらう。たとへば、若い健やかな運動選手が、運動のあとのシャワーの爽やかさに
恍惚として、自分のかがやく皮膚の上を、霰のやうにたばしる水滴を眺めてゐるとき、その
生命の汪溢自体が、烈しい苛酷な病であり、琥珀いろの闇の塊りだとなぜ感じないのであらう。

三島由紀夫「天人五衰」より

233 :吾輩は名無しである:2011/06/13(月) 10:47:22.18
今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と
思ひ当つた。この同義語がお互ひにたえず相手を謗つて来たのはまちがひだつた。老いて
はじめて、本多はこの世に生れ落ちてから八十年の間といふもの、どんな歓びのさなかにも
たえず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。
この不如意が人間意志のこちら側またあちら側にあらはれて、不透明な霧を漂はせてゐたのは、
生きることと老いることが同義語だといふ苛酷な命題を、意志がいつも自ら怖れて、
人間意志自体が放つてゐた護身の霧だつたのだ。歴史はこのことを知つてゐた。歴史は
人間の創造物のうちでもつとも非人間的な所産だつた。それはあらゆる人間意志を統括して、
自分の手もとへ引き寄せながら、あのカルカッタのカリー女神のやうに、片つぱしから、
口辺に血を滴らせて喰べてしまふのであつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

234 :吾輩は名無しである:2011/06/13(月) 10:47:54.71
われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。火中に死んだ今西は、いかにも彼らしい
軽薄な流儀を以て、このことに皮相ながら気づいてゐた。そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。
しかし本多は何たる餌だつたらう! 何たる滋養のない、何たる味のない、何たるかさかさの
餌だつたらう。本能的に美味な餌であることを避けて周到に生きてきた男は、人生の最後の
ねがひとして、自分の不味な認識の小骨で、喰ひついてきた者の口腔を刺してやらうと
狙ふのだが、この企図も亦、必ず全的に失敗するのだ。


ベナレスで本多が見たものは、いはば宇宙の元素としての人間の不滅であつた。来世は、
時間の彼方に揺曳するものでもなく、空間の彼方に燦然と存在するものでもなかつた。
死んで四大に還つて、集合的な存在に一旦融解するとすれば、輪廻転生をくりかへす場所も、
この世のここでなければならぬといふ法はなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より

235 :吾輩は名無しである:2011/06/17(金) 00:02:26.78
清顕や勲やジン・ジャンが相次いで本多の身辺にあらはれたのは、偶然といふもおろかな
偶然だつたのであらう。もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質の
ものであつたとしたら、一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を
踏むにも及ばない。それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味する
からである。来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。糸を切つて
一旦卓上に散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、もし卓の下へ
落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には今や
思はれた。我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より

236 :吾輩は名無しである:2011/06/17(金) 00:03:05.29
狐はすべて狐の道を歩いてゐた。漁師はその道の薮かげに身をひそめてゐれば、難なく
つかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることがわかつてゐながら狐の道を歩いてゐるのが、
今の自分だと本多は思つた。


『自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ
観念の想である。あるがままを見、あるがままを心に刻まう。これが自分のこの世で最後の
たのしみでもあり、つとめでもある。今日で心ゆくばかり見ることもおしまひだから、
ただ見よう。目に映るものはすべて虚心に見よう』


『劫初から、今日このとき、私はこの一樹の蔭に憩ふことに決まつてゐたのだ』
本多は極度の現実感を以てさう考へた。


自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、ゆくてに
それ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと本多は思ひ返した。
希望を抱くふりをして。印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに
永いことあがいたのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より

237 :吾輩は名無しである:2011/06/17(金) 00:03:34.00
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののやうに
見せもすれば、幻の眼鏡のやうなものやさかいに」
「しかしもし、清顕君がはじめからゐなかつたとすれば」と本多は雲霧の中をさまよふ
心地がして、今ここで門跡と会つてゐることも半ば夢のやうに思はれてきて、あたかも
漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去つてゆくやうに失はれてゆく自分を
呼びさまさうと思はず叫んだ。「それなら、勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンも
ゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも……」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。
「それも心々ですさかい」


これと云つて奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るやうな蝉の声が
ここを領してゐる。
そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ
何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……

三島由紀夫「天人五衰」より

238 :記憶喪失した男 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2011/06/21(火) 11:45:23.37 ?2BP(791)
「春の雪」を読み始めたばかりだけど、
主人公が想い人に出す手紙、ワラタ。
「あなたの威嚇に対してこんな手紙を書かなければいけないのははなはだ遺憾なことです」
この主人公、ツンデレだ。

239 :吾輩は名無しである:2011/06/21(火) 12:27:43.83
否!否!
あなたはone of them です!
みたいな?

240 :記憶喪失した男 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2011/06/21(火) 14:45:46.25 ?2BP(791)
そうじゃないね。

241 :吾輩は名無しである:2011/07/01(金) 19:39:59.79
(和歌には)作者名が表記してなくても、「読み人知らず」の歌は、日本人の心に広く支持されている。
「三島由紀夫」というペンネームは、ある意味での「読み人知らず」である。(中略)
『花ざかりの森』が掲載された『文芸文化』昭和十六年九月号は、文学者「三島由紀夫」の誕生した記念号であるが、
その号で蓮田善明は、新人作家・三島由紀夫の可能性を信じ、「悠久な日本の歴史の請し子」と絶賛している。
「請し子」は、通常は「申し子」と書く。「申し子」は「授かり子」とも言い、神仏の化身として、人間界に
出現した貴種のことである。三島由紀夫は、「日本の歴史」と「日本の文化」のスピリットが、仮に人間の姿をして
生まれてきた天才、とされたのである。これを私の問題意識に引き付ければ、三島の書く文章や三島の語る言葉が、
日本の歴史と文化の普遍性を体現した「読み人知らず」の言葉である、ということになる。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

242 :吾輩は名無しである:2011/07/01(金) 19:40:36.13
(中略)
三島は平安文学のエッセンスである『古今和歌集』と『源氏物語』の森の奥へと分け入ってゆく。三島にとって、
和歌や物語は、単に優雅な文化ではなかった。醜悪な現実と戦い、勝利するための最強の武器が、和歌だった
のである。つまり、和歌は「文武両道」のシンボルだった。(中略)
和歌には、天の神や地の神を動かし、歌人の願いを実現するだけの力がある。和歌には、どんな強敵でも退散させ、
歌人の大切な世界を守るだけの力がある。和歌には、好きな人の心を引き付け、歌人の恋愛を成就させるだけの
力がある。和歌には、優雅な「もののあはれ」とは別次元の、「切った張った」の命のやり取りをしている武士の
心を和ませるだけの力がある。
この和歌の道のヒエラルキーの頂点に立つのが、天皇である。天皇は、『古今和歌集』から始まる「勅撰和歌集」の
撰者を命じる立場にある。日本が「和国」と呼ばれるのは、「和歌」の精神に支えられているからだという説がある。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

243 :吾輩は名無しである:2011/07/01(金) 19:41:36.32
(中略)
国難に遭遇するたびに、南北朝期の南朝方や、幕末期の勤王の志士たちは、「愛国歌」を高唱した。三島由紀夫も
また、そのような愛国的な和歌を好んでいた。ところが太平洋戦争の末期、日本文化が欧米文化との戦いで劣勢に
なった時、日本人は『愛国百人一首』の和歌を必死に唱えたが、「神風」は吹かなかった。日本は敗れ、
昭和二十年八月十五日に無条件降伏した。
これは、「和歌の敗北」であった。日本文化が敗北したのであり、日本文化の申し子である三島由紀夫の世界観も
また、一敗地に塗れた。
なぜ、神風は吹かなかったのか。それは、和歌が無力だからなのか。あるいは、紀貫之が「力をも入れずして
天神地祇を動かし」と宣言した意味を、その後の日本人が読み間違えて、和歌の力を過大に錯覚したからなのか。
それとも、和歌文化の頂点に立つ天皇の資質の問題なのか。ここに、三島が戦後日本にとっての「天皇」の意味を
問い続けた根本的な理由がある。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

244 :吾輩は名無しである:2011/07/05(火) 18:05:38.83
この作品はレトリックという観点から見ると
どのような評価になるのだろう?

245 :吾輩は名無しである:2011/07/05(火) 23:05:19.78
知らんがな。@(´ёωё`)@

246 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 19:17:25.50
>>245
何故?

247 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 20:27:28.92
(中略)
ところで(兵庫県)印南郡の平岡家には、かつて「しおや」(塩屋)という屋号があった。松本健一は、
「塩焼き人夫」「漁夫」としての出目を三島が持っていた事実に着目している。(中略)
三島には、漁師や魚売りを主人公とする作品がいくつかある。『潮騒』の新治、そして『鰯売恋曳網』の
鰯売である猿源氏。彼らは、「魚」だけでなく、「理想の恋」をも釣り上げようとする。新治は富裕な船主の娘を、
猿源氏は都で一番の傾城(遊女)を。「卑賎の男が高嶺の花に恋をする」という発想の形式は、漁師という身分を
離れると、三島の『近代能楽集』の一編『綾鼓』のようなストーリーになる。
世間に多いのは、貧しい女性が高貴な男性の奥方に収まる「玉の輿」のストーリーである。三島が描いたのは、
「逆・玉の輿」のパターンである。『午後の曳航』などの「船員」という職業も、「漁師」の現代的な変型だと言える。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

248 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 20:28:03.92
三島は、男の「成り上がり」という通俗文学のストーリーを踏襲することで、何を描きたかったのか。おそらく、
人間が神という存在に、少しでも近づきたいと憧れる気持ちを、「身分違いの恋に苦しむ男性」に託したのでは
なかったか。
その一方で、上流社会から賎しい職業として低く見られがちな「人夫」や「汚穢屋(糞尿汲取人)」への特別の
関心が、三島にはあった。(中略)
人間が、神の高みにまで昇ろうとする憧れ。それは、不可能であるがゆえに、いっそう強く掻き立てられる。
不可能への挑戦。大きな壁があるから、それに挑戦しようとする情念が高まる。絶対の不如意に直面した絶望感と、
その壁に挑む不退転の覚悟。これがロマン主義者の信条である。
そして、自分の持って生まれた「賎しい身分」という実存状況を変えることのできなかった人間たちのあがき、
苦しみ、絶望にも、三島は強い関心を抱く。神という至高の視点から見下ろせば、華族も富豪も、所詮は汚穢屋と
似たり寄ったりである。高みから見下ろされている喜び。見られていることの快楽。それが、三島に「人生を
演じる」ことの恍惚を教えてくれた。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

249 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 20:28:34.46
(中略)
永井尚志(1816〜91)は、三河奥殿藩主の子で、旗本の永井家を継いだ。勝海舟と並ぶ江戸幕府の海軍の創設者の
一人で、長崎海軍伝習所の初代長官も勤めた。(中略)
つまり、三島の祖母の祖父である永井尚志は、「海の男」だった。三島由紀夫は、生涯「カナヅチ」で、まったく
泳げなかったと言われる。にもかかわらず「海」に憧れる男たちを描き上げた。「船」や「帆」は、三島文学の
キーワードである。泳げないという「壁=不如意」があるから、かえって「海」が輝かしく理想化されるのだ。
(中略)
『潮騒』のクライマックスで、新治は台風の中、大荒れの海に飛び込み、船の命綱を浮標につなぐことに成功する。
この迫真の水泳シーンを、カナヅチの三島がなぜ描くことができたか。そこに、三島文学の本質がある。現在の
自分が泳げないからこそ、そして永遠に自分が泳げないであろうことが確実だからこそ、「泳ぐ」という行為を
激しく理想化し、恋しているのだ。それが、三島のロマンティシズムであり、創造力の源泉である。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

250 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 20:43:09.10
>>246
ごめん、見逃してしまいました。
なぜと言われても、そもそもレトリックの観点の評価という意味合いがよくわかなかったので。
そういう観点で言及している評論も知らないです。

251 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 22:01:51.61
でも、三島由紀夫はレトリックの技術が高いと定評があるからなあ、

252 :吾輩は名無しである:2011/07/06(水) 23:50:27.01
仮面の告白や金閣寺はレトリックの優れた文章だけど、そういう文章を多様してない作品も多いし、
豊饒の海全体で見れば、金閣寺のようなレトリックは少ないですよ。

253 :吾輩は名無しである:2011/07/07(木) 21:16:01.22
>>252

「盗賊」のレトリックは?
まあ、作品の内容自体は現在の勘違い女に読ませたい内容だがwww

254 :吾輩は名無しである:2011/07/08(金) 11:12:59.94
盗賊はレトリックを多様してる作品です。レトリックは悪くはないと思いますが、盗賊はやや全体的に感傷的な感じに傾いていますね。
盗賊の失恋の感傷的なものを解決して、理知的に構築しなおして自己解剖して成功したのが仮面の告白だと思います。

255 :吾輩は名無しである:2011/07/08(金) 22:45:10.60
三島由紀夫と山崎豊子の小説を読むと
裕福な家に生まれないと損だという気に常になる。

256 :吾輩は名無しである:2011/07/09(土) 00:03:43.14
これ読んだことないなあ

剣が好きな作品だわ
読んでみようかな

257 :吾輩は名無しである:2011/07/10(日) 18:02:13.80
>>249
(中略)
お伽噺を読む三島少年の膨張する「想像力」が、突然に創作熱という「創造力」へと変容する一瞬の奇跡が、
『仮面の告白』では語られている。(中略)
三島少年の夢を育み、後年の小説家としての創造力の基盤となったのが、これらのお伽噺の数々だった。中でも、
『黒い騎士』だった。死んでも死んでも、魔法のダイヤモンドの力で生きかえる王子様。それを独自の読書方法の
発明と実践によって殺すことに成功した三島少年。三島文学を愛読している読者ならば、はっと気づくだろう。
三島のライフワークとなった「豊饒の海」シリーズのテーマである「輪廻転生」は、この「七度死んで生まれ
変わる王子」を母胎としているという、まぎれもない事実に。
(中略)
驚くべきことに三島少年は、七回も「輪廻転生」を繰り返す「不死の若者」に、自ら「創造力」を武器として
切りかかり、彼に見事な「死」を与えることに成功した。それが、「省略」という読書法の発明だった。この時、
三島は後に小説家になるのに必要な「創造力」という刀を、手に入れた。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

258 :吾輩は名無しである:2011/07/10(日) 18:02:53.50
(中略)
『仮面の告白』の結末は、「私」と園子の別離だった。この結果を残念に思うのは、私だけだろうか。(中略)
それにしても彼女は、なぜ「草野」であり、「園子」なのだろう。まず気づくのは、三島が好んだ和歌の世界では、
「草」と「園」が「縁語」であるという事実である。なおかつ、三島が好んだ『源氏物語』には末摘花という女性が
登場し、異彩を放っていることである。末摘花は、亡き父親を心から崇拝し、草が茫々に生い茂る蓬生の宿で、
心静かに暮らしている。「園子」は、三島にとって末摘花であり、彼女の亡父(常陸の宮)が「三谷隆正」なの
だろう。むろん、三島の分身である「私」は、光源氏である。(中略)
もう一つ、考えられるのは、『旧約聖書』の「雅歌」である。(中略)
三谷隆正がキリスト教精神の体現者だから、その姪である女性には、『旧約聖書』の「雅歌」を思わせるような
名前(草野園子)が与えられたのではなかったか。
ちなみに、「鹿」と「園(苑)」が組み合わさっているものに、釈迦が悟りを開いた「鹿野園(鹿野苑)」がある。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

259 :吾輩は名無しである:2011/07/10(日) 18:04:19.92
(中略)
「私」は園子の純粋さを前にして、「自分がその美しい魂を抱きしめる資格のない人間であること」に苦悩する。
これは、園子の背後に、三谷隆正、さらにはキリスト教が存在しているからである。「私」は、「この年になって、
あやめもわかぬ十九の少女との初恋に手こづつてゐる」ありさまである。
「あやめもわかぬ」は、『古今和歌集』読み人知らずの、

ほととぎす鳴くや皐月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな

という和歌を踏まえた表現である。三島は、『古今和歌集』を心の底から愛していた。「力をも入れずして
天神地祇を動かし」という有名な仮名序だけでなく、和歌の一首一首を暗記するほどに愛誦していた。すなわち、
三島の分身である「私」は、和歌に代表される「日本精神」の申し子である。理性ではなく、情念の世界に
生きている。「私」と「園子」の愛がもし成立すれば、生ける三島由紀夫と死せる三谷隆正の師弟関係が取り結ばれ、
日本文化と西欧文化とが一つに繋ぎ合わされたはずだ。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

260 :吾輩は名無しである:2011/07/16(土) 23:06:44.15
(中略)
三島由紀夫は、昭和四十二年以来、何度も自衛隊に体験入隊した。(中略)三島の短編小説『蘭陵王』には、
兵舎での暮らしぶりが、次のように書かれている。

部屋におちつくと、私はここへ来てはじめてきく虫の音が、窓外の闇に起るのを知つた。何一つ装飾のない
この部屋が私の気に入つてゐた。
一つの机、一つの鉄のベッド、壁に掛けられてゐるのは、雨衣と、迷彩服と、鉄帽と、水筒と、……余計なものは
何一つなかつた。開け放たれた窓のむかうには、営庭の闇の彼方に、富士の裾野がひろがつてゐるのが感じられる。
存在は密度を以て、息をひそめて、真黒に、この兵舎の灯を取り囲んでゐる。永年欲してゐた荒々しくて
簡素な生活は、今私の物である。

(中略)それにしても、この自衛隊での暮らしぶりは、中世の遁世者たちや芭蕉が求めた「草庵」での心静かな
生活そのものではないか。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

261 :吾輩は名無しである:2011/07/16(土) 23:07:59.08
文壇で忙しく活躍する三島にとって、「体験入隊」は、一種の「出家」だったのだろう。体験入隊が終わると、
再び三島は都会と文壇の喧操の中へ戻ってくる。言わば、「還俗」である。
三島由紀夫は、擬似的な出家と還俗を繰り返しているうちに、少しずつ現実生活を出家生活へ近づけようと
し始める。正式な出家をしたわけではないが、仏教に心を深く染めている男を、「優婆塞」という。三島は、
自衛隊での「草庵」暮らしに憧れるあまりに、優婆塞としての生活を自分に課すようになる。それが、楯の会での
活動となった。
自衛隊にせよ、楯の会にせよ、集団の規律を重んじるだけの団体ではなかった。三島にとっては、「理性の草庵」を
求める精神活動の一環だったのである。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

262 :吾輩は名無しである:2011/07/27(水) 15:59:28.03
(中略)
天皇を恋し、天皇を信じて決起し、裏切られて死んだ(あるいは死んだ後で裏切られたことを知った)英霊たちの
鎮まらぬ怒りを、三島由紀夫は綿々と語る。下賎な男が高貴な姫君を愛して跪くように、あるいは、女が絶世の
美男子を愛するように、「武士=兵士」たちは「天皇」という存在に恋い焦がれた。
謡曲『葵上』と対応させながら説明すると、「光源氏=天皇」は、人間を越えた存在であり、「六条の御息所=
兵士たち」からは、自分の救済者であってほしいと期待された。だが、光源氏が所詮は「観音の化身」ではなく
「凡夫」だったように、天皇もまた「現人神」たりえなかった。
『英霊の声』の結末は、何とも衝撃的である。二・二六事件と神風特攻隊の英霊たちに、長時間打ち据えられた
「川崎君」は命を失う。その死顔は、「川崎君の顔ではない、何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな
顔に変容」していた。三島の『英霊の声』創作ノートには、「霊媒死す。天皇の化身」とある。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

263 :吾輩は名無しである:2011/07/27(水) 16:00:02.82
この創作意図を、どう解釈すべきだろうか。六条の御息所は、光源氏に裏切られた。だが彼女は光源氏を憎みつつも、
それ以上に深く愛しているので、その憎しみの発散は光源氏本人へと向かわない。それは、彼女が絶対に
なしえないことである。そこで六条の御息所の怒りは、葵上へと向かい、激しい「後妻打ち」となった。
英霊たちは、生前にあまりにも深く、天皇に恋い焦がれていた。いわゆる「恋闕の情」(「闕」は皇居の門と
いう意味)である。だから、たとえ自分たちの真心が天皇に届いていなかったことがわかり、天皇に裏切られたと
頭でわかっていても、そして「などてすめろぎは人間となりたまひし」という恨みを口にしても、天皇に対し
奉りて、何らかの抗議行動を起こすことはありえない。そんな行動に走れば、かつて天皇を恋し、心から天皇を
信じた(今も信じたいと思っている)自分自身を否定することになるからだ。だから「川崎君」という「天皇の
身代わり」が、どうしても必要だった。
ここに、三島由紀夫の創設した会が「楯の会」と命名された真の理由があるのではないか。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

264 :吾輩は名無しである:2011/08/04(木) 16:02:44.93
「醜の御楯」は、天皇のために楯となって天皇を守り、朝敵(外敵)と戦う勇敢な兵士、という意味だけではない。
「楯の会」は、非業の死を遂げた、無数の英霊たちの鎮まらぬ天皇御自身への怒りを、天皇の身代わりとなって
一身に引き受けるために作られた組織なのかもしれない。
戦後日本は、昭和元禄という偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性よりも「金銭」と「物質的幸福」だけが
物を言う世の中に成り下がった。そうなると、「神国」を護るために尊い命を捨てた無数の英霊たちの憤怒は、
行き場を失う。このまま放置すれば、その怒りが天皇本人へと向かいかねない。
だから『英霊の声』では、「川崎君」が天皇の代わりに死んでいった。『朱雀家の滅亡』では、天皇の代わりに、
朱雀家の人々がいち早く滅びた。天皇の滅亡を少しでも遅らせる「楯」として、朱雀侯爵は自らの一族の滅亡を
受け容れた。朱雀侯爵の魂が、既に滅びているにもかかわらず、肉体が延命すればするほど、彼の存在が
「防波堤=醜の御楯」となって、天皇が護られる。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

265 :吾輩は名無しである:2011/08/05(金) 01:25:18.56
もやしもん

266 :吾輩は名無しである:2011/08/06(土) 05:45:31.00
死の直前インドに行ったっていつ頃?構想見直しのため?

267 :吾輩は名無しである:2011/08/06(土) 16:16:32.81
インドに行ったのは昭和42年で、死の3年前だから直前ではないですね。
暁の寺の取材を兼ねて行ったと思います。

268 :吾輩は名無しである:2011/08/06(土) 16:42:03.28
ありがとう。インド思想の何かを調べたのが構想見直しの一因になったのかと思ったけど
全く関係ないみたいですね。

269 :吾輩は名無しである:2011/08/17(水) 23:41:16.39
そのように三島由紀夫は、「天皇」あるいは「天皇制」の「醜の御楯」として、英霊たちの怒りを引き受ける
役割を果たそうとした。英霊の怒りが理解できるから、その怒りを我が身に引き受けようというのだ。
「川崎君」の死顔が天皇の顔に近づいたように、「天皇のために死ぬ」ことは「天皇として死ぬ」ことと同じである。
三島が「天皇陛下万歳」を三唱して自決した瞬間、彼は願った通りに、「天皇」の心を我がものとすることに
成功しただろうか。
三島由紀夫は、自決後も怒れる「英霊」とはならない。そうではなく、天皇と一体化し天皇と共に戦い、恍惚として
死を迎えたに違いない。朱雀侯爵が、従容として生きながら滅んでいったのと同じように。三島は「英霊」ではなく、
「神」となることを目指したのだ。三島の霊は、祟らない。
自決直後の新聞や写真誌の中には、三島の頭部の写真を掲載したものがあった。それを見た日本人の衝撃は、
一生消えないだろう。(中略)「(三島の顔ではない)何物とも知れぬと云はうか、何物かのあいまいな顔」に
変容していたかどうか。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

270 :吾輩は名無しである:2011/08/17(水) 23:41:58.05
(中略)
『文芸文化』の同人の筆頭格は、蓮田善明。彼は終戦直後の昭和二十年八月十九日、マレー半島の最南端
ジョホールバルでピストル自殺した。翌昭和二十一年の十一月十七日に、成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」が
催され、出席した三島は一編の「詩」を献じた。(中略)

古代の雲を愛でし
君はその身に古代
を現じて雲隠れ玉
ひしに われ近代
に遺されて空しく
靉靆の雪を慕ひ
その身は漠々たる
塵土に埋れんとす

   三島由紀夫

この「詩」を読んで、しみじみ思う。「古代」を「近代」に復活させるのが、三島の「天命」であったことを。
現代人でありながら、蓮田善明は古代精神を具現していた。だから終戦直後、スサノオの「荒魂」そのままに、
天皇に対して不敬な発言を口にした上官を射殺して、自殺した。手には、辞世の和歌を書いた一枚の葉書を握り
しめていたという。(中略)
三島は、蓮田善明の信じた日本浪漫派の精神世界を、自分自身の魂の土壌とした。それが、三島文学の原点である。

島内景二「豊饒の海へ注ぐ 三島由紀夫」より

271 :吾輩は名無しである:2011/08/28(日) 12:33:57.34
今、手元に豊饒の海がなくてわからないんだけど
・松枝清顕の死んだ日
・飯沼勲の生まれた日
これわかります?

272 :吾輩は名無しである:2011/08/28(日) 12:55:30.30
>270
三島が絶対に詩人ではなかったこと、逆立ちしても詩人にはなりえない質であったことが
みごとに証明された詩だなぁ

21歳で書いた、弔辞がわりの詩=おのれの感情に酔い痴れる情況、という点をさしひいても
あまりにも酷すぎる


273 :吾輩は名無しである:2011/08/28(日) 12:57:35.83
このスレ・・何ひとつかたってない。。
はじめから
「三島由紀夫の文章を引用して書き写すスレ」にすりゃいいのに

274 :吾輩は名無しである:2011/08/28(日) 14:07:31.14
>>272
ぷっw

>>273
何ひとつということはなかろうて。文句があるなら自分が語れば
よろしかろう。隗より始めよじゃ。語れないなら黙らっしゃいw

275 :吾輩は名無しである:2011/08/28(日) 17:47:17.17
>>271
清顕が死んだ日は、2月28日の二日後だから3月1日か2日だと思われます。
勲はその日の49日以内に誕生ではないかと。

276 :吾輩は名無しである:2011/08/29(月) 02:51:18.11
>>273
三島スレは全部そうです。

277 :吾輩は名無しである:2011/08/29(月) 08:25:07.31
拡散希望
ふざけるなソフトバンク!!地図アプリで「竹島」を検索すると出ない。独島で検索すると、韓国領として住所が出る。
Iphoneにプリインストールされている「マップ」と言う地図ソフトです。
住所は799-805
大韓民国 30-3とでます。

278 :吾輩は名無しである:2011/08/29(月) 12:37:48.08
>>276
名無し佃煮乙

279 :吾輩は名無しである:2011/08/30(火) 22:20:04.21
127 :↑:2011/08/30(火) 09:59:54.47 ID:5BkB7n0i
こういうのって著作権侵害に当たらないの?


129 :この子の名無しのお祝いに:2011/08/30(火) 17:03:08.85 ID:iKhDlgiF
完全なる著作権侵害だよw


131 :この子の名無しのお祝いに:2011/08/30(火) 20:14:56.02 ID:iKhDlgiF
(゚Д゚)ハァ?
全体を要約したとか、気になる一文があったから引用したとかいうレベルじゃなく
明らかに数ページに渡って無断転載してるんだが


134 :この子の名無しのお祝いに:2011/08/30(火) 22:11:32.34 ID:hvRb/i3B
>>132
それはインタビュー、座談がどういう形態で行われたか、
また文章になった経緯によります。
ほとんど修正なく載った場合、口述者の単独著作と看做される場合があります。
いわゆるSMAP裁判の判示です。


280 :吾輩は名無しである:2011/09/09(金) 11:30:12.58
§

281 :吾輩は名無しである:2011/09/20(火) 15:43:25.97
>>14
From these men, there emanated a tangible emotion that broke in a wave against the small white alter,
the flowers, the cenotaph in their midst. From this enormous mass stretching to the edge of the plain,
a single thought, beyond all power of human expression, bore down like a great, heavy ring of iron
on the center.
Both its age and its sepia ink tinged the photograph with an atmosphere of infinite poignance.

Spring Snow

すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向つて、波のやうに押し寄せる心を捧げてゐるのだ。
野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思ひが、中央へ向つて、その重い鉄のやうな
巨大な環を徐々にしめつけてゐる。……
古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないやうに思はれた。

「春の雪」

282 :吾輩は名無しである:2011/09/21(水) 20:26:18.60
いま勲の裁判を本多が引き受けるとこ

283 :吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 03:24:32.47
実際理解不能は数点ある
ファシズムとポピュリズムを言論したかったのか
それとも単純な仏教輪廻か判らない
三島はわからない

284 :吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 05:00:07.05
ゲイと儒教の矛盾

285 :吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 05:37:35.31
ゲイゲイっていうヤツ未だにいるけどw
根拠はなんなのだ?バカな俺にも詳しく丁寧に教えてくれw


286 :吾輩は名無しである:2011/09/23(金) 09:43:07.86
三島は儒教じゃないよ。

287 :吾輩は名無しである:2011/09/24(土) 13:23:52.33
そうだ、三島自身は儒教じゃない。
儒教は父親梓氏が生育した時代環境に色濃く存在し、
三島自身は20歳まで儒教をベースにした帝国主義戦争教育の渦中にあったが、
個人としての精神的基盤は、無論そんなところには無かった。

最終的に辿りついたのは唯識。

288 :吾輩は名無しである:2011/09/25(日) 05:58:54.74
「天人五衰」を読み終えた。
四部にわたる大作のラストがこれとはなんとも面白いね。
読んだあとからじわじわと・・・何だろう、笑みがこぼれてくる感じ

289 :吾輩は名無しである:2011/10/10(月) 11:46:25.14
>>287
父親て平岡梓氏だろ、
「倅三島由紀夫」て本書いた 父親が息子の評伝みたいの普通書かないだろ
新潮社がしかけたのか

290 :吾輩は名無しである:2011/10/21(金) 15:04:49.80


291 :吾輩は名無しである:2011/10/28(金) 17:13:41.03
“I can't tell you why,”she answered, deftly dropping ink into the clear waters
of Kiyoaki's heart. She gave him no time to erect his defenses.
He glared at her. It had always been like this. Which was why he hated her. Without the slightest
warning she could plunge him into nameless anxieties. And the drop of ink spread, dull and gray,
clouding everything in his heart that had been pellucid only a moment ago.

Yukio Mishima, Spring Snow


292 :吾輩は名無しである:2011/10/28(金) 17:14:09.48
「申上げられないわ、そのわけは」
かうして聡子は、清顕の心のコップの透明な水の中へ一滴の墨汁をしたたらす。防ぐひまはなかつた。
清顕は鋭い目で聡子を見た。いつもこれだ。これが彼をして聡子を憎ませるもとになるのだ。急に、いはれもなく、
性の知れない不安を呉れること。彼の心の中には、抗しがたく一滴の墨がみるみるひろがり、水は一様に灰鼠に
染められてゆく。

「春の雪」

293 :吾輩は名無しである:2011/10/31(月) 18:18:58.37
>>285
仮面の告白を鵜呑みにしてんだよ。


294 :吾輩は名無しである:2011/11/08(火) 11:01:44.77
「春の雪」二十七の清顕と聡子の初体験の場面だけど「清顕の体が近づいた
ときに、聡子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが
仇になつて、彼は曙の一線にさへ、触れるか触れぬかに終わつて
しまつた」というのは、合体する前に清顕が射精してしまった、という
ことなんだろうか。

295 :吾輩は名無しである:2011/11/08(火) 22:03:04.68
>>294
さあ…どうなんでしょうか。
そのあとまたすぐに結ばれてますから、中断しただけのようにも思えます。

296 :吾輩は名無しである:2011/11/28(月) 14:03:19.33


297 :吾輩は名無しである:2011/12/07(水) 11:00:29.21
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read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
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